阿武隈は、夜の浜辺を歩いていた。

 冴え、澄み渡った空には、満天の星々。
 冬の冷気は凍てつくほどで、海から運ばれてくる潮風は、寒さをより一層助長した。

 そんな砂浜の上を、阿武隈は笑みを浮かべながら歩んでいる。
 腕の中には使い込まれた布袋があり、大事なものを守るようにしっかりと抱えられていた。

 彼女は、艦娘の中でも、とりわけ寒さに強い船だった。

 『キスカ島撤収作戦』という、古い記憶が阿武隈の中にある。
 北方のキスカ島に取り残された陸軍兵士5000あまりを、木村昌福少将直率の阿武隈が旗艦となって、全員無傷で救出したのだ。
 あまりにも鮮やかだったため、敵軍兵士は撤収したことに気づかずに、味方を誤認して同士討ちすらしたという。
 この奇跡の作戦をやり遂げたのは、北方の厳しい寒さでも平然とできる阿武隈の強さがあったからだ。

 彼女は、お世辞にも戦いに向いているとは言えない性格だ。
 しかし、キスカ撤収を成し得たことは、彼女が唯一誇れるものであり、「戦いは敵を討ち滅ぼすだけではない」という確信を持つことにも繋がった。

 阿武隈は、踏みしめるたびに鳴く砂の上を行く。

 やがて、その先から、かすかな砲撃音が彼女の耳に届いてきた。







 想定。
 重巡洋艦のフラグシップが、一。夜戦に突入しており、先手を打たれている。

 利根は、大きく夜気を吸い込み、吐いた。

 彼女の鋭い視線の先には、重巡洋艦を模した模型が、波に揺られて浮いていた。
 両者の間には、直径一メートルほどのブイが、数え切れないほどに、そして不規則に並んでいる。
 ブイは障害物、および敵艦の砲弾と見なす。どれも絶えず位置を変える。かわして模型にまでたどり着くには、優れた臨機応変さが求められる。

 利根は、無造作に水を蹴った。
 模型に向けて、駆逐艦もかくや、という速さで疾走した。

 水面を紙のように切り裂く。
 利根の身長の倍の水壁が、彼女が走り抜けた両背後に上がる。
 星の光に照らされて、飛沫が美しく煌めいては消える。

 無数のブイが迫ってくる。
 敵は、突撃してきた利根の迎撃を試みると想定。幕艦の被害を抑えるため、利根はあえて突っ込むことを選んだ。

 利根は時計回り、逆時計回りに体を捻り、最小限の動きで次々にブイをかわす。利根が回るたびに、水柱が巻き上げられる。
 急速に迫ってくるブイは、左右に跳んでスレスレでかわしていく。その動きは陸上にいるようで、不安定な水の上であることを感じさせない。
 最後に、両側からブイが挟み込んできた。しかし、利根は停止せず、さらに水を蹴って加速する。
 間一髪、ブイの間をすり抜けた。

 利根は、加速した状態のまま、右手の20.3cm砲を構えた。
 目標は、模型艦。不安定な体勢にも関わらず、流れに一切淀みがない。

 トリガーを引くと、砲身から模擬弾が射出された。
 狙いをつけているようには見えなかった。
 しかし、利根が放った模擬弾は、重巡模型の船首部分に直撃した。衝撃に翻弄され、模型は大きく傾ぐ。

 利根は、さらに距離を詰める。
 立ちはだかったのは、五つのブイだった。
 利根に対して横に並び、進路を阻んでいる。浮島などの障害物だと仮定すれば、かすっただけでも船底に深刻なダメージを与えうる。

 ここで深追いは禁物。敵は中破程度の損害を被った。ブイを大きく回り込み、ゆっくり料理するのが得策。

 しかし、利根はその常道を、無視する。

 五つのブイに向かって、速度を緩めずに突っ込んだ。
 間にある隙間を抜けようとしているのだろうか。
 だが、利根がどんなに小柄でも、そこをすり抜ければ確実に障害物に触れる。おそらく、船体の小さな駆逐艦でも無理だ。

 利根とブイとの距離が狭まる。
 体当たりをするのかと思う瞬間、利根は膝を屈伸させた。

 利根の身体は空に浮き。
 伸身での宙返りは、夜空に浮かぶ弧月を思わせた。

 着水。激しい水柱が上がった刹那、利根は魚雷を装填、全弾発射。
 これも、まったく狙いをつけているようには見えなかった。
 だが、すべての模擬魚雷は、右斜め前方に浮かんでいた模型に吸い寄せられるように向かっていく。

 船底に着弾すると、模型を覆い尽くすほどの海水が噴き上げられた。

 利根は片膝をつき、右手の砲を模型に向けたまま、水の幕が晴れるのを待つ。

 しばらくして星明かりに映し出されたのは、海の上に横転していた模型だった。
 ふつう、演習用の模型は何度も使い回すため、簡単に横たわることはない。いわばサンドバッグだ。
 これが本物の重巡であったなら、原形を留めていないほどに破壊されていただろう。

 その姿を確認し、利根はようやく構えを解いた。

 わずか、十秒程度の出来事だった。







 利根が破損した模型を引きずりながら浜辺に戻ってくるのを、阿武隈は手を振って迎えた。

「利根さぁん! お疲れさまですぅ!」

 利根は、応えるように右手を軽く挙げた。
 星の光があるとはいえ、まだ利根の表情はよく見えない。だが、きっと笑顔でいるだろうと阿武隈は思った。

「おう、阿武隈よ。今日も来てくれたか。すまんの」

 やがて、砂を踏んだ利根の顔には、阿武隈が想像したとおりの、優しい笑みが浮かんでいた。

「なに言ってるんですか! 約束したんですから当たり前ですぅ!」

 少しむくれた阿武隈に、利根は「スマンスマン」と苦笑いした。
 阿武隈は、持っていた外套を利根に羽織わせる。

「かたじけないな。あー、ぬくいのう」
「利根さんが風邪引いたら、みんな心配するんですからね! 身体を冷やさないでくださいよぉ!」
「うむ、わかっておる。しかし、お主は本当に寒さに強いの。その格好は見ているだけで寒いぞ」
「はい! あたしの唯一の取り柄ですからぁ!」
「なにを言っておる、謙遜するな。お主には良いところがたくさんある。こうやって、吾輩をねぎらってくれる優しさがあるではないか。もっと自信を持て」

 利根のその言葉に、阿武隈は口ごもり、うつむいて顔を赤くするのだった。







 阿武隈が、利根の夜間訓練に気づいたのは、ちょうど一週間前だった。

 利根は、阿武隈のいる司令部の初の重巡洋艦であり、配属時から、指揮官である提督の秘書艦兼教官を務めていた。

 現在、この司令部には一騎当千の戦艦や正規空母がズラリとそろっており、ふつうならばその誰かが秘書艦となるはずだ。
 しかし、利根は彼女らを差し置いて秘書艦の座につき続けている。

 阿武隈は、比較的遅く司令部に入った。
 それでも三日も経たないうちに、その訳を知った。

 簡単な話だった。
 利根は、どの艦娘よりも強かったからだ。

 もちろん、戦艦の火力と重巡洋艦の火力は比較にならない。
 だが、夜戦になると立場は逆転する。
 利根は、昼間の戦闘で攻撃をかわし続け、夜戦で敵を叩き潰す能力がズバ抜けていた。

 夜間での戦闘を余儀なくされるサーモン海域では、値千金の戦果を何度も挙げている。
 中でも、三隻に守られた敵旗艦の輸送船を、一瞬の隙を逃さず、針の穴を通すような攻撃でしとめた武勇伝は、いまでも語り草になっている。

 阿武隈は、利根は天才だと思った。
 努力だけでは埋められない何かを持っているのだと思いこんでいた。

 ある夜、昼間の海上訓練で忘れ物をしたことに気づき、提督に断りを入れてから浜辺に向かった。
 そこで、利根が猛訓練をしているのを目撃したのだ。

 秘書艦の彼女は、昼間の訓練だけではなく、他に大量の雑務に追われているはずだ。
 阿武隈ならば、昼の仕事だけでくたくたになって、すぐにベッドに潜り込む。
 だが、利根は仕事を片づけた後に、日が変わるまで鍛錬をしていた。

 阿武隈は、利根の本当の凄さが、ようやくわかった。
 大型艦を退けて秘書艦についているのは、ひとえに利根の努力の賜物だったのだ。

「はい、利根さん。今日も心を込めて作りました!」

 阿武隈と利根は、やや太めの流木の上の腰掛けていた。
 そして、ここに来るまでに抱えてきた布袋の中身を取り出した。
 差し出したのは、二つのおにぎりだった。海苔や具などはない、素朴な塩むすびだ。

「おお、ありがたい。いただくぞ」

 少し形が崩れたおにぎりだったが、利根は嬉しそうに一つ掴み、口に運んだ。

「うーむ、うまい! いつもながら、見事な塩加減じゃ」
「ほんとですかぁ!? よかったぁ!」
「最近は、お主の握り飯が楽しみになっておる。訓練にも、より身が入るというものじゃ」
「そう言ってもらえると嬉しいです! 阿武隈、これからも張り切って作ってきますね!」

 百戦錬磨の鎮守府のエースに褒めてもらい、阿武隈は込み上げてくる笑みを抑えられなかった。

 阿武隈は、引っ込み思案な娘だった。
 ゆえに、英雄的な存在だった利根に対して、どうしても緊張した。

 利根は、個性的でアクの強い艦娘たち全員に、分け隔てなく接している。
 それは、阿武隈も例外ではなく、行きかえば朗らかに挨拶され、最近の調子などを聞かれた。だが、なかなか慣れなかった。

 そんな阿武隈は、利根が猛特訓している姿に心を激しく震わされた。見なかったことにするのは、とてつもなく罪悪感を覚えた。
 なんとか、お手伝いすることはできないか。一生懸命考えた結果、夜食を差し入れすることを思いついた。

 厨房で余ったご飯を温めなおし、下手くそなおにぎりを二つ作って持っていった。
 しかし、持っていったはいいが、そこから利根に声をかけるまでが大変だった。
 五十回くらい躊躇った後、ようやく意を決して、声をかけた。

 「あ、あの……」と、自分でも驚くくらいのか細い声が出た。
 しかし、背後からいきなり聞こえてきた声に、利根は肝を冷やしたようだった。弾かれるように振り返った。
 阿武隈もびっくりして、危うくおにぎりを落としそうになった。

 そのときの利根の顔は、阿武隈は忘れられない。
 全く余裕を崩さない彼女だったから、目を見開いて仰天する姿は想像だにしていなかった。

 利根さんもびっくりするんだなぁ。阿武隈は至極当たり前のことを実感した。
 そう考えると、利根が自分と同じような気がして、緊張がほんの少しやわらいだのを感じた。

「でも、利根さんやっぱりすごいです! 空中で宙返りするなんて、あたしは転覆しそうでできません!」
「なに、大したことではない。練習すれば誰でもできる。島風だってよくやっておるだろう?」
「あの娘は特別なんですよぉ! 速いし軽いし! あたしはとろいから、水の上を滑るだけで精一杯です……」
「なにを言っておる、吾輩だって最初はそうだった。空中で縦回転するなど、阿呆のすることだと思っておったぞ」
「ほ、本当ですかぁ!? 信じられなぁい!」

 大げさに驚く阿武隈に、利根はおかしそうに笑みを向ける。

「だが、立体的な動きができるようになれば、戦術数が大幅に増える。大体の船は水面より上に離れんからの。吾輩は必要だと思ったから身につけたに過ぎん」
「できないことをできるようにしたんですね……すごいですぅ……」
「お主も常に頭を回転させておくのじゃ。なにも空中で回れるようになれ、とは言わん。よく考え、お主が必要だと思うところを伸ばせ。そうすれば、必ず皆から認められるようになる」
「と、利根さんみたいにですかぁ?」
「わはは、吾輩はまだまだじゃ。お主のように潜水艦に攻撃できるようになりたいのぅ」

 利根ははにかむように笑った。
 それは謙遜であり、励ましだった。

 重巡の利根は、どうがんばっても潜水艦に攻撃することができない。迫り来る魚雷をかわすだけだ。
 まともに攻撃できるのは、軽巡と駆逐艦だけ。つまり、阿武隈は利根にはできないことをできるということ。
 それだけではなく、軽巡は遠征任務も幅広くこなせる。利根はもちろん、戦艦や正規空母にも絶対にできないことだ。

 そのことを、阿武隈は噛みしめる。知っていたはずではないか。
 戦いは、なにも敵を撃滅するだけではないのだ、と。

「よし! そろそろ行くかの。ひとっ風呂浴びて寝るとするか」

 利根は、阿武隈のおにぎり二つを瞬く間に平らげると、勢いをつけて立ち上がった。

「おつかれさまです! 明日もおにぎり作ってきますね!」
「かたじけないな、頼むぞ。……そうじゃ、お主も風呂に入らんか?」
「ふ、ふぇっ!? と、利根さんとですか!?」

 阿武隈の声が、若干裏返った。

「うむ、あのでかい浴槽に一人でいるとつまらんのじゃ。無理は言わんぞ? もう消灯時間は過ぎておるしな」
「い、いえっ! ご、ご一緒しますぅ! お背中お流しします!」
「わはは、そこまでせんでもよい。話し相手になってくれればよいのじゃ」

 思いがけない展開に、阿武隈は胸の鼓動が速くなるのを抑えられなかった。







 砂浜から歩いて十分程度。
 二人は、司令部の正門にたどり着いた。

 ここに来るまで、利根はいろいろと阿武隈に話を振った。
 だが、阿武隈はあまり内容を覚えていなかった。
 それよりも、利根と風呂に入るということのほうに気を取られていた。

 それはそうだ。相手は司令部の絶対的エースだ。
 上下問わず慕われ、駆逐艦の中にはファンとも言えるほどに熱狂的に慕う艦もいる。
 さらに、艦娘の居住箇所は艦種によって分けられているので、利根と阿武隈が同じ浴槽に入ることは、まずないのだ。

 二つの意味で住む世界の違う利根と裸のつきあい……。
 同じ女性であるはずなのに、この変な気持ちは何なのだろうか。

 ちら、と利根を盗み見る。
 彼女は、他の重巡と比べて一回り背が低い。軽巡の阿武隈と同じくらいだ。
 妹艦の筑摩は背が高くてグラマラスなので、事情を知らない者が見たら、利根が妹だと思うだろう。

 利根本人もコンプレックスにしているのか、ことあるごとに筑摩と比べ、ちょっと背伸びをしたような発言をしばしばする。
 でも、そんな利根を、阿武隈は失礼ながらかわいいと思っているし、小柄な身体で鬼神のように敵艦を屠っていくギャップがたまらない。

 皆のあこがれの利根の、生まれたままの姿を初めて見る軽巡が自分……。
 信じられない事態で頭がいっぱいで、まじまじと利根の全身を見ていることに、阿武隈は気づかなかった。

「む? 誰じゃあれは」

 急に利根がそんなことを言ったので、口から心臓が飛び出そうだった。

「ふえっ!? な、なんです!?」
「あれじゃ、あれ。ベンチに座っておる」

 利根が指さしたほうに、阿武隈は顔を向ける。
 正門から正面玄関口の途中にある、中庭。
 そこのベンチの一つに、誰かが背中を向けて座っているのが見えた。二人はけっこう騒々しくしていたのに、気づいていないようだった。

「あ……あれは……」

 それが誰か気づいたとき、阿武隈は少し表情を硬くした。

「なんじゃ、霞か? なにをしとるんじゃ、あやつは。もう日が変わっておるぞ」

 しかし、利根は変わりない。
 気持ち、足を速めて、小さな背中に近寄っていく。阿武隈も利根の後を追う。

「おい、霞?」

 霞は、ハッと振り返った。
 本当に気づいていなかったらしい。目を真ん丸にして、瞼をしばたたかせている。
 霞のこんな表情を、阿武隈は初めて見た。

「こんなところで何をしておる? 眠れんのか?」
「な……なんでもないです。利根さんこそ、何やってるんですか。秘書艦が就寝時間を破ったら、示しがつかないんじゃないですか?」

 ……やっぱりいつもの霞だ、と阿武隈は思った。
 この、開けば必ず毒を吐き出す口が、阿武隈は心底嫌だった。

「ふふふ、抜かりはないぞ。提督からちゃんと許可はもらっておる」
「……そうですか。それなら別にいいです」
「それで、お主は何をしておる。こんなところにいたら、風邪を引くぞ」
「……それは、利根さんも同じです。何をしてたんですか? 秘書艦が病気にかかったら、みんなの迷惑になります」
「秘密特訓じゃ。秘密ゆえ、内容までは教えんぞ」

 利根はおどけるように言うが、霞は顔を歪めた。

「……私、行きます」

 腰を浮かせ、霞は素っ気なく立ち去ろうとした。

「あ、おい、ちょっと待て。これから吾輩らは風呂に行くのじゃ。お主もどうじゃ?」

 そう呼び止めた利根に、阿武隈は心の中で「えーっ」と非難の声を発した。

「は? お風呂?」
「そうじゃ。お主、身体が冷えてしまったであろう。一度温めなおしてから床についたほうがよく眠れるぞ?」
「……結構です。なんで、日に二回もお風呂に入らなきゃならないんですか。時間を無駄にするほど暇ではないので」

 それでは、と霞は踵を返し、そのまま足早に鎮守府の奥に消えていった。

「うーむ、失敗してしまったか」

 苦笑いしながら、利根は頭を掻いた。
 阿武隈は、複雑な心境だった。







 重巡寮にある風呂は、軽巡寮のものとほとんど変わらなかった。
 白いタイルで敷き詰められた空間に、五人入ってもあまりあるほどの大きな浴槽。
 のびのびと湯に浸かれ、心身をともに休めることができる。
 この広くてきれいなお風呂で、任務や訓練の疲れを癒すのが、阿武隈は何よりも好きだった。

「あ――、いい湯じゃの――」

 手ぬぐいを頭に載せた利根がゆるんだ声を出す。
 とても無防備だ。顔だけではなく、身体も。

「そうですねぇ。あたし、お風呂大好きですぅ」

 同じ湯に浸かりながら、阿武隈もしまりのない声を出す。
 利根があまりにも気が抜けていたから、それに釣られてしまっていた。

 脱衣所で服を脱いで、身体を洗っているときは、まだ緊張していた。ほぼ肌色になった利根を直視できなかった。
 せっかくのチャンスだったが、じろじろ見ていたら、さすがに大らかな利根も気味悪く思うに違いない。

 ……たぶん。

 大抵のことは許してくれそうだが、本当にやって、万が一、築きあげてきた信頼が崩れさったら嫌だった。
 いま、こうやって同じお風呂に入っている現状で充分満足だった。

「阿武隈は風呂が好きか。お主は身だしなみに気を遣っておるからのぅ。よいことじゃ」
「はい! あたし、お風呂で汚いのを流すのが大好きですぅ!」
「うむうむ、清潔さを保つのは大切なことじゃ。臭いと人が寄ってこなくなるからのぅ」
「あたし、お掃除も好きなんですよぉ! 鬼怒の分もやってるんです!」
「わはは、それなら加古や深雪の部屋もやってやれ。あやつら全然片づけないと、古鷹と初雪が嘆いておったからの」

 確かに、あの悩みのなさそうな二人は、身の回りのことに無頓着そうだった。同じ部屋であることに同情する。

「まあ、臭くしないのに限らず、周りの人間と仲良くしようと努力するのは重要なことじゃ。吾輩らは、一人で戦争しているわけではないからの」
「そうなんですけど、難しいですぅ……。利根さんは誰とでも仲良くなれて、凄いです」
「そんなことはないぞ? 吾輩にも苦手な者はおる」
「えっ!? ほ、本当ですか!?」
「当たり前じゃ。たとえば、先ほどの霞などもな」

 阿武隈は、すぐに信じられなかった。
 毒を吐かれても、蛙の面に水、のように見えたのに、利根は内心、辟易していたのだ。

「どうにか打ち解けようと努力しているのじゃが、なかなかうまくいかん。根は素直な娘なのじゃが」
「す、素直ですかぁ? とてもそうは見えないです……」

 捻くれるところなどないくらい性根が捻くれているように思えた。

「性格が悪い、というのは、陰で他人の悪口を言ったり、表ではいい顔をしたりしておる者のことじゃ。誰とは言わんがな」
「……」

 阿武隈の脳裏に、一人の重雷装巡洋艦の顔が浮かんだ。

「その分、霞は誰に対してもあの調子じゃ。同じ朝潮型や不知火あたりとは仲良くしておるようじゃがな。そう考えると、不器用で素直だとは思わんか?」
「……言われてみれば……そうかもしれないですけど……」

 そういう視点もある、阿武隈は思った。
 確かに、霞は特定の艦娘とは仲良く話していた。笑顔も見せていた。
 顔を裏表で使い分けていないから、わかりやすくてハッキリしている、と言えなくもない。

「吾輩には持論があっての。物事に原因のないものは皆無、ということじゃ。霞がああいう性格になったのも、何かしらの原因がある。それを理解できれば、あやつとどう向き合えばいいかがわかるからの」
「そうですねぇ……でも、利根さんはもう探っているんじゃないですか? その、朝潮型の娘や不知火ちゃんに聞いたりとか」
「わはは、ご明察じゃ。しかし、なぜ霞がああいう風になったのかは、皆、わからんかった。霞も話したがらないらしいしの。本人から聞くしかないようじゃ。時間はかかりそうじゃが」

 仲の良い者にも打ち明けたくないのだ。利根が話を聞けるのも、相当先になるだろう。
 だが、彼女はあきらめないに違いない。そういう人だから、みんなが利根を慕ってくれるのだ。

「阿武隈も、あまり北上のことを嫌うなよ? お互い、悪気はなかったのじゃからな」
「き、北上さんは……いろいろな意味で苦手なんですぅ……衝突のことだけで苦手になったんじゃないですぅ……」
「わはは、そうじゃな、あやつは人を食った性格だからのぅ。でも、苦手は苦手なりにうまく付き合うようにするのじゃ。あやつは、雷撃にかけては吾輩も歯が立たん。先ほども言ったとおり、吾輩らは一人で戦争をしておらん。戦友同士の連帯は大切じゃからの」
「うーん……わかりました。努力しますね」

 阿武隈は、利根の諭しに渋々うなずいた。
 彼女は、司令部の問題児の霞を相手にしなければならない。それなのに、自分だけが逃げていては利根を裏切ることになる。

 北上は確かに苦手だが、実力は充分に認めている。彼女の活躍で助かる命はたくさんあるだろう。
 自分が原因で、北上の士気を下げてはならない。
 それが、戦いの苦手な自分にできる戦いなのだろう、と阿武隈は思った。







 翌日。
 阿武隈に召集がかかった。

 道すがら、実戦ではないことを祈った。
 現在では、錚々たる主力艦たちが、あらかたの海域を制圧しており、つかの間の平穏が司令部に訪れていた。
 次の戦いに備えるため、各艦は演習や訓練に明けくれ、阿武隈は資材を確保するための遠征任務が最近の仕事だった。

 なので、おそらく遠征に出されるのだろう。
 最近は大型艦建造の技術が大本営からもたらされ、そのために大量の資材がいる。

 だが、必ず大型艦が完成するわけではない。実際、何度も失敗している。
 自分たちがコツコツ溜めた資材が一瞬で無くなるので、遠征に出ている娘たちは当然、おもしろくない。
 阿武隈も失敗の報を聞く度にげんなりしていた。最近、ようやく装甲空母である大鳳と、最強の戦艦である大和が完成したのだが。

 とはいうものの、阿武隈は遠征がそんなに嫌いではなかった。むしろ、痛い思いをすることのない裏方の仕事が性に合っていた。

 提督もそのあたりを承知しているのか、阿武隈には輸送任務系の旗艦を中心に頼んでくる。
 適材適所、という言葉を知っているようだった。

 いまの上司である提督を見ていると、阿武隈はキスカ撤退作戦を成功させた木村少将を思い出す。

 彼は、さっさと作戦を決行しろ、という大本営からの再三の命令を無視し、海に濃霧が出るのを辛抱強く待った。それに紛れて見事撤収を成功させ、逆に賞賛されたのだ。

 そして、彼は人命を軽視しなかった。味方はもちろんのこと、敵でさえも無駄な命を奪わなかった。
 沈んだ駆逐艦の乗員を助けるため、自らが乗っている旗艦を救助に当たらせ、他艦は帰投させたことさえもある。

 さらに、彼は冷静で道理にかなった指揮をした。
 ある海戦では、「重巡ではデカすぎてうまく操作できない」という理由で、駆逐艦に旗艦を移したことがあるらしい。重巡が駆逐艦の下につくなど異例というほかはない。

 これらのことは、すべて、いまの提督に当てはまる。
 艦隊に一隻でも瀕死の船が出れば、迷わず撤退させる。敵の主力部隊が目の前にいても躊躇わない。
 また、必要ならば駆逐艦を旗艦に据えた。南方海域の夜戦では、雪風を旗艦にしている。必殺の攻撃力を持つが耐久力がない彼女を、他の頑丈な艦で守るためだった。

 戦争は命の奪い合いだ。甘いことを言えば、死ぬのは自分になる。
 しかし、提督は任務を遂行するために、艦娘を使い捨てることはしなかった。おそらく、殺す命令を下すなら、資材がゼロになる道を選ぶに違いない。

 資材は、溜められる。負傷は、治せる。
 だが、命はどうあがいても戻ってこない。
 提督はそのことをよく知っているのだろう。
 こういう方針は、艦娘の間に大きな安心と信頼を与えている。大切にされていると実感できるからだ。

 阿武隈は、そういうところを大切にする、この司令部が大好きだった。
 役に立たないと烙印を押されることほど、辛いことはないのだから。

 そんなことを考えながら歩いていると、目的の会議室に着いた。
 ドアを開けると、駆逐艦の娘たちと利根がすでにそろっていた。どうやら最後に来たらしい。

「す、すみません! 遅れました!」
「おう、来たか。まだ定刻より早いぞ。謝ることはない」

 昨日、風呂でいろいろと腹を割って話した利根が、笑顔で迎えてくれた。

 阿武隈は、そそくさと空いているイスに座る。
 そのとき、正面にいた娘が誰か気づいた。

(うわぁ……)

 霞だった。
 相変わらず、おもしろくなさそうな顔をして頬杖を突いている。
 霞と一緒に遠征任務……。楽しい仕事とはなりそうになかった。

「よーし、皆集まったな。それでは、作戦の趣旨を説明する。とはいうものの、お主らがいつもやっていることじゃ。慣れているじゃろうから、あまり気負わず、楽しく行ってくるとよい」

 「利根さん、それは無理です」とは阿武隈は言えなかった。
 だが、霞がいる時点で、和気藹々とはならないことはわかりきっている。他の二人の駆逐艦の娘たちも、同じことを考えているのではないだろうか。

「任務は、南西海域での資源の輸送じゃ。大和の建造で弾と鋼材がなくての。お主らの力がどうしても必要なのじゃ。よろしく頼む」

 利根は、真摯に頼んだ。
 彼女は、遠征に出す艦娘を必ず集め、作戦内容を説明する。
 もう資源輸送任務は慣れきっているため、「自分たちで準備して適当に行ってこい」でも済むのだが、彼女は絶対にそうしなかった。どんなに簡潔でも内容を説明し、メンバーの状態を確認した。

「旗艦は阿武隈、お主に任せる。皆の面倒をよく見るのじゃぞ」
「は、はい! がんばります!」

 うむ、と利根は鷹揚に頷いた。

「何か質問や懸念はあるかの?」

 利根は最後に聞いた。
 特に手は挙がらない。これもいつものことだった。
 初任務の際に不安そうに注意点を聞き、大丈夫だ、自信を持て、と利根になだめられていた頃が懐かしかった。

「よし、それでは、作戦開始は一二○○じゃ。それまでよく身体を休めておくんじゃぞ」

 と、利根が言うが早いか、霞が席を立った。
 そのまま、なにも言わずに会議室のドアを開け、出ていった。

 ……いつものこととはいえ、やはり気持ちのいいものではない。他の駆逐艦の二人も少し眉をひそめている。

「阿武隈よ」

 利根が、苦笑いを浮かべながら言った。

「あやつのこと、よろしく頼むぞ」
「……努力します」

 自信はありませんが、と、付け加えることはしなかった。







 正午。
 雲一つない青空が広がっている。風も穏やかで、阿武隈にとっては春のような心地だった。

 早めの昼食を食べ、阿武隈と二人の駆逐艦は海への道を歩いていた。
 彼女は遠征に行く際、なるべくメンバーを誘って食事を取ることにしている。
 利根の言っていた連帯を大切にする、という理由もあるのだが、単純に楽しく遠征に行きたいからだ。

 一応、霞にも声をかけてみた。
 結果は言うまでもない。
 しかし、徒労に終わろうが、一応は遠征のリーダーなので、チームワークを大切する姿勢を見せなければならなかった。

 海が見えてくる。
 出発地点である桟橋の上に、霞は背を向けてたたずんでいた。

「ご、ごめんね、霞ちゃん! 遅れちゃった!」

 阿武隈が声をかけると、霞は振り向く。
 いつものように、目を細めて横から見る。

「……別に。定刻通りじゃない? あんたのそのすぐ謝る癖、どうにかした方がいいと思う」
「そ、そうだね、ごめん」

 ハッ、と阿武隈は気づき、

「じゃ、じゃあ、早速出発しようか!」

 と、気を取り直すように、後ろの二人に向かって言った。

「……さっさと行きましょう。私、時間を無駄にするの大嫌いなの」

 そう言って、霞はさっさと海面に飛び降りた。
 阿武隈たちも、急いでその背中を追った。







 南西海域での資源輸送は、主に鉄鋼石を運ぶ作業が中心となる。
 それから弾薬や鋼材が作られる。弾は敵を打ち倒すのに、鋼材は建造や修理に使われる。どちらも大切な物資だ。

 また、鉄鋼石の採掘場では少量の原油とボーキサイトも採れる。
 こちらはおまけのようなものだが、ないよりはマシだ。燃料は船の血液であり、アルミは空母の命だ。

 阿武隈は、遠征任務にやりがいを感じている。

 直接戦闘に加わらないため、大体は経験の浅い軽巡や駆逐艦が、航海の練習をするために割り当てられる。
 そのため、血の気の多い艦娘たちからは、忌避とも言えるくらい嫌われている。極論、荷物を持って帰ってくるだけの作業だからだ。
 戦闘で敵を倒すのが軍艦の務め。荷物運びをするのは、生まれてきた意味を否定すると考えているのだろう。

 しかし、その戦闘で敵を倒す弾はどこから調達するのだろう?
 補充する燃料は? 損耗した飛行機を造るアルミは?
 無茶な戦闘をした彼女らを直す鋼材はどこから出るというのだろう?

 輸送船が司令部にない以上、誰かが資材を確保してこなければならない。
 定期的に大本営から支給されるものだけでは少なすぎる。

 阿武隈は、遠征をバカにする者を許せなかった。
 前線に出たくない、という気持ちも多少はある。しかし、前線にいるほうが偉いと思われるのは心外だった。

 もちろん、真正面で敵と戦う人たちは凄い。それは否定しない。
 それでも、優劣をつけられたくはなかった。

 遠征に従事している者たちも凄いのだ。
 どっちも偉い。比較されるようなものではない。
 阿武隈が一生懸命運んだ資材で、みんなが存分に力を発揮できるなら、それは阿武隈も戦っていることになるのだから。

「まったく、なんでこんなつまんない任務をさせられるのかしら。私は敵と戦いたいのに」

 ゆえに、その霞の独り言を、阿武隈は看過できなかった。

「そ、そういう言い方はないんじゃないかな?」

 たくさんの鉄鋼石を抱えた阿武隈は、後ろで原油を持っている霞をたしなめた。
 極力、逆なでしないように柔らかな声色で。

「は? 何?」

 しかし、霞は阿武隈をにらみ返した。
 たじっ、となったが、ここで引くわけにはいかない。
 それに、阿武隈はリーダーだ。メンバーを導かなければならない。

「え、遠征で戦いのための資材が手に入るんだよ? それは、霞ちゃんが戦うために欠かせないものを手に入れてくるってことでしょ? だから、めんどくさいとか言っちゃダメだよ」
「……そんなの、他の下っ端にやらせればいいでしょ。私は前線で敵を倒すために生まれてきたの。荷物運びの船じゃないわ」
「う、うちには輸送船がないでしょ? 誰かがやらなきゃならないの。軽巡と駆逐艦は足が速いから適任でしょ?」
「だから、足の速さは敵の攻撃をかわすためにあるんでしょ!? 荷物を早く届けるためにあるんじゃないわ!」

 霞はイライラしてきたようだ。
 だが、ここで折れてしまってはいけない。自分の信念を貫くためにも。

 阿武隈は本気を出した。

「……じゃあ、聞くけど、霞ちゃんはそんなに強いの?」

 その言葉に、霞はいっそう険しい顔をした。

「霞ちゃんは、同じ駆逐艦でも、島風ちゃんや雪風ちゃん、それに夕立ちゃんや時雨ちゃんと比べても弱いと思う。たぶん、みんなそう言うと思うよ?」
「そ、それは、大本営がまだ私の改造計画を立ててないからよ! 改二になったら、あいつらなんかに負けないわ!」
「でも、その娘たち、みんな輸送任務をいまだにやってるよ?」

 それに、霞は即座に言い返せない。

「あの娘たちは強いから、資材の大切さを知っているの。自分がたくさん活躍するには、たくさんの資材がいるって。だから、文句を言わずに遠征に出ているの。強い人ほど、遠征が大切だって熟知してるんだよ」
「……」
「それがわかってなかったなら、いますぐ考えを改めて。でないと、霞ちゃんは永遠にその娘たちに勝てないよ?」
「わ、わかったわよっ! わかってるわよっ!」

 唇をかみ、霞はうつむいてしまった。
 ……これ以上はかわいそうなような気がした。

 重い空気の中、四人は黙々と資材を運んだ。







 資材を受け取ってから、二時間ほど経っただろうか。

 司令部まで、あと半分ほどに差し掛かったときだった。

(ん……?)

 急に、後ろにいた一人の推進音が聞こえなくなった。
 振り向く。霞が、うつむいたまま海の上に突っ立っていた。

「どうしたの、霞ちゃん?」

 阿武隈は反転して声をかけた。
 先ほどのことは気にしていないという風に、できるだけ優しく。

「……」

 だが、霞は下を向いたままだ。

「大丈夫? 体調悪い?」

 かがみこんで、顔をのぞき込む。
 それほど顔色が悪いわけではないようだった。
 また、なにか変なことを言い出さないだろうか、と阿武隈は緊張した。

「……燃料が、なくなった」
「……? ……え?」

 だが、霞の返答は、夢にも思わなかったことだった。

「ね、燃料? 霞ちゃん、いま燃料持ってるじゃない。落としてなんかないよ?」
「……違うわ。私の、燃料がなくなったの」

 阿武隈は、しばらくして、ようやく意味を理解した。

「か、霞ちゃんの燃料!? ど、どうして!? 来る前に補充してなかったの!?」
「……するわけないでしょ? 提督が忘れてたもの。前に遠征に出たときのままだったのよ」

 ……この娘は、……本当に何を言っているのだろう。

「じゃ、じゃあ、言えばよかったじゃない! 燃料を補充してくださいって! 来る前に利根さんが訊いたでしょ!? 何か不都合なことはないかって!」

 霞は、横に視線を逸らしたままだ。
 そして、口を歪めて笑った。

「別にいいんじゃない? これで、あの提督も自分が馬鹿だってことに気づくだろうし。これで遠征は失敗ね。根性なしにはいい薬だわ」

 ――阿武隈の中で何かが切れた

「ふざけないでっ!!」

 霞の身体が、大きく震えた。そして、阿武隈の顔を目を見開いて見つめる。
 阿武隈も、こんなに大きな声を出せるなんて思わなかった。
 自分で自分に驚いていたが、でも、そんなことに構わずに続ける。

「……いい? 霞ちゃん。提督は神様じゃないの。うっかりミスをするし、ましてや霞ちゃんの心の中なんて覗けるわけがない。だから、霞ちゃんは提督や利根さんに自分の状態を伝える必要があるの。ううん、それは義務であって、しなければならないことなの」
「し、知らないわよ、そんなこと! なんで、そんなめんどくさいことしなきゃならないの!? それはあいつの仕事でしょ!? 私は関係ない! 関係ないわ!」

 ……頭が、痛い。

 しかし、なんとかしなければ。ここを乗り切るのは、リーダーの自分の務めだ。

 駆逐艦の二人が、これからどうしたらいいかを、おずおずと阿武隈に訊ねてくる。

 ……燃料がない霞を放ってはおけない。
 燃料がないということは、もうここから移動できないということだ。
 見捨てて三人だけで帰るなど、論外中の論外。誰かが霞の曳航作業をしなければならない。それは、一番馬力のある自分になるだろう。
 しかし、その最中に敵の深海棲鑑に見つかったら? それも、運悪く重巡以上がいる艦隊に発見されたら、不利どころの騒ぎではない。なぶり殺しになる。

 提督と利根の信念を思い出す。
 二人は、犠牲を絶対最小限に抑えることを貫いていた。
 だから、阿武隈はそれを守らなければならない。
 全員が生きて帰る道を模索しなければならなかった。

「……みんな、持っている資材をここに投棄して」

 三人がざわめいた。

「ば、馬鹿なの、あんた!? せっかく持ってきたのに!」
「もう、そういう段階じゃないの。資材を捨てて身軽にならないと。そうしないと、敵に出会ったら逃げられない。さあ、みんな、捨てて」

 率先し、阿武隈は持っていた鉄鋼石を海に落とした。
 水が跳ね、見る見るうちに沈んでいく。やがて、暗い水底に消えていった。

 駆逐艦の二人も、持っているものを落とした。
 霞も、苦渋に顔を歪めながら、自らの燃料の元となる原油を放り投げた。

「……じゃあ、二人は全速力で司令部に戻って。そうしたら、すぐに利根さんに助けを求めてきて」
「わ、私たちはどうするのよ」
「あっちの方向に、小島がいくつか浮いているのを知ってるでしょ? そこに身を隠すの。夜になれば見つかりにくくなるから」

 冬の日の入りは早い。あと二時間もしないうちに日が暮れるだろう。
 それまで待ち、二人が連れてきた護衛とともに、闇に紛れて撤退。
 おそらく、これが最も生存確率の高い方法だと阿武隈は考えた。

「私たちが見つかったら、どうすんのよ! 助けを呼んでくるなら、一人で充分でしょ!?」
「一人で戻っている途中に敵艦に見つかったら? この娘たちは駆逐艦なんだよ? 軽巡一隻でも出会っちゃったら危ない」
「そ、それなら全力で逃げれば、」
「霞ちゃん」

 反論しようとする霞に、阿武隈は割り込んだ。

「いまは、あたしに従って」

 あなたは、いまは役立たずだから。
 阿武隈は、それを口には出さなかった。
 だが、強い視線でそれを示した。
 霞は、何を言われたのか、わかったのだろう。
 しかし、言い返すことはできなかった。その理由も、権利もなかったのだから。

「じゃあ、お願いね。なるべく、早く助けを呼んできて」

 阿武隈が指示を出すと、二人は真剣に頷いて、全速力で司令部に走り出した。







 その浮島群は、それほど離れていないところにあった。
 十に満たない数だが、身を隠すのにはもってこいだった。ずっと前からあるのは知っていたが、こんなことに使うことになるとは思わなかった。

 ……阿武隈は、この浮島たちがあまり好きではない。
 阿武隈が旗艦となったキスカ撤収作戦。あれは奇跡といえるほどの大成功を収めたが、いくつか失敗もあったのだ。

 中でも、阿武隈が忘れられないのは、濃霧の中に突如現れた浮島を敵影と誤認し、うっかり貴重な魚雷を撃ってしまったことだ。

 そのことは、後に狂歌にまで詠まれて皮肉られている。
 忘れたくても忘れられない、苦い思い出だった。

 阿武隈は浮島に寄りかかり、穏やかな波音を聞きながら回想していた。
 隣には曳航してきた霞がかがみ込んでおり、黙ってうつむいている。

 ……利根は、霞がこういう性格になったのは、理由があるからだ、と言った。

 阿武隈は、それは本当なのだと、確信した。
 ここまで性格がねじ曲がってしまったのは、何か原因がないと説明がつかない。生まれつきこうだった、というほうが逆に嘘くさい。

 阿武隈の中で、変な子、扱いに困る子、という霞のネガティブなイメージが薄らいでいた。

 そして、助けてあげたいと初めて感じた。

 どんなに好意を向けても、霞は拒絶した。自ら、それを捨て去るように。

 人付き合いが嫌いだから、とばかり思っていた。
 でも、彼女は不知火とは仲がいい。
 友達を作りたくないわけではないはずだ。きっと、それにも理由があるのだ。

「……この浮島の中にいるとね、思い出すの」

 阿武隈は、優しく語りかけた。

「昔ね、北の島で、陸軍の兵士の撤収任務をしたことがあるの。そのとき、凄くうまくいって、奇跡の作戦って誉められたんだよ」
「……それって、キスカ撤収作戦?」

 阿武隈は目を丸くした。
 返事は期待していなかったからだ。

「そ、そう! よく知ってるね、霞ちゃん」
「……嫌でも耳に入ったもの。あの絶望的な戦況下で、日本海軍があげた数少ない完勝だって。たかが撤収を成功させただけなのに、おめでたいやつらね」
「あはは、そうかもね。あたしたち、一発も弾を撃ってなかったしね」

 本当は魚雷を無駄にしたのだが、敵に撃ったわけではないのでカウントしないでおく。

「でも、純粋な『戦闘』で日本海軍が最後に勝ったのは、ミンドロ島沖海戦よ。輸送船を潰しただけだったけど、弾を撃ち合って勝ったことは変わりない」
「ミンドロ……フィリピンの島だったよね?」
「……そうよ」
「もしかして、霞ちゃんも参加してたの?」

 阿武隈は、レイテ沖海戦という大激戦で沈んでしまった。
 ゆえに、それ以降の海戦は知らないのだ。ミンドロ島というところで戦いがあったことは、阿武隈の記憶にない。

「参加してたどころじゃないわ。私が旗艦だったもの」
「そ、そうだったんだ! すごいね!」
「……別に、大したことない。司令官が有能だっただけ。重巡から駆逐艦の私に乗り移るなんて、当時は考えられなかった」
「え……?」

 それは、もしかして……

「その、司令官って……木村昌福少将?」

 阿武隈がそう言うと、霞は勢いよく頭を上げた。目を丸くして阿武隈の顔を見る。

「し、知ってたの……?」
「知ってたも何も、キスカ撤収作戦の司令官が木村少将だったの。よくあたしに乗ってくれたんだよ。……そうだ、思い出した。レイテであたしが損傷したとき、木村少将が乗り移ったのは霞ちゃんだったね」

 阿武隈が沈んだ後、木村少将が重巡から駆逐艦に旗艦を移し、作戦を成功させたという話は聞いていた。
 それは、霞だったのだ。レイテで沈んだ自分の代わりに、霞が後を継いでくれた。

 思わず、熱いものが込みあげてくる。

「そっかぁ……司令官、霞ちゃんに乗ってたんだぁ……うれしいなぁ……」

 大好きな司令だった。
 いま、阿武隈が何とかやっていけてるのは、木村少将がいたからだといっても過言ではない。

「司令官、いい人だったでしょ?」
「……」

 阿武隈は霞に同意を促すように訊くが、彼女は再びうつむいてしまった。

「……あんまり気に入らなかった?」
「そ、そんなことはない。私なんかにはもったいないくらいの司令官だったわよ。私が歴史に名を残せたのは、木村司令官のおかげだし」

 ……霞の誉め言葉は、阿武隈は初めて聞いた。
 いや、激賞と言ってもいいくらいだった。

「で、でも……」

 しかし、霞は、それから言い淀んでしまう。
 躊躇っているような、言いにくいことを言おうとしているような。

 だから、阿武隈は急かしたりしない。

「……無理して話さなくても大丈夫だよ」

 霞は、かすかに肩を震わせた。

「それって、霞ちゃんにとって辛いことでしょ? 朝潮型のみんなや不知火ちゃんにも話してないような。あんまり仲良くないあたしに軽々しく話せることじゃないと思うから」
「……」
「あたしは、司令官が霞ちゃんに乗って大活躍してたってわかっただけで充分だよ。ずっと司令官と一緒にいたかったけど、霞ちゃんがそれを引き継いでくれたから。……あはは、なんかすごくうれしい。司令官があたしと霞ちゃんを引き合わせてくれた気分」

 阿武隈と霞は、あまり接点がないと思っていた。
 しかし、こんなところで結ばれるとは思わなかった。
 お互いが尊敬してやまない司令官に指揮され、戦った。
 常に隣にいたわけでもないのに、まるでずっと一緒に同じ戦火の中にいたような、そんな心地だった。

 ……これが、戦友というのだろうか。
 普段はいがみ合っていても、戦場に出ればどこかで繋がっている感覚がする。
 それは、ただ生活しているだけでは絶対に築かれない、不思議な関係だった。

「ねえ、木村少将といまの提督って、似ていると思わない?」
「……」
「提督って、絶対に私たちに無理させないでしょ。誰か一人でも大破したら、それが主力艦隊の目の前でも撤退させちゃうし。たぶん、みんなが死んじゃうのが凄く怖いんだと思う」

 霞は、阿武隈の話を黙って聞いている。
 木村少将と比べたら怒るかと思ったが、否定の言葉は出なかった。

「あとは、ミンドロ島沖で霞ちゃんに旗艦を移したみたいに、雪風ちゃんを旗艦にしちゃったりね。大きな船とか小さな船とか、あの人はあんまり関係ないみたい。司令部にいるみんなを平等に扱ってくれるの。あたしは、それが凄くうれしいんだ。必要とされてるって、いつもより力が出せる気がするから」
「……私は」

 霞は、ようやく声を出す。
 いつもの気の強そうな声ではなく、弱々しく、小さく。

「私は、だから……」

 阿武隈は、急かさずにうなずく。

「……怖いの」

 阿武隈はかすかに息をのんだ。

「……どうして?」

 慈しむように、訊く。
 心を閉ざしてしまっていた霞が、その奥底にしまい込んでいたものを話そうとしていた。

 霞は、阿武隈には聞く権利があると認めてくれたのだ。

 真剣に耳を傾ける。霞と同じようにかがみ込み、目線を彼女と同じにして。

 霞は、長いこと答えなかった。
 何を言ったらいいのか、頭の中で言葉が回っているようだった。
 やがて、少しだけ涙がにじんだ、小さな声を出す。

「……大切な人が、死ぬのが……」

 それが、霞の本心だった。

「それは……木村少将のこと?」
「違う……木村司令官は終戦まで生き残ってくれた。……私が言っているのは……」

 霞は、目に涙をたたえながら、苦しげに言った。

「……宮坂大佐のこと」

 宮坂。
 阿武隈の脳裏に、宮坂義登という一人の将校の名前が浮かんだ。
 そして、彼がどういう末路をたどったのかも。

「……そっか」

 霞の性格が歪んでしまったのは、彼の境遇がトラウマになっていたからなのだと、阿武隈はやっと理解した。

「宮坂司令は、私が初めて認めた司令官だった。私は、司令の手足となって働きたかった。……なのに……」

 奇しくも、阿武隈が誇りとしていたキスカ島での出来事だった。
 当時、霞は第18駆逐隊として、霰、陽炎、不知火と行動をともにしていた。
 しかし、四隻が停泊していたところに、敵潜水艦が奇襲、霞と不知火が大破させられ、霰に至っては沈められている。

 これだけでも、霞にとってはトラウマになりかねない事件だ。姉妹の霰が目の前で沈んだのだから。
 だが、そこに追い打ちがかかる。
 潜水艦一隻に大損害を与えられ、当時の司令だった宮坂大佐は拷問に等しいほどに責任を追及されたのだ。

 結果、宮坂大佐は、自ら腹を切った。
 ほとんど殺されたようなものだった。

 霞の目から、涙がこぼれ落ちる。
 両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いた。

「ごめんね。辛いこと思い出させちゃったね」

 阿武隈は、霞の肩をしっかりと抱いた。
 それしか、できることがなかったのだ。どんな慰めや励ましをしても、霞の心の傷を癒せる言葉は見つからなかった。

 霞は、愛する者が死ぬことを極度に恐れている。
 心を許した相手が目の前で死んだら、その痛みは計り知れないものになる。
 ましてや、宮坂大佐のように虐めのようなやり方で死に追いやられたら、人を信じられなくなるに違いない。

 愛さなければ、傷つかない。愛されなければ、傷つけない。

 利根の言うとおりだった。
 霞は素直で不器用だった。
 そして、どこまでも優しく、弱い娘だった。

 霞は、痛みにこらえるように泣き続ける。
 阿武隈は、寒さから彼女を守るように、抱きしめ続けていた。







 日が没した。

 空には星が瞬いている。
 相変わらず波は穏やかで、寒さはあまり感じない。

 いや、阿武隈はそうかもしれないが、霞はどうだろう。
 もう涙は止まっていたが、泣き腫らした目は痛々しかった。

「大丈夫、霞ちゃん? 寒くない?」

 ずっと腕の中にいた霞に、阿武隈は優しく問いかける。

 霞は、かすかにうなずいた。

「そっか。寒かったら遠慮なく言ってね? あたし、寒さに強いのが取り柄だから。いつまでも霞ちゃんの風よけになってあげられるよ」
「……なにそれ。すごく微妙な取り柄」

 そんな憎まれ口を、霞は叩いた。
 そして、ほんのわずかに、口の先をあげた。

「……今日はありがとうね。打ち明けてくれて」

 心が軋むのに耐えて話してくれた霞に、阿武隈は感謝を伝えた。

「……つい口が滑っちゃったわ。言い触らしたら許さないからね」
「言わないよ、絶対。約束する」

 それは、霞が自ら話さなければならないことだからだ。

「……あたしはね、霞ちゃんは今のままでいいと思う」

 阿武隈は、じっくりと考えた上で、自分の考えを言った。

「心の傷って、鋼材とか燃料とかで治らないから。時間だけが治してくれるの。無理をすると傷が開いちゃうから、ゆっくりゆっくり、時間をかけて治していこう?」

 霞は、とても不器用だ。
 考えを押しつけられるのも嫌う。
 もっと気楽に考えられる性格だったら、すでにみんなと打ち解けていた。
 だから、自分で解決するのを見守るのが一番だと思うのだった。

「辛くなったら、いつでもあたしのところに来てね。心って、言葉にして吐き出さないとパンクしちゃうの。あたしは、霞ちゃんのことを絶対に誰にも言わないから」
「……無責任よ。あんた、明日にでも死んじゃうかもしれないでしょ」
「大丈夫だよー。あたしは恐がりだから、誰かさんみたいに危ないところにつっこむなんて絶対しないし。本音を言うと、ずっと輸送任務だけやってたいんだよ」
「もう、仕方ないわね。軍艦の風上にも置けないわね」
「あはは、こんな軍艦もいてもいいと思わない?」

 霞がぎこちなく笑うのが、阿武隈はどうしようもなくうれしかった。

「それにね、うちの提督は絶対に誰も死なせないよ。霞ちゃんと同じなんだ。好きな人が死ぬのが誰よりも怖いの。霞ちゃんも知ってるでしょ? もう何千回と海戦をしているのに、まだ一隻も沈んだ船がないのを」
「……」
「ほんの少しだけでいいんだ。もうちょっとだけ、提督を信じてあげて。それで、燃料を補給し忘れていたら言ってあげて。そうしないと、提督は、霞ちゃんみたいにずうっと心に傷を抱えることになっちゃうから」
「……わかったわ」

 霞は、神妙にうなずいた。
 阿武隈も満足げに首肯した。

 これで、後は司令部に帰れば万事解決する。

「……お迎え、遅いねー。そろそろ来てもいいと思うんだけど」

 阿武隈は、駆逐艦二人が助けを呼びに行ったほうを振り返った。
 荷物を捨て、速くなった足で司令部に戻り、そこからここに戻ってくる。
 逆算すると、もう到着してもおかしくない。

「……迷ったりとかしてないでしょうね」
「うーん、大丈夫だと思うけど。あの二人は、もう何回もこの航路を通ってるし。夜でも迷わずに来られると思うよ」

 そのとき、かすかな船の推進音が、阿武隈の耳に入った。

「あっ! 来たかな!?」

 阿武隈は立ち上がり、浮島の向こうを見遣った。

 ……聞こえる。

 おそらく、重巡を中心とした艦隊だ。水面を滑る複数の音が聞こえてくる。
 提督は妥当な判断をした。
 重巡は排水量の割に高速で運行できる。霞を引っ張る役目を担ってくれるだろう。
 その重巡と霞を守るように、軽巡と駆逐艦が護衛に当たる。これは、念のためだ。極力、戦闘を避けて司令部に帰還させるに違いない。

 実に、セオリー通りである。
 到着すれば、阿武隈も霞も助かる可能性が高い。

 だが。

「……? なに?」

 霞が違和感を口にした。
 阿武隈も、すぐにそれに気づく。

 船の推進音が、一方から来ないのだ。
 二人のいる浮島群を囲むように、全方位から聞こえてくる。
 おかしかった。救援隊は、司令部のある方角から最短で来るはずだ。こんな回りくどいことをする必要はない。

 ――阿武隈の背筋に冷たいものが走る

 とっさに、阿武隈は出していた頭を引っ込めた。
 同時だった。のぞき込んでいた方角から、頭の中に染みつくほどに聞き慣れた爆音がした。

 数瞬の間で、近くの水面が爆発した。
 激しく水しぶきがあがり、波が二人を翻弄する。

「なっ、なにっ……!?」

 浮島にしがみつき、霞が目を白黒させる。
 そして、辺りを窺おうと浮島から頭を覗かせようとする。

「! ダメッ、霞ちゃんっ!」

 阿武隈は、強引に霞の体を引き寄せる。
 再び、遠くからの砲撃の音と共に、水面に巨大な水柱が上がった。

「ど、どういうことなのっ……! 助けが来たんじゃ……!」
「静かにして……! 囲まれてる……!」

 阿武隈にそう言われ、霞はようやく理解したようだ。顔から血の気が引く。

 推進音は、六。それは、阿武隈たちの司令部にいる、どの船とも異なったものだった。
 船たちは、浮島を包囲するように、等間隔に配置されている。距離は、阿武隈の15.5cm砲がギリギリ届くかというくらい。

 そして、最低でも重巡が2隻いる。
 阿武隈たちを狙い撃ってきたのは、深海棲艦リ級の8inch砲に間違いなかった。

(ど、どうしよう……!)

 阿武隈の頭が熱を帯びてくる。
 どうにかしなければならないのに、うまく考えることができない。

「あ、あいつら……なんで、私たちがここにいるってわかったの……」

 腕の中の霞が、当然の疑問を口にする。
 考えられることはいくつもある。
 ここが深海棲艦の休息場所であったという可能性。
 もしくは、哨戒中の敵駆逐艦が偶然二人を見つけ、味方を連れて戻ってきた可能性。
 さらには、この浮島は、燃料の切れた船が停泊しているのを狙い撃つ、餌場であるという可能性も。

 しかし、そんなことはどうでもいい。
 いまは、この状況を打破しなければならない。
 相手は、軽巡と駆逐艦しかいないと熟知していると見ていい。でなければ、陣形も敷かずに包囲をするなど考えられない。

 つまりは、なぶるつもりなのだ。
 漁船が網を少しずつ狭め、魚を追い込んでいくように。
 魚がどう抵抗するのか見物しながら、最終的に砲雷撃の餌食にするのだろう。

「ど、どうするの……どうしたらいいの……」

 霞が自問のように訊く。
 緊張と恐怖からか、声がかすかに震えていた。
 当然だ。彼女には、もう燃料がない。
 逃げようにも逃げられない。残った弾で攻撃することはできるが、たとえ一隻沈められたとしても、他の船に集中砲火を受けて確実に潰される。

「……」

 それでも、阿武隈は考える。
 最善と思われるのは、駆逐艦のいる方向に身を踊らせ、瞬時に撃沈させて網に穴を空け、そこから逃げる、というものだった。
 しかし、司令部のある方向とは逆だ。それに、霞を引っ張っていかなければならない。阿武隈自身の燃料も残り少ないのだ。リスクが高すぎる。

 ……もっとも、これは、霞を連れていく場合。
 仮に、阿武隈一人で脱出を試みるなら、成功の可能性は若干上がる。

(ふざけないで……!)

 そんなことを少しでも考えた自分を、阿武隈は叱責する。
 帰るなら、二人でだ。それができないなら、共に沈んだほうがまだマシだ。おめおめと、のこのこと帰り、のうのうと生き延びるつもりか? 耐えられるわけがない。

 せっかく、霞と心を通わせることができたのに。
 それが、こんな形で台無しになるなど、許せない。

 絶対に、生還すると信じる。
 しかし、同時に諦観が心を苛む。
 相反するものを同時に抱えながら、阿武隈は懸命に自分を叱咤した。

「……霞ちゃん、まだ弾と魚雷は撃てるよね?」

 耳元で阿武隈は確認する。

「え、ええ……どうする気……?」
「このまま飛び出しても勝ち目は薄いと思う。だから、ここに身を隠して、敵が近づいてきたら奇襲をかけるべきだと思うの」

 幸いにも、向こうは無駄弾を撃って遊ぶ気はないようだ。わざわざ、身を晒して的を提供する必要はない。

「至近距離でいきなり攻撃されたら、多少なりとも混乱すると思う。それに乗じて、司令部まで一直線に走るの。あたしが霞ちゃんを曳航するから、霞ちゃんは弾幕を張って牽制して。お願い」
「……」

 霞は、悔しそうに唇を噛む。

「……私の、せいね」
「違うよ。ここに留まると決めたのは、あたし。だから、霞ちゃんは悪くない」
「それは……私が燃料をちゃんと補給していたら防げたことだわ。……ごめんなさい」

 その謝罪の言葉で、阿武隈は霞を絶対に死なせないと決意した。

「まだ死ぬと決まったわけじゃないよ。あたしたちは、生きるためにがんばるんだよ。信じないと帰りたくても帰れないから」

 霞を励まし、阿武隈は両手の主砲の状態を確認した。

 ……案の定、少しずつ敵が忍び寄ってくる。姿は見えないが、音は隠しようがない。

「……合図したら、行くからね」

 霞は小さくうなずき、曳航用ロープを握りしめた。

 あと、十秒。そこで、浮島から飛び出して走る。

 心臓が張り裂けんばかりに鼓動している。

 まぶたを閉じ、敵の足音に集中する。

 恐怖を懸命に抑え込み、阿武隈はそのときを待った。



 ――あと、三秒に差し迫ったとき、二人の背中から、轟音が起こった。



 砲撃と雷撃の混成音だった。夜戦のたびに耳をつんざく、死神の鎌の音だ。

 それが鳴りやまない間だった。
 水を斬り裂くような滑走音が近づいてくる。
 やがて、それは二人の隣にやってきて、莫大な水しぶきをあげて止まった。

「待たせたの」

 星明かりに照らされる、水しぶき。
 それは、昨日の夜にも見た光景。
 光が明滅する空間の中で、阿武隈は、その人の笑顔を見た。

「あ……あ……」

 そうだった。
 どうして、忘れていたのだろう。
 この人は、みんなが辛いときに、必ず現れて助けてくれる、絶対的ヒーローだったはずなのに。

「利根、さんっ……!」
「よく耐えたの。先走って飛び出していたらどうしようかと思ったぞ」

 利根は、涙を浮かべた阿武隈と、呆然としている霞を抱きしめた。

「さ、喜ぶのは後じゃ。さっさとここから離脱せねばの」
「は、はいっ!」
「もう少しで援護が来る。そうしたら、脇目もふらずに司令部に戻れ。吾輩のことは気にするな」
「と、利根さんは……? 大丈夫なんですか?」

 霞が、そんなことを訊く。
 利根は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。

「霞よ、吾輩を誰だと思っておる」

 そして、右手を伸ばして、霞の頭に優しく載せた。

「吾輩は利根である。吾輩がここに来た以上、もう何も心配はないぞ」

 その自信。気迫。
 それが張り子の虎ではないことを、阿武隈は充分に知っていた。
 霞の目に涙がたまり、頬に一筋流れ落ちた。

 そのとき、浮島の向こうから再び何かの音が迫ってきた。
 船ではない。これは……魚雷?
 いや、魚雷のようでいて、魚雷ではない。海の中を何かがやってきている。そして、潜水艦にしては小さい。

「あ……」

 阿武隈が察した瞬間、それが発射した何かが浮島に命中した。
 巨大な水柱が上がる。

 阿武隈は、霞を引っ張って浮島から躍り出る。
 水のカーテンの中を、一目散に走る。
 何度も何度も、浮島には何かが命中し、水柱が途切れることはない。
 完全な遮蔽物の中、阿武隈たちは浮島の周辺から脱した。



 水しぶきが届かない場所まで来ると、阿武隈は前方から二人やってくるのが見えた。
 阿武隈たちと一瞬ですれ違った。
 すれ違う瞬間、阿武隈はその顔を見た。
 彼女は、困ったような、バカにしたような、そんな複雑な笑みを浮かべていた。







「なんとか逃げ出せたみたいね」
「うちらの大事な魚雷使ったんだもん。逃げられなきゃ、あとでシメるよ」
「その前に死んじゃってるわよ」
「それもそうかー」
「あの娘、あんまり好きじゃないのよね。いっつもオドオドしてるし。何で私たちがこんなことやらなきゃならないのかしら」
「あたしは、そんなに嫌いじゃないけどねー。あっちが一方的に嫌ってるから、反応を見るのが楽しいし」
「そんな北上さん、けっこう好きよ」
「んふふ、そう? ありがとね」
「まあ、憂さ晴らしは、あっちにいる雑魚でしましょうか」
「そうだねー。あたしらと夜戦すること、後悔させてあげましょうか」







 阿武隈は、息を切らせながら走った。

「だ、大丈夫?」
「はあっ、はあっ、へ、平気だよっ」

 一瞬振り返って懸命に笑みを作り、阿武隈は再び曳航に戻る。

 あっちのほうは、もう大丈夫だ。
 三人は、夜戦のエキスパートだ。逆に、彼女らと戦わなければならない敵艦がかわいそうに思える。

 先ほどまで、背後では砲雷撃音が聞こえていたが、もう耳には届かない。
 離脱には成功したようだ。あとは、司令部に帰るだけ。

 そのとき、前方から何かがやってくるのが見えた。

 ギクリとするが、すぐに安堵に変わる。

「阿武隈ーっ!」

 その聞くだけで元気なる声が、とても懐かしく感じた。

「き、鬼怒ーっ!」

 疲れを押し、阿武隈はなんとか手を振り返す。
 赤髪ショートカットの長良型軽巡。阿武隈と同室で、親友の鬼怒だった。隣には、霞の数少ない友人の不知火が随伴していた。

「無事でよかったーっ! 心配したんだよーっ!?」
「ご、ごめんね。引っ張り出されちゃって」
「ううん、私が志願したことだもん。気にしなくていいよ!」

 にこにこしている鬼怒に、阿武隈は心底ホッとした。
 そこに、不知火がやってくる。

「お手伝いします」
「う、うん、お願いね」

 不知火は淡々と、霞に曳航用ロープを縛り付けた。

「し、不知火……」
「今回の件。貴女にすべて非があるわ」

 全く容赦なく、霞に言葉を叩きつける。
 霞は、返す言葉なくうつむく。

「……でも、無事でよかった」

 霞は顔を上げる。不知火が、ほんのわずかに微笑んでいた。

「ご、ごめんね、不知火……」
「……貴女、変わったわね」
「え?」
「独り言よ。それより、さっさと行くわよ。団体様がご到着だし」

 不知火は不可解なことを言った。
 だが、阿武隈はすぐに意味を察する。

 右後方から、複数の推進音が聞こえてきたのだ。……敵の新手だった。

「ま、また来た!? ど、どうしよう、早く逃げないと……!」
「ダイジョブダイジョブ! 私たちはまっすぐ帰りましょー!」
「な、なにを、のんきなことを、」

 悠長な鬼怒を、阿武隈は怒ろうとした。

 だが、それは一発の砲音によってかき消される。

 かすかに見えた敵艦隊のいるところに、優に数十メートルはあろうかという巨大な水柱が上がったのだ。

「……」

 阿武隈は、目を見開いた。
 再び、砲音が聞こえる。またしても巨柱が空に向かって伸びる。激しい荒波に敵は翻弄されていた。

 唖然としていた阿武隈の左手の方を、凄まじい高速で何かが通り過ぎていった。

 速すぎて、誰か判然としなかった。しかし、あの速力を見れば誰かがわかる。
 そして、彼女の後を追って三隻の駆逐艦も、敵艦に向かって走っていった。

「島風ちゃんに時雨ちゃんに夕立ちゃんに雪風ちゃん! おまけに援護射撃で最強戦艦、大和さんがついてるんだよ! 負けるはずがないね!」
「……」

 鬼怒の言葉が、にわかに信じられなかった。

 どの駆逐艦も、司令部最強クラスだ。
 さらに、大和が長距離砲撃で援護ときている。彼女は、阿武隈が五回は海戦できる燃料と弾薬を、一回で使いきるほどに巨大な船だ。

 つまり、指令官は、阿武隈と霞を助け出すために、最強の駆逐艦たちと大和を出撃させた、ということだった。

「早く離脱しましょう。もう敵が来ないとも限りません」

 不知火が、冷静にそう提案した。

 鬼怒に援護され、阿武隈は不知火とともに霞を引っ張った。







 日が変わった。

 阿武隈は、指令室前に立っていた。そわそわと落ち着かない様子で。

 中には、霞がいる。
 今頃は、指令官にたっぷりとお灸を据えられているのだろう。

 阿武隈たちは、無事に帰還した。
 すっかり空になった燃料を補給した後、すぐに指令室に向かった。
 本当なら真っ先に指令室に向かうのだが、鬼怒が「先に燃料を補給してから来いってさ」と指令官からの命令を伝えた。
 今度は、霞はしっかりと燃料を満タンにした。

 三十分ほど経っただろうか。阿武隈には、とても長く感じられた。
 ドアが開き、疲れた様子の霞が現れた。

「霞ちゃん!」

 すぐに、阿武隈は駆け寄る。

「……待ってたの?」
「う、うん……し、心配だったから……」

 迷惑だったか、と阿武隈は思った。
 叱られた後は誰でも気分が落ち込んでいるものだ。プライドの高い霞には見られたくない姿かもしれない。

「……そう。……ありがとう」

 だが、霞は怒るどころか、礼を述べた。

 阿武隈は、安堵に胸をなで下ろす。
 わかっていたはずではないか。霞は、もう以前の霞ではないのだ。

「あっ、疲れたでしょ? こっちに来て! いいものを用意したから!」
「えっ? な、なによ」
「いいからいいから!」

 不思議な顔をする霞の手を引っ張って、阿武隈はある場所に連れていった。

 そこは、喫茶室兼休憩所だった。
 訓練や仕事の合間に、艦娘たちがよく集う。しかし、もう遅い時間とあって、誰もいなかった。

「さ! 座って座って!」
「こ、これは……」

 阿武隈が霞を座らせたイスの前には、ほうじ茶が用意されていた。
 そして、小皿の上には二つの塩にぎり。阿武隈が利根に持っていったものと同じだった。

「お腹すいたでしょ? 燃料は補給したけど、食べ物は食べてないもんね。利根さんも褒めてくれたおにぎりなんだよ!」

 阿武隈はちょっと自慢げに胸を反らす。

「さ、食べて食べて!」

 勧められ、霞は緩慢に手を伸ばす。
 おにぎりを一つ手に取り、両手で持った。

「……形が汚い」

 うぐっ、と阿武隈はのけぞる。

「あ、味は大丈夫から! 今度はもっとうまく作るから!」

 そんな弁解をよそに、霞は一口、小さな口でおにぎりをかじった。

 もぐもぐ、と咀嚼する。

「ど、どう……?」

 おそるおそる、阿武隈は訊ねる。
 霞は返事せず、少しずつおにぎりを食べていく。

 そのうちに、だんだんと顔が歪んできて。
 あっという間に瞼に涙が溜まって、大粒の涙がこぼれた。

「えっ!? お、おいしくなかった!?」
「……おいしい」

 阿武隈はあたふたするが、霞はそう口にした。

「……おいしい。……おい、しい……」

 涙をあふれてくるのに構わず、霞はおにぎりを食べ続ける。
 それに阿武隈は安心し、笑みを浮かべる。霞の隣に座り、食べ終わるまで見守り続けた。

 長い一日が、ようやく終わった。
 そして、阿武隈と霞にとって、かけがえのない一日となったに違いなかった。



















◇ ◇ ◇




 その夜も、利根は訓練に明け暮れていた。

 壊した模型は新しいものに変わっている。
 しかし、すでにボロボロで、いつスクラップになるかわからなかった。

 模型もタダではないので、資材を預かる身としては、あまり無駄にしたくはない。威力の小さい砲を使うことも検討している。
 しかし、いつも使っている20.3cm砲でないと実戦で力を発揮できない。すでに身体に馴染んでおり、反動の大きさや着弾までのわずかなタイムラグさえも利用して戦っているほどなのだから。

 その培ってきた実力は、先の夜戦でも遺憾なく発揮された。
 戦果は、重巡一隻と軽巡二隻撃沈。損害はゼロ。後から来た雷巡の二人が残り三隻を掃除したが、利根一人で戦っても全滅させる自信があった。

 利根の練度は、極まるところまで来ている。
 この訓練も、実力の維持にしているところが大きい。

 なので、そろそろ指導に力を入れるべきなのだろうか。
 膨大な実戦と訓練で培ってきた経験を、他の有望な艦娘に受け継がせる。
 そうすれば利根の負担が減り、疲労による注意力の散漫を防げるだろう。

 ただ、問題なのは、利根と同じものを要求されて、それを習得できるかだ。
 彼女の訓練は、明らかにレベルが違う。三日で音をあげてもおかしくない。

 しかし、利根がやっているのは、どんなにかかろうとも、継続すれば必ず体得できるものだった。
 利根は自分で考えてやったため、時間はかなりかかった。それを自身で指導すれば、半分の時間で済むだろう。

 とりあえずは、いままでの訓練メニューで、日常の訓練に取り入れられそうなものから取り入れることだった。
 できなければ、できるようにアレンジをすればいい。そこから新しい訓練が生まれて、利根の実力も上がるかもしれない。

 弾を打ち尽くし、今日の訓練を終える。
 耐え抜いた模型を引きずって、利根は海岸へ引き返した。

 やがて、遠目に誰かが浜辺に立っているのが見えた。
 おそらく阿武隈だろう。今日もおにぎりを持ってきてくれたに違いない。

 しかし、近づくにつれて阿武隈にしては背が小さいことに気づいた。

 利根は、それが誰かわかったとき、思わず目を丸くした。

「霞ではないか。どうしたのじゃ?」

 利根を待っていたのは、霞だった。
 予想だにしなかったので、何をしにきたのか見当がつかなかった。

「あ、あの……」

 霞は、目をせわしなく動かしている。
 いつもまっすぐ見て、はっきりと喋る印象が強いので、少しの不安を利根に与えた。

「昨日は疲れたであろう。無理せず、ゆっくり休むのがよいぞ?」
「は、はい……ありがとうございます」

 霞は、ぎこちなく礼を言った。
 本当に、変わった。
 前だったら、何か言ったら文句をつけて返してくるところだ。それがいまは、言い返したりせずにすんなり受け入れている。

「あ、あの……私、利根さんにお願いがあって……」
「むう? な、なんじゃ? 何でも言ってみろ」

 さらに意外なことを言われ、利根は多少動揺する。
 無茶なことを言わなければいいが。

「あの……利根さんの夜間訓練、私も参加させてもらえませんか?」

 上目遣いで、霞はそう言った。
 利根は一瞬意味を考え、そして、思わず顔をほころばせた。

「そうか。お主もやりたいか?」
「は、はい。私、もっと強くなりたいんです」

 霞は、力強い声を視線で返した。
 ……表面は、わずかに柔らかくなった。
 だが、彼女の強い負けん気は、心の奥底でいまも息づいているようだった。

「しかし、吾輩の訓練は、ちと厳しいぞ? ついてこられるか?」
「大丈夫です。昨日のような醜態をさらすのに比べれば、余裕で耐えられます」

 利根は、小気味良さそうに笑った。

「わかった。ちょうど、誰かを鍛えようと思っておったのじゃ。お主が吾輩の右腕になれるよう、厳しくいくぞ」
「はい、望むところです!」

 いつもの強い光を瞳に宿し、霞は利根を見据えた。

 霞に、その力があるかは、まだわからない。
 だが、確実に彼女は強くなるだろう。すでに、その下地はできあがっているのだから。

 そして、今度は阿武隈がおにぎりを持ってやってきた。
 霞がいるのを見て、うれしそうに微笑むのだった。



〜終〜


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