目が覚めると、布団の中で仰向けになっている自分に気付いた。

薄暗い室内に、年輪を残した木の天井がぼんやりと見える。寝ぼけているのか、その高さがいまいち判然としない。高いようにも見えるし、低いようにも見えた。
右に目を向けると弱い光が障子に当たっており、淡く青みがかった障子の色合いが、今が朝であることを、あたいのいつもの起床時間であることを教えてくれる。でも、今日はもう少し布団の中で過ごしていたかった。

……長い夢を見ていたような気がする。

目覚めとともに、そんな感覚に襲われた。
あたいは、両腕を頭の後ろで組んで、夢の内容を反芻する。夢は幻のようなもの。脳みそが過去の記憶を整理している途中に偶然知覚できるもの。だから、気を抜くとすぐにどこかに飛んでいってしまう。あたいは一生懸命、夢の断片をかき集めて一つの形を作ってみた。

…………そうだ。あの夢は、あたいが白玉楼に泊まることになった日の出来事だった。

もう何日も前のことだった。あたいは雪の重みで家の屋根を潰され、憐れな家無き子となった。
考えた末に、あたいが一時の宿として頼ったのは、冥界にある白玉楼。知り合いの庭師、魂魄妖夢とその主、西行寺幽々子お嬢様に頼み込んで、色々とすったもんだはあったものの、家が建つまでの約一ヶ月間、あたいは白玉楼に泊まることになったのだ。
そして、今あたいは白玉楼のある一室に落ち着き、平和に日々の生活を送っている。家を潰されたときはどうしたらいいのか本当に途方に暮れたが、妖夢という知り合いがいたことは、あたいにとって最高のラッキーだった。
白玉楼というお屋敷では屋根が潰されるという悲劇は起こり得ない。再び銀世界の中で目を覚ますような恐怖に怯えることなく、あたいは毎夜安心して床につけるのだった。

あたいは、ようやく布団から身を起こす。実は、今日は一ヶ月に一度の仕事休みの日だった。
妖夢にもそう言ってある。だから、いつまでも寝ていてもいいのだが、それをあたいの胃袋が許さなかった。
さっきから、あたいが朝飯を寝て過ごすのに懸命に抵抗している。“妖夢の味噌汁を吸収させろ”と脅しているのだ。
このまま昼まで寝ていられる権利を放棄するのは惜しい。だけど、妖夢の味噌汁を飲むという意見には賛成だ。一日にたった三回しかない食事の時間。それはつまり、妖夢の味噌汁、料理を食べられるのは、一日に三回しかないことを意味する。そのうちの一回でも逃すのも惜しい……。あたいが白玉楼にいられるのは、あと一週間ほどしかないのだ。
ならば、やることは一つだ。妖夢の料理が食べられるチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。すぐさま布団から出て、着替え、そして燦然と輝く朝食が並ぶ居間を目指すべきだ。

あたいは、懸命に温かさをアピールしている布団を断腸の思いで這い出て、商店街で買ってきた新しい普段着を身に付ける。適当に買ってきた黒の上着に、安物のパンツ。試着もせずにサイズだけ見て買ってきたが、みんなからは意外に好評だった。
着替え終わると、布団はそのまま敷きっぱなしにして、日光が当たっている障子を開け放つ。

「……うーん、いい天気だねー」

朝の冷え込みも次第に弱まってきた今日この頃。春の足音がそろそろ聞こえてきそうな予感がした。

板張りの渡り廊下は、あたいが横に寝転がってもまだ余りそうなほど広く、屋敷の周囲に途切れることなく張り巡らされている。
前に興味本位で、この渡り廊下を一周してみた事がある。……思い出したくないくらい長かった。一瞬無限ループに迷い込んだかと思った。まあ、この廊下は途切れないので、無限ループといえばそうなのだが。
屋敷の中にも廊下は走っているので、白玉楼の廊下は、直線距離に直したら一体どのくらいになるのだろう。キロ、とかそんな単位が飛び出しそうだ。
そんな広いお屋敷なので、しばらくここで過ごしてきたあたいでも、まだ全ての部屋を把握しきれていない。いつも使う部屋は、自室、食卓を兼ねた居間、風呂とトイレくらいなので、他の部屋に入ることはほとんどない、という事情もある。
だから、あたいが歩く廊下は白玉楼のほんの一部なのである。ちょっと脇道に逸れたら迷子になる自信がある。暇なときにでも探検してみよう。

で、現在あたいは、自室から居間に続く通り慣れた廊下を歩いている。
右手に見える白玉楼の枯山水の庭園。ちょっと足を止めて眺めてみる。
いつ見ても見事だ。あたいは真に風流というものを解してはいないが、毎日見ていても感動を与えてくれるこの庭は、きっと素晴らしいものに違いないと思った。

指折り数えると、白玉楼に泊まることになってから、すでに二週間が経ってしまった事に気付く。
どっかの天狗に触発されたこともあり、新生活に向けての資金繰りは順調だ。二週間前のあたいが今のあたいを見たら、きっと別人のように見えるに違いない。積極的に、真面目に働くと、これほど金を稼げるのだと改めて知った。
まあ、この別人のようなあたいも、結局は期間限定だ。家が建ち、白玉楼のお世話になった後は、前と同じグータラ死神に戻ることだろう。マイペースが信条のあたいには、その位がちょうどいいのだった。

庭を見ながら、この二週間の回想に耽る。どこを取っても楽しい思い出ばかりだった。
仕事をし終えて帰ってくると美味しい料理が待っており、妖夢と幽々子さんと楽しく食べる。すでに沸いている風呂に入る。幽々子さんと雪見酒をしたり、仕事が終わった妖夢を交えて花札やトランプをしたりする。
早めに帰ってきたら、芸達者な幽々子さんから琴や舞を習ったり、妖夢と一緒になって料理を作ったりもする。
ここに来てから退屈したことなど一度もなかった。白玉楼はちょっとしたテーマパークみたいなもので、毎日毎日新しいイベントが待っている。それが楽しくてたまらなく、床に就いた後は明日が始まるのが待ち遠しい。
充実している、というのはこういうことを言うのだろう。いままでは起きて、適当に仕事して、帰って、飯を食って、寝る。そういうルーチンワークのような生活だった。
白玉楼に来てからは、まるで生まれ変わったかのように気力が漲っている。一日一日が楽しい。子供に戻ったかのような気分だった。
だから、きっと今日も楽しい。何せ、今日は白玉楼に来てから初めての休日。なんとおあつらえ向きなのだろう。

あたいは止まっていた足を動かして居間を目指す。白玉楼の一日の始まりは、一杯の味噌汁から始まるのだった。



初めて幽々子さんに会うために緊張して跨いだ敷居は、今や自分の家の敷居であるかのように思える。
居間は、渡り廊下よりも少し高い位置にあり、入る時はその段差を踏み越える必要があるのだが、それがすでに無意識に出来るようになっている。最初のうちは蹴っ躓いていた痛い記憶があるのだが。

開け慣れた障子を開けると、そこには当然のように先客がいた。

「あ、小町さん。おはようございます」

鴉天狗の新聞記者、射命丸文だった。コタツの中に入り込んで、カメラのレンズを拭いている。
こいつもすっかり居着いたな。あたいの仕事にくっついて取材をし始めてから、妖夢の勧めもあって朝飯はよく一緒にとっているのだ。

「おはよーさん。お前さんもよく通うね。このところ、毎日じゃないか」
「いや〜、やっぱりご飯は大勢で食べたほうが美味しいですし。それに、小町さんの仕事に行く時間にも合わせられるじゃないですか」

実に理にかなった理由だった。しかし、こいつがタダ飯目的で来ていることを、あたいが気付かないとでも思っているのだろうか。

「実は朝飯目当てなんだろ? あんまりたかると、さすがに迷惑がられるよ」
「こ、小町さんは居候じゃないですか。私は朝食と、後はたまーに夕食にお呼ばれするだけで、小町さんほど迷惑はかけていませんよ?」
「あたい? あたいは金を払ってるよ?」
「へっ!?」

寝耳に水の話を聞いて、文は一オクターブ高い声を上げて驚く。

「白玉楼に住み始めた次の日にね。妖夢も幽々子さんもなかなか受け取ってくれなかったけど、食費だけって条件で、強引に首を縦に振らせんだ」

そう。あたいは毎日の食費だけは、すでに白玉楼に納めている。もともとアパートに住むことになってたんだし、これでも安い位だった。

「そ、それじゃ私だけ悪者みたいじゃないですか……。そういうことは早く言ってくださいよ〜」
「聞かれなかったからね。別にいいんじゃない? お前さん一人の朝食代なんて、このお屋敷にとっちゃ雀の涙みたいなもんだろうし」
「そういう理屈じゃなくてですね、こういうのは気持ちの問題でしょ? ああ、どうしよう。今からでも払った方がいいかな〜……」

腕を組んで真剣に考える文。まあ、好きにすればいい。妖夢も幽々子さんも、こいつがタダ飯を食べに来ることなんて、微塵も不快に思っていないんだから。

あたいは文の隣に腰を下ろす。でかいコタツは三人横に並んでも余裕があるくらいに一辺が広い。
コタツの上には、伏せられた茶碗とお腕が四つに、箸が四膳。おかずはまだ並べられていない。きっと今頃、台所で妖夢が一生懸命作っているのだろう。

「あっ、そうだ、小町さん」

さっきまで悩んでいた文が、ふとあたいに話しかけてきた。

「なんだい? 金は貸せないよ」
「一言も無心してないじゃないですか。それよりも、今日はいいニュースがあるんですよ」
「いいニュース? ようやく、あたいの記事を取り下げる気にでもなったのかい?」
「いーえー、それはもう手遅れです。すでに二本発行してますから」
「あっそう」
「でも、私にとっても、小町さんにとってもいいニュースなんですよ。なんだか分かります?」

文は笑いを噛み殺した表情をしている。何がそんなに楽しいのだろうか。
こいつにとっても、あたいにとってもいいニュース。
こいつにとってのいいニュースとは、まあ、新聞がらみだろう。あたいがこいつの新聞に関わっているのは、あの事件以外にありえない。
だとしたら、答えは簡単だ。

「新聞がうけたのか」
「そーなんですよー! なんと、私の新聞を新規に購読したいって人がたくさん来てくれたんです! 小町さんの言っていた通り、読者って記事が完結していないと、先が気になってしまうものなんですね! 本当に勉強になりました!」
「そりゃ、良かったじゃないか。で? どのくらいの人が来てくれたんだい?」
「なんと! 三人も契約に来てくれたんですよ! 文々。新聞始まって以来の大ヒットです!」
「……………………へ? 三人?」
「ええ、三人です。これで新聞の購読者は六人になりました! この二週間で倍になったんです! ああっ、もう嬉しくて嬉しくって! 小町さんの言うとおりにしてなかったら、きっとこんな結果にはならなかったと思います! 改めて感謝しますね!」
「……あ、ああ、まあ、良かったじゃないか。その調子で、あたいの奮闘ぶりを記事にしてっておくれよ」
「はい、もちろんです! あと一週間で二回発行出来れば、さらに購読者が増えるかも……うふふ……」
「……」

……こいつも苦労してるんだなぁ。
横で悦に入っている文を、あたいは同情のまなざしで見つめた。



しばらく文と世間話などをしていると、台所に通じている通路の方から足音がした。
暖簾が揺れて、間から銀の頭が覗く。

「あ、小町さん、文さん、おはよう。すぐに準備しますね」
「おー、妖夢、おはよーさん。今日も朝飯楽しみにして……って」
「あれ? 妖夢どうしたんですか、それ?」

味噌汁の入った鍋を持った妖夢は、一見なんら変わりない。
しかし、あたいと文は、妖夢の顔に昨日までは付いていなかった物を発見する。
口と鼻を包み込むように覆っている白い布。端から二本のゴムが伸びており、両耳にかけられている。俗に言う、マスクというものだ。

「妖夢、どうしたのさ? もしかして、風邪?」
「いえ、風邪というか、最近体が重いんですよ。もしかしたら風邪の前兆かと思いまして、予防のためにしているだけです。心配には及びませんよ」
「本当に大丈夫ですか? 小町さんが来たから、仕事量が増えて疲れているんじゃないですか?」
「おいおい、あたいのせいだって言うのかい? でも、そう言われちゃあ、何も言い返せないんだけどさ。事実だし」
「いえ、小町さんのせいじゃありませんよ。このくらいの風邪は、一年に一度はあるんです。仕事をしているうちに治っちゃいますから、心配しないで下さい」

妖夢は目を細める。
そう言えば、夢の中で慧音さんが、人間の間で風邪が流行っているって言っていた。
妖夢も半分は人間だ。この季節の変わり目の時期、体が変化についていっていないのだろう。

「おはよ〜。あらあら、妖夢。マスクなんかして、風邪かしら?」

不意に後ろから幽々子さんの声がかかる。相変わらず音も無く現れるな。

「おはようございます、幽々子様。少し体調が悪いだけです。いつものように、明日には治っていると思いますよ」
「そう? 妖夢がそう言うなら、大丈夫そうね。でも、あまり無理はしないこと。いいわね?」
「はい」
「こまちゃんに文ちゃん、おはよ〜。今日もいい天気ね〜」

あたいと文は、白玉楼の主様に朝の挨拶をする。
ついでに、幽々子さんの頭もお天気そうですね、と言おうと思ったが、さすがに無礼なのでやめておく。

「妖夢って、よく風邪ひくんですか? 最近体が重いって言ってましたけど、あたいにはそんな様子は見えませんでしたね」
「ま〜ね〜、体調が悪そうだったのには気付いてたけど、毎年のことだからね。あの子は人間味が半分しかないし、普通の人より風邪にかかりやすいのかもしれないわ。でも、治るのは早いから、心配しなくても大丈夫よ」

そういうものなのだろうか。まあ、自分の体のことは自分で分かっているということだろう。
幽々子さんがいつもの上座の席に座ると、妖夢がご飯の入ったおひつと、おかずが載ったお盆を器用に両手で持ってきた。

「それでは、ご飯にしましょう」

食事は、いつもこの号令で始まるのだった。



「よーむ、おかわりー」
「はいはい」

幽々子さんの茶碗が妖夢に差し出される。すでに三杯目だ。速ぇな、相変わらず。
妖夢は一杯目同様、茶碗に飯を高々と盛り付ける。

「そう言えば、小町さんは今日はお休みですよね。なにか予定はあるんですか?」

茶碗を幽々子さんに渡しつつ、あたいに予定を聞いてくる妖夢。

「ん? 別に無いよ。これから探すって感じだね」
「一ヶ月に一回の休みなのに、有益に使おうと思わないんですか?」
「有益に使うって言っても、あたいは仕事と休みがごっちゃになっている感じだからねぇ。たまの全休でも、平日とあまり大差無いのさ」

文の疑問も、もっともだが、船頭死神は勤務時間とノルマがないため、その気になれば何日でも休むことが出来るのだ。
実際、あたいは午前中で仕事を切り上げて、商店街に買い物に行ったり幽々子さんと遊んだりしている。要するに、クビにならない程度に仕事をしていれば何の問題も無いのだ。
働きたいときに働ける。それが船頭死神の一番の利点だった。

「そう言えば、前に小町さん、今日は気が乗らない、って言って早々に商店街に買い食いしに行きましたよね。なんともいい加減な職場ですよ」
「そういう文は今日は何してるんだい? あたいは仕事休みだし、くっついてたって何も起きやしないよ」
「そうですね……久しぶりに他のネタ探しにでも行ってこようかと思います。この二週間で何か変わったことが起こったかもしれませんし」

結局、こいつもいつもと変わらないようだった。あたいも家が潰れる前は、休日はだらだら過ごすのが常だった。
しかし、ここは白玉楼。二週間経った今も、未だ謎を残すお屋敷だ。そこに住んでいる以上、無駄に過ごすのはもったいないような気がする。気兼ねなく一日を使えるのなら、何が出来るかを考えるのも悪くない。
白玉楼で出来ることか。なんとなく、目の前にいる二人を見た。

美味しそうに飯をほおばっている幽々子さん。この人が食べると、食い物はみんなうまそうに見えるから不思議だ。また面白いことを教えてもらったり、連れ立って下に降りるのもいいかもしれない。

次に横にいる妖夢を見ると、ふと目が合った。すると、箸を持ったまま口を押さえて、笑いをこらえる仕草をする。
……前に夕食の席で、妖夢が飯を食ってる途中であたいの取っておきの超変な顔をして見せたら、妖夢が噴飯してえらい騒ぎになった。次の日は一日中、あたいの顔を見るたびに後ろを向いて肩を震わせていた。
それ以来、あの奥義は封印している。妖夢はその時の事を思い出したのだろう。そんなに面白かったのか。

……そのおかしそうな顔を見て、ふと気づく。ここに来てから、あたいは妖夢と長い間過ごしたことがなかった。

妖夢はここで働き始めてから、病欠や幽々子さんとの外出などを除き、特別なことがない限り白玉楼に籠もっているという。
朝早く起きて飯を作り、一日中庭の剪定や掃除をして、その合間に剣の稽古、昼食と夕食を作って風呂を沸かし、夜には寒い中洗濯して、クタクタになって寝る。そんな毎日を小さい頃からずっと続けているのだ。
あたいがたまに早く帰ってきても、妖夢は他の仕事に追われてて、ようやく遊べるようになるのは夜遅くになってからだった。
従者としては、それが正しい姿なのだろうが、あたいにとっては窮屈なことこの上ない。

この白玉楼は幽々子さんが主とはいえ、実質、切り盛りしてきたのは妖夢だ。この小さな体で、こんなでかい屋敷を守っている。毎日見ている笑顔の裏には、並々ならない苦労があるに違いない。その境遇に同情するのは簡単だけど、今の自分が当たり前だと思っている妖夢の心には届かないし、いい迷惑だろう。

妖夢と一日中遊んでみたい。でも、幽々子さんにそれを願い出るのは、客の立場のあたいには気が引ける。
ならば……これが一番いいだろうと思った。

「幽々子さん、ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
「ん〜? なにかしら、こまちゃん?」
「今日さ、妖夢の仕事を一緒にやってみたいんだ。出来るかな?」

間。みんなの顔を見回すと、全員がきょとんとしていた。

「……なに? なんか、あたい変なこと言った?」
「いえ、別に。ただ小町さんの口から、そんな言葉が出るとは思いもかけなかったもので」

失礼な天狗だな。こいつは無視しとこ。

「どうかな、幽々子さん。手伝ってもいい?」
「あら〜。でも、いいのかしら? 折角のお休みをそんなことに使ってしまって」
「平気平気。それよりも、白玉楼のメイドさんになってみたいんだよ。こんな機会、滅多にないしさ」
「小町さん……ここの仕事は私が全て請け負ってますから、手伝わずともけっこうですよ?」
「いや、これは、あたいがやりたいんだよ。妖夢が普段どんなことをやってるのか、興味があっただけ。ちょっとした体験学習みたいなもんだから気にしないで。もっとも、邪魔だったらおとなしく引っ込むけどさ」
「い、いえ、邪魔だなんて。お気持ちは嬉しいですけど……」

妖夢は承服しかねる表情をしている。まあ、この屋敷で何年も一人で仕事をしてきた妖夢にしてみれば、自分以外のやつに仕事を任せるのは戸惑いを感じるのだろう。
でも、あたいにとってみれば、仕事をやるのは二の次なのだ。妖夢と同じことをして、残り少ない白玉楼の滞在期間中に少しでもたくさんの思い出を作ろうと思ったのだ。

「幽々子さんがいいって言ってくれれば万事解決なんだよ。今日一日だけでいいから、妖夢のお手伝いをさせて。お願い!」

あたいは、幽々子さんに向かって手を合わせる。
困った顔をしていた幽々子さんは、やがてわずかに微笑を浮かべ、あたいの予想通りの答えを言ってくれた。

「そうね〜。いいわよ、こまちゃん。妖夢を手伝ってあげて」
「ゆ、幽々子様?」
「妖夢は今日は風邪気味みたいだから、少しでも楽になったほうがいいでしょ? だから、お言葉に甘えときなさい。いいわね?」
「は、はあ……分かりました……」

従者の妖夢にとって、幽々子さんの命令は重い。渋々ながらも頷いてくれた。

「じゃあ、私も一緒に手伝いますよ」
「へ?」

あたいの横から声がして、そいつは面白いことを言ってきた。

「なんだい? お前さんは取材に行くんじゃなかったのかい?」
「いえいえ。そう言えば私って、小町さんと違ってご飯代払ってなかったなーと思いまして。だから、今日お手伝いして埋め合わせします。いいですよね、幽々子さん?」
「ええ、もちろんよ〜。三人で、楽しく、お仕事しなさいな」

幽々子さんは、楽しく、の部分を心なしか強めにしゃべった。やっぱりこの人は思慮深い。

「じゃあ、妖夢。今日はよろしく頼むよ。みんなで力を合わせて仕事を片付けようじゃないか」
「は、はい。よろしくお願いします……」

どうやら、話が見えていないのは妖夢だけのようだった。
そんな妖夢の困惑顔を見て、あたいたち三人は顔を合わせて笑いあった。







朝食後。
あたいは自分の部屋に戻って、布団の上でごろごろと本を読んでいた。仕事を手伝うとはいっても、妖夢が朝食の片付けを終えるまで待たなければならないのだ。勝手に庭の植え込みを刈り込んで前衛的なアートを演出したら非難轟々に違いない。
手伝うとは言ったものの、妖夢が普段どんな仕事をしているのか、あたいはよく知らない。それに、あたいが普段の仕事で自分なりの仕事の手順や方法があるように、長い間、白玉楼で働いてきた妖夢にもそれらがあるに違いない。
素人が勝手にいじったら、邪魔しているのと変わらないのだ。

『こまちゃーん』

渡り廊下の方から間延びした声が聞こえた。あたいのことをこんな風に呼ぶお方は一人しかいない。

「なんですか? 幽々子さん」

勢いをつけて起き上がりながら、障子に映る黒いシルエットに返事する。幽霊なのに影があるってのはけっこう不思議だ。
音もなく障子が開くと、隙間から幽々子さんの顔が覗いた。

「あらあら、お勉強中だったかしら?」
「ええ、男女間における恋愛心理を勉強中です。ちょっと前は、密室での殺人の仕方を学んでましたよ」
「あら面白そうね。殺人はやっぱり毒殺よね」
「お、鋭いですね。その本でも毒が殺害方法でしたよ。やたら長ったらしかったんで、なんて毒か名前は忘れましたが」
「うちには珍しい毒があるのよ。冶葛(ヤカツ)とか。学名はゲルセミウム・エレガンスっていう猛毒でね、欲しかったらあげるわよ〜」
「いや、いまのところ殺人を犯す予定はないので。それよりも、なんか御用ですか?」
「いやいや、ちょっとこまちゃんにお礼を言いに来たのよ」
「はい? お礼ですか?」

お礼を言われる覚えなど一つもないが。

「あの子もこまちゃんと遊びたがってたから。でも従者っていう立場に固執しちゃってなかなか言い出せなかったのね。こまちゃんは、妖夢の立場も尊重した上で、一番いい方法を言い出してくれたわ。今日はたくさんお話してあげてね」
「ああ、そのことですか」

あたいは頭を掻いて苦笑する。妖夢の気持ちを考えたのもあるにはあるが、妖夢と一つ思い出を作りたいという、あたいの願望が半分以上を占めていたので、特段、礼を言われるようなことではなかった。

「あたいも妖夢と遊びたかったですから。でも、妖夢って本当に休みがないんですか? 今までに一日くらいあったでしょうに」
「従者っていうのは、主人の生活を支える役目を負っているからね〜。私が白玉楼にいる限り、妖夢に休みはないのよ。主は常に自分以上。自分が休んで主の手を煩わすと、いる意味がなくなっちゃうのよね」
「はあ、なんとも想像しがたいです。あたいみたいな自己中のグータラには」
「普通はそうね。従者っていう立場が特殊なのよ。妖夢は物心ついたときから私に仕えているから、それが当たり前になってしまっているのね」

住む世界が違うということなのだろう。でも、妖夢は幽々子さんがご主人で幸運じゃなかっただろうか。
毎日毎日、馬車馬の如く、奴隷の如く、一生苛め抜かれるようなことには決してなるまい。

「さてさて。そろそろ妖夢が来る頃ね。じゃ、頑張ってね、一日メイドさん」

そう言うと、幽々子さんは手を振りながら去っていった。
そのタイミングを見計らったかのように、幽々子さんが去った方の反対側の障子に、妖夢のシルエットが映る。

「失礼します、小町さん。幽々子様と何かお話でしたか?」
「ああ、もう終わったよ。そろそろ始めるかい?」
「はい、今日はよろしくお願いしますね」
「よーし、じゃ、一つやってやろうかね。一日体験メイドさんを」

あたいは気合を入れて立ち上がった。



妖夢の後について渡り廊下を歩く。そう言えば、まだどんな仕事をやるのか聞いていなかった。

「今日は何やるんだい? あたいでも出来る簡単な仕事がいいねぇ」
「ええ、大丈夫ですよ。今日は三人も人手がありますから、いつもはやらないことをやってしまおうと思ってます」
「いつもはやらないこと? なんだい、それ?」
「見ればすぐに分かりますよ。先に文さんが準備してますので」

後のお楽しみというわけか。いまさらだが、とんでもない激務が待っているのではと心配になる。
何せ、これだけの敷地を誇るお屋敷だ。何もかもスケールが違うのは、あたいは十分体験してきたし。

春の陽気を思わせる日差しを浴びる渡り廊下をしばらく歩く。どうやら、妖夢は玄関とは反対方向に向かっているようだ。
このまま行くと、白玉楼の広い裏庭に出る。前庭、中庭とは違って、そこだけ生活臭が滲み出ている庭なのだ。
物干し竿が何本か並び、そこに洗濯物が差してあるのを毎日見る。ここだけ他とは違って庶民的なので、あたいはけっこう親しみを込めている庭だった。

やがて、渡り廊下を右に直角に曲がると、裏庭が見えた。

「おおっ、なんだあれはっ」

という声とともに、あたいの目は裏庭ではなく、渡り廊下に釘付けになる。
そこには日光浴をするかのように、大量の布団が並べられていた。この陽気に誘われて、独りでに裏庭まで這って来たかに見えた。

「今日はお布団干しをやろうと思いまして。文さん、もう随分集めてくれましたね」

妖夢は、その布団の上を気にした風もなく踏みつけて歩いていく。
あたいもそれに続く。足から伝わってくる感触に、心地よいやら気持ち悪いやら変な感覚を覚えた。

「これはまた、たくさんの布団だね。これを全部干すつもりかい?」
「はい、そうです。いま文さんが一階の部屋を回って、押入れの中から持ってきてくれてるんですよ」

妖夢はこともなげに言う。数にして、掛け布団、敷布団、合わせて五十はあるように思える。
さらに、これにまた追加されるわけか。さすが白玉楼、部屋数に見合った布団の量だった。

「あっ、妖夢。小町さんも。そろそろ一階の布団は集め終わりますよ」

真上から吹き付ける風とともに、文の声が頭上から聞こえた。その腕には文の体を大幅に超える布団が抱えられている。

「えっ、もう? 随分早いわね」

妖夢は驚く。確かに、これだけの大量の布団を、食事の後から今の時間の間に集められるとはちょっと考えにくい。

「天狗の力を甘く見ては困りますね。このくらいの布団なら、三十分もあれば集められますよ」
「お前さん、引越し業者にでも転職した方がいいんじゃないのかい?」
「考えときますよ。じゃあ、お二人は物干しの方の準備をお願いします。私は残りを持ってきますから」

文は持ってきた布団を、すでに陳列されていた布団の群れに追加すると、目の前で姿をかき消した。

「あのペースなら、あと一時間も待たずにかき集められるね」
「そうですね。急いで物干しを準備しましょう。こっちは二人いたほうが効率がいいですから」

そう言うと、妖夢は石段の上にあったつっかけを履いて、あたいをどこかに案内してくれるようだった。



妖夢が向かったのは、裏庭の一角にある、もの凄くでかい蔵だった。
二階建ての家と同じくらいあるその蔵は薄汚れていて、長い間雨ざらしになっていたことを窺わせる。
妖夢はポケットから、これもまた古そうな鉄製の鍵を取り出し、それを鈍く光る南京錠の穴に差し込む。長いこと使われていなかったのか、錆び付いてよく回らなかったのか、開けるまで少し時間がかかった。

鍵を開けて、重々しく厚い扉を開けると、古い蔵特有のかび臭さが鼻をついた。
中は足元が見えないほど暗く、高い位置にある採光用の窓から光が差し込んでいるだけだった。あたいらが巻き上げる埃が粒になって見える。

「お、あれが物干しだね。なんとまあ、長いこと」

きょろきょろするまでもなく、あたいは蔵の中で天井に届かんと直立している、太い竹竿を何本も見つけた。
これから、こいつらを外に出すのか。なかなか骨が折れそうだ。

「それでは、先に土台を出しましょう。竹竿はその上に載せますから」

妖夢は竿のそばにある、あたいの背よりも少し大きいくらいの、竿を支える土台を肩に載せて持ち上げた。
あたいもそれに倣う。うお、これ重いな。
妖夢はすでに入り口の方に向かって行っている。あんなちっこい体のどこに怪力が秘められているのか。これも日々の修行のなせる業か。

蔵と裏庭を往復し、合計九つの土台を設置し終えた。これで、ようやく竿を載せられる。

蔵から竿を出すには、入り口につっかえないように、立ててある竿を一旦横に倒さなければならない。
妖夢は宙を浮き、あたいは下で竿の根元を支える。そこから妖夢が少しずつ倒し、横に寝かせる。
そこから端と端を二人で担いで、お猿の籠屋のようにエッホエッホと外に出す。

「やっぱり、二人でやると楽でいいですね。この長い竿を一人で運ぶのはとても大変なんですよ」

それはそうだろう。ていうか、妖夢が一人の時は一体どうやって竿を外に出すのだろうか。きっと並々ならない苦労をするに違いなかった。



やがて、三本の竿が土台に全て載せられる。圧巻だった。これほど長い物干しは見たことがない。
ここに竿が見えないくらいに布団が干されたら、と思うとちょっと楽しみだった。

「これで一仕事終えたね。次は、あの布団の山か」

後ろを振り返ると、文が着々と布団を持ってきているのか、さらに山が増えていた。

「本当に、あの布団の山が全部竿に載るのかい? 重みで折れたりしたら目も当てられないよ」
「多分大丈夫ですよ。年に二回しかこの仕事はやりませんが、私の知る限り、折れた記憶はありませんから」

妖夢は早速、掛け布団を一つ抱え上げる。本当にテキパキしてる。あたいだったら、竿を用意した時点で、一旦休憩を取っているところだ。

「いまさらだけど、よく動くね〜。感心するよ」
「あ、小町さん、疲れたらいつでも休憩を取っていいですからね。折角のお休みなんですから」
「いや、まだまだ大丈夫さ。それに、妖夢が立ってて、あたいが座ってたら、文や幽々子さんに何言われるか分かったもんじゃないしね」

あたいも敷布団を抱え上げる。長いこと押入れに入れられていたようで、少し埃っぽかった。
布団を担いで竿に掛けながら、あたいは妖夢に話しかける。

「さっき、この仕事は年二回って言ってたけど、普段はどんな仕事をしてるんだい? あたいって朝から三途に行ってるから、妖夢の生活サイクルって知らないんだよね」

こう言っては何だが、妖夢の生態はなかなか謎に包まれている。夕食の時に、今日は何をやったのか、と聞くことはたまにあるが、庭の剪定とか部屋の掃除とか断片的な情報しか手に入れられず、細かい内容は聞き出せていない。
もっと詳しい仕事内容、例えば一日のスケジュールとかについてはよく知らない。だから、こうして一日中妖夢に張り付いていようと思ったわけだが。
こんなでかい屋敷の家事を一人でやっているのだ。一週間単位くらいで仕事をローテーションしないと体がもたないだろう。

「普段の仕事ですか? うーん、小町さんもご存知の通りだと思いますけど。食事を作って、掃除をして、洗濯をして、お風呂を沸かして、取り立てて特別なことをしているわけじゃないです」
「ちょっと聞き方が悪かったかな。じゃあさ、昨日一日のスケジュールを教えてくれない? そうすれば、大体の妖夢の様子が分かるから」
「昨日一日ですか……」

妖夢はちょっと空を見上げる。記憶を辿っているようだ。
あたいの予想では、妖夢の仕事内容は、定型化された仕事とローテーション化された仕事があるはずだ。食事や風呂の焚きつけなんかは定型化された仕事。ローテーション化された仕事は庭の剪定や、今やっている布団干しなどだろう。

「朝は大体、明け方近くに起きますね。それから、まず玄関の掃除をします」
「ほう、一日の仕事始めは玄関からってわけか」
「ええ、これは一日を始める儀式みたいなもので、欠かしたことはほとんどありません。それが終わったら、裏の森で三十分ほど剣の稽古をして、すぐに朝食と小町さんたちのお弁当の準備をします」
「げー、寒稽古か。あたいが布団でぬくぬくしている間に、妖夢は寒中で身を引き締めているわけだ」

寒稽古っていうのは、いかにも剣士っぽいが。

「食事が終わった後は片づけをして、これで朝の仕事が終わります。それからは、幽々子様の部屋や小町さんの部屋、居間などの毎日使う部屋の掃除をして、それが終わったら毎日違う仕事を始めますね」
「それだ。あたいが聞きたかったのは。つまり、そこから日ごとにローテーションする仕事を始めるってわけだろ?」
「まあ、そうですね。私だけでは白玉楼の仕事を一日では賄いきれませんから。具体的には、庭の剪定、屋敷の庭の掃除、空いている部屋の掃除、廊下の雑巾がけ、石階段の掃除、水タンクの補給……そんなところですね。この仕事を毎日代わる代わるこなしてます」
「ちょっと聞き慣れない単語があった。水タンクって何? 白玉楼って、汲み上げ式のポンプじゃなかったっけ?」
「水タンクっていうのは、お風呂に水を入れるタンクのことです。あの大きなお風呂に毎日水を入れるのは手間なので、水を大量に溜めておく桶みたいなのがあるんですよ。そこから水を引っ張ってきて、浴槽に入れるわけです」
「ほー、それは初めて知った。あ、そういえば、浴槽にでかい穴があったね。あそこから水が出てくるわけか」
「先代が作ったものらしいですけどね。それ以来、お風呂を沸かすのが大分楽になったそうです。あとは焚きつけの番をしなくても、勝手にお風呂を沸かせるようにもしてくれたので、お風呂を沸かすのはけっこう楽なんですよ」

妖夢のじいちゃんって、工作が得意だったんだろうか。いや、単に風呂が好きだっただけか?

「で、昨日は何やったんだい?」
「廊下の雑巾がけです。綺麗になっているのに気づきませんでしたか?」
「あれ? そう言えば、そうだね。そんな気もする……って、家の中の廊下を全部雑巾がけしたわけ!? 二階も全部!?」
「え、ええ、そうですよ?」
「だ、だって、白玉楼の廊下って、ものすごく長くない!? 直線距離に直したらキロに到達するんじゃないかってくらいに!」
「き、キロはさすがに大げさですけど、確かに、私がやっている仕事の中ではきつい部類に入りますね。次の日には腰が痛くなりますし」

あたいは白玉楼の廊下の長さを身を以って知っている。
しかも、廊下の幅は普通と比べて広い。だから、一つの廊下の直線を雑巾掛けするには何往復もしなければならない。
長さに加えて幅もある。それを一日で終わらせるなど、並大抵のスピードでは絶対無理だ。一日中、中腰で過ごすぐらいの覚悟がなければならない。

「……いま、改めて妖夢の凄さを知ったよ。腰は大事にしようね、女の子だし」
「は、はあ……一応、気をつけます。で、話を戻しますが、雑巾がけの途中で、幽々子様と一緒に昼食とおやつを取り、洗濯物を取り込み、夕食を作る前に稽古します。ここからは小町さんのご存知の通り、風呂の焚きつけと洗濯をして、ひとまず一日の仕事が終わります。……そんなところですね」
「なるほどねー。分かった、妖夢の生活の実態は大体把握できた。ということは布団干しが終わったら、そのローテーション化された仕事のうちで、どれか一つをやることになるわけだ」
「そういうことになると思います。希望があれば言ってください。あ、雑巾がけは昨日やりましたし、あと庭の剪定はわたしがやりますから、それ以外でお願いしますね」

ふむ、ようやく、あたいがこれからやる仕事の内容が見えてきた。
とりあえず、その中から比較的楽そうなのを選ばせてもらおう。……どれも一筋縄ではいかなそうな予感がするが。



しばらく渡り廊下と物干し竿の間を往復すると、並べられていた布団が全て竿に掛けられた。
視界一杯に広がった白い布団の列は、戦国時代劇の垂れ幕のように見える。

「ふい〜、ようやく全部干せたね。……でも、まだ竿に余裕があるよ? 他になんか干す物があるのかい?」
「甘いですよ! 小町さん!」

という声が頭上から聞こえ、そちらの方を振り返る。

「うおっ!」

見ると文が、まるで大岩を担いだ鬼のように、大量の布団を頭の上で持ち上げていた。危うくバランスを保っているが、文の操る風が布団の周囲を包み込んでいるようで落ちることはなかった。
そのまま下に降りてきて、その布団を渡り廊下にぶちまける。廊下は一瞬にして白に染まった。

「これで二階の布団は全てだと思いますよ。ついでに幽々子さんの分も持ってきちゃいました」
「す、すごいわね、二階の布団を一気に持ってくるなんて……」
「お前さん、やっぱりブン屋より引越し業者の方が向いてるな」

得意げな文に、あたいは感心と呆れの表情を向けた。







それから文を交えて残りの布団を竿に掛け、三十分ほどかけて、今度こそ全ての布団を干し終えた。
白玉楼の裏庭一杯に広がる布団の列を眺めると、仕事の成果を確認できて満足だった。

「ご苦労様でした。これでお布団干しは終わりです。二時くらいになったら取り込み始めますから、またよろしくお願いしますね」
「分かりました。二階に運ぶのも、私に任せてくださいね」
「ほんじゃ、次は仕事の選択の時間だね。妖夢は好きに選んでいいって言ったけど、あたいはどの仕事もやったことがないから選びようがないねぇ」
「はい? なんですか、それ? 仕事の選択って、これからやることがまだ決まっていないんですか?」
「ええと、実はね……」

妖夢は話が飲み込めていない文に説明をする。

「はあ、そういうことですか。まあ、私でも出来ることなら何でもいいです。具体的には、どんな仕事があるんですか?」
「ええと、庭の掃除、石階段の掃除、水タンクの補給かしら。でも、私は布団が入っていた押入れの掃除をしたいのよ。長いこと拭き掃除していなかったし」
「じゃあ、三人でその拭き掃除をしたらいいじゃないか。そうすれば、今日の仕事が早く終わるだろ?」
「仕事を楽に楽に進めようっていうのは、いかにも小町さんっぽいですね」
「む、じゃあ、どうしろっていうのさ」
「妖夢はそのたくさんある仕事の内、一つを一日かけてやっているわけですよね。なら私や小町さんが、その内の二つを担当すればいいじゃないですか。そうすれば、妖夢は二日間は楽になりますよ? そういうことになりますよね、妖夢」
「えっ、ああ、まあ、そうなのかな?」

なるほど。あたいと文で、そのローテーション化された仕事のうち、妖夢がやる前に二つを片付けてしまえば、必然的に妖夢の仕事の手が空くことになる。
その時間を使って、妖夢に自由時間を作ってやろうというわけだ。なかなかいい考えだ。

「ふむ。じゃあ、そういうことにしようか。妖夢は押入れの掃除をして、あたいらは白玉楼の仕事のどれかを担当する。確か、あたいらでも出来る仕事ってのは、庭の掃除、石階段の掃除、水タンクの補給だったね。じゃあ、あたいから選んでいいかい?」
「ちょっと待って下さい。なんで小町さんからなんですか。私にも選ぶ権利がありますよ?」
「あたいは妖夢の押入れの掃除を手伝いたかったんだ。でも、お前さんの提案に譲歩してやったんだよ。だから、あたいの方が先に選ぶ権利があるだろ?」
「そんなの関係ないですよ。小町さんが私の提案に乗った時点で、私たちは対等です。小町さんが有利になることなんてありませんって」

お互い譲らず、睨みあうあたいと文。少しずつ、緊張の糸が張り詰めていく。
妖夢が一日かけて行う仕事。それが意味するところは簡単だ。白玉楼の仕事の達人、妖夢でさえ一日かかるというのなら、どの仕事も簡単な仕事ではないということだ。それを一日体験メイドのあたいらがやるというのだから、相応の労働を強いられるに違いない。
ここでの選択が、天国と地獄を分けるかもしれないのだ。

「ふっ……どうやらここは、いつものをやるしかないようだね……」
「そうですね……まさか休日にまでやるとは思いませんでした……」

やがて、同時にうっすらと笑みを浮かべる。
剣呑な空気を感じ取った妖夢は、慌てて止めに入った。

「ちょ、ちょっと二人とも! ケンカはダメですよ! どの仕事を選んでも同じですって!」

あたいらに妖夢の声は届かない。なぜなら、もう臨戦態勢に入っているからだ。あたいと文を中心にして、見えない結界が張り巡らされる。
油断したら……食われる。
あたいと文は互いに右拳を脇に構え、右足を一歩引く。それで全ての準備は整う。

「よし……行くよ」
「……いつでもいいですよ」

タイミングを計る。
そして、息を吸い込むと同時に、一気に吐き出した!

「「じゃんけんぽん!!」」

妖夢が横で滑った音がした。

「あっちむいてほい!!」
「「じゃんけんぽん!!」」
「あっちむいてほい!!」
「「じゃんけんぽん!! あいこでしょ!!」」
「あっちむいてほい!!」
「「じゃんけんぽん!!」」
「あっちむいてほい!!」
「「じゃんけんぽん!! あいこでしょ!! あいこでしょ!!」」
「あっちむいてほい!!」
「「じゃんけんぽん!! あいこでしょ!!」」
「あっちむいてほい!!」

ちっ、相変わらずしぶとい。ここは奥義を使う他あるまい! 次に勝ったときが勝負だ!

「「じゃんけんぽん!!」」
「あっちむいてほい!!」
「「じゃんけんぽん!!」」

あたいはそこで勝ったのを確認すると、

「あっちむいてほい!!」

の掛け声とともに、腕を下に振り下ろした。
文の顔は上を向く。

「よっしゃーーーっ!!」

あたいは左腕を突き上げてガッツポーズを決める。振り下ろした右腕を残したままで。

「ああっ!! ま、また引っかかったぁーーー…………!!」

あたいの勝利の雄たけびを聞き、文はあたいの右手を見て、がっくりとその場に膝をつく。
勝った。これで通算四勝八敗。この奥義を編み出してから四連勝だった。

「あ、あれ? なんでですか? 小町さん、下を指してますよね?」

立ち直った妖夢が不思議そうに聞き返し、あたいの手元を見る。

「あっ! こ、これはっ!」

そう。あたいは腕を下に振り下ろした。しかし、“指は天を指している”。

「さすがは私のライバルと認めた人です。その技を見たときから、厚い壁として立ちはだかることは予想していました。完敗です」
「いい勝負だったよ。さあ、立ちな。いつまでも冷たい地面に座っているもんじゃない」

あたいは手を文に差し出し、引っ張り起こす。そして、互いに健闘を称えあった。

「ふ、二人とも、なんでそんなに熱くなってるんですか? た、ただのジャンケンで……」

ようやく、妖夢がこの茶番に突っ込みを入れてくれた。

「ああ、こいつとは、いつも昼飯の争奪戦を繰り広げてるんだよ。お互いの弁当の一品をベットして、あっちむいてほいで勝った方が、そのおかずを貰えるってわけさ」

発端は、実にアホな理由だった。
この遊びを始めたのは、あたいが白玉楼に来て三日目のことだった。
その日の弁当には、あたいの大好きなキンピラゴボウが入っていたので、文におかずの交換を申し出た。
そしたら、文がこの遊びを仕掛けてきたのだ。勝った方が一方的におかずを奪えるハイリスク・ハイリターンな遊び。それにあたいは乗った。

しかし、誤算だったのは、文が異様にあっちむいてほいが強かったことなのだ。こいつは、相手の腕が動いた瞬間に逆方向に顔を向けられるという、とんでもない動体視力を持っていたのだ。これではあたいがどんなに腕を振り回しても、勝つことは出来ない。相手の得意な遊びに乗ってしまったあたいは自分を呪った。

連戦連敗を重ね、このままではいかんと思ったあたいは、必死に勝てる方法を考えた。それがさっきの奥義だった。
文がいくら腕の動いた瞬間が分かるとはいえ、指の動きまでは注目できない。だから、腕を振り下ろした方向とは違う方向に指を向けるという発想に至ったのだ。
初めて勝ったときの喜びは今も忘れられない。文は相手の腕と逆に顔を向けるという癖が染み付いていたため、あたいはつけ込むにつけ込んだのだ。

「ま、そんなわけ。妖夢の知らないところで弁当を巡って熾烈な争いが繰り広げられてるんだよ」
「そ、そういうことでしたか……。いえ、嬉しいんですけどね……」

複雑げな表情を浮かべる妖夢。あたいらはスリルを求めてやっているだけなので、あまり深く考えないでほしいのだが。

「よーし、じゃあ先に選ばせてもらおうか。いいね?」
「敗者に確認を取るまでもありませんって。さっさと選んじゃってください」

それでは、お言葉に甘えよう。
ふむ。選べる仕事は、庭の掃除、石階段の掃除、水タンクの補給の三つだ。
庭の掃除、石階段の掃除は分かる。庭は白玉楼の前庭のこと、石階段は、ここに来るまでにある、あの長い階段のことだろう。
だが、水タンクの補給は分からない。妖夢は風呂に水を入れるためのタンクだと言っていた。それがどのくらいの大きさなのか、見たことのないあたいには分からない。

「……ねえ、妖夢。その水タンクってさ、一体どのくらいの大きさなの?」
「え、タンクですか? ええと、そうですね……」
「ちょっと待った!!」

妖夢がタンクの大きさを伝えようとする前に、文のちょっと待ったコールが掛かった。

「なんだよ、敗者は口を出さないんじゃないの?」
「小町さん、タンクの大きさは謎のままにしておきましょう。正体不明のほうが後で面白いことになるかもしれません」
「なにぃ?」

そう来たか。もし、そのタンクの大きさが大したことなければ、あたいは迷わずそれを選ぶ。逆に大きければ、他の仕事に変えるだろう。
文は最後まで諦めていない。その執念に敬意を表し、あたいはそれを受けることにした。

「……いいだろう。確かに、そっちの方がギャンブル性があって面白いかもしれない。無難に正体が明らかになっている方を選ぶか、正体不明のものを選んで賭けをするかだ」
「さすが小町さん。ノリと度胸がいいですね」
「ただし、条件がある」
「へ? 条件? なんですか?」
「あたいが、もし水タンクを選ばなかったら、お前さんは絶対に水タンクを選ぶこと。いいね?」
「む……いいでしょう。その時は、私は水タンクの仕事をします。さ、どうしますか?」

あたいは色々な要素を総合して考える。
白玉楼の風呂、妖夢の仕事内容、布団干しの時の妖夢の話。
そして、直感で、あたいが導き出した答えは、

「あたいは石階段の掃除をするよ」

回避だった。

「ほー、いいんですね? 後で変えてくれっていっても聞きませんよ?」
「望むところさ。じゃあ、結果発表をしようか。妖夢、タンクのところに連れてって」
「は、はい。ここから、あの屋根の向こう側にありますから、飛んで行きましょうか」

妖夢の後について、白玉楼の屋根を飛び越えた。



「げっ」

と言ったのは…………文だった。

白玉楼の一階奥にある風呂場を挟んですぐそばにそびえ立っている水タンク。それを、あたいらは上空から見つめた。
木製の分厚い板で六角形の器を形作っているタンクは、高さは約五メートル。幅は最大で三メートルはあった。
一見、酒造用のもの凄くでかい樽に似ている。それが台座の上に鎮座しているような感じだ。
タンクから五十センチくらいの太い管のような物が白玉楼の壁に突き刺さっているから、おそらくあの管を通じて、落差を使って浴槽に水を入れるのだろう。

「これは……でかいねー。まさか、こんなもんが毎日入っている風呂の近くにあったなんて、全然気付かなかったよ」

地面に降り立って見上げてみると、これを一人の人間が作ったなんて信じ難い。しかも、これだけでかくて、水が漏れないように作られているところをみると、妖夢のじいちゃんは建築の才能でもあったんじゃないだろうか。
あたいと文がタンクをぽかーんと見上げている間に、妖夢は水タンクの天井部に降り立って中を確認し始めた。タンクの大きさに比べれば小さいと言わざるをえない丸い蓋を持ち上げて、そこを覗き込んでいる。

「うーん、やっぱり少なくなってるわね。じゃあ、文さん。ここに出来る限り水を入れていってくれる? 一杯にならなくてもいいから」
「わ、分かりました。で、でも、どうやってですか?」
「後ろにポンプと桶があるでしょ。ポンプで水を出して、桶に入れて、タンクに入れる、それだけよ」

確かに、あたいらの背後にある土間には、ポンプと四つほどの桶があった。
これを使って、さっき妖夢が言った手順で一回一回水を入れていくわけか。でも、このタンク一杯にするなんて、一体どのくらいの時間がかかるのだろう。よかった、やっぱりタンクを選ばなくて正解だった。

「じゃあ、私がお手本を見せるわね。こうした方が楽だっていう方法なんだけど」

妖夢はタンクからポンプのそばに降り立つと、手近な桶を拾ってポンプの口の前に置き、両手でハンドルを上下に動かし始めた。
何回か動かすと、何かが詰まったような音がポンプの中から聞こえてきて、間を置かずに清らかな透明な水が流れ出てきた。
口からは大量の水が流れてくるので、すぐに桶は一杯になる。すかさず妖夢は空の桶に替え、またハンドルを動かす。
やがて、転がっていた四つの桶全てが水で一杯になった。なるほど、四つ桶があるのは、あらかじめ、たくさん桶に水を入れておくためか。一個ずつやっていたら効率が悪い。

「で、これを両手に持って」

妖夢は遅刻で立たされた子供のように、桶を両手にぶら下げて宙を浮く。
そのままタンクの方に、

「残った桶を足に引っ掛ける、と」
「「ええっ!?」」

行くと思ったら、妖夢が意外な行動を取ったので、あたいと文の声が重なる。
なんと、妖夢は両手に桶を持つだけではなく、足首にもう二つの桶の取っ手を引っ掛けて宙を浮いたのだ。
そのままタンクの天井部に向かっていき、そこで四つの桶を下ろす。
蓋を開け、勢いよく水をタンクに放り込んでいく。全て入れ終えると、また両手と足首に桶を持って、あたいたちの前に降りてきた。

「どう? 簡単でしょ?」
「か、簡単かなぁ……」

桶は普通の桶よりも一回りくらい大きい。大体五リットルは入るんじゃないだろうか。
それを両手だけではなく、足にも引っ掛けてタンクの上まで行く。よっぽど鍛えてないと、絶対に足の筋肉がつる。

「……やってみたら、文」
「は、はあ……まあ、ものは試しで」

文は桶を手にとって、とりあえず足に引っ掛ける用の二つの桶を水で一杯にした。
それを宙を浮きながら足に引っ掛ける。そして、ゆっくりと上に浮き始めた。

「うぐぐぐぐぐ……」
「頑張れ文! そのままタンクの方まで持っていくんだ!」

苦悶の表情で少しずつタンクの天井に向かう文。あ、足がプルプルしてる。

「……だっ、ダメですっ……足がつりそうですっ……」

そう言うと、文は両足首を弛緩させて桶を地面に落とした。大きな音がして、地面に盛大に水がぶちまけられる。
あたいと妖夢はすぐに文の元に駆け寄った。

「大丈夫、文さん? さっき布団をたくさん持ってきてくれたから、このくらいの重さはなんてことないと思ったんだけど……」
「いえ、あれは私が風を操っていたからであって、風で布団を包み込んで、出来るだけ重さを抑えてただけです。だけど、この桶みたいに水が入った複数の容器をこぼさないように風で運ぶのってすごく難しいんです。よほど器用じゃないと。空の桶なら何てことないんですが……」
「じゃあ、足に桶を掛けながら、下から思いっきり風を吹き上げて、桶の底を持ち上げたらどうだい? そうすれば重くなくなるんじゃないの?」
「そ、そんなことしたら、思いっきり下着が見えるじゃないですかっ! 何を考えてるんですか、あなたは!」

文は少し顔に恥じらいの表情を浮かべて、あたいの提案を却下する。

「別にいいんじゃないの? ドロワーズだろ、お前さんがいま穿いてるの。見えてもいい下着じゃないか」
「そっ……ていうかですね、スカートを吹き上げながら手足に桶を持って空を飛んでいる姿を想像してみてくださいよっ。間抜けもいいところですっ」

言われた通りに、その文の姿を想像してみる。…………ぷっ。

「あっ、いまちょっと笑いましたねっ!?」
「お前さんが想像してみろって言ったんじゃないか。だから言われた通りにしたら噴き出しちまったんだよ。不可抗力だ不可抗力」
「もう、二人ともやめて下さいよ。文さん、無理そうなら一つずつでもいいわよ。私は手伝ってもらえるだけで感謝してるんだから。半分でも入れてもらえるだけでも大感謝よ」
「うう……すみません。両手だけでやらせてもらいます」

消沈している文を励ましつつ、あたいと妖夢は水タンクを後にした。



白玉楼の広大な前々庭に、ぽつんと立っている目立たない小さな小屋。妖夢はそこに案内してくれた。
中にはシャベルや剪定用の高バサミなど、種々雑多な道具が所狭しと並んでおり、その隅っこに古ぼけた竹箒が置いてあった。
妖夢はそれを取り出すと、あたいに手渡した。なるほど、これを使って階段を掃除するわけか。

「お〜、絶景だね〜」

階段の頂上から見渡す冥界の景色は美しかった。
百段を超える階段の下に見える長大な石畳はどこまでも伸び、その脇を無数の桜の木が林立する。その向こうに煙るまだ白さを残す山々。
春になったら、眩暈がするくらいに凄い桜の海が現れるのだろう。石畳はその海を真っ二つに割る聖者の道だった。

「春はぜひ遊びに来てください。冥界の桜は幻想郷一ですから、その花を見ながらお花見しましょう」
「ああ、その時はとっておきの酒を持ってくるよ。妖夢はあたいの歓迎会の時は少ししかいなかったからね。また、このメンバーで集まって宴会をしよう」
「はい」

妖夢は嬉しそうに笑う。

「それでは、ここの階段の掃除をお願いします。お昼になったら呼びに来ますので」
「ああ、分かった。でも、確かにここの階段って長いけどさ、このくらいなら昼前に終わると思うよ? その後はどうしたらいい?」
「いえ、そんなこと無いと思いますよ。私はいつも一日がかりで掃除しますし」
「あ、なるほど、丁寧にやれってことね。大丈夫だよ、気合入れてやるから」
「いえ、あまり時間をかけると全部終わらないと思いますよ? 階段ですから、丁寧さよりもスピードを重視してお願いしたいんですが」

ん? なんか妖夢と会話がかみ合っていないような気がする。あれ? あたい、なんか勘違いしている?

「ちょっと確認しよう。あたいがやる仕事は、ここの階段の掃除だけだよね?」
「いえ、ここだけじゃないですよ」
「へっ!?」

あたいは目を丸くする。

「あ、あれ? 小町さん、知らなかったんですか? 他にも、ここと同じような階段があるんですよ。小町さんにはそれを全部やってほしかったんですが……」
「こ、ここ以外の階段? それって一体……」
「ここは、白玉楼の北階段なんです。白玉楼に通じる階段は、東西南北、四つあって、ここはそのうちの一つです。ここが終わったら次の階段に移って、同じことをしてもらいたいんです」
「き、北階段……」

そう呟くと、あたいは、とりあえず空を飛んだ。
出来る限り高く、白玉楼の全景が見渡せるように。
やがて、白玉楼がミニチュアの模型くらいになった時、その四方を確認した。

「……」

確かに、ある。
白玉楼の四つの方角に、あたいがさっきまでいた階段と同じような階段が四つある。
どれも同じと言うことは、段数もほとんど同じということだ。総数にして……約五百。

「あ、あははは……」

もう笑うしかなかった。ここでは楽な仕事なんて、一つもないんだって事をいまさら再確認した。







白玉楼の居間の障子に黒いシルエットが影絵のように移動する。あたいはそれを横目で追う。
音もなく、すすす、と移動しているところを見ると、ここの主の西行寺幽々子さんだろう。そろそろ昼飯だから、ここにやってきたに違いない。
やがて障子が開いて、そのお姿が現れた。

「あらあら、どうしたのかしら、こまちゃんに文ちゃん。二人して寝っ転がって」

幽々子さんは、コタツから生えているかのように寝そべっているあたいと文を見て不思議そうな声を出す。
……分かってるくせに。

「ゆゆこさーん。妖夢っていつもあんな仕事をやってるわけー?」
「これじゃ体力がもちませんよ。腕がもう上がらないくらいに痺れてます……」

あたいらは妖夢の昼飯が出来たっていう知らせが来るまで、持ち場でひたすら仕事をしていた。
百段を超える階段の掃除は果てしなく遠く、さらに同じ階段を三つ掃かなければならないとなると、早くも挫けそうだった。
それでも手伝うと言った手前やめるわけにもいかず、何も考えないようにして箒を動かし続けた。
細かいゴミを階段の上から一気に払い落とすと、妖夢が昼飯の時間を告げた。正直、助かったと思った。

「うふふ。やっぱり慣れてない人にはつらいでしょう。だから無理しなくても良かったのに」
「……妖夢はこんな激務をこなしながら、朝食や昼食や夕食を作って、洗濯をしてお風呂を沸かして、その他の雑事をこなしているわけですか……」
「幽々子さん……あなたは鬼だね……」

あたいの呪いの言葉を気にした風もなく、幽々子さんはいつもの席に着く。
そこへ妖夢が湯気の立ったお盆を持って台所から戻ってきた。

「はい、出来ましたよ。今日は久しぶりに和食以外を作ってみました」

お盆の上にはたくさんの具が混ぜられ、醤油で色を付けられた熱々の飯が四皿載っていた。

「おお! ちゃーはーん!」
「中華ですよ中華! 久しぶりですー!」

平たく黒っぽい大皿に山盛りで載せられていたのは中華の王道、チャーハンだった。これはマジで美味そうだ。

「珍しいわね〜。炒飯なんて、いつ以来かしら」

幽々子さんが珍しいと言うことは、白玉楼で中華が出るのは本当に珍しいのだろう。そういえば、あたいがここに泊まるようになってから今日に至るまで、朝夕はもちろん、弁当も全て和食だった。
味が文句なかっただけに気に留めなかったが、言われてみれば、あたいの腹はそろそろ洋か中の食い物を欲していた。

「小町さんと文さんがお手伝いでお腹がすいていそうでしたから。すぐに作れてお腹が膨れるといったらこれかな、と思いまして」
「やったー! 妖夢さいこー!」
「こういう気配りが嬉しいですよねー!」

あたいと文は嬉々として目の前に置かれるチャーハンを見つめる。醤油と胡椒の香ばしい匂いが否応なく食欲をかき立てた。

「それでは、ご飯にしましょう」

あたいらの喜びようを楽しそうに見つめながら、妖夢はいつもの号令を発した。

「二人とも、午前中はお疲れ様でした。どうでしたか、白玉楼のお仕事を体験してみて」
「白玉楼のでかさと妖夢の超人っぷりを再確認できた。こんなの毎日やってたら絶対に死ぬ」
「妖夢って実は妖怪じゃないんですか? そんな細い体でこんなに力のいる仕事をこなしてるんですから」

あたいらはチャーハンをかき込みながら、午前の仕事の感想を述べる。しっかり食っとかないと午後からの仕事が出来なくなる。

「妖夢も仕事を始めたばかりの頃は、今みたいに出来たわけじゃないのよ〜。貰った仕事の半分も出来なくて、妖忌に怒られてベソをかいてたものね」
「ゆ、幽々子さま……昔の話はよして下さいよ」
「へ〜そうだったのか。今の姿を見てると信じられないね」
「妖忌、という方は妖夢の……?」

文が少し遠慮がちに尋ねる。

「ええ、祖父よ。初代庭師で私の剣の師匠。今は幽居してしまって、どこにいるか分からないけどね」
「はあ、じゃあ、まだご存命なんですね。妖夢はその方から色々と教わって、今に至るわけですか」
「しっかし、厳しいじいちゃんだよねー。妖夢が仕事を始めた時って、物心をついた頃だろ? それで今の妖夢と同じだけの仕事をこなせ、なんて無理ってもんだ」

あたいは白玉楼に泊まる以前から妖夢と話をしていたので、魂魄妖忌のことについては多少知っていた。
話だけ聞いてると、あたいだったら三秒で逃げ出す雷親父のようなじいちゃんだったが、妖夢が心の底から尊敬しているのも窺えた。
今の真っ直ぐな性格の妖夢に成長できたのも、このじいちゃんのおかげなのだろう。

「妖忌は出て行く前に、私に絶対に甘やかすな、って念を押していったからね〜。そう言われちゃあ、私も手を抜けないじゃない?」
「それでも、当時妖夢はまだまだ仕事は出来なかったわけですよね。ご飯とかどうしていたんですか?」
「それは……恥ずかしながら、幽々子様の手をお借りして作ってたのよ」
「え゛っ、幽々子さん料理できんの?」
「まっ、こまちゃん失礼ね。料理くらい、私も出来るわよ?」

ぷんすかとあまり迫力のない怒りをあらわにする幽々子さん。
意外だ……。お嬢様ってのは料理が出来ないものっていう先入観があったから、幽々子さんもそれに当てはまると思っていた。

「幽々子様には、私が未熟なせいでお掃除とかも手伝って頂いてたの。だから、早く仕事が出来るようになって、幽々子様の手を煩わせることがないようにしたかったの」
「それが出来るようになるまで、五年はかかったわね〜。懐かしいわ〜、一番苦労したのはやっぱり料理よね。刀の使い方は上手なくせに、包丁はからっきしなんだもの」

妖夢はちょっと俯いて赤くなる。こっちも意外だ。妖夢は昔、料理が苦手だったのか。今はその影すら見えない。この腕前になるまで相当努力したんだろう。
それにしても、幽々子さんが家事か。普段気ままに暮らしてるのを見てるせいか、イメージがなかなか出てこない。妖夢が生命維持装置みたいな人だと思っていたが、実はもの凄い主婦な人なのかもしれない。ていうか、澄ました顔して、なんでもソツなくこなしそうだよな、この人。

「よーし、じゃあ、昔のちび妖夢に負けてらんないね。こんなにでかい図体してるんだから、仕事の一つや二つ、軽くこなしてみせないと」
「そうですね。まあ、水入れなんてチョイチョイっとやってしまいますよ」
「あらあら。さっきまで仕事がきついって嘆いてたとは思えないわね〜」
「二人とも、頑張ってくださいね」

そんな会話をしながら、昼食は平和に過ぎていった。チャーハンは二杯目を注文しといた。







澄み渡る青い空は、春が近いとはいえ、まだ冬の名残を見せている。
お天道様は石階段に眩しい光を注ぐようになった。階段の上で箒を動かすあたいの額に汗が滲む。いい天気なのは嬉しいが、外で労働をやっている身としてはもう少し日差しを抑えてほしかった。

「ふ〜、今日はあったかいね〜。腕でも捲くらなきゃやってられないよ」

昼飯を食べて食休みを取った後、あたいは始めの北階段から西に場所を移して、再び階段の掃除を始めた。
階段の掃除なんて、当然のようにやったことはなかったので、コツを掴むまで少しばかり時間がかかった。しかし、そろそろ要領がつかめてきたので、一つの階段にかける時間が短縮されてきた。

「ま、妖夢にダメ出し食らったら、それまでなんだけどねー……」

この階段は、空を飛べる者にとっては、ほとんど利用価値がない。
幽霊は足がないから、階段を踏むなんてことはしない。また、冥界を訪れるには空に浮かぶ門を通らなければならないので、空を飛べる者だけが冥界に来られる。そういうやつらは、わざわざ下に降りて階段を上ろうなんて酔狂なやつはいない。
結局、この長い階段も、白玉楼の広大な庭と同じで景観を楽しむものなのだろう。春になったら、桜の海を見渡すためのベンチとなりうるのだろうが、本来の目的で使うことはあまりなさそうだった。

だから、あたいとしては少しぐらい塵が残っていても構わないと思っているのだが、生真面目な妖夢はそんなことを考えもしないだろう。あたいが手を抜いて、所々汚かったら眉をひそめるかもしれない。
今回、あたいが妖夢の仕事を手伝おうと思ったのは、妖夢に少しでも楽をしてもらうことと、日ごろの感謝を表すことが念頭にある。
すでに二週間もの間、居候のあたいに良くしてくれているのだ。それを手抜き仕事で返すわけにはいかない。
あたいは不真面目なやつだが、恩を受けたら必ず返すことを信条としている。この程度で、あたいが受けた恩を返せるわけはないのだが、それでもやらないよりましだった。

「ごじゅう、っと。はあ、まだ半分行ってないね。百段以上あるっていう予想は合ってたか」

一段掃除が終わるごとに、階段の脇の土に指で数字を書き込む。暇だったので階段の段数を数えているのだ。
白玉楼の階段は、数もさることながら一段の横幅が長い。大股で歩いて十歩程度はある。必然的に、普通の階段の掃除をするより時間がかかる。実際はこの倍以上の階段の掃いたことになるだろう。

「よっし、もうひと頑張り。早くしないと、今日中に終わらないしね」

普段の船頭の仕事に比べて、あたいは遥かに真面目にやっている。
それがいいのか悪いのか分からないが、間違ってはいないと自信を持って言えた。



「よっしゃ、終わったーーー!」

仕事を再開してから一時間後。箒を右手に持ちながら諸手を上げて、彼方に続く石畳の入り口に届けとばかりに大声を張り上げる。
これで、北階段に続いて西階段を制覇した。残りは、あと二つ。まだ日も高い。いいペースだ。このまま気力が残っているうちに、一気に片付けてしまおう。そしたら、妖夢の夕食を待つのみだ。こんだけ動いたら、今日のご飯はさぞ美味しいことだろう。

「あれ? そういえば、妖夢が午後から何かやるって言ってたような……」

言っていたのは午前中だった気がする。午前中といえば、裏庭で布団干しをしていたな……。

「あ、そうだ」

布団の取入れだ。確か、二時から開始するとか言ってた。危うく忘れるところだった。
ここの仕事を再開したのが昼過ぎだったから、今がちょうど二時くらいかもしれない。あたいは時計を持ち歩かないやつなので、正確な時間はお天道様を見ることで大体把握していた。

「はあ、また骨が折れそうな仕事だね。あの布団の山を、今度は押入れに入れるのか」

あ、でも文がいるからけっこう楽かもしれない。妖夢も、やつがいたから布団を干そうと思ったんだろう。あの大量の布団を妖夢一人で取り込むのは半日かかるに違いない。
年に二回やる仕事と言っていた覚えがあるから、きっと今回の布団干しは一日がかりの仕事なのだ。それを半分以下の時間で出来るのだから、あたいも少しは役に立っていると実感できた。

「よーし、じゃあ、裏庭に行こうかね。もしかしたら、二人とももう始めているかもしれないし」

あたいは持っていた箒を適当な木に立てかけて、階段の頂上を目指した。



階段を一足飛びで飛び越えたあたいは、そのまま白玉楼の大門を目指す。
周囲を高い塀で囲まれている白玉楼は、遠くから見ると平安貴族の御所のように見える。その中にあたいみたいな庶民が住んでいるのだから、未来なんてどうなるか分かったもんじゃない。空から見る白玉楼はいつ見ても立派で、嫌でも場違い感が付きまとう。まあ、それも大分慣れたが、改めて白玉楼を眺めると、随分と分不相応なところに泊まってるなぁと思わざるを得なかった。

大門が近づくにつれ、あたいは高度を落として門前に着地する。
妖夢から門を飛び越えて入ることは禁止されているので、白玉楼に足を踏み入れるには、どうしてもここを通らなければならない。
何でなのか聞いてみると、そういう仕来りだからだそうだ。玄関から家に入るのと、窓から家に入るのではどっちが行儀がいいか、という違いと同じようで、そう言われれば納得はする。

あたいが無縁塚の仕事場に向かい、帰ってくる時にいつも使っている大門の横の通用口。そこを通れば自由に地から足を離せる。
通用口をくぐると現れる、前庭と白玉楼を挟んで向こう側に裏庭はあるので、ここからは一気に飛び越えればいいのだ。
鼠色をした瓦葺の屋根の上を滑るように飛び、裏庭を望む。規則正しく三列に並んだ布団が、お天道様の光を浴びて純白に輝いていた。

「あれ?」

いや、色は白だけではなかった。
白い布団の中に、一つだけ緑が混ざっている。あれは……妖夢だ。
妖夢は竿に掛けられた布団の上の腰掛けているようだった。白玉楼に背を向けて、微動だにしない。何をしてるんだ? まさか妖夢に限ってサボっていることはないだろう。
しかし、いつもならあたいがこれだけ近付けば、気配に敏感な妖夢はこちらを振り向くはずだ。
空から向かっているとはいえ、あたいと妖夢との距離は呼べば届く距離だ。妖夢なら気付くはずなのに、姿勢を崩そうとしない。

(まさか……寝てる?)

起きているならまだしも、眠っているのなら話は別なのかもしれない。寝ている最中に曲者の気配が察知できたら、もはや達人の領域だ。
あたいは少し緊張しながら、そろそろと妖夢の前に回って顔を見た。
……妖夢は目を閉じている。
あたいが目の前にいても気付かない。ちょっと俯くようにして布団の上に座っている。

(おお〜、これは珍しい。まさか真っ昼間から寝てる妖夢を見られるとは思わなかった)

思わぬレア妖夢との遭遇に、あたいはちょっと興奮した。風邪もひいているみたいだし、このところ疲れていたのだろう。
起こすのも気が引けたので、あたいは妖夢の前の列にある布団に、そっと向かい合わせになって座った。
こんだけ近付いても起きないので、ちょっとわくわくする。例えるなら、警戒心の強い野良猫が日向ぼっこをして眠っているのを近くで見ているような、そんな高揚感を感じた。
妖夢は穏やかな顔をして眠っている。こんな所で寝て、よく転げ落ちないもんだ。息さえしていないのではないかとそんな考えも浮かんでしまう。

あたいは足を組んで頬杖を突きながら、彫像のように微動だにしない妖夢を見つめた。
整った目鼻立ち、均整の取れた顔は、美という文字が頭につく少女である娘に疑いはない。
くせのない細い銀の髪が微かな風に吹かれ、隠れていた耳がちらちら覗く。丸い小さな顔には、おかっぱ頭と小さな耳がよく似合っていた。
妖夢はまだ成長途中だ。半人半霊の手足は、普通の人間より長い年月を重ねて完全に伸びきる。大人になる前の多感な時期を人よりも長く過ごせるから、情緒も深くなり、人としての深みも増す。
妖夢は誰よりも徳が高くなりうるのだ。あらゆる物が眩しく映る今の時期に、たくさんの物に触れ、たくさんの人と会って、見識を広めれば、大人になったときに堅固な土台となる。努力を惜しまない性格が、その後押しとなるだろう。
だから、あたいの考えを言わせてもらえば、妖夢は白玉楼にずっと留まっていないで、もっと冥界の外に見聞しに行くべきなのだ。幽々子さんと外出する機会はあるとはいえ、その頻度は少なすぎる。冥界の住人とはいえ、この娘は半分は人間なのだから。

「ん……」

どのくらい妖夢の顔を見つめていただろう。瞼がかすかに動いて、少しずつ目が開けられる。
あたいはその様子をニヤニヤしながら見続ける。きっと、いいリアクションをしてくれるに違いない。

「はわっ!」

目の前のあたいに気付いた妖夢は目を見開いて驚き、後ろのほうにバランスを崩した。

「おっと、危ないよ。ここから落ちたら怪我じゃすまないかもしれないからね」

あたいは妖夢の右手を咄嗟に掴んで引き寄せた。不安定な位置ながらも、なんとか妖夢は体勢を立て直す。

「こ、小町さん……いつからここに……?」
「五分くらい前からかな。お前さんが居眠りしているのが屋根の上から見えたからさ。珍しいもんでつい見入っちまったよ」
「す、すいません。仕事が早く終わったので、ここで小町さんと文さんを待ってたら、ちょっとウトウトしてしまって」
「別に謝る必要はないさ。今日みたいな日は、あたいだって居眠りこいちまうよ」

仕事をサボっているのを見られたようでいたたまれないのだろう。赤くなって弁明する妖夢に笑いかける。あたいにとってみれば、こんなのサボっているうちにも入らない。

「ここはいい場所だね。まるで羊の背に乗っているみたいじゃないか。のんびりとしていて、いつまでも居たくなる」
「私もです。いつもは布団を取り込むのに追われてて、こんな景色があるなんて思いませんでした。小町さんたちがいなかったら、きっと一生気付かなかったと思います」

布団の列は動かない羊の群れだった。青空の下、どこかの牧草地で草を食んでいる羊の背に乗って、あたいたちは話している。そう想像するだけで、心が柔らかくなるのを感じた。

「もう少しここで話してたいけど、そろそろ始めるかい? もう二時だろうしね」
「文さんがまだ来ていないから、もう少し待ちましょう。今日は時間に余裕がありますから……あ、そうだ」

妖夢が何かを思いついたように手を打つ。

「文さんといえば、小町さんはまだ見せていませんでしたよね」
「ん? なんだい?」

妖夢は白玉楼の方を振り返り、指をOKの形にして口に咥えて、景気よく指笛を鳴らした。
高い音が裏庭に響きわたる。
すると、屋根の向こうから、一羽のカラスがこちらの方に飛んできた。

「カラス? あ、あれってもしかして、文が妖夢の手伝い用にあげたカラス?」
「はい、そうです。小町さんが寝ている間にあの子は仕事をするので、見たことはなかったと思います。これから紹介しますね」

カラスは一直線にこちらに向かってきて、体より大きな翼を広げて妖夢の腕にとまった。
まだ若い、小柄なカラスだった。

「名前は、春風丸って言います。さ、春風丸、小町さんに挨拶して」

妖夢がそう言うと、春風丸は羽を左右に広げて、こうべを垂れた。

「へ〜、随分と行儀のいいカラスだね。犬もこんなに完璧な挨拶しないだろうに」
「ええ、文さんが手塩をかけて育てた一羽らしいですから。さすがは鴉天狗だけありますね」
「それにしても……春風丸、か。随分とかっこいい名前をつけたね」
「そうですか? 私が使える剣の奥義から名前を取ったんですよ」

真っ黒なカラスには名前負けしそうだ。クロ、とかにしとけばいいのに。

「この子は一週間に一回ほど、慧音さんの村に行って卵やお肉を取って来てくれるんです。もちろん、村の人たちには話をしてありますので、泥棒じゃないですよ? この子に冥界の品を持たせて村に行かせ、村に着いたら村の人たちが包みを持たせてくれるんです」
「ほ〜、そいつは賢い。そう言えば、カラスは喋るって文が言ってたね。言葉でも覚えさせれば面白いんじゃない?」
「そうですね……この子は文さんのカラスの中でも特に頭がいいらしいですから、喋れるようになるかもしれません」
「もちろん、可能ですよ」

急に頭上から声が聞こえたので、あたいと妖夢はハッとして空を見上げる。

「……お前さんは相変わらず神出鬼没だね。出てくる前触れくらい出してくれないかい?」
「鴉天狗は風ですよ。風が吹く瞬間なんて、誰も察知できませんって」

得意げに笑いながら、文は妖夢の隣に腰を下ろして春風丸を抱え上げる。

「私が使役していた中でも、このカラスは特に頭が良かったんです。訓練にはかなり手間がかかりますが、いずれ喋れるようになりますよ」
「いずれねぇ……。妖夢はカラスの訓練士でもないだろうに。こいつに割ける時間なんかあんまり無いだろ?」
「あはは。でも大切に育てますよ。とてもいい子ですしね」

妖夢は文の肩にとまっている春風丸の背を撫でた。
こうやって大人しくしていると、まあ可愛いとも言えなくもない。生ゴミとかに群れて食い散らかしたり、早朝からギャアギャア騒がれたりすると辟易するのだが。

「よーし、じゃあ文も来たことだし、そろそろ始めるかい?」
「え〜、さっきまで小町さんと妖夢は、ここでおしゃべりしてたじゃないですか。もう少しこうしてましょうよ」

仕事の開始を提案すると、あっさり反論が出た。
まあ、あたいとしても今回の反論は渡りに船だ。もう少し布団に乗りながら、ぽかぽか陽気に身を任せていたいのが本音だった。

「妖夢、どうする? 確かに文はここに来たばかりだし、ちょっと不公平な感じはするね。あたいはともかく、妖夢はきっちり休んでたじゃないか」
「はい? どういうことですか?」
「わっ、小町さん、それを言っちゃダメです!」

居眠りしていた事実を漏らそうとすると、妖夢がわたわたする。こうなれば、もう休みの延長は約束されたようなものだ。ほんとに可愛いくらい素直で、思わず笑みが漏れる。

「わ、分かりました。もう少し休みましょう。文さんがいれば布団を取り込むのも楽そうですしね」
「どうも、ありがとうございます! やっぱり妖夢は優しいですね!」

本心が半分くらいの文の褒め言葉に、妖夢は困ったような笑みを浮かべた。

「それにしても、なかなか壮観な眺めですね〜」

文は裏庭の端から端まで届く布団の列を眺めてそう言った。

「さすがに、こんなにたくさんの布団を干したことはないでしょう」
「ええ、いつも自分のだけですからね。妖夢は、いつもこんなにたくさんのお布団を干しているんですか?」
「いえ、押入れにしまいこんだ布団を干すのは半年に一回くらいよ。いつもは私と幽々子さまの布団を干すだけだから、それほどの手間はないわ」
「でも、その半年に一回は必ずやって来るわけですよね……。その時は一人で干しているのでしょう? こんなに大量にあったら、干している間に日が暮れちゃうんじゃないですか?」
「まあ、すごく時間がかかることは確かね。だから布団を干そうを思い立ったら、始めるのは朝食が終わった後すぐ。午前中に布団を干し終わって、昼食を作って、食べ終わったらすぐに取り込み始める。そんな感じね」
「雨なんか降ってきたら大変だね〜」
「それはもう。だから布団を干すのは、一日中天気がいいと絶対の確信を持ったときでないとやりません。天気を予想する方法はだいぶ板についてきましたよ」
「はあ、なるほど。じゃあ、今日はずっといい天気なんですね」
「多分。冥界の天気は下界とは違って変わりにくいから。急に雲が出てくるなんて滅多にないわ」
「じゃあ、明日も晴れですかね?」
「明日か……」

妖夢は空を見上げた。

「……多分、明日の天気は悪いかな?」
「へっ、そうなの? こんなにいい天気なのに?」
「はい。今日は雲ひとつないけど、空気が違います。いい天気が続くときの空気はもっと緩んでいる感じがしますから。でも、いまは少し張りつめていて、あまり長続きしない天気の時の兆候です。逆に、雨の日が長く続くときは、何も色を感じさせないモノクロの空気で、やがて、雨が上がりそうになると、少しずつ空気に匂いがついてきます。私はそうやって天気を予想しているんです」
「はあ〜、そんな感覚的なものなのですね。妖夢しか分からない天気予報です」
「そうかもね」

そう言って、あたいたちは笑った。

「そういえば、あたいたちがこうやって腰を据えて話すのは、あたいがここに泊まりに来た初日の風呂の時以来だね」
「そうですねー。小町さんとは取材で長く一緒にいますが、妖夢とは食事のときくらいしか会ってませんし。前にじっくり話したときは新聞の取材のとき……あ、無縁塚近くの池で会ったこともありましたね」
「あの花の異変のときね。あの時のあなたは取材に夢中で、こっちの話を聞こうともしなかったわね」
「だって、六十年ぶりの大異変ですよ! 新聞記者として、これは放っておけません。だから、いつも異変が起こるとドタバタする面々にくっついていたのですが……」
「異変を解決するどころか、ネタになるようなおもしろいことをする気配もなかったと」
「あはは、その通りです。そして、妖夢に会いました。結局、幽霊のことは、幽霊に一番近いあなたが一番分かるということですね」
「…………」
「? どうしたんですか?」

文の話を継がず、妖夢は少し俯きがちになった。何かを考えているようだった。

「……ううん、ちょっと閻魔様に言われたことを思い出してね」
「閻魔様? 四季様のことかい?」
「はい。閻魔様に無縁塚でお会いしたときに忠告されたんです。私は下の世界と関係が深くなりすぎている。このままでは、地獄に落ちかねないと」

妖夢は視線を少し上げ、中空を見ながらぽつぽつと語り出した。

「もともと私は冥界の人間です。下にいる人間とは決して交わることはない。冥界で生き、冥界で死ぬ定め。昔、幽々子様の命令で幻想郷中の春を集めて、ある桜を満開にさせようとしたことがありました。それ以来、冥界の結界は薄くなり、私は簡単に下に降りることが出来るようになりました」
「……」
「実際、楽しかった。毎夜のように行われる宴会。永夜の異変。たくさんの出会い。下界はこんなにも色鮮やかでまぶしい世界なんだということを初めて知りました。そして、小町さんや文さん、生きている人間や妖怪と出会うことで、私も半分とはいえ、命を持った人間なんだってことを思い出しました。だから、事あるごとに冥界から降りて、下の世界を見て回りました。新しい発見がない日はありませんでした。私はどんどん下界の魅力の虜になっていきました」
「……」
「でも、今は分かりません。閻魔様の言うとおり、生きている人間と死んでいる人間が交わっている今の状態は、多分、異常なんだと思います。私は生きているけど死んでいる。どちらともつかない中途半端な存在。なら、ここで庭師として、幽々子様のお世話をしながら、静かに一生を終えるのが、一番いいのかもしれないです」
「でも、それでいいんですか?」

文の声が妖夢の話に割り込む。いままでにない、真剣な面持ちをしていた。

「それは閻魔様に言われたことです。なら妖夢の意思はなんですか? たとえ、閻魔様に言われたことが絶対的な真実だったとしても、それは妖夢にとって本当に望んでいることですか? それに、いつか結界は元通りになってしまうのでしょう? そうしたら、妖夢は幽々子さんのためにここに残らなければならない。なら、いま経験できることは全てやらないと損じゃありませんか」
「……うん……」
「私は妖夢を中途半端だなんてちっとも思ってない。妖夢は妖夢。それでひとつの存在ですよ。あなたにもきちんとした意思がある。だから自分が信じることをやってください。そうしないと……きっと後悔します。あなたは、他人を幸せに出来る。閻魔様に言われたことを守らなくても、きっと地獄になんて落ちない。下界に降りるのが罪ならば、それ以上に良いことをすればいいだけです。現に、家をなくした小町さんや私を手厚くもてなしてくれるじゃないですか。もし自分のことしか考えていなかったら、きっと私たちを追い出したはずです。だって、妖夢は幽々子さんを守ればいいだけなんですから」
「……」
「妖夢はもう精一杯良いことをしている。幽々子さんのお世話をして、剣の稽古をして自分を磨いて……。それが閻魔様に評価されないなんて私には考えられません。だから、自分に自信を持ってください。でないと……悲しくなっちゃいます」
「文……」
「えへへ、ちょっとお説教ぽくなっちゃいましたね。でも妖夢は人間よりも人間らしくて優しいですよ。妖怪の私が言うんだから間違いありません。だから、これからも、そのままの優しい妖夢でいてくださいね」
「うん……ありがとう……」

照れ笑いする文に、妖夢は今にも泣き出しそうな笑顔で応える。
……まったく、いつもの説教癖を出して。あなたが言うことは正しいです。だけど、生真面目な妖夢には、もっとソフトに言ってほしかったですよ、四季様。

「妖夢。なんで、四季様が下の連中と交わるなって言ったか、分かるかい?」
「えっ?」

急にあたいから質問をされたので、妖夢は目をしばたたかせる。

「それは……私が冥界の者、だからですか?」
「その通りだ。四季様が気に入らない理由は、それしかないんだよ」

あたいは妖夢の心の内の不安を取り除くかのように、ニヤリと不敵に笑った。

「閻魔様ってのは、規律が服着て歩いているような人たちばかりでね。ルール違反ってのに滅法うるさい。スカート丈床上三十センチ、みたいな古風なことを真面目に守っているんだよ。それが仕事だから、仕方ないんだけどね」
「は、はあ……」
「妖夢は冥界に住んでいる者だ。そして、あたいと文は下の生者の住む世界に住んでいる。普通なら、あたいらは絶対に出会うことはない。住む世界が違うからね。だけど、現にあたいらはこうして話をしている。規律を重んじる閻魔様方には、そこが気に入らないんだ。水と油が混ざってしまって、気持ち悪くてしょうがないんだよ」
「そ、そんなことで、妖夢を地獄に落とすなんて言ったんですか? なんて頭の固い……」
「地獄に落とす、は閻魔様の殺し文句でね、本気で地獄に落とす気なんてさらさらないんだよ。閻魔様が、お前は地獄行きになる、なんて予告したら、信憑性がもの凄く高いだろ? だけど閻魔様は、生前の全ての罪を秤にかけて死後の世界を決めるんだ。それには途方もない複雑な基準がある。だから、妖夢が下界に降りてあたいらと話したり、買い物をしたりしても、それだけじゃ地獄行きかは決まらない。お偉いさん方が好きな、総合的な判断、をしなければならないんだよ」

冥界には、結界が薄くなって以来、あたいと文だけではなく、たくさんの人間や妖怪が訪れている。そいつらは、ほとんどが興味本位の者で、死後の世界っていうのはどんなものなのか見てみたい気持ちが強いのだ。冥界に入ったから地獄に落ちるなんて思ってもいないに違いない。それなら、もう幻想郷に住む者の半分が、今後の善行に関わらず、地獄への予約チケットを強制的に受け取っていることになるのだ。
お偉いさん方が本気で冥界と下界を隔離したいなら、さっさと結界を張っているはずだ。あたいみたいな平死神には上のことはよく分からないが、それをしないのは現状でも問題ないと判断している証拠に過ぎない。結局、下界と冥界が繋がっている今の状態は、閻魔様も黙認している、“自然な状態”なのだ。

「だから、妖夢が心配する事はない。いつもどおり、あたいらとバカな話をして笑っていればいいのさ。お前さんは日々善行に励んでいるよ。死神のあたいが言うんだから、間違いないって」
「は、はい、ありがとうございます……。そう言ってもらえると、すごく嬉しいです……」
「だけど、一つだけ言っておかなければならないことがあるんだ」
「えっ?」

さすがに、上司を悪者ばかりにしてはおけない。妖夢には、こっちの方が言いたかったのだろうから。
あたいは、妖夢の目を真っ直ぐ見つめて、真剣に話し始めた。

「さっき、お前さんは言ったね。下の世界は色鮮やかでまぶしい世界だと。それを見聞し、たくさんの知識を得るのはとてもいいことだと、あたいは思う。だからこそ、自分が冥界に住む者だという自覚を常に持っていてほしいんだ」
「冥界に住んでいる自覚、ですか?」
「そう。もし、お前さんが下界の魅力に取りつかれ、冥界を放り出して下の世界に居を構えたら、お前さんは、下界に住む人間と見なされる。そして将来命が尽きたら、三途を渡って閻魔様に裁かれることになる。冥界を放り出す、ということは、白玉楼を捨てるということだ。そこを閻魔様は見逃してくれない。天国に行くことは絶対に出来ない。地獄に落ちる、という四季様の言葉も、あながち間違いじゃないんだよ」
「……」
「いま、妖夢は冥界に住む死者と見なされている特殊な立場にいるんだ。だから、もし死んでも閻魔様に裁かれることはなく、地獄に落ちる可能性はゼロだ。その特権を捨ててまで下界に執着する必要は、なかなか無いと思うね。あたいとしては捨てるのはもったいない」

半人半霊の妖夢は、人間にも幽霊にもなりうる。どっちを選ぶかは妖夢次第だ。けど、今のように下界に魅力を感じているところを見ると、やや不安定な位置にいると言える。

「四季様の本音はそっちなんだ。このまま下界に住みたいと妖夢が思ってしまったら、死後の苦しみを味わうことになるかもしれない。だから、四季様は妖夢を“脅した”んだよ。閻魔様に地獄に落とす、なんて言われたら本気になるだろ? 四季様は妖夢を憎んでいるわけじゃない、心配しているんだ。あの方は、閻魔様の中では穏健な方だからね」
「……」
「あたいも、妖夢には地獄に落ちてほしくない。だけど、こればっかりは妖夢の問題だ。これからの長い時の中で、悩むときが来るかもしれない。その時に、ちょっと思い出してくれればいいさ。妖夢の生き方は妖夢自身が決めるんだ。四季様のお言葉も、あたいの放言もアドバイスにしかならない。さっき文も言っていたけど、自分を信じて生きればいい。妖怪みたいに長い寿命なんだから、楽しまなきゃ損だからね」

あたいは一通り話し終える。妖夢も文も、一言も口を挟まずに聞いてくれた。

「あら? 二人ともどうしたの? 特に文。いつもなら、ここらへんでツッコミが入るはずなんだけどね」
「いえ……あまりにも小町さんが良いことを言いすぎるので、あっけに取られてました」
「なに〜? あたいはいつも良いことしか言わないっての!」

失礼なことを言う天狗の首を素早く取る。

「うぐっ! くるしいっ、だめですっ、ろーぷろーぷっ!」

必死にもがく文を、鍛えたあたいの二の腕が逃さない。

「そんなに深く考え込むと人生面白くないよ。あたいみたいにズボラになれとは言わないけど、適度に肩の力を抜いていきな。常に心にゆとりを持つことは善行だ。悪いことじゃないんだよ」
「小町さんの場合は、抜きすぎてますけどねー」

さらに失礼なことを言う天狗の手首を極める。

「あたたたたたたっ!! 折れますっ、折れますって! ペンが握れなくなりますーっ!」

あたいたちのやり取りをぽかんと見ていた妖夢は、やがて顔を綻ばせ、

「……はい、ありがとうございます」

優しい声で礼を言った。

『あ〜〜〜っ! さんにんで、なにしてるの〜〜〜っ!?』

ふと、白玉楼の二階から、あたいたちに向かって呼びかける声が聞こえた。
そちらを見ると、白玉楼のご当主様が手すりから身を乗り出していた。

「あっ、幽々子様だ……。サボっているのが見つかっちゃいました」
「いいんじゃない? あたいたちが引き止めてたってことにすればいいさ」

幽々子さんはどうするのかと思ったら、なんと手すりを乗り越えて二階から羽ばたいた。

『私も仲間に入れて〜〜〜!』

そう叫びながら、満面の笑顔でこちらに向かってくる。超楽しそうだ。

「あはは、さすがは幽々子さんだね。あの人を見てると、お嬢様ってのがこんなにも親しみを持てるもんなんだって、考えが変わるよ」
「仕方ないですね。ちょっと早いですけど、おやつにしましょう。お茶とお菓子を持ってきますね」

妖夢は、困った風に、でもそれ以上に楽しそうにして、白玉楼の方に向かって行った。

春を思わせる陽気の中。白玉楼の住人たちが青空の下でお茶会をする。
まだ見ぬ楽しいイベントを前に、あたいは心弾ませていた。















◇ ◇ ◇



午後七時。
夕日はすでに山間に没し、辺りは漆黒の闇に包まれている。
妖怪が蠢く澱んだ闇は、冥界に住む幽霊にとっても心地よい。
浴びるような強い日差しを日陰で過ごした霊たちは、ここぞとばかりに月の冴える夜空に躍り出る。
冥界が一番にぎやかになる時分だった。



白玉楼の居間には明かりが灯され、障子ごしに食卓の音が響いている。
時折漏れる笑い声。話の花は途切れることなく咲き続いているようだった。

「はあ〜、食った食った。鍋って、つい食べ過ぎちゃうんだよね〜」

左手を畳について体を支え、右手で腹をさすりながら、小町は満足げな声を上げる。
居間の大きな掘りごたつの上に乗った土鍋は、ちらほらと野菜の切れ端が残っているだけで、ほとんど空になっていた。

「お鍋って手軽に出来るから、私はたまに家でやりますけど、やっぱり大勢でつつくのが本物ですよね。一人じゃ味気なさ過ぎます」
「文ちゃん、一人じゃさびしいわよ〜。よかったら、うちに来るといいわ〜。私たちはいつでも歓迎するわよ?」
「その時は、文さんが鍋と材料を持ってきてね。用意する手間が省けるから」
「うえ〜、幽々子さんのお腹を満足させる材料って、一体どのくらい持ってくればいいんですか〜? 今日だって、何回材料を鍋に放りこんだか、数えるのもめんどくさいですよ」
「今日、布団を取り込んだだろ? お前さんが一度に担げる布団の量くらいで大丈夫だよ。もっとも、それでも足りないかもしれないね」
「余裕で百キロ超えてるじゃないですか! カバじゃないんですから」

小町の冗談に文が突っ込み、幽々子と妖夢が笑って返す。
四人は食休みも兼ねて、食後の雑談を楽しんでいた。こうやって一日を振り返って体験した出来事を話し合うのは、小町が白玉楼に泊まり始めてから欠かさず行われている団欒の一時になっている。今日は小町と文が妖夢の仕事を手伝うという珍しい日になったから、いつもより会話が弾んでいるようだった。

幽々子も交えて早めに三時のおやつをとった後、小町、文、妖夢の三人はようやく布団を取り込み始めた。
干す時にも活躍した文の働きで、きっかり一時間で押入れにすべて仕舞いこみ、三人はそれぞれの仕事の持ち場に戻っていった。
小町と文はすでに仕事の半分を終えており、仕事のコツも掴んでいたので、妖夢が夕食に呼びに来る前にそれぞれの仕事を終えること出来た。
それでも初めてやる仕事はさすがに疲れたのか、夕食が出来るまでの間、昼の時と同様にコタツに寝転がっているところを、二階から降りてきた幽々子にまたからかわられた。
昼の時と同様、大きな鍋を持った妖夢を見て歓声を上げ、楽しい夕食はつつがなく過ぎていった。

そして、話にひと区切りついた頃。文がおもむろに立ち上がった。

「さて、私はそろそろお暇しますね。明日はまた小町さんの取材ですし」
「文さん、お風呂に入ってかないの? もう沸いてると思うわよ?」
「なんなら、あたいと一緒に入るかい?」
「やですよ。また変なことするに決まってるんですから」
「しやしないよ。あの時は酒が入ってたから、ふざけただけさ。今のあたいは安全だよ」
「でも、今日はここで失礼します。久々に新聞を思い切り書きたい気分なんです。気力が漲ってますから」
「そう。じゃ、文ちゃん。今日はお掃除、どうもありがとうね。今日のお布団はきっとぽかぽかで、気持ちよく寝られると思うわ」
「はい、ゆっくり休んでくださいね」
「玄関まで送るわ」
「いえ、いいです。妖夢は片づけをして下さい。また明日も朝早くに来ますから、そんなに畏まらなくてもいいですよ」
「そう? じゃあ、ここでいいわね。お休みなさい、気をつけて帰ってね」
「文ちゃん、お休み〜」
「寄り道せずに帰りなよ〜」

三人の挨拶に笑って応え、文は居間から姿を消した。
それと同時に、小町も立ち上がる。

「さ〜て、あたいも部屋に戻ってるよ。風呂が空いたら呼んでおくれね」
「はい、分かりました」

小町は渡り廊下に足を踏み出すと、文とは反対の方向に姿を消した。
それを見届けると、妖夢は食器を片し始める。

「さ、幽々子様は湯浴みをなさってください。後がつかえますから」
「その前に妖夢」

ふと、幽々子の声色が変わった。

「はい? なんですか、幽々子様」
「そこにお座りなさい。片付けは後でいいわ」

幽々子に呼び止められた妖夢は、主の方に目をやる。小町が去る直前まで貼りついていた笑顔は、すでに跡形も無くなっていた。
思わずほんの一瞬、主の顔を凝視する。これほど感情を表に出さず、無機質に自分を見つめる主の顔を、妖夢はいままで見たことがなかった。
幽々子は毎日が楽しくてたまらないといった風に、いつもにこやかに笑っている。冗談ではなく、幽々子が本気で怒った時を、妖夢は一度も見たことがないのだ。
だから妖夢は、初めて見た主の表情に少なからず恐怖を覚えた。
怒声など縁のない人だと思っていた。だが、今の幽々子は導火線に火のついた炸裂弾のように感じる。いつ爆発してもおかしくない。そんな危うさを、体の隅々から発しているのだった。

「……はい。何でしょうか幽々子様」

言われた通りに、妖夢は幽々子の対面に正座する。先ほどまで小町が座っていた座布団は、まだほんのりと暖かさを残していた。

「……ねぇ、妖夢? 今日の夕食はなんでお鍋にしたの?」
「え?」

幽々子の一言目は、思いも寄らなかった問いだった。妖夢は少しだけ目を見張り、そして、おずおずと答える。

「……特に理由はないですよ。今日は久しぶりに文さんがいるから、大勢で食べられる物は何かと考えて、鍋にしようと思っただけです」
「……そう」

幽々子は相変わらずの無表情で、妖夢の目を見つめ続ける。妖夢は隠していた悪事がばれて、お説教を受けているかのような居心地の悪さを感じていた。
物心ついたときから妖夢のそばにいた西行寺家の当主。敬う心こそあれ、恐れを抱いたことは全くなかった。
早くこの主の目の届かないところに行きたい。その感情を幽々子に対して向けることも、言わずもがな、初めてのことだった。

「……もうマスクはしていないようだけど、体調は元に戻ったのかしら? 明日から元気に動けそう?」
「え、ええ……ご心配をおかけしました。いつも通り、仕事をしているうちに治りましたから、ご安心下さい」
「……」

幽々子はいまだ、妖夢を見つめ続ける。
妖夢は、幽々子がどうして鍋を夕食に出したのか、と聞いた時から、幽々子が何を言いたいのかに気付いていた。
いや、当然というべきか。
幽々子は妖夢が生まれたときからずっと一緒にいる家族のようなものだ。おまけに心の機微を読むことに長け、相手の本心を見抜いてしまう。
この聡い主に幼少から観察され続けてきた妖夢の異常など、見抜かれて当たり前なのだ。
しかし妖夢は、もし幽々子にそのことを指摘されても、首を縦に振らないだろう。
従者は主のために存在し、迷惑をかけることなどあってはならない。自身の問題は自身で解決しなければならない。今ここにはいない、尊敬する祖父からの教えだった。

「……そう」

時間にして、約一分ほど。妖夢にとっては何十分にも感じられた。
幽々子は瞼を伏せ、妖夢から視線を外す。そして、いつも通りの笑顔に戻って、愛らしく首をかしげた。

「妖夢がそう言うなら、そうなのでしょう。健康管理は従者の基本よ。それを忘れないように」

幽々子は立ち上がり、妖夢の横を通って渡り廊下に向かう。

「じゃあ、お風呂に入ってくるわ。早くしないと、こまちゃんが入れないものね。後片付け、よろしくね」

そう言い残し、幽々子は居間を後にした。

「……」

妖夢は主の後姿を見送りながら、言いようのない不安に駆られていた。







不幸というものは、どんなに気をつけていようとも、起きる時には起こってしまう。

この世に存在する不幸には、ほぼ確実に原因が存在し、その原因を事前に取り除くことが出来れば、不幸に遭うことはなくなる。
不幸は、事故とほぼ同義だ。日常生活で起こる小さな不幸は、大抵は取り除くことが可能だ。それを怠り、取るに足らない小さな不幸に腹を立てることなど、自業自得と言わざるをえない。自分の生活を省みていない証拠と言える。

しかし、自分の与り知らないところで、不幸が起こる原因が複雑に絡み合い、一人の努力だけでは到底回避できないところにまで事態が大きくなってしまうことがある。
風が吹けば桶屋が儲かるの逆で、自分とは全く関係のない、あるいは悪意のない者の行為が、結果的に自分に不幸をもたらす。こういう不幸は原因が目に見えないことが多く、回避が非常に困難になる。
こういうのを本当の不幸というのかもしれない。甘んじてその身に受けなければならないのだから。

そう。たとえ、それが、決して取り返しのつかなくなるようなことになっても、甘んじて……。



食事の片づけを終えた妖夢は、一抱えほどの洗濯かごを持って白玉楼の中庭を歩いていた。
まだ春になりきっていない夜の庭はうそ寒く、かすかに息が白く染まった。

「……」

裏庭に続く飛び石を歩く。
妖夢の顔には、今日一日中着けていたマスクが、再び貼りついていた。
すでに幽々子と小町は風呂に入り、自室でゆったりと過ごしているはずだ。だから、見咎められる心配はないと妖夢は考え、ようやくマスクを着ける気になったのだ。

一週間ほど前だった。
妖夢は朝起きると、少し体が重くなっていることに気づいた。立ち上がると思わず座りたくなるような倦怠感。この感覚は今から何年も前、妖夢が初めて仕事をし、疲れ果てて眠り、目覚めた翌朝の時に似ていた。
妖夢はそれほど気を留めていなかった。小町が増えたことで溜まった疲れが今になって出てきたのだろう、くらいにしか考えていなかった。いままでも疲れたまま仕事をし続けて、知らずに疲労は抜けていったのだから、今回も一時的なものだ。いつもどおり生活していれば、いつの間にか体調は戻るだろうと楽観していた。

その妖夢の予想に反して、日を追うごとに体は重さを増していった。
四日目にして初めて、妖夢は自分の体の異常を感じ取り、置き薬の中から風邪薬を漁り始める。それでも全く効果がなかった。
妖夢は、大げさに言えば、激務と言える仕事を毎日こなしているが、それ以上に体を鍛えており、食生活も良好だった。
風邪は不摂生などで一時的に免疫力が低下して起こる病気である。だから妖夢にとって風邪とは全て軽いものであり、寝ずとも治るものに過ぎなかった。
しかし、今回の風邪はそういうわけにはいかないようだった。仕事を早めに片付けて、早めに床に就いても、翌朝、体の重みはなくならない。
わけも分からずに今日まで過ごしてきたが、ここにきて、妖夢が仕事が出来るギリギリのところまで体の重みが増していた。

妖夢は、この体の異常を早く取り去りたかった。
幽々子に迷惑がかかるという理由ももちろんある。しかし、それと同じくらいの割合で、小町のことが気がかりだった。
小町は一見、不真面目で軽い性格のように見えるが、本当は誰よりも思いやりに溢れ、強い責任感を持っていることを妖夢は知っている。
もし妖夢が倒れてしまったら、小町は少なからず自分を責めるだろう。もしかしたら家が建つのを待たずに、白玉楼を後にするかもしれない。
自分のせいで好きな人が責任を感じて出て行ってしまう。妖夢にはそれが耐えられなかった。だから、いまのいままで体の不調を隠し通し、普段どおりに振舞っていたのだ。

でも、それもそろそろ限界だった。
今日の仕事は、布団が入っていた押入れの一階分を拭いて片付けたことにし、午後に布団を取り込んだ後は、自室に引きこもって仮眠を取った。小町と文が慣れない仕事を一生懸命にやっているというのに、自分だけが休んでいることに罪悪感を感じながら。
夕食もいままでとはうって変わって、あまり調理する必要のない鍋を選んだ。材料を刻んで湯の中に放り込めば出来上がるため、休む時間が増えると思ったのだ。
そんな苦肉の策もほとんど効果はなく、今日、ついに幽々子に異常を感じ取られた。このまま調子が取り戻せなければ、強制的に休まされるかもしれない。

小町と文は、あとわずかで白玉楼に別れを告げることになる。
この二週間、幽々子以外の家族が増えたようで、妖夢はこの上ない喜びを感じていた。少しでも長く二人と過ごしたい、食事をともに食べたい、それが妖夢のささやかな願望だった。



妖夢は、やがて洗濯をする土間に着いた。
昼間に文が水タンクの補給をするために使ったポンプは、久しぶりにたくさん動いた疲れからか、闇の中で静かに眠っているようだった。
しかし、まだ洗濯が残っている。起きてもらってもう一頑張りをしてもらおうと、妖夢はポンプに近づいていった。

大きな不幸ほど、複雑な要因が絡み合い、ほどくのが難しくなる。
そして、ほんの小さなきっかけで、その全ての要因が連鎖しあい、一気に降りかかってくる。
妖夢は夜に洗濯をすること、今日は小町の休日だったこと、文が水タンクの補給をしたこと、幽々子に体の異常を指摘されたことで妖夢が考え事をしながら歩いていたこと。
そして、文が偶然、水の入った桶を流しに捨てずに、そのまま放置してしまったこと。

「あっ!?」

妖夢は足元を注視していなかったせいで、土間に上がる前の敷居の木に足を取られた。
そのまま前方に倒れこむ。受身を取ろうとして視界が回る。
咄嗟に何か掴む物を探した。ポンプのそばに置いてあった何かが目に映り、無我夢中でそれを左手で掴む。

それは、文が置き忘れた、五リットルの水が入った桶だった。

「ぅっ……ぁっ……」

あまりの冷たさに、一瞬息が停止する。肺が酸素を求めているというのに、ちっとも呼吸が出来ない。
妖夢は目を固くつぶって、歯を食いしばってそれに耐えた。

「っ、っはあっ、はあ……はあ……」

ようやく喉と肺が直結し、夜の冷たい空気が流れ込んでくる。ほんの数秒だったのだろうが、妖夢には何十秒にも感じられた。

「はあ……はあ……はあ……」

脳にも酸素が行き渡って、少しずつ目が見えてくる。

「……」

もっと少ない被害を願っていた。けれど、そんなに甘くはなかった。
土間は水浸しだった。妖夢は泥水溜まりと化した地面に座り込んでいた。
洗濯物が散乱していた。土にまみれて泥だらけだった。妖夢の体も、泥だらけのびしょ濡れだった。

「…………」

呆然と目の前の光景を見つめる。
一瞬にして巻き込まれた惨事。頭の中に入ってきても、理解することが出来ない。
冷たい水を頭からかぶったために襲ってきた強烈な寒気に気付き、妖夢は今の状態をようやく理解し始めた。

「さ、寒い……」

歯の根が合わないほどに震え、両腕で体を抱きかかえる。
このままでは、風邪が悪化する。早く着替えて温まらないといけない。

「お風呂……お風呂に入ろう。着替えはないけど、タオルを巻いてすぐに部屋に戻れば大丈夫なはず……」

この土間から浴場まではそれほどの距離はなかった。渡り廊下から中に入れば、すぐに藍色の暖簾が見える。
ふらふらとしながら立ち上がり、泥に塗れた洗濯物をそのままにしながら、おぼつかない足取りで妖夢は浴場に向かった。



脱衣所に入った妖夢は、肌に貼りついた服を苦労して引き剥がし、急いで浴場の戸を開ける。
広い浴室の半分を占めようかという大きな浴槽。その体積の三分の一程度にまで、木製の厚い板で分割されている。
その中には、並々とお湯が満たされていた。

妖夢は一刻も早く熱い風呂に入りたかった。行儀が悪いといわれようが構わずに飛び込みたかった。そうすれば体はきっと温まって、風邪なんか吹き飛ばせると思っていた。

「え……?」

しかし、妖夢は足を止めた。目の前に浴槽があるというのに、足を動かそうとしない。信じられないものを見た顔つきで、寒い浴室の中、一糸纏わぬ姿で立ち尽くした。

浴槽の湯が、板を乗り越えて流れ出ていた。
緩やかだが、確実に排水溝の中に吸い込まれていた。
立ち上る湯気はほとんどなく、湯の温度がどればかりなのかを示していた。

寒さに震えながら、妖夢は浴槽の前に立ち、お湯に手を突っ込んでみる。
……もはやお湯ではなった。水に近い温度だった。

「まさ、か……」

妖夢は宙を浮き、出窓から外を窺った。湯気を逃がすために開けられた窓からは、浴槽に水を入れる水タンクがすぐそばに鎮座しているのが見えた。
妖夢の目はタンクと浴室の壁を繋いでいる太いパイプに向く。そこには、タンクから流れ出る水を調節する木製のハンドルが付いていた。
いま、そのハンドルはパイプと平行になるくらいになっている。ハンドルは、パイプと垂直にすることで水を完全に出さないように出来る。

故に、いまタンクからは止めどなく、浴槽に向かって水が注がれているのだ。
今日タンクを満杯にしたことも影響しているのだろう。水の重さに耐え切れなくなり、二百年間水を止め続けたハンドルが、ここに来て悲鳴を上げ始めたのだ。

「どうしよう……」

いまから風呂を沸かすことなど出来ない。その間に大風邪を引くに違いなかった。もう風呂に入ることはあきらめるしかない。
妖夢はこれからやることを、混乱した頭で必死に考える。
最初にやることは、服を着ることだった。いつまでも裸でいるわけにはいかない。早くタオルで水を拭き取り、自分の部屋に戻って、新しい服に着替えるべきだった。
その後は、水を流し続けているタンクの応急処置をし、泥に塗れた洗濯物を回収しなければならない。もう洗濯をする気力はなかった。明日の朝、稽古に費やしている時間を洗濯に充てようと考えた。

なんとかやることに優先順位をつけ、妖夢は浴室を後にする。
浴槽からは、未だに水が川のように流れ続けていた。







部屋に戻ってきた。
もう……寝巻きに着替える力が無かった。
布団に倒れこむ。そのまま、芋虫のように布団の中に入った。

干したばかりだというのに、布団の中は冷たかった。
体温も低いだろうから、暖かくなるまで時間がかかるだろう。
……早く……暖かくならないかなあ……
そんなことを考えながら、固く瞳を閉じる。

寒い。
体がガチガチと震える。
少しでも暖かくなろうとして、身を縮こまらせた。
それでも、あまり暖かくならなかった。

寒い。寒い。
涙が出そうだった。
でも、泣かない。
このくらいのことで泣いていたら、先代にあわせる顔がない。
だから、泣かない。歯を食いしばって耐えた。

早く、暖かくなれ……
早く、暖かくなれ……

そして、意識が途切れた。



◇ ◇ ◇















……なんだか、寝覚めがよくなかった。

いつもの起きる時間。いつもの天井。いつもと変わらないはずなのに、なんだか少し変な感じがした。
昨日の仕事の疲れが、まだ抜けきっていないのだろうか。昨夜は、その疲れのせいですぐに眠りにつけたのに、まだ体力が完全に戻っていないように感じた。

あたいは体を起こす。
体力が戻っていないわけではないらしい。あたいは寝起きがいいので、体の調子が悪いときはすぐに分かる。
では、この変な感覚はなんなのだろう。体は疲れていないのに、心の方が疲れている、いや、なんだかざわついて落ち着かない感じがする。
白玉楼に泊まり始めて以来、こんな変な気分は初めてだった。

目を障子の方に向けると、いつもは斜めに日が当たっている障子が、今日は光っていない。曇り空のようだ。
服を着替える。今日はおなじみの死神装束だ。一日来ていなかっただけなのに、なんだか懐かしい感じがした。昨日があまりにも楽しかったものだから、一日の間が遠いものに感じているようだった。

障子を開けると、予想通りの曇り空。どんよりした黒くて厚い雲は、いまにも雨か雪を降らせそうだ。
昨日あんなに天気が良かったのに、一転してこんな天気にさせられてしまったので、お天気の神様に文句を言ってやりたい気分だった。
いつまでもこんな空を見ていたんじゃ気が滅入る。さっさと居間に行くことにした。
今日も妖夢の味噌汁から一日を始めよう。



居間に到着すると、障子を開け、足を少し上げながら中に入る。

「あれ?」

いつもの居間、いつものコタツ。特になんら変わらないように見えた。
しかし、足りない物があった。コタツの上に伏せられた茶碗と、脇に置かれた箸。あたいが朝、居間に来ると必ず置かれている四組のそれらが、今日は一つも見当たらなかった。

「……? どうしたんだろ、妖夢。まだ用意してないのかな?」

あたいはそう深く考えずに、コタツの中に足を突っ込む。

「あら?」

すると、すぐに違和感に気付いた。いつもなら熱いくらいに温まっているコタツの中が、今日はちっとも温かくなかった。
コタツ布団を引き上げて、中を覗いてみる。大型の火鉢は少しも赤くなっておらず、火の種が尽きているようだった。

「……」

この時になって、あたいは嫌な予感がしてきた。
立ち上がって台所に向かう。今の時間なら、妖夢は台所で料理の仕上げに入っている頃だろう。だから、いつもなら妖夢は台所にいるはずだ。そう、いつもなら。
暖簾をくぐって台所を覗きこむ。そこには妖夢はおろか、ネズミ一匹いなかった。
まな板は立てかけられ、料理をした形跡は一切ない。昨日の夕食後に、妖夢が片付けたそのままの姿を保っていた。

『おはようございまーす』

ふと、居間の方から文の声が聞こえた。
急いでそちらの方に向かう。

「文」
「あ、小町さん、おはようございます。昨日の疲れは取れましたか?」
「文、妖夢を見なかった? ここに来る途中で」
「へ? 妖夢ですか? いえ、見てませんけど……あれ? そういえば食器がないですね、いつもならコタツの上に載ってるはずなのに」
「文、悪いけど、ちょっと白玉楼の外をぐるっと回って、妖夢がいないか見てきてくれない? お前さん足が速いから、五分くらいで片付くだろ? あたいは中を探してみるから」
「わ、分かりました……終わったら、ここに戻ってきますね」

あたいの真剣な様子に少したじろぎながらも、文は後ろを振り返って中庭に飛び出た。
そのまま、あたいは妖夢の部屋に向かう。
朝のこんな時間に、妖夢が自室で寝ているなんて事は考えられない。そもそも、妖夢は寝るときくらいしか自室を使わないのだ。いない方が自然なくらいに思える。
だから、あたいは妖夢に自室にいてほしくなかった。文が妖夢を連れてきてくれることを願っていた。ちょっとした急用が出来て外出していた、すいません、と謝る姿を想像していた。そして、遅めの朝食を食べ、残念だけど弁当はないがそれでも仕方が無いとあきらめ、いつもどおりに妖夢に見送られて出勤していく。それで、いつもの朝の風景に戻るはずなのだ。

なのになんで、あたいはこんなに不安に駆られているのだろう。
妖夢が台所にいなかっただけで、こんな気持ちになる必要なんてない、きっと取り越し苦労だ、頭はそう分かっているのにじっとしていることが出来ない。
なぜなら、こんな経験をあたいは二週間前にしているのだから。
朝起きてみると、雪に屋根を潰され、途方に暮れたあの気持ち。一瞬にして平和な日常は壊されることを知った。
妖夢は日常の象徴だった。だから、妖夢がいなくなってしまったということに、あたいは底知れぬ恐怖を感じた。

あたいの足はどんどんと速くなり、小走りといってもいい速度で歩く。
妖夢の自室は、玄関のすぐそばにあった。



「妖夢、いるかい? 入るよ?」

あたいは妖夢の部屋の襖の前に立ち、中に呼びかける。返事はない。いつもの可愛らしく返事をする声が聞こえない。
待っても無駄と思い、あたいは襖を開けた。
まず目に飛び込んできたのは、女の子の部屋とは思えないほどに殺風景な部屋。

その中心に、妖夢がいた。

顔をあちら側に向け、背中を見せている。
あたいは妖夢を見つけたことに安堵した。どうやら、ただの寝坊のようだった。

「妖夢、朝だよ。そろそろ起きないと、朝飯がなくなるよ」

あたいはゆっくりと部屋に入った。妖夢を揺り起こすため、布団の近くに座る。

「ほら、別に怒りやしないからさ。ご飯を食べようよ」

あたいは妖夢の肩に手をかける。すると、糸が切れた人形のように、くてん、とこちらを向いた。

「!! 妖夢っ! 妖夢っ!!」

こちら側に向けた顔にはビッシリと汗の球が浮かび、真っ赤な顔をして苦しげに息を吐き出していた。

「妖夢っ!! しっかりしろっ!! あたいが分かるかっ!?」

妖夢は呼びかけに応えない。眉を寄せ、胸を忙しなく上下させていた。
いくら名前を呼んでも、いくら揺り動かしても、固く閉じられた瞼が開けられることはなかった。

「文っ!!! 幽々子さんっ!!! 大変だ、早く来てくれっ!!! 妖夢が大変だぁっ!!!」

あたいはあらん限りの大声を出して、文と幽々子さんを呼びながら部屋を飛び出していった。


白玉楼に来てから、二週間と一日目のことだった。

  

戻る