十二の畳が敷き詰められた座敷。数多く並ぶ障子の一枚は開け放たれ、そこから清涼な風が流れ込んでくる。
障子の外には地から無数の竹が伸びており、日光の一切を遮っている。
早朝。さらに東向きであるのに、その座敷の中はやや薄暗かった。

幻想郷のある地域に存在する竹林の中に、隠れるようにひっそりと建つ和風建築の屋敷。
“永遠亭”という名の冠す通り、時間が止まったかのような佇まいを感じる。

ここは、その屋敷の一角にある座敷の一つ。その中心に、白い寝巻きに身を包んだ、魂魄妖夢の姿があった。
座敷の中心に、大げさといえるくらいに大きな布団が敷かれ、そこに横たわっている。
可憐な顔は苦しげに歪められ、荒く息をつき、顔はホウズキのように赤かった。

座敷にいるのは、妖夢だけではなかった。
一人は、長い髪を大きな三つ編みにし、赤と黒が半々の服に身を包んだ女性。
もう一人は、頭に兎の耳が生えている紫がかった銀髪の少女。
女性は妖夢の服をはだけ、胸に聴診器を当てている。時折、メモを走り書きながら。
少女は、妖夢の鼻に匙のようなものを入れ、粘膜を採取している。妖夢が苦しそうな声を漏らすたびに、すまなそうな表情をしながら。

ひとしきり妖夢の胸と腹の音を聞いていた女性は、聴診器を外し、溜め息をつきながら隣に置いた。

「……どうかしら?」

そう問いかけられた少女は唇を噛み締めながら、先程採取した、妖夢の鼻の粘膜を混ぜた薬品が入れられた試験管を見せる。

「……赤です。どうやら……同じようです……」
「……そう」

女性は短く答えて目を伏せる。

「例の丹を飲ませてあげて。それで少しは回復するでしょう。あと、てゐにお客さんを私の研究室に通すように伝えて。そろそろ来る頃だから」
「……はい」

少女は悲痛な表情で立ち上がり、小走りに座敷を出ていった。
残された女性は、妖夢の寝巻きを直し、厚い布団を肩までしっかりとかぶせる。

「これで……四人目、か」

ぽつりと一人ごつ。
細められた目は鈍い光を湛え、見えない何かを睨み据えるかのようだった。







見知らぬ森の上空を西に飛ぶ。
景色はどんどん流れ、小さくなって消えていく。
朝の空気を切り裂きながら飛ぶと、喉がひんやりと冷やされて、唾を飲み込むと氷水のように冷たくなる。
だが、そんな些細なことを気にしている余裕などない。少しでも速く、一秒でも早く到着できるように、あたいと幽々子さんは全速で飛ぶ。
目指すは、竹林の中に隠れるようにひっそりと建っている大きなお屋敷。あたいは、そこに以前の花騒ぎのときに一度だけ行ったことがある。
文から、そこに希代の薬師がいると聞き、すぐに白玉楼を飛び出したのだ。

前を飛ぶ幽々子さんの後ろにつき、追いかける。ついて行くだけでも精一杯だ。あたいの最高速度で飛んでいるにもかかわらず、幽々子さんには全く追いつけない。この人がこんなにも速く飛べたことに驚きを感じる。
思いの強さで飛ぶ速さが変わるのなら、妖夢と何年間も寝食を共にした幽々子さんの方が速いに決まっている。でも、日が短いとはいえ、あたいも心配の度合いなら負けていないつもりだ。
もっと速く。もっと早く。気持ちが逸り、なかなか見えてこない竹林がもどかしかった。

「こまちゃん、大丈夫かしら? ついてこれる?」

幽々子さんは首だけで振り返りながらあたいを心配してくれる。

「平気です。飛ばせるだけ飛ばしてください。幽々子さんが少しでも見えれば追いつけますから」
「……わかったわ。じゃあ、もう少し速くするわね」

そう言うと、幽々子さんは体が引っ張られるかように前に進んだ。
……速いな。でかい口叩かなければ良かったか。
幽々子さんは少しずつ小さくなっていく。あたいも負けじと、力を振り絞って後を追った。



やがて見えてきた、林というよりは森といった方が適当な竹林の中に、あたいたちは身を投じる。
すぐそばを太い竹が掠めていくのは、さすがに怖い。それでもスピードは落としたくはなかった。
竹林の道程は思いのほか長く、景色もほとんど変わらないので迷いやすい。しかし、幽々子さんはまるで道を知っているかのように真っ直ぐに突き進んでいく。あたいは姿を見失わないように必死に後についていった。

しばらく竹林の中を飛ぶと、幽々子さんは少しずつスピードを落とし始めた。
程なくして、竹の間から木造のお屋敷が見え始める。異国の雰囲気が混ざった白玉楼とは違い、こっちは純和風のお屋敷だ。
白玉楼のように高い塀に囲まれてはいないが、入り込んだ者の方向を狂わす無数の竹が、天然の塀となっているのだろう。

『小町さーん! こっちでーす!』

竹林を抜け、ようやく屋敷の全てを視界に収められるようになると、どこからか文の声が聞こえた。
首を回して姿を探すと、屋敷の玄関前で手を振っている文に気付いた。幽々子さんはすでに到着している。急がなければ。

「お疲れ様です、迷わずに来られましたね」
「文っ! 妖夢はっ!?」

玄関に降り立つと共に文に食いつく。こいつがここにいるということは、すでに妖夢は屋敷の中にいるはずだった。

「お、落ち着いてください。いま治療を受けています。そろそろ終わるはずですよ」

もう終わるということは、文はあたいらより数十分前にここに着いたのだろう。
やはり、文に妖夢を任せて正解だった。

「でも、文ちゃんはなぜ外にいるのかしら? 妖夢が治療を受けている間にそばにいられなかったの?」
「私も最初はそうしようとしました。でも……追い出されてしまいました」
「追い出された? なんだい、それ?」
「よく分かりません……ただ……永琳さんは妖夢の状態を見ると、治療中に立ち入らないようにと、私に注意をしまして。それで仕方ないのでお二人を待っていたわけです」

永琳? それがここの薬師の名前だろうか。
いや、それよりも気に掛かるのは、その人が文を診察から締め出したことだ。
なんだか、変だ。これじゃ、まるで面会謝絶じゃないか。

「とにかく、これで関係者は全員揃いました。妖夢にはまだ会えないかもしれませんが、お話だけでも伺いましょう」

そう言うと、文は屋敷の規模にしては意外に小ぢんまりとした戸を左から開ける。
その中には、いつか見た無限とも思える長い廊下が、暗闇の中に吸い込まれていた。

「やっと来たね。待ちくたびれたよ」

戸を開けた途端、文を挟んで向こう側から子供っぽい声が聞こえた。誰かいるようだが、文の背中に隠れて姿を見ることは出来ない。
背の低い、本当に子供のようだ。

「お待たせしました。二人が来ましたから、永琳さんのところに案内してください」

文は玄関の敷居を跨ぎ、あたいもそれに続く。すると、さっきの声の主が判明した。

「あ、お前さんは、確か」
「あれ〜? あんた、どっかで会ったことあるね」

そこにいたのは、永遠亭に住む妖怪兎、因幡てゐだった。会うのは、大体一年ぶりくらいか。
癖のかかった黒髪に伏せられた耳、生意気そうな目はよく覚えている。

「なに〜? あんた、あの庭師と知り合いなの?」
「まあ、そうさ。早く妖夢の顔を見させてくれよ」
「ダメよ。いま鈴仙がお医者さんごっこしてるから。あんたたちは、まず永琳様のお話を聞くの。私はその案内役を仰せつかってるんだから、連れて行かなきゃ怒られるわ」

てゐは兎っぽく、後ろにぴょん、と半回転しながら跳ぶと、こちらを振り返った。

「さっさとついて来て。ここは慣れてない人が歩くと迷うから。そうすると探すのが面倒だからね」

てゐは、あたいたちが靴を脱ぐのを待たずに、すたすた歩き出す。

「まったく、相変わらず自分本位なやつだね」
「行きましょう。妖夢の顔は見たいけど、以前、ここの者たちは妖夢の目の治療をしてくれたことがあるわ。任せて大丈夫よ」

幽々子さんは先んじて靴を脱ぐと、てゐの後について歩き出した。
あたいと文も急いで玄関を上がる。白玉楼の石畳のように長い廊下は、一体どこまで行けば部屋にたどり着くのだろうと、あたいを不安にさせた。



「ここよ。さ、入って」

てゐが案内してくれたのは、板張りの広い部屋だった。
和風建築には全くそぐわない、何脚もの机が規則正しく並べられ、ビーカーやら試験管やら、たくさんの実験器具がその上に所狭しと置かれていた。

「なんだい、ここ? まるで実験場だね」
「まさに、その通りですよ。ここは永琳さんが薬を開発するラボです。以前、取材に来たときに入らせてもらったことがあります」

文の説明を受け、あたいは部屋の内部を見渡す。
数々の器具の中には色とりどりの液体が入れられており、火にかけられて沸騰しているものもある。お約束としては、触ったりしたら爆発するのだろう。下手にいじらない方が良さそうだ。

「こっちよ。早く来て」

あたいたちを実験場の中に入れたてゐは、襖を閉めた後、再び先頭に立って案内し始めた。
どうやら、部屋の一番奥にある扉に向かうようだった。あそこが永琳という人の部屋なのだろう。

「永琳さま〜、連れて来ましたよ〜」

扉の前に立ったてゐは、中の返事を待たずにノブを捻った。

部屋の中は、自室というよりは書斎といった様相だった。
壁という壁に本棚が貼り付いており、見ただけで眩暈がしそうなほど分厚くて難しそうな本がびっしり敷き詰められている。
床にはやや暗い赤の絨毯が敷かれ、その中心には座り心地の良さそうなソファーとガラスのテーブルが置かれ、部屋の奥には四季様の執務室のものと同じくらいのでかい机が存在感を示している。この屋敷に、こんな見事な洋装の部屋があるとは驚きだった。

「おや、これは大勢のお客だな」

あたいたちが部屋に入ると、部屋の中から、聞いたことのある凛とした声が聞こえた。
中には、意外な人物がいた。銀の長い髪に、儀式的なものを思わせる特徴的な帽子。二週間前に冥界の門の前であった上白沢慧音さんだった。ソファーの上に行儀よく座り、開いた扉の方を見つめている。

「あれ? 慧音さんじゃないですか。どうしてこんなところに?」
「うん……まあ、ちょっとここの薬師に用があってね。朝早くからここにいるんだ」

文が問うと、慧音さんは苦い顔をして答える。
あたいたちと同じか? 慧音さんも誰か病人でも抱えるようになったのだろうか。

「朝早く、って今もけっこう早い時間ですよ? 一体いつからいたんですか?」
「大体、六時くらいかな」
「ろ、六時ですか? 本当に早いですね。なんでまた?」
「いや、この時間に来るように永琳に言われているんだよ。だから、迷惑はかけるようなことはしていない」

慧音さんの話には分からないことが多い。
薬師を訪ねて来たということなら、当然、薬を求めに来たのだろう。しかし、この時間に来るように言われている、ということは別に急患が出たというわけではないようだ。つまり、慧音さんは少なくとも、ここ数日は毎朝この時間に永遠亭を訪ねているということになる。だが、その理由が分からない。

「さあ、いつまでも立ってないで座ったらいい。あなたたちも、この屋敷の者を知らないわけではないだろう」

慧音さんに促されて、あたいたちは各々ソファーに座る。大型のソファーは、あたいたち三人が座ってもまだ二人は座れそうだった。

「お久しぶりね。妖夢があなたの住む里でお世話になってるみたいね。お礼を言うわ」
「久しぶりだ、亡霊嬢。いや、あなたたちからも色々と珍しい物を貰っている。里の連中も何が届くか楽しみにしている者もいるんだ。こちらからも礼を言う」

幽々子さんと慧音さんは短く挨拶をした。なんだ、この二人も知り合いだったのか。

「それから、二週間ぶりになるね。確か、小町さんだったか。冥界の門前で会って以来だね」
「ああ、覚えていてくれて嬉しいよ。二週間前にちらっと会っただけなのにね」
「暗記は得意なのさ。歴史を勉強しているくらいだからね」

そう言うと、慧音さんは微笑する。

「じゃあ、その先生に一つ質問を。さっきの慧音さんの話のことなんだけど、」

と、あたいがそこまで言った時、あたいたちが入ってきたところとは違う扉がこちら側に開いた。
扉を開けたのは、長い銀髪を大きな一つの三つ編みにして胸元に垂らし、赤と黒が半々の独特な服を着た女性だった。

「待たせてごめんなさい。処置が少し長引いてね」

この人が永琳さんなのだろう。落ち着いた大人の雰囲気がある人だった。

「永琳さん……妖夢は、どうなんですか? もう落ち着いたんですよね?」
「…………ええ、とりあえずは大丈夫よ。今はウドンゲが見ているから、心配しなくていいわ」

文の問いに、永琳さんははっきりした口調で答える。
……でも、あたいには最初に、やや答えるのを迷ったように見えた。

「あら、見ない顔がいるわね。誰かしら?」

永琳さんはあたいに気付いた。確かに、この中ではあたいは初対面だ。

「あ、どうも。小野塚小町といいます。妖夢の、友達です」
「そう。私は八意永琳よ。ここで薬師をしているわ。よろしく」

永琳さんは、なんとなくそっけない自己紹介する。クールビューティーとはこういう人のことを言うのだろうか。
あたいの右奥にある机の下に入っている背もたれ付きの椅子に、机に背を向けて永琳さんは座った。

「……あなた達も、なんとなくは分かっていると思うわ。処置の終わったあの娘に会わせずに、こんなところに集まってもらうのは、やはりおかしいしね」
「薬師さん。回りくどいことは言わなくていいわ。単刀直入にお願い。……妖夢の状態は、どうなの?」
「……」

幽々子さんの言葉に、永琳さんは目を細める。そして、腹の前で組んだ手に視線を落とした。
ほんの数秒の間だった。永琳さんは立ち上がると、背を向けて腕を組み、俯いて何かを考えているようだった。

何故だ? 何故、妖夢の状態を話すだけなのに、こんなに時間をかける……?

永琳さんは、やがて、ふう、と息をついた後、緩慢にこちらを振り返った。

「そうね。知っているのと、知らないのでは、後のショックが違うだろうしね」

一呼吸置いたあと、永琳さんはゆっくりと息を吸い込み、そして吐き出した。





「あの娘は危険な状態にある。最悪の場合、命を失う可能性があるわ」










へ?










なに、それ?










時計の音がやたら大きく聞こえる。
まるで絵にはめ込まれたかのように、誰一人として動こうとはしなかった。

「そ…………それはどういうことだ? 妖夢が……生命の危機にある……?」

絞り出すような声で、慧音さんが静寂を破った。

「あなたの方が詳しいでしょうに。……同じよ、あなたの里の人間と」
「ま、まさか! い、いや……そういえば……、そうか、そういうことか……。た、確かに……ありえない話ではない……か……」

慧音さんが一人で納得していく。

「ど…………どういうことですか、慧音さん……。な、なにか、ご存知なんですか……」

文が途切れがちに尋ねる。いつものハキハキした口調は成りを潜めていた。

「話してあげなさい。この三人に話を通じさせるには、最初から話す必要があるわ」
「う、うむ……分かった、話そう。ここ二週間の間に、私の里で起こった出来事だ……」

慧音さんは姿勢をあたいたちのほうに向け、おもむろに話し出した。

「……いまから、約二週間前だった。里の人間が、このところ体が重くてしかたがないと訴えてな。どうも風邪みたいだから、医者を紹介してくれないか、と私を訪ねてきた。知っての通り、幻想郷は人間の数は少なく、当然、医療の知識を持った者は圧倒的に少ない。私は幻想郷の全ての人間の医者を把握していたが、最も近いところに住んでいる医者でも里からかなり離れた所におり、歩くと一日はかかった。それ故、私が力を貸して、医者を連れてくることになった」
「もしかして……その時に妖夢が来たんじゃないですか? 二週間前といったら、私と小町さんと冥界の門で鉢合わせしたことがありましたよね?」
「ああ、そうだ。私は、妖夢の荷物を持つ手伝いをした後、医者のところに向かう途中だったわけだ。もう夕暮れ時だったが、無事に医者を捕まえ、その日のうちに患者を見てもらい、薬を処方してもらった。それで解決するはずだった。ところが……薬を処方してもらったにもかかわらず、その患者の容態は一向に良くならない。かえって悪化しているようにも見えた。仕事に支障が出始め、ついに倒れてしまった。それが、今から約一週間前のことだ」

慧音さんはそこで一旦区切る。

「私の知りうる全ての医者に掛け合ってみたが、全員がお手上げの状態だった。原因が分からない風邪。そんなものは治しようがなかったんだ。そこで、藁をもすがる思いで、この永琳を頼った」

慧音さんは永琳さんをちらと見る。永琳さんは足と腕を組んで、眠るように話を聞いていた。

「永琳はさすがに腕のいい薬師だった。その患者の症状を見て、二、三ほど調べただけで、病気の特定をすることが出来た」
「そ、それは一体?」

文の合いの手に、慧音さんはうなずいて答える。

「インフルエンザ、という、風邪の類の病気だった」

耳慣れない言葉と、聞き慣れた言葉を同時に聞き、その意味を把握するのが困難だった。

「か、風邪、ですか? ただの風邪で、どうして人間の医者が治せないんですか?」
「そこが一番重要なところだ。インフルエンザは、ただの風邪とは違うんだよ。風邪が起こる原因は、それこそ掃いて捨てるほど存在する。しかし、インフルエンザは、インフルエンザ菌という特定した細菌が起こす病気なんだ。普通の風邪と比べて何倍も性質の悪いものだと考えてくれればいい」

何倍も性質の悪い風邪……。それに妖夢はかかっているというのか?

「そして、インフルエンザ菌にも色々と種類があってね、ある菌は毎年型を変えてしまうらしく、薬の効き目をなくしてしまったりもするのだが……その患者の体に入り込んだインフルエンザ菌は、飛びっきりの悪性の菌だったんだ。このままでは命が奪われてしまうと考えた永琳は、応急処置として、人間の体力を回復させる栄養が高密度に圧縮された丹を作ってくれた。それで何とか持ち直し、患者は生死の境から脱したが、いまも完治せずに寝込んでいる。それ故、私は毎朝、永遠亭にその丹を取りに来ているというわけだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。体力を回復させる薬ですか? 何故、そのインフルエンザとかいう菌を取り除く薬を作らなかったんです? 永琳さんなら出来るんじゃ」
「それは、私が説明するわ」

文のもっともな疑問に、いままで聞く側だった永琳さんが、再び口を開いた。

「昔、紅魔館の図書館でそのウイルスの特徴を記した本を読んだ記憶があってね、インフルエンザウイルスを殺す薬はすぐに作ることが出来たわ。ただ、問題が一つあったのよ」
「問題、ですか?」
「ついてらっしゃい。見せてあげるわ」

永琳さんは立ち上がると、実験室に繋がる扉の方に歩みを進めた。



実験室の隅にある机の上には、様々な器具や薬品が置かれていた。
永琳さんはその中にある、金属製の顕微鏡の前に立った。

「この顕微鏡のレンズには、倍率を億まで上げる術がかけてあるわ。覗いて御覧なさい」

言われるまま、文が顕微鏡を覗く。

「うわぁ……なんですか、これ? 気持ち悪い……」
「それが、あの娘の中に入っているインフルエンザウイルスよ」

あたいも文に続いて覗いてみる。
……これは確かにおぞましい。グレーがかった色をしていて、丸い形に細い毛みたいなのがカビみたいに生えている。
その菌が何個も集まって、葡萄みたいにくっついていた。

「……これが、妖夢の体の中に……」

妖夢は、こんな生き物に命を脅かされているのだ。とても気の毒で、そして怒りを覚えた。

「永琳さん。さっき、この菌は殺すことは出来るって言ってたよね。なのに、なぜそうしないの? こんなにも正体もはっきりしているのに」
「すぐに分かるわ」

永琳さんは、顕微鏡のすぐそばにあった試験管を手に取り、その中に薬品を入れ始めた。

「覗いてて御覧なさい。これから、そのウイルスに攻撃を加えるわ」

言われて、あたいは顕微鏡を覗く。横で永琳さんがスポイトのような物で、試験管に入れられた薬品を少量吸い取った。
そして、顕微鏡が映し出してるガラスの上に、液を垂らした。

「うわ、どんどん小さくなってる」

液が視界の横から現れ、菌を包み込んだ瞬間に葡萄の粒が見る見るうちに縮小していった。
ある程度まで小さくなった後、房から粒を四方からもぎ取られたように歪な形になってしまった。
あたいは顕微鏡から目を離し、永琳さんのほうを見る。

「確かに、菌が小さくなったよ。これならいけるんじゃないの?」
「いいから、黙って見てなさい」

菌を殺すのを見せるためだと思っていたら、永琳さんはその死骸をまだ見続けていろという。
疑問に感じながらも、あたいは顕微鏡のレンズを覗き続けた。

と、その瞬間、

「うわ、なに、これ」

あたいは目を見開く。さっきまで粒を取られた葡萄が、カメラを逆回しにするかのように、みるみるうちに元に戻りだしたのだ。
一瞬の出来事だった。元の大きさに戻った菌は、まるで何事もなかったかのように、元の位置に居座っていた。

「分かったかしら? このウイルスは増殖力が半端じゃないの。多少ダメージを与えたくらいじゃビクともしない。やるなら、その集まったウイルスを全て殺すくらいに強力な薬を投与する必要があるのよ」

永琳さんは溜め息をついて話しかける。

「……確かに、これは厄介だね。でも、全部殺せばいいんだろ? それなら、たくさん薬を使えばいいじゃないか」
「……そうしたいのよ、出来ればね」

永琳さんは、先程の薬が入った試験管を振りながら言う。

「これ、さっきの薬だけど、もし、これの濃度を少しでも上げて患者に投与したら、どうなると思う?」
「え?」
「確実に命を落とすわ。人間が耐えられる濃度は、これが限界なのよ。つまり、ウイルスを殺す薬はあっても、使えなければ意味が無いということ。さっき言った問題とは、このことを言ったのよ」

永琳さんは、机の下にあった背もたれのない椅子を引っ張り出して座った。

「さっき、慧音が言ったわよね。インフルエンザウイルスは変異すると。つまり、このウイルスは新種なのよ。おそらく、幻想郷にも、外の世界にもないウイルス。それが、天文学的に低い確率で、運悪く人間の里に現れてしまったのよ」
「……」
「私はこの依頼を受けたとき、その里の患者や生活環境を色々と調べてみたわ。分かったことの一つは、このウイルスが今までのインフルエンザウイルスとはかけ離れているということよ。中心に核なるウイルスを持ち、その周りに僕を従えて身を守っているインフルエンザウイルスなんて聞いたことがないわ。さらに、外部から攻撃を受けた際、その僕が死ぬと、核は死骸を栄養源として増殖の材料としている。共食いをしているのよ。人だけではなく、仲間も食らっているというわけね」

あたいたちは言葉が紡げない。あまりにも未知の世界すぎて、ついていけなかった。

「もう一つ分かったことは、感染源。普通、インフルエンザは人を媒介にして空気感染するわ。だけど、今回は違った。里の人間で、今回のウイルスに感染したのは三人。全員が、ある動物と密接に関係する仕事に従事していたわ」
「ある、動物?」

あたいの言葉を受け、永琳さんはうなずく。

「鳥よ」
「鳥? 鳥って、あの飛んでる鳥?」
「ええ。インフルエンザは、元々鳥から来たという説があるくらいなのよ。感染した三人は養鶏や精肉をして生計を立てていた。その鶏の体や内臓に触ったおかげで、感染したのよ」
「そ、そんなことって」
「患者の鼻の粘膜から採取したウイルスと、ある一匹の鶏の死体から採取したウイルスの型が一致したの。間違いなく、鶏が感染源なのよ。だから、慧音に指示して、これ以上病人を増やさないように、里にいた鶏は全部処分してもらったわ。このウイルスは人から人には感染しにくかったからね。かわいそうだけど、命には代えられない」

鳥から感染する病気。妖怪はそんな病気とは無縁だったから、なかなか実感がわかなかった。
だとしたら、妖夢はなんで? 妖夢が鶏と暮らしていたなんてことはなかったはずだ。なのに、慧音さんの村の人と同じ病気にかかっているのはなぜだ?

「そして、ここであの娘の話に戻るわ。死に物しかいない冥界で、なぜあの娘は今回のインフルエンザに感染したのか。心当たりはないかしら? 鶏じゃなくてもいい。あの娘が頻繁に鳥に触ったり、死骸に手を触れたりしていることはなかったかしら?」

妖夢が、鳥と一緒にいたこと?
妖夢と、鳥。
妖夢と………………………………カラス。

「………………ぇ?」

あたいの目は、
思わず、
文の方に向いてしまった。

「……心当たりがありそうね」
「ちっ、違うっ!! 春風丸が原因じゃない!! だ、第一、春風丸はカラスじゃないか!! 鶏じゃないぞ!!」
「鶏だろうが、カラスだろうが同じよ。同じ鳥なんだから。捌かれた鶏を、そのカラスがつまみ食いして感染した、っていうシナリオは容易に描けるわ」
「し、春風丸はそんなことはしない!! あいつは利口で行儀のいいカラスだ!! 人様の物をつまみ食いするなんてことはするもんか!!」

あたいは堰を切ったように反論する。当たり前だ。ここで春風丸を原因にしたら、文が……!

「わ……私が……妖夢を……? 私が……カラスをあげたりしたから……?」
「お、落ち着け、文っ! お前さんは悪くない! 何か他に原因があるはずだよ! そ、そうだ! 二週間前に、あたいの歓迎会の時に妖夢が鶏を捌いて切り身の肉を持ってきたことがあったぞ! そっちが本当の原因だろ!? そうに違いない!!」
「……確かに、その可能性もあるわ。このインフルエンザウイルスは潜伏期間が異様に長いから。でも、捌いたのは本当に妖夢かしら? “村人に捌いてもらった”可能性もあるわよね?」
「ちっ、違うって言ってんだろ!? あんた、文に恨みでもあるの!? これ以上、文が犯人みたいなこと言ったら許さないよ!!」
「お、抑えろ、小町さん。永琳は客観的に意見を言っているだけだ。文さんのことも推測しかしていない。だから、決め付けているわけではないんだ」

慧音さんが、あたいと永琳さんの間に割り込む。
あたいに肩を掴まれている文は、私が……私が……と呟きながら、目を見開いて小刻みに震えていた。

「……薬師さん。大体のところは分かったわ。それで、対策はあるのかしら?」

今まで黙って話を聞いていた幽々子さんが、落ち着いた口調で口を開く。
その問いに、永琳さんは小さく首を振る。

「インフルエンザは不治の病ではないわ。時間が経てば、必ず完治する。通常なら一週間を待たずに患者は元気になるはずなのよ。だから、私は患者の体力を回復させる丹を与え続け、つい最近まで特効薬の開発を進めてはいなかった。でも……」

永琳さんは机に左肘を突いて、顔を覆うようにして頭を支えた。

「最初の患者が倒れてから、すでに一週間は経ち、容態は一向に良くならない。その間に、新しい患者が増えてしまった。考えが甘かったことに気付き、すぐに作った治療薬は人間には投与不可能。言い訳になるけど、幻想郷に来てからというもの、人間の病人相手の薬は皆無といっていいほど作らなかったから、今回はほぼゼロからのスタートだった。このまま研究を進めていけば、いずれ人間に投与できる薬を作れるとは思うけど、ぐずぐずしていたら患者が力尽きる可能性がある。時間が圧倒的に足りないのよ。でも……それ以上に深刻なのは、資金不足」
「資金? 研究に費やすお金が足りないということ?」
「ええ。この一週間の間、永遠亭にある資金で、私が研究に費やせるお金は全てつぎ込んできたわ。でも、患者の体力を回復させる薬が思いのほか高くついてね。その場凌ぎの薬なのに、特効薬の研究の妨げになった。まだ手に入れていない新しい薬が欲しくても、これ以上は生活費を削ることになる。姫はもちろんのこと、ここには沢山の兎たちがいるわ。私には住んでいる者を養う義務があるのよ」

そこまで言うと、永琳さんは立ち上がる。

「私の話はこれで終わりよ。あの娘には引き続き薬を与えて、命を繋ぎとめている間に、出来る限り早く薬を開発するわ。こうしている間にも、四人の患者の命はどんどん失われていく。いまウドンゲがその薬を作っているから、それを持って安静にさせていなさい。特効薬が出来たら、すぐに知らせるわ」


ダンッ!!


突然響いた、何かを叩きつけるかのような音に、その場にいた全員がこちらを向いた。
あたいは近くにあった机に平手を叩きつけていた。顔を上げ、永琳さんを睨みつける。

「……なにかしら? その目は」
「あんたは何にも分かっていない」
「…………なんですって?」
「目の前に死にそうな人間が四人もいる。そして、その命を救えるのは、あんたしかいない。そのあんたが、自分達の生活を気にして金を出し渋っている。ふざけるな。金なんて、稼ごうと思えばいくらでも稼げるじゃないか。一刻の猶予もないって、あんたさっき言ってたじゃないかっ。なのになぜ、自分の身を削って助けてやらない!? 生き物は死んだら、そこで終わりなんだよ! 一日二日の飯を気にして、四つの命を蔑ろにする気かい!?」

そうだ。さっきから聞いていて思った。この人には“絶対に助けよう”という気概が足りない。
患者を研究対象としか見ていない。その証拠に、自分の研究資金の範囲だけでやりくりしようしているじゃないか!

「命を助けるっていうのは、もっと必死なものだ! 軽くない一つの命を救うには、自分も命をかけなきゃならない! 明日死ぬかもしれないんだよ!? あんたは本気で患者を助ける気はあるのか!?」
「…………あなたに言われるまでもないわ。患者は全て救ってみせる。だけど、私はこの永遠亭の全てを預かる身なのよ。私の一存で、見知らぬ人間のために毎日の糧を減らすことなど出来ないわ」

その言葉で、あたいの腹は決まった。

「……じゃあ、これを使いな」

あたいは机に置いてあった手をゆっくりとどける。
すると、あたいが長年愛用している銭袋が姿を現した。

「っ、こまちゃん。それは、あなたが今までの仕事で稼いだお金じゃないのかしら?」
「そこの人が金を出さないっていうなら、他のやつが出すしかないだろう。しめて、銀貨一枚と銅貨四百枚分。これを使って、薬を買ってくるといい」
「こまちゃん…………」
「この場にいる者で、即、大金を稼げるのはあたいだけだ。その金で足りないようなら、あたいがいくらでも働いて稼いでやる。その代わり、絶対に妖夢や、里の人たちを助けてくれ。希代の薬師のあんたなら出来るだろ」

永琳さんは一言も言わず、あたいの顔と銭袋を交互に見遣る。
こんな申し出を受けるとは思わなかったのだろう。困惑している様子がよく見て取れた。

「随分と騒々しいわね」

突然、廊下に繋がる扉が開いて、聞いたことのない声が場に割り込んできた。
扉を開けたのは、黒い絹のような髪をした綺麗な女性だった。

「姫……」
「何事かしら、永琳? イナバが面白そうにこの部屋を覗いていたから、変わったことでも起きたのかと思ってね」

扉の方には、ばつの悪そうな顔で頭を掻いているてゐの姿があった。

「あんたは、確かこの屋敷の主人の……」
「あら、見ない顔がいるわね。あなたがこの騒ぎの張本人かしら?」

蓬莱山輝夜。文の新聞の写真で見たことがある。永遠亭の主人。永琳さんの主だった。

「ここの主人のあんたが来てくれたのなら、話が早い。この金を、永琳さんの研究資金として納めてくれないですか?」
「? どういうことかしら? 話が見えないんだけど」
「例の、奇病の件です」
「奇病? ああ、村人の病気を永琳が治してやるっていう話ね。なるほど、あなたがそのパトロンになろうっていうわけ?」

輝夜さんは興味深そうにあたいを見つめる。だから、あたいも真剣な目で応えてやった。

「でも、永琳の研究資金は高額よ? あなたにそれを稼げるかしら。それこそ、寝る暇もないくらい働かなくちゃならないわよ?」
「そんなの、もうとっくに覚悟の上です。永琳さんがこれ以上資金を出してくれないのなら、あたいが腹を切るしかない。足りない分も全力で働いて稼ぎます。だから、妖夢を助けてください! お願いします!」

あたいは机に頭を打ち付けんかという勢いで頭を下げる。

「永琳、あなた……」
「…………」
「……………………はあ、仕方がないわね。……いいでしょう。永遠亭の維持に回していたお金を、いくらか研究資金に回してあげるわ」
「えっ!?」

思いがけない一言に、全力で顔を上げる。

「あなたのお金も貰うわね。その代わり、あの半霊の女の子の面倒はこちらで見るわ。こちらには非があったみたいだし、さすがに貰いっぱなしじゃあ悪いしね」

輝夜さんは楽しそうに微笑んだ。

「さ、これでいいかしら? 私の出来ることはここまでよ。時間も無いようだから、後はあなたたちの頑張り次第ね。いい結果を待ってるわよ」

そう言うと、輝夜さんは優雅に身を翻した。

「輝夜さん」

すると、扉の敷居を跨いだところで幽々子さんが引き止めた。

「なにかしら?」

輝夜さんが足を止めて振り返る。
そして、幽々子さんはゆっくりとお辞儀をした。最敬礼だった。
それを見た輝夜さんは薄く笑うと、じゃあね、と言い残して去っていった。



「やった……」

輝夜さんが部屋を後にすると、あたいは小さく眩いた。

「文、やったよ! 永遠亭が全面的にバックアップしてくれる! これで妖夢が助かる確率が格段に上がった!」
「小町さん……」

文の肩を掴んで揺さぶる。
しかし、文はいまだショックから抜け出せないのか、うつろな瞳のままだった。

「腑抜けてる場合じゃないよ! まだ、あたいたちがやることはたくさんある! みんなで妖夢を救うんだ!」
「妖夢を……救う……?」
「そうさ。百万歩譲って、仮に文のカラスが妖夢の病気の原因としよう。でも、まだ妖夢は生きている。手遅れじゃないんだ。まだ間に合う。そのためにも、あたいたちが頑張らなきゃならないんだよ!」
「…………」
「文の速い足を使えば、幻想郷中を飛び回って、病気の原因を探れる。そうすれば、普通のやつが何日もかかって調べることをあっという間に調べられる。それはきっと永琳さんの助けになるはずだ。ひとりじゃ無理でも、みんなでやれば妖夢を救えるんだよ! だから、あきらめずに頑張ろう!」

あたいの檄に、文の目は少しずつ生気を取リ戻してきた。

「そう、ですね……。落ち込んでいる場合じゃありませんでした。自分が出来ることを考えなくては。……あの、おじいさんも言っていました。自分が迷惑をかけた人には命をかけて償いをしろと。だから、私はやります。でないと、妖夢に見せる顔がありません……!」

文は目に涙を湛えながら、一生懸命想いを紡ぐ。その姿を見て、あたいはなんとも言えない気持ちになった。

「こまちゃん、ありがとう。私は妖夢の主人失格ね。あの子が死に至る病に冒されていると聞いたときから、少し動転していたわ」
「見事だった。あなたの声で、私も覚悟が足りなかったことに気付かされた。借りは、働きを持って返そう」

幽々子さんと慧音さんもやる気が出てきたようだ。大丈夫、みんなでやれば、絶対にうまくいく!

「やりましょう。あの子のために、力を出し尽くして、私たちに出来ることをしてあげましょう」

幽々子さんの声に、あたいたちは大きく頷いた。







「姫」

廊下をゆったりと歩く輝夜の背後から、永琳が追いかけてきて声をかけた。

「なにかしら? あなたはこんなところにいる暇はないんじゃなくて?」
「はい、それはそうですが……先程の資金提供の件で……」

輝夜は嘆息する。

「あなたは少し過保護すぎなのよ」
「は?」
「私は死なないからともかく、イナバたちも少しくらいご飯が減っても生きていけるわ。あなたが私たちの生活水準を下げないように、と考えてくれたのは嬉しいけど、それは時と場合によるものよ」
「……」
「あの永夜の時もそうだったわね。月の使者から逃れるために、月を隠した。他の妖怪たちの迷惑も顧みずね。そのおかげで、やってきた人間や妖怪に酷い目に遭わされたわ。あなたは私たちのことになると、周りが見えなくなる。月の頭脳と言われた月人だったのだから、もう少し視野を広く持つべきだわ」

輝夜は永琳を流し目で見ながらからかった。永琳は、なぜ主人がこれほどまで楽しそうな様子なのか、見当がつかなかった。
もう千年以上も共にいるというのに。

「……姫は、なぜ、あれほど簡単に援助を許されたのですか? もう少し考えてもよろしかったのでは」

輝夜はきょとんという顔になった後、あはは、と可笑しそうに笑った。

「それはね。あの赤毛の娘が、あなたにそっくりだったからよ」
「え?」
「自分が大切に思っている者を、自分の身を顧みずに助ける。私とあなたを、半霊の女の子とあの娘に置き換えてみればいいわ。あの娘の目は、もう思い出せないほど昔に、あなたが月の使者から私を守ろうとしていた時の目にそっくりだった。それが小気味良かったのよ。また、あんな真剣で想いの込もった目を見られるとは思わなかったわ。だから、援助をしようと思った。それだけよ」

輝夜はそう言うと、止めていた歩みを再開した。

「さ、もう行きなさい。時間はあまり無いのでしょう? 蓬莱の薬を作れる希代の薬師の力を、あの娘たちに見せてあげるといいわ」

一言残し、輝夜は廊下の角を曲がり、姿を消した。
永琳はしばらくその場に立ち尽くす。そして、少しだけ顔を上げて天井を見た後、はあ、と息をついて、苦笑した。





◇ ◇ ◇





十二畳の奥座敷。朝と変わらず薄暗い部屋の中心に、変わらず妖夢が横たわっていた。
断続的に荒い息を吐いているが、朝よりも大分落ち着いたように思える。鈴仙が調合した体力回復の丹は、三十分を待たずに効き目を表し始めた。

妖夢の横には、彼女が敬愛する白玉楼の主の姿。
竹製の桶に入った冷水の中にタオルを浸し、きつく絞って水気をとる。過去、妖夢が何度か熱を出したときに、幽々子はこうやって、赤い顔をしてすまなそうにしている妖夢を世話してやった。
その記憶を辿りながら、幽々子は妖夢の額にタオルをそっと載せる。いつもなら微笑を絶やさない幽々子だったが、今は不安の影を落としていた。

「…………ぅ……」
「っ!? 妖夢っ!? 妖夢っ!」

冷たいタオルを額に載せられて気付いたのか、妖夢は軽く呻きを漏らす。
幽々子の呼びかけに応えるように、妖夢は薄く目を開けた。

「ゆ……幽々子、様……? ここは……?」
「永遠亭よ。あなたは朝に高熱を出して、倒れているところを運ばれたの。良かったわ……気がついて……」
「永遠、亭……。そう、ですか……。申し訳……ありません……。私が、至らぬばかりに……」

妖夢は短く呼吸をしながら、聞き取るのもやっとの弱々しい謝罪の言葉を口にする。

「何も言わなくていいわ。今はゆっくり休みなさい。あなたの病は、ここの薬師が取り除いてくれるから、何も心配しなくていいの」
「……はい。一日でも早く、元気になります。そして、また、小町さんや、文さんと、食事をしましょう。もう……お二人が白玉楼に来る日も少なくなってしまいましたから……、少しでも……」
「うん、うん、そうね。そのためにも、体を休めなさい。さ、喋るのはつらいでしょう。私はここにいるから、安心してお眠りなさい」

幽々子がそう言うと、妖夢は微かに笑って、再び目を閉じた。

その顔を幽々子は見つめる。
今ほど、自分の身を恨んだことは無かった。代われるものなら代わってやりたい。世の親が、病床に臥せる子に対して抱く感情を、幽々子はこのときほどはっきりと感じたことは無かった。
しかし、亡霊の幽々子にはそれは叶わない。彼女が出来ることは、妖夢の体を拭いてあげること、タオルと着替えを代えてあげること。そして、妖夢が寂しくしないように、いつまでもそばにいてあげることだけだった。

幽々子は妖夢を救うために立ち上がった、二週間の同居人のことを想う。
幽々子を妖夢の世話に据えたのは、あの二人だった。適任は幽々子しかしないと言って。
だから、幽々子はその期待に応える。全力で妖夢の世話をする。疲労知らずの亡霊にとって、寝ずの看護は容易いことだった。

(こまちゃん……文ちゃん……、頑張ってね……)

春が近いというのに、まだ冬を思わせる冷たい風が、開け放たれた障子から入り込んでくる。
その風に髪をそよがせながら、幽々子は障子の間から見渡せる竹の葉が擦れる様子を見つめていた。







『むう〜……おっそいですねえ……』

玄関の前まで来ると、擦りガラス越しにそんな声が聞こえた。
白の上着に黒のスカートがぼんやりと見える。戸にもたれて腕を組み、トントンと忙しなく右足を動かしている。そんなに待たせたつもりはないのだが、気が急いてしょうがないのだろう。
あたいが玄関で靴を履くと、それに気付いたガラス越しの何者かは、ぴくっと反応し、勢いよく戸を開け放った。

「遅いですよ、小町さん! 一刻の猶予もないって言ってたじゃないですか!」

威勢のよい非難の声が耳に突き刺さる。完全に復活したな。やっぱり、文はこうでないと張り合いがない。

「悪い悪い。ちょっと準備に手間取ってね」
「はい? なんですか、準備って?」
「私たちがこれからやるべきことについて、話し合ってたのよ」

あたいの後ろにいたやつが、あたいの代わりに答えてくれた。

「あっ、鈴仙じゃないですか! お久しぶりです」
「久しぶり。相変わらず騒々しいわね」

月の兎、鈴仙・優曇華院・イナバは、文の姿を見て皮肉を言いながら微笑む。これから、こいつには文と一緒に仕事をしてもらうことになるのだ。

「私たちがこれからやるべきことについて、ですか? 一体どういうことです?」
「あたいたちは、今回の永琳さんの仕事に飛び入り参加だ。だから、方針合わせをしとかないといけないだろ? 中の兎達に、あたいが金を稼ぐのに必要な物を集めてもらっている間に、永琳さんと少し打ち合わせをしてたんだよ」

そう言って、あたいはそばに置いてあった布の袋を肩に担ぐ。

「? 小町さん、なんですか、それ?」
「寝袋だよ。他にもタオルとかマッチとかを揃えてもらった。野宿に必要な最低限の物は入ってる」
「の、野宿!? ま、まさか無縁塚で過ごすんですか!?」
「当たり前だろ? いちいち帰ってなんかいられるか。それに、寝るなんてもったいないことは出来るだけしない。疲れて死にそうになったときだけ使うんだよ」

船頭死神には勤務時間というものがない。働きたければ一週間だってぶっ通しで働けるのだ。過労で死なない限り。

「む、無茶ですよ……。春が近いとはいえ、まだ夜は冷え込みますよ? 私が送り迎えしますから、屋根のあるところで寝てくださいよ」
「無茶? 何言ってんだい」

あたいはふてぶてしそうに笑ってやる。

「今とんでもなく無茶な病気にかかってるのはどこの誰だい? 心配するな。あたいは妖怪だ。妖怪は頑丈が取り柄だろ? このくらい屈でもないさ」
「……」

文は納得しかねる表情をしている。こういうときは、強引に話を進めるに限る。

「じゃあ、さっきまで永琳さんと打ち合わせたことを話すね。なに、簡単な話さ」

あたいは袋の中に入っていた、一枚の地図を広げて見せる。

「永琳さんは今までどおり、薬の開発をやってくれる。そのかたわら、あたいは開発に必要な資金を稼ぐ。そして、文には運び屋になって欲しいんだよ」
「運び屋、ですか?」
「ああ、お前さんの足は幻想郷一だ。その足を使って、あたいが稼いだ金を永遠亭に運んだり、薬を買いに行ったり、情報をみんなに伝えたりする役目をしてほしいんだ」
「はあ、なるほど。それは構わないですよ。私はこれから仲間のところに行って、妖夢の病気のことを聞いてみるつもりでしたから」
「うん、それは文に任せるよ。手の空いたときに、あたいのところに来て金を取りに来てくれればいい。その金を使って、永琳さんが欲しい薬を手に入れてくるのも文がやってほしいんだ」
「はい、分かりました。で、この地図はなんですか?」
「それは、鈴仙が説明して。これから、これを使って文と仕事をするんだからね」
「え? まあ、いいけど……」

腰に手を当てて仕方なし、といった表情で鈴仙は話し始める。

「これは、三途の川にある商店街の地図よ。あなたは行ったことがあるそうじゃない」
「あ、これって、あの商店街の地図だったんですか。へ〜、こういう形をしてたんですね」

文が歩いたところは商店街のほんの一部だ。歩く気になれば一日は軽く潰せるくらいに、あそこは広い。

「私はいままで、師匠が入り用の薬を手に入れるために幻想郷中を飛び回っていたの。それで、今回はこの商店街で調達をしようっていうわけ。それをあなたに手伝ってもらいたいの」
「はあ、まあ、いいですけど。確かに、ここはもの凄く大きな街でしたし、目的の薬も見つかるかもしれませんね」
「それだけじゃないの。今回、私が狙っているのは、そのままズバリ、インフルエンザの薬なのよ」
「えっ!? そんなのがあるんですか!?」

文はさすがに驚く。それはそうだ。永琳さんは、全くの無の状態からインフルエンザの薬を作ろうとしている。
しかし鈴仙は、その薬が商店街に売り物として出されている可能性を示唆したのだから。
鈴仙は商店街の地図のある一点を指差した。

「ここにある大きな建物。小町から聞いたんだけど、ここは彼岸のこっち側と向こう側の薬を検閲をしている場所らしいの。彼岸には想像もつかないほど珍しい薬があって、中には一村を減ぼしてしまうような危ないものもあるらしいわ。だから、ここで一旦薬を検閲して、薬の流通を管理しているわけ」
「つ、つまり、もしかしたら、ここでインフルエンザの薬を取り扱っているかもしれないってことですか……!?」
「少ないけど、可能性はあるわ。ここは外の世界から流れてきた薬の研究もしているらしいし、実質、幻想郷の薬を取り仕切っているといってもいいわ。情報を集めるなら、もってこいの所なのよ」

鈴仙の言う通り、そこには幻想郷の薬のあらゆる情報が行き来している。この商店街は、此岸と彼岸の唯一の流通所ゆえに、薬に限らず食品や雑貨、その他珍しいものはここに集まってくるのだ。
たとえ、その日に欲しい物が手に入らなくとも、情報を持っている者は必ずいるとあたいは考えている。未知の病、インフルエンザの薬の手がかりが入手できる可能性は少なくないのだ。

「な、なるほど……もしかしたら、外の世界ではとっくに特効薬が開発されていて、それが流れてきている可能性も無きにしも非ずですね」
「ああ。もし、金が足りなくて買えないようだったら、すぐにあたいのところに知らせに来てくれ。あそこの商店街では、あたいが持っている金しか使えないからね。すぐに稼いでやるよ」

よし、大体こんなところか。あたいは地図を畳んで文に渡す。

「よし、じゃあ頼むよ。鈴仙を商店街に連れて行ってやってくれ」
「はい、了解です。小町さんはどうするんですか?」
「あたいは自力で仕事場まで行く。さすがの文も、二人くっついてたら重いだろ。だから気にしないでいい」

それに、あたいが金を稼ぐよりも、薬を探す方が優先だ。出来る限り早く、二人を商店街に送った方がいい。

「分かりました。じゃあ、鈴仙。私のお腹を掴んで下さい。絶対に離さないようにしっかりと」
「えっ? つ、掴むって……こう?」
「それじゃダメです。一発で弾き飛ばされますよ。もっと木にしがみつくように、くっついて下さい」
「こ、こう……?」
「そうそう、じゃあ、行きますよ」

鈴仙を腹にくっつけたまま、文はゆっくりと宙を浮いて体を前屈させた。

「口はしっかり閉じといた方がいいよ。舌噛むからね」
「え?」

と鈴仙がこちらを振り向いた瞬間に、文は一気に体を前に押し出した。

「うわ」

という尻切れトンボの声が聞こえ、後は風しか残っていなかった。

「…………さて、あたいも行きますか。これから長い一日が始まるね」

あたいは今にも雨が落ちそうな空を睨みすえ、勢いよく地を蹴って舞い上がった。







灰色の曇天は、ここ、三途の川のほとりでも変わることなく広がっていた。

三途の川の巨大な中洲に居座っている商店街は、遠目からみると川の中から突き出ているようにも見える。
此岸と商店街を繋ぐ木製の大橋の上には、商品の仕入れなどで行き交う人のピークを過ぎたものの、まだまだ流れの勢いを失ってはいなかった。

「ここが、小町の言っていた商店街ね。こんなところに、こんな大きな街があるなんて、全然知らなかったわ」
「私も初めて来た時はそうでした。さあ、行きましょう。ぐずぐずしている暇はありません」

上空から商店街の姿を見下ろしていた文と鈴仙は、橋の袂に降り立つと、分厚い板の上に一歩を踏み出した。

「確か“医薬組合”って言ってたわ。どこにあるの? それは」
「この地図によると、商店街のほぼ中心になりますね。地図の面積からして、本当に大きな建物のようです」
「そうでしょうね。あっちとこっちの薬の中継をしているんだから、相応の大きさじゃないとカッコがつかないわ」

橋の上で会話しながら、文と鈴仙は商店街に向けて歩みを進める。
木で出来ているにもかかわらず、橋は大地に足をつけているかのような堅固な感触を伝えてくる。

「早くあなたたちに会っていればよかったわ。そしたら、幻想郷中を飛び回って、薬を探さずに済んだのに」
「そんなことを言っても仕方ありません。次の機会があったら、使うようにしてください」
「あまり、そんな機会はあってほしくないけどね……」

鈴仙はこのところ、師匠である永琳の薬の材料の調達に追われ、疲労が大分溜まっていた。
昨日は、睡眠時間をいつもの半分程度にして空を飛び続けたのである。しかも、患者がいつ命を落とすかもしれないという緊張が、余計に神経を磨り減らせた。

それをあざ笑うかのように、顔見知りの妖夢が担ぎ込まれてきたのだから、始末に終えない。顔も知らない村人が死ぬより、顔を知った妖夢が死ぬほうが何十倍もこたえるに違いない。
目の前で顔見知りの者が死んでいくのを目の当たりにして、その身を切り裂かれるような想いになるのは、過去に苦しい経験をし、命の尊さをよく学んでいる鈴仙にとって、もう二度と味わいたくはないものだった。
だから、鈴仙は師匠の永琳よりも、今回の事件を重く見ているといってもよかった。二度と悲しい記憶を刻まないように、いくらでも体に鞭打って働く覚悟があったのだ。

長い橋を渡りきり、商店街の大通りの真っ直ぐに歩く。まだ朝が早いのか、店は半分程度が看板の状態だった。
文は地図を確認しながら、鈴仙を案内していく。たびたび小町と商店街を歩いたことがあるので、土地勘は多少なりともあった。

「あ、あれですね。あの白い建物がそうです」

文は大通りの右側にあるレンガ造りの建物を指差す。
両隣の商店に比べると格段に大きなその建物は、薬を取り扱う場所にふさわしく病院のような雰囲気があった。

「さーて、お邪魔しましょうか。一応、期待しているからね」

鈴仙の願いに後押しされたかのように、ドアは軽く力を入れただけで開いた。

ドアを開けて最初に入ったところは、病院の待合室にそっくりだった。
白を基調にした清潔感溢れる内装で、目立たない場所に観葉植物などが置かれている。
幻想郷中の薬を取り扱っている、という組織の建物にしては、中にいる者は少なかった。文と鈴仙を除けば、五人しかいいない。どの者も仕立てのいい服を身に纏った中年から初老の男性ばかりで、文や鈴仙のような少女は嫌でも目立った。

「……長く突っ立っているのも注目されて嫌ね。早く行きましょう」
「そうですね。でも、どこに行けばいいんでしょう? ……あ、あそこのカウンターですかね?」

文が指差した方向には、受付らしきカウンターと、手元で書き物をしている女性の姿があった。

「まあ、聞いてみるしかなさそうね」

二人は女性の方に歩み寄っていく。すると、顔を上げた女性が、接客用の笑顔で迎えた。

「こんにちわ。今日はどういったご用件ですか?」
「あの……ここは此岸と彼岸の薬の流通を管理しているところで間違いないですよね? 私たちは、ある病気を治療できる薬を探しているんです。ここに、それがあれば譲ってもらいたいのですが」
「ある病気ですか。それはどういった?」
「インフルエンザ、というウイルスによる感染症です。人間の間でのみ広まる風邪に近い病気で、鶏などの鳥が感染源となっています」
「……少々お待ち下さい」

そう言うと、女性は二人を残して奥の部屋に姿を消した。

「……なんだか、そんなの聞いたこともないわ、って顔だったわね」
「仕方ないですよ。お医者さんでも知っている人はいなかったんですから。……でも、ちょっと望みが薄くなっちゃいましたね」

受付係がインフルエンザという珍しい名を知っているとは、当然二人は思っていない。
それでも、あからさまに知らないという態度を取られると、あまり気持ちのいいものではなかった。

女性が部屋に引っ込んでから、どのくらい経ったろうか。
二人がそろそろ退屈し始めた頃、ようやく現れた女性は、厚さが十センチはあろうかという百科事典のようなバインダーを持ってきた。

「すみません、お待たせしました。お客様のお探しのインフルエンザという病気ですが、残念ながら当方で該当する情報は見つかりませんでした」
「ええっ! そ、そんな! 本当によく探したんですか!?」

文の詰問に、女性は申し訳なさそうな顔をして続ける。

「なにせ、この世界には人間の数が少ないですし、需要もあまりありませんから、こちらで取り扱っている人間用の薬は数が少ないんです。妖怪は人間のことに構わない人が多いですからね」

その言葉に、文は沈黙した。なぜなら小町の仕事を手伝うまで、人間など妖怪に比べて格段に劣っていると決め付けていた文には、そのことがよく理解できたからだ。

「ですが、そのインフルエンザに似た症状の病気の記述については見つけることが出来ました」
「えっ!?」
「人間の間で主に冬に流行し、感染率が非常に高い風邪、というのは確かに存在するようですね。鳥が感染源という記述は見当たりませんでしたが。この組合で、いまから百年ほど前に研究された記録が残っています」

女性はバインダーの資料を指でなぞりながら確認する。

「そ、それですっ! それで、薬はありますか!?」
「……残念ながら。元々需要もありませんでしたし、数ヶ月で研究は打ち切られたようです。いまでは知っている人を探すのも困難な状況です」

その言葉を聞き、二人はカウンターに突っ伏した。
ようやく見つけられた光明も、途中で途切れてしまっては意味がない。光の先に、目的の物が存在していなければならない。
ここに寄せる期待は大きかっただけに、ハズレと分かったときのショックは大きかった。

「あの……それほど手に入れたい物なのですか? あなた方は妖怪なのに、人間の薬を求めているのには何か理由が?」

文が顔を上げ、その疑問に答える。

「私の友達がインフルエンザで臥せっているんです。命の危険があると言われました。その娘は半分は人間ですが、私にとって返すべき恩があるかけがえのない友達です。だから……救ってあげたいんです……」
「……」

俯く文に、女性は言葉を失う。かけてやる言葉がない。同情しても、安っぽく聞こえるだけに決まっていた。

「……はあ、仕方ないわ。無いものはないんだし。それじゃあ、次に行きましょう。すみませんけど、その研究資料を貸してもらえますか? 家に薬師がいますので、その方に見せてみますから」
「い、いえ、持ち出しは厳禁ですので……。よろしければ閲覧室にご案内しましょうか?」
「ああ、そうですか……じゃあ、いいです。時間も無いですし。さ、文、行こう。くじけないで、次を探そう」
「……はい、そうですね。まだ、ダメと決まったわけじゃないです。ここ以外で見つかる可能性はありますよ」

鈴仙に肩を叩かれて外に出ることを促がされた文は、俯いたまま、のろのろと出口に向かった。
幻想郷の薬が集中するという場所で目的の薬が見つからなかったということは、他で見つかる可能性は限りなく低くなったということだ。
そのことに二人とも気付いていたが、口に出してしまうと苦しい現実を再確認することになる。希望と気力を保つためにも、黙るしかなかった。

「あ、あの……」

遠慮がちな声が聞こえ、二人は足を止める。振り返ると、先ほどの女性がすまなそうな顔をして立っていた。

「あ、諦めないでくださいね。ここはいろいろ珍しい物が流れてくるところです。諦めなければ、きっといつかその薬を手に入れられますから」

女性の言葉を聞いた文は、薄く笑って、

「諦めるなんて、そんな勿体ないことしませんよ」

と返事して踵を返した。



小町が渡した商店街の地図には、医薬組合の他にも、いくつか医療機関が記されていた。
大きな病院が一つ。その病院の分院の診療所が商店街の端と端に一つずつ。個人で経営している薬局が三つほどあった。

文と鈴仙は、その医療機関を全て回ってみるしかなかった。可能性は限りなく低いとはいえ、ゼロではない。
妖夢を含むインフルエンザの患者たちは、本来ならとっくに命を落としているはずだった。永琳の薬で命を繋いでいるものの、いままで生き延びていられるのは一つの奇跡と言える。
しかし、その延ばされた命にも限界がある。刻一刻と尽きようとしている火が完全に消え去るのを、黙って見ているわけにはいかなかった。

二人は、先ほどの医薬組合から地図的に最も近い医療機関から回ってみるつもりだった。
この商店街では空を飛ぶことが禁止されている、ということは小町から聞いていた。ここは此岸から彼岸に行ける唯一の通り道であり、生きている身で彼岸に渡ろうとする不届きな輩が存在するからである。
生きている身で此岸と彼岸を行き来できる存在は、閻魔のような重職に就く者か、小町のような船頭死神という特殊な職に就いている者だけだ。
冥界は放っておいてもあまり害がないためか、例外として扱われているが、死後の世界である天国と地獄を含む彼岸は、生きている者にとって絶対不可侵な場所でなければならない。そこが開放されてしまったら、死という概念がなくなってしまう。
故に、文の神速の飛行で商店街内を飛びまわることは出来ない。間違って飛んだら、空をパトロールしている警備の者がすぐに飛んでくる。
この商店街の移動方法は、自分の足を使う以外に無いのだった。



厚い雲に隠れてその姿を見ることは出来ないが、雲を隔てた向こう側では赤い夕日が輝いているであろう時間。
文と鈴仙は、うら寂しい商店街の裏道を歩いていた。先ほど、最後に寄るべき薬局に寄ってきたところだった。

成果は……二人の表情を見れば瞭然だった。
憔悴しきり、足取りは重い。やや下を向いて、あまり舗装されていない道を見ながら、とぼとぼと歩いていた。

「……これが現実ですか」

文がぽつりと漏らす。心の中に、期待する気持ちがなかったとは言えない。むしろ、そちらの方が大きかった。
しかし、蓋を開けてみればその期待に応えてくれるところはどこにも無かった。一日費やして得られたものは、普段歩き慣れていないために起こった足腰の疲労と、落胆だけだった。

「……期待するなっていう方が無理よね。いままで当てずっぽうで薬を集めていた私にとっても、初めて当たりそうな調達地だったんだもの。もしかしたら、っていう気持ちは少なからずあったわ」

小町から受け取っていた大金も、使われなければ意味が無い。
インフルエンザの薬を手に入れることが叶わなかった以上、この金は患者の命を繋ぐ丹の材料費に消えるだろう。それは根本的な解決には至らない。小町が知ったら、さぞかし無念がるだろうと、鈴仙は心を痛めた。

すでに空は黒く塗りつぶされようとしている。
大通りに比べて、商店街の裏道は驚くほど人が少なく、仕事帰りに食事を取ろうとする者はいないようだった。
大きな街には必ず日の当たらない場所がある。昼間であっても、好んでそこを通ろうとする堅気の人間はそうはいない。
しかし、文と鈴仙は、薄汚い身なりをした男どもの好奇の視線など構わずに裏通りを歩く。仮に襲われても返り討ちにする力は二人とも備えていたし、何より疲れていたから、近道であるこの道を通っているのだった。

それが幸か不幸か、どちらだったのかは分からない。

文がふと顔を上げたとき、その目に入った看板を見て、足を止めた。

「……? どうしたの、文?」

鈴仙は隣を歩いていた文が不意に足を止めたのを訝しがる。
文はぼんやりとした視線で、一見の店をじっと見つめていた。
鈴仙もそちらの方を見る。お世辞にも綺麗とは言えない薄汚れた小さな店だった。何故、文がその店を見て足を止めたのか分からなかった。

「……ねぇ、どうしたのよ?」
「あそこは……薬屋さんじゃないんですか?」
「え?」

文がそう言ったのを見て、鈴仙は目を細めるようにして、その汚い店を観察する。
薬屋じゃないのかと文は言った。ならば、看板か何かがあるはずだった。
少しずつ近づきながら、その根拠を探す。すると、入り口のドアに程近いところにあるベニヤ板に、小さく“薬”と書いてあるのが読み取れた。

「た、確かに薬屋みたいね……。よくこんな小さな文字が見えたわね」
「私は目がいいですから。でも、なんで鈴仙はこの薬屋さんを見逃したのですか? 地図に載っていなかったんですか?」

言われるまま、鈴仙は文から渡されていた地図をスカートのポケットから取り出し、いま二人がいる現在地を探す。
目的の場所を見つけると……薬屋があるべき建物には何も記載されてはいなかった。

「……なんだか、やばい匂いがプンプンするわね。注射をすると無駄に元気になっちゃう薬とか売ってそうだわ」
「でも、万が一があります。もし、ここにインフルエンザの薬があったら、何もせずに通り過ぎたことになります。それに、正規の病院や薬屋に無かった物なら、裏で出回っている可能性は否定できません。私は行ってみるべきだと思います」

鈴仙は考える。
こういった場所にあり、地図にも載っていない薬屋といえば、十中八九、非合法の薬等を売買している店である。そんなところに、インフルエンザのような病気の薬があるとは思えない。
文は自分が妖夢を死にそうな目に遭わせたという自責が少なからずある。だから、たとえ自分が危険な目に遭っても、妖夢の病を治す薬をほしがっているのだ。

本来なら、鈴仙は反対する。しかし、文の言うことも完全に否定できない。
今までは正攻法でやってきた。それでも、薬は手に入らなかった。ならば、少し冒険をしてみるのもいいのではないか。
幸い、文は鴉天狗という、幻想郷において強力な力を持つ妖怪の末端である。ただの妖怪に遅れは取らないだろう。鈴仙自身も強力な催眠を操れるし、危険に飛び込めるだけのものは持っていた。

「……そうね。このまま帰っても、やらずに帰ったことが気持ち悪くなりそうだし、いざとなったらすぐに逃げ出せばいいわ。その時はよろしく頼むわね」
「ええ、任せてください。じゃあ……行きましょうか」

鈴仙が頷くのを見て、文はゆっくりとドアを開けた。

軋みをあげながら開くドアの向こうは夜のように暗い。入ってすぐに短い下り階段があり、階下には無数の瓶が陳列された木製の棚の姿が浮かび上がっていた。
灯りはオレンジ色に輝く、魔力を源とする蛍光灯。天井からぶら下げられたそれは、規則正しく奥の方まで続いているが、弱々しい灯りは足元まで照らすには不十分だった。

二人は、物陰から何かが出てきそうな店の内部を慎重に歩く。
外から見た印象通り、奥行きはそれほどでもなく、すぐに多くの物が乱雑に積み重ねられたカウンターにたどり着いた。

「……ほう、これは珍しいお客さんだ。いらっしゃい、今日は何用かな?」

カウンターの向こう側に足を組んで座っている中年の男が声をかける。
肩まで伸びた胡麻塩頭に何日も洗っていないかのような汚い服。二人を嘗め回すような目つきをしながら、口元にいやらしそうな笑みを浮かべていた。

「あの……ここは薬屋ですか? 地図に書かれていなかったので、分からなかったんですけど」
「表の看板を見なかったのかい? 正真正銘、ここは薬屋だよ。お嬢ちゃんたちのような娘は滅多にこない薬屋だがねぇ」

文が不安そうに尋ねると、店主はニヤニヤしながら顎を撫でる。その様子に鈴仙は背中に寒いものを感じながらも、自分たちの目的を告げた。

「……私たちはインフルエンザ、という病気の治療薬を探しているんです。主な病院や薬局は回ってみましたが、どこにも置いていなくて……。その薬は、ここに置いてありますか?」
「……インフルエンザ?」

店主は数度瞬きしたあと、顔に徐々に切れ込みが入るように笑った。

「……お嬢ちゃんたち、妖怪の癖に珍しい薬を欲しがってるねぇ」
「えっ!? 知ってるんですか!? インフルエンザのことを!?」

店主の嫌悪をもよおすような顔に構わず、文は食いつく。
無理は無かった。いままで回った病院、薬局の人々は、最初に回った医薬組合を除き、インフルエンザなどという病気は知らないと言って二人を追い返したからだ。だから、名前を言っただけで病気の概要を知っているような口を聞いたのは、この店主が初めてだった。

「人間の間で、冬に毎年のように起こる流行病だろ? 妖怪の間じゃあ、あまり知られていないだろうがねぇ」
「そ、そうです! 私たちは、その流行病を治療できる薬を探してるんです! こ、ここにはそれがあるんですか!?」

必死な様子の文に店主は一層笑いを深め、無言で立ち上がると、勿体つけるような動作で店の一角に歩いていって、ある棚に手を伸ばした。

「ほら、これがその病気の治療薬とワクチンだ。最近、外の世界から流れてきた物でね、幻想郷じゃあ、ここでしか手に入らないだろうねぇ」

店主がカウンターに置いたのは、銀の包み紙の中に白と黄の色が半々に分かれたカプセル薬と、一升瓶のような大きな瓶に入れられた透明な液体だった。

「す、すごい……。まさかこんなところに薬があったなんて……。やりましたよ、鈴仙! これで永琳さんの研究が進むはずです! きっと妖夢を治してくれますよ!」

文は抑えきれない喜びを表現する。
しかし、その一方で鈴仙は一人、口に手を当てて考え込んだ。

「? どうしたんですか、鈴仙。やっと見つけたんですよ? もっと喜んでもいいじゃありませんか」
「……」

確かに、文の言うとおり、ようやく掴んだ手がかりだった。
この薬を永琳に見せ、今回のインフルエンザの特効薬の開発に繋げることが出来るかもしれない。

(でも……どうも引っかかるわね……話が進みすぎてるし、うますぎる。こんなに簡単に手に入っていいのかしら……)

この主人はインフルエンザのことを知っていると考えていい。
鈴仙は、インフルエンザが人間の間でしか流行しない病気であることを言わなかった。知らなかったら、“妖怪の癖に珍しい薬を探している”などというセリフは出ないはずだ。
でも、どうしても鈴仙は、この胡散臭い店主を完全に信じる気にはなれなかった。

「……この薬はどうやって手に入れたの? さっき外の世界から流れてきたって言ってたけど」
「それは教えられないねぇ。ちょっとした、コネがあるとしか言えない。あたしはこういった珍しい薬を集めるのが趣味なんだ。売るのは二の次さね」
「……では、この薬が、本当にインフルエンザの薬であるという証拠は?」
「試してみれば分かることさ。どうも、お嬢ちゃんは信用していないようだが、もし偽物だったら返品してもらえばいい。一応、商売をしている身だからね、信用は大切なのさ」

店主は相変わらず気持ちの悪い笑みを絶やさない。鈴仙の質問もうまくかわされているような感じだった。

「鈴仙、買いましょうよ。いままでは薬と思われるものすら見つけることが出来なかったんです。最初にして、最後の機会かもしれませんよ」

文はすでにこの薬を買う気になっているようだ。気持ちは分かる。鈴仙も、もしこの店主が相手でなかったら即刻飛びついていたことだろう。
鈴仙は、この薬を買うリスクを考える。
まず、この薬が本物である場合。それならば何の問題もない。永琳に渡せば、その成分と効果については一時間も待たずに調べられる。それが今回のインフルエンザに効けばよし、もし効かなくても、永琳の研究の材料にはなるはずだ。
次に、偽物である場合。……この店主は偽物だったら返品に応じるとしている。それは、この薬が本物であるという自信の表れとみていいだろう。ならば、こちらも特に問題がないように思える。

……一見、リスクはない。ハズレでも保険がある。なら……大丈夫か……?

「……分かったわ」

鈴仙は、いままでベルトに引っ掛けてあった、小町の銭袋をカウンターに置いた。

「このお金で買えるだけの、インフルエンザの薬とワクチンをちょうだい。比率は三対一でいいわ」
「……ほう、これは大金だ。お嬢ちゃんたち、どこでこれを手に入れたんだい?」

銭袋の中から金を引っ張り出した店主は、興味深そうに二人の顔を交互に見遣る。

「どこだっていいでしょう? 偶然拾ったのよ」
「……そうかい」

鈴仙のやや冷淡な態度を気にした風もなく、店主は金額を確認する。
そして後ろを向くと、小指ほどの大きさの小さな瓶を引き出しの中から取り出してカウンターに置くと、先程のワクチンが入った瓶の蓋を開け、漏斗を使って空の小瓶に半分ほど移し変えた。
次に、インフルエンザの薬と思われるカプセルの入った銀の包みを、三分の一程度に千切った。

「さあ、持っていくといい」

その瓶と千切った包みを、二人の前に置く。

「……へ? こ……これだけ……?」

文は包みと小瓶を信じられないような顔で見つめる。

「出された金額に見合うだけの薬をくれって言われたからねぇ、その通りにお出ししたよ。何か問題があるかな?」
「だ、だって、その財布の中には、決して安くはないくらいの量があったはずですよ? そ、それでこれだけですか?」
「お嬢ちゃんたちはよそ者だね? この商店街はあまり来たことがないだろう。それに商売の基本も分かっていない」

店主は、やや侮蔑を含んだ目で文を見る。

「この薬は、商店街にあるどの薬屋でも売っていない、貴重で珍しいものだ。だから、高くなって当然だろう? それに、あたしとしても、この薬はあまり人に分けたくはない。それを押して譲ってやろうとしているんだよ。納得できないかな?」

店主の高圧的な物言いに、文は顔をしかめる。だが、言い分は納得できるだけに、文句を言うことは出来なかった。

「……も、もう少し多めに頂けませんか? その薬がないと困るんです」
「ほう。どう困るのかな?」
「私の友人が、インフルエンザにかかって命が危ういんです。一刻も早く救わなければならない。だから、出来る限り、たくさんの薬がほしいんです」
「インフルエンザで死ぬ? これはまた珍しいお友達だ。ただの風邪で死ぬなんて、笑い話にしかならないだろう」

店主は文の話を聞いて、笑い声交じりに妖夢を嘲る。
文はきつく唇を噛み締めて堪えた。

「だが、それならこの薬を買うしかないんじゃないかい? 命を救うためだ。金額がいくら高くても買うのが筋だし、お友達に対する思いやりだろう」
「…………」

文はどうすべきか分からなくなって、鈴仙の方を振り返る。
その鈴仙も、さすがに困った顔をしていた。ここまで高額な薬だとは思わなかったのだろう。治療薬と思われるカプセルは二つ。これでは四人の患者に十分な量を投与できない。永琳に見せて、同じ物を作るしかないのだろうか。

「ふむ……、なら、一ついい話をしてあげようじゃないか」
「……いい話?」

店主はそう言うと、背後にあった茶色っぽい液体の入った瓶をカウンターに置いた。

「これは、最近あたしが作った栄養剤だ。これを飲んでみて、感想を聞かせてくれるかな? なに、疲労を回復するための栄養剤だよ。危ないものじゃない。すでに何人かに飲んでもらって好評を得ているが、売り物として出すためには、もう少し感想がほしいんだよ。もし、やってくれるんなら、いま出した薬の倍を出そう。どうかな?」
「ば、倍ですか?」
「ああ、この栄養剤はそのくらい稼げると見込んでいるんだよ。だから、こっちとしても痛手にはならない。さ、どうするかな」
「……」

文と鈴仙は顔を見合わせる。少しでも薬を多く得たいのが本音だ。でも、いくら栄養剤といっても、薬の被験者になるのは相応のリスクが伴う。ましてや、こんなに怪しい店から出てきた薬だ。関わらない方がいいに決まっている。

「……わ、分かりました。やります」
「!? 文っ!?」

文がとんでもないことを口走ったので、鈴仙は慌てて止めに入った。

「ちょ、ちょっと、待ちなさい! 薬の被験者になるリスクを分かってるの!? 下手したらとんでもない副作用が出るかもしれないのよ!?」
「それよりも、ここでたくさんの薬を持ち帰って、妖夢の命を救うほうが先決です。私は大丈夫です。天狗はそんなにやわじゃありません。栄養剤程度の副作用には負けたりしませんよ」

文は笑いながら応えるが、その内にある不安は隠しようがなかった。
薬というものはそんなに生易しいものではない。いくら妖怪の体が頑強だといっても、一口飲んだだけで一瞬で死に至ってしまうような薬を鈴仙はいくつも知っている。
文は妖夢を救うことで頭が一杯で、自分のことに無頓着になっているのだ。もし、文が危険な目に遭って傷ついたりしたら、快復した妖夢は必ず悲しむ。それは断じて、許されない。

「か、考え直しなさいよ……! 副作用で妖夢みたいに倒れたらどうするつもり? 私たちは、あなたまで面倒は見きれないわよ?」
「で、でも……」
「じゃあ、その薬を持ち帰って、師匠に成分を分析してもらえばいいわ。それなら危険かどうかはすぐに分かる。店主さん、いいわよね? それって試供品と同じなんでしょ?」
「おや、そんなことをするなら、この話はチャラになるよ? それでもいいかな?」
「な、なんですって!?」

店主の意外な拒否に、鈴仙は驚きの声を上げる。

「さっきも言っただろう。これはまだ販売していない取って置きの、自慢の薬なんだ。もし、製法を分析されて、先に売り出されたら堪らない。こっちも商売なんでね。タダじゃあげられないんだよ」
「そ、そんなことしないわよ! そのくらい信用してくれたっていいでしょ!?」
「昨日今日初めて会ったやつを信用なんて出来ないねぇ。お嬢ちゃんたちを信用しろって言うなら、あたしも信用してもらいたいもんだ」

鈴仙は歯軋りする。店主の言っていることは筋が通っているように聞こえる。しかし、こちらがインフルエンザの薬が喉から手が出るほど欲しいのをいいことに、終始自分には全く損が出ない交渉にしているのだ。
薬の実験台になればよし、拒否しても大金が手元に残る。二人は圧倒的に不利な状況にいるゆえに、突きつけられた条件以外の選択は難しかった。

「鈴仙……」

文が不安そうに鈴仙の顔を見つめる。
インフルエンザの薬は欲しい。だが、そのために文が薬の実験台になることなど絶対に許すわけにはいかない。こんな悪どい店主なら、なおさらだ。十中八九、危ない物質が入っているに違いない。

……ならば、もう選択肢は残されていない。
二錠のカプセルと小瓶一つ。それを大金叩いて買うしかないのだ。

「……」

だけど、このままやられっぱなしで、のこのこ帰るなど、鈴仙にはとても出来そうになかった。

「……店主さん。一つ聞きたいことがあるの」
「何かな?」
「その栄養剤の材料を教えて。入っているもの全て」
「材料? 何故そんなことを聞くのかな?」
「興味があるだけよ。あなたの自慢の栄養剤が、一体どんな材料で出来ているのかを。材料だけなら製法までは分からないでしょう? それとも、口に出せないくらいに危ないものでも入っているのかしら?」

挑発する鈴仙と店主がしばし視線を交わした後、店主は口の端を吊り上げて笑う。

「……まあ、いいだろう。その瓶の裏に成分は書いてある。勝手に見るといい」

鈴仙はすぐに瓶の裏側のラベルを見た。
確かに、小さい字で約十種ほどの薬の名前がカタカナで表記されていた。

「……」

鈴仙は一つ一つ、薬の名前を確認していく。
そして、記憶から引っ張り出す。師匠である永琳から教わった知識を総動員し、薬の名前を秤にかける。
ラベルに記載されている薬は、見覚えがあるものもあれば、全く知らないものもあった。
その知っているもののみに絞って鈴仙は記憶の中を探す。

一つ目。……体内への吸収を助ける薬、安全。
二つ目。……新陳代謝を助ける薬、安全。
三つ目。……疲労回復に効果のある薬、安全。
四つ目。……甘味料、安全。
五つ目。…………。

「……」
「どうかね? 別に怪しいものなど入っていないだろう?」
「……この薬。この薬の効果を教えて。一体、どんな薬なの?」

鈴仙に指差された薬の名前を見た店主は首を捻った。

「……確か、ブドウ糖に近い糖分だったかな。調べないと分からないが」
「そう。じゃあ、文に飲ませるわけにはいかないわ」
「ほ? なぜ?」
「あなたが嘘をついているからよ」

そう言って、鈴仙は目を細める。

「嘘? なぜ、嘘だと言い切れる?」
「この薬。学名で記されているけど、別名をハシボソヨシキリ草というのよ。幻想郷の奥地に存在し、強力な幻覚作用のある薬になるわ。主な用途は、催眠、もしくは媚薬や催淫剤。間違っても、栄養剤などに混入させてはいけない類の薬なのよ」
「え?」

鈴仙の説明を聞き、文は息を飲むような声を上げる。
一方店主は、瞳孔を狭くするかのように目を見開き、笑いをより一層深めた。

「ほう、よくご存知だ。私もそんなことは知らなかった。しかし、薬というものは毒にも薬にもなりうるものだろう? 現に、この栄養剤を飲んだ人々は元気になった。一方的に決め付けるのはよくないね」
「毒にも薬にもなる? そんなことはありえないのよ。この薬は毒にしかならないわ」
「何故そう言いきれる?」
「私の師匠が、そう言っていたからよ」

これには、さすがの店主も言葉を失った。

「この毒草は薬にはなりえない。構造的、成分的に不可能なのよ。この毒草の講義を受けたとき、薬になる、なんて言葉は一言も師匠の口からは出なかったわ。もし、薬になるとしたら、その時に教えてくれたはずよ。私の師匠は幻想郷一の薬師だと信じている。あなたよりもよっぽど信用できるのよ」
「……」
「もし、納得できないようだったら、永遠亭に来るといいわ。師匠が優しく教えてくれると思うから。でも、あなたには高度すぎて分からないかもしれないわね」

そう言うと、鈴仙はカウンターに置かれた銀の包みと小瓶を掴み、文の手を引いた。

「さ、行きましょう文。この人は、あなたを中毒にさせようとしていたことが分かったでしょう。なら、付き合うことはないわ」
「は、はい……」
「じゃあね。もう会うこともないでしょうけど、せいぜい危ない薬ごっこを楽しんでいるといいわ」

最後にそういい捨てて、鈴仙は早足で出口に向かう。
駆け上がるように階段を上がり、ドアを開けると、二度と開けない覚悟を見せるかのように叩きつけて閉めた。

「……」

その様子を頬杖を突きながら見ていた店主は、しばらく瞬きすらせずに動かなかった。

しかし、突然、そばにあった木製の椅子を思い切り蹴り飛ばした。
見事な放物線を描き、カウンターのそばにあったガラス瓶に直撃し、床に落下して耳障りな音を立てた。

「…………まあ、いい」

店主の目はカウンターに置かれた銭袋に注がれる。
上唇を舐めながら、その場にいた者は総じて鳥肌が立ったであろう、凄絶な笑みを浮かべていた。



真冬よりも日が延び、最近は辺りが暗くなるのが遅くなった。
それ故、今の空の暗さを見ると、現在の時刻がやや遅い部類に入ることを示している。
相変わらず、厚い雲に覆われた空。今日一日で天気は全く回復しなかった。
明日は雨だろうか。妖夢がいたら分かるのに、と文は考え、それが出来ないことを思い出して沈鬱な気持ちになった。

竹林を抜け、文と鈴仙は永遠亭に帰ってきた。
長い一日だった。朝から商店街をずっと歩き回ったため、足がまさに棒のようになっている。
しかし、収穫はあった。まだ本物と決まったわけではないが、ようやく、インフルエンザの薬と思しきものを手に入れることが出来た。
体の疲労は濃いものの、心の方は微かな希望が灯っていた。

文に掴まっていた鈴仙は、永遠亭の玄関前に着いたことを確認すると、文の腰から離れて地面に着地する。

「ふう、やっと着いたわね。こんなに長く出ずっぱりだったのは、本当に久しぶり」

伸びをしながら、鈴仙は体をほぐす。商店街からここまでは約三十分ほどだが、まだ文の飛び方に慣れていないためか、体をこわばらせたまま掴まっているのだった。

「……すみませんでした、鈴仙」
「え?」

突然の文からの謝罪に、鈴仙は後ろを振り返って顔を見る。
でも、なぜ文は謝ったのか、その理由はすぐに見当がついたから、色々な言葉を端折って鈴仙は言葉を返した。

「……あなたは少し気が張りすぎているのよ。早く妖夢を救いたいと思いすぎている。いつもの取材をしている時のような、冷静な態度で臨めば、あなたはあんな怪しい薬に手を出そうとはしなかったわ」
「……」
「私も、一刻も早く妖夢や、村の人たちを助けたいと思っている。だけど、だからこそ冷静に状況を把握する必要があるのよ。自分に何ができ、何をしなければならないのか。あなたはその気持ちが空回りして、冷静さをなくしていただけよ。気に病む必要はないわ」
「……そう言ってくれると助かります。嫌ですね、今日は自分の欠点がどんどんと浮き彫りにされている感じです」

仕方なし、といった感じで文は自嘲する。しかし、その欠点はきっと美点にもなるであろうと、鈴仙は思っていた。

「さ、早く入りましょう。師匠にこの薬を見てもらって、使えるかどうかを判断しなければならないわ」
「あ、いえ、私はこれから小町さんのところに行ってきます。お金の回収も頼まれてますから」

鈴仙が戸に手をかけると、反対に文は地を蹴って宙を浮いた。

「そう。じゃあ、頼むわ。帰ってきたら簡単に食事にしましょう」
「はい」

文が頷いたのを合図に、鈴仙は永遠亭の中に、文は再び竹林の中に身を投じた。







三途の川の流れは、昔も今も何一つ変わらない。
二週間前に比べれば、岸に積もった雪の厚みは薄くなっているものの、川には何の変化もない。
滔滔と流れ続ける大河は、人の生も、死も、全てを受け入れるかのごとく、雄大だった。

あたいは空になった舟を漕ぎながら、此岸に向かって舟を漕いでいた。
もう夜といってもいい時間。目を凝らしても、見える物は夜勤用のぼんぼりに照らし出されたあたいの船と、三途の川の水だけだった。
まるで、無限の川のど真ん中に放り出されたような孤独感。あたいが夜勤を避けるのは、寂しさが付きまとうからに他ならない。
月や星が出ていればまだいい。満天の星空や、月光にきらめく幻想的な三途を見るのは大好きだ。でも、月も星も、何もお供のないこんな暗闇の夜は、本当に何もない。
だから、いらないことを考えてしまう。こうして舟を漕いでいる間にも、妖夢の命は少しずつ消えていく。
不安で不安で仕方がない。でも、あたいには薬を作ることは出来ない。出来ることは、こうやって手が痺れるまで舟を漕ぐことだけだった。

川の流れに垂直に舟を漕ぐと、計ったように、あたいがいつも船を着ける桟橋が見えてきた。舟を漕ぐ才能、というものがあるのなら、あたいにはそれがあるんじゃないだろうか。
だとしたら、この仕事は天職に他ならなかった。だから、その天職で、あたいは妖夢の病気を治す。稼げば稼ぐほどに、妖夢が助かる確率は上がると信じるしかなかった。

船を桟橋に着けると、岸の方から砂を噛むような足音が聞こえた。
そして、桟橋の板を踏みつけてこちらに向かってくる音。そして、声。

「小町さーん!」

聞き慣れた声が聞こえた。誰もいないと思っていたからこそ、その声に驚いたし……安堵した。

「文。どうしたのさ、こんなところで」

この数週間で目に焼きついた姿を認め、あたいは声をかける。

「小町さんを待ってたんですよ。自分で言ってたじゃないですか。暇が出来たら来いって。今さっき商店街から帰ってきたから、早速お金を取り立てに来たんですよ」

文は腰に両手を当てながらおどけたように笑う。その顔に、掛け値なしに救われたような気分になった。
あたいも、少し参っていたのか。一人でいると、どうしても考え事をしてしまうから。

「ああ、分かったよ。……ほら、持っていくといい」

あたいは船に積んであった一抱えの風呂敷を、文の足元に置いた。
桟橋に風呂敷が着地した途端、甲高い金属の音が中から聞こえてきた。

「えっ!? ま、まさか!?」

文は急いで包みを解く。固結びにしているからか、焦っているからか、なかなか解くことが出来なかった。
ようやく、包みを広げた文は目をぱちくりさせ、それからあたいの方を見た。

「どうしたんだい? 見たことないわけでもないだろうに」

文の前にうず高く積まれていたものは、数珠のように白い紐で繋げられた銅銭の山だった。
一つの数珠には、百文あるはずだ。それが五つ。まだ百文に到達していない数珠は一つあり、それはあたいの船に積まれてあった。

「こ、小町さん、これをたった一日で稼いだんですか?」
「……ああ、そうさ。死ぬ気で働くって約束したからね。このくらいはやらなきゃ、口だけになっちまう」
「い、いつもの五倍以上のお金じゃないですか! 無茶しすぎですよ! このままじゃ、倒れちゃいますよ!?」

文は一転、浮かべていた笑みを引っ込めて一気に心配顔に早変わりした。

「……大丈夫だよ。いままでだって、そんなに本気でやってたわけじゃないからね。これがあたいの本気さ。ちっとは見直しただろ?」

あたいの軽口に効果はなかった。文はその場に膝をついて、舟に乗ったままのあたいと目線を合わせた。

「ねぇ……小町さん。もし、妖夢が助かっても、小町さんが倒れたら妖夢は喜びませんよ? 少しだけ、もう少しだけでいいんです。体を労わってあげてください」
「大丈夫大丈夫。まだまだ出来るよ。あたいは頑丈がとりえだって言っただろ? そんな柔には出来てないって」
「そんなに疲れた顔をして言っても、説得力がありません! きっと、休みもせずに、朝からずっと舟を漕いでたんでしょう? お願いですから、少し休んでください。妖夢が倒れて、そして小町さんまで倒れたら、私はどうしたらいいか分からなくなってしまいます……!」

文は今にも泣きそうな顔をしていた。……そこまで、心配してくれる文の心遣いが、本当に嬉しかった。
だから、あたいは精一杯の笑顔を浮かべてやった。

「分かったよ。じゃあ、少し仮眠をとることにする。実は、あたいも少し疲れてたんだ。さすがに、少しオーバーワークだったみたいだね」
「あ、当たり前です……! いつもはサボってるくせに、どうしてこんなときは無茶するんですか……! 小町さんはバランスが悪すぎるんですよ……!」
「あはは、違いないね。さ、もう遅くなるし、そろそろ行ったほうがいいよ。あたいは適当に飯を食うから、何も持ってこなくていい。明日の朝に飯を持ってきてくれると助かるね」
「……はい、分かりました。じゃあ、このお金は永琳さんの判断を仰いで、大切に使わせてもらいますね」

大量の銭が入った袋を重そうに背負うと、文は最後に一言付け加えた。

「そうでした。商店街では、インフルエンザの薬らしきものが見つかりましたよ」
「な、なにっ!? 本当かい、それは!」
「はい。今は鈴仙が永琳さんに解析をお願いしていると思います。今夜中には成分が判別できると思いますよ」

文は銭の重さを全く感じさせずに宙を浮く。

「もしかしたら、今日中に決着がつくかもしれないんです。だから、小町さんも体を休めてください。お願いしますね」

そう言って、文は風と共に消えた。

「……そうか、見つかったのか……」

あたいは文がいた空を見つめる。
少ない可能性に賭けたかいがあったのだろう。二人は本当によくやってくれたと思う。
文の言う通り、この調子で永琳さんが特効薬を作ってくれれば万事解決だ。今は運が上向きなのかもしれないし、成功してほしかった。

「だけど……」

だからといって、楽観することは出来なかった。
薬が作れない可能性の方が高いと思わなければならない。これからが、本当の正念場になると思わなければならない。

あたいは、寝袋を手に取り、紐を緩めた。
中から取り出したのは、一枚の紙切れ。
そこには、あたいの友達や知り合いの名前がたくさん書かれており、その横に金を表す数字が記してあった。

「また、増えちまったねぇ……借金」

だけど、今日あたいがどんなに頑張っても、二百文がせいぜいだった。
今まで築いてきた友人関係、交友関係は決して無駄ではなかったということだ。みんなには感謝している。
でも、これ以上は望めない。あたいが頑張らなくてはならない。
そのためにも、ここで寝ているなんて選択肢があろうはずもなかった。

あたいは船から飛び降り、再思の道の麓を目指す。少しでも、多くの金を持った霊がいることを祈りながら。







「ただいま戻りましたー」

再び永遠亭に帰ってきた文は、小町が稼いだ金を永琳に渡すべく戸を開けた。
元々薄暗い廊下は、夜になるとさらに黒く塗りつぶされる。
妖怪は暗闇でも見える目を持っているが、昼に比べたら圧倒的に視界が利かなくなる。ましてや、ここには光源らしきものは何一つない。曲がり角の少ない屋敷の造りだったのが救いだった。

文は、朝に永琳の話を聞いた実験室を、記憶を頼りに目指す。
どこも同じような襖ばかり続いているので、ここだろうという襖を推測し、あたりをつけて開けていくしかなかった。

十回ほど襖を開けると、見たことのある板張りの部屋に、数々の実験器具が置かれた机が目に入った。
ようやく到着だった。

「ん? お帰りなさい。今日はご苦労様だったわね」

声がしたほうに目を遣ると、永琳がビーカーを片手に何かをしていた。鈴仙は部屋にはいず、永琳一人のようだった。

「ただいま帰りました。どうですか? 鈴仙からインフルエンザの薬を渡されたと思いますけど、使えそうですか?」
「そうね……」

永琳は判断がつかないような曖昧な表情を浮かべた。

「結論からいうと、あなたたちが持ってきてくれた薬は、確かにインフルエンザの薬だったわ。それも、ごく最近に作られたもの。状態も良かったし、すぐにでも投与は可能だと思うわ」
「そ、そうですか! じゃあ、すぐにでも妖夢に飲ませられますね!」
「ただね……」

嬉々とする文に、永琳は溜め息混じりに言葉を続ける。

「せっかく持ってきてもらってすまないんだけど……このくらいの薬なら、私はすでに考え付いていたのよ。今回の突然変異したインフルエンザはこの程度の薬じゃ、ほとんど効き目がない。毎年流行するインフルエンザなら、この薬でも十分効果はあったでしょうね」
「へ……? そ、そんな……」

一転して、文は落胆の表情に変わる。永琳はそれを見て、続きをいうべきか迷ったが、事実は伝えるべきと思って話し出す。

「もう一つ持ってきた小瓶の方の薬。あれも確かにインフルエンザのワクチンだったわ。状態も良好。すぐに接種できるわね。だけど、ワクチンは免疫を高める薬。ウイルスが侵入する前に接種して初めて効果が出る。もうすでに入り込んだウイルスには効かないのよ。残念だけど、外の世界でも、今回のウイルスに対抗できるだけの薬は開発されていないようね」
「……そ、そうですか……」

背負っていた風呂敷を床に落とすように下ろし、文は下を向く。

「でも……それが分かっただけでも良かったです。これで気兼ねなく、永琳さんが薬を作るためのお手伝いが出来ますから」

文は再び風呂敷を抱えあげて、手近な椅子にそれを置いた。

「小町さんが今日稼いだお金です。ものすごい金額ですよ。後で確認してみてくださいね」
「ええ、分かったわ」
「……あと、永琳さんに聞きたいことがあります」
「? 何かしら?」
「私は……………………妖夢のそばに行ってもいいのですか?」

永琳は一瞬だけ目を見張る。本当に一瞬だった。だけど、じっと顔を見ていた文には、その変化がよく分かった。

「……気付いてたのね」
「永琳さんが、カラスがインフルエンザの感染源だって言ってからですけどね。私も、元はカラスですから。私が保菌者になった可能性も否定できなかった。だから、永琳さんは、妖夢の診察に立ち合わせなかったんですよね」
「……」
「私も、その可能性があるとはうすうす気付いていました。だけど認めたら、私は罪の意識に押し潰されてしまったと思います。永琳さんはそれが分かっていたから、小町さんにあんなに食いついたんですよね。春風丸に目を向けるように」

永琳は微かに笑う。それは降参の合図だった。

「でも、私はもう挫けないって決めたんです。たとえ、私が妖夢の病気の原因でも、永琳さんが薬を作って、妖夢が元気になるまで頑張るって決めました。そして、妖夢が元気になったら……謝るんです。それこそ地面に穴が空くくらいに土下座します。それまで、落ち込んでなんかいられませんから」
「……そう」

文の言葉を聞いた永琳は、少しずつ文に歩み寄っていった。
目の前まで来ると、上背のない文に合わせるように少しだけ屈みこみ、文の肩を抱いた。

「あ……」
「大丈夫。あなたが原因ではないわ」

永琳は優しく言う。

「今日、ウドンゲにあなたの仕事についていったもらったのはね、あなたの仕事を手伝うだけじゃなかったのよ」
「え……? あ、もしかして……」
「あなたはウイルスを持っていなかったわ。なかなか隙を見せてくれないんで困ったってあの娘は言ってたわよ」

文の背中を優しく撫でながら、永琳は微笑を浮かべる。

「探るような真似をしてごめんなさいね。あなたの心を守るには、これしかいい方法が思いつかなかったものだから」
「い、いえ、謝らないで下さい。感謝しています。……待ってくれたことに」
「あなたは強いわ。だから、私も頑張るわね。きっと妖夢を助け出してみせる。あなたは何も心配しなくていいわ」

永琳は体を離すと、文の背中を押して送り出す。

「さ、あの娘のところに行ってあげなさい。そばで一緒に寝てもいいわ。きっと、寂しがるでしょうから」
「は……はい! じゃあ、お言葉に甘えます。きっと……きっと妖夢を助けてくださいね!」

文は最後に永琳に願いを託し、風のように研究室を後にした。

「……」

残された永琳は、そんな文の後姿が無くなったあともしばらく見送る。
そして、ついと、横にある椅子に視線を移した。そこには、小町が稼いだ金が入っているという風呂敷包み。
開けてみると、息を飲むくらいに大量の銅貨が姿を現した。

「……口だけじゃないのよね……」

そんな皮肉と賞賛を混ぜこぜにした感想を漏らし、風呂敷を結び直した。
そして、ゆっくりと立ち上がる。

「私も、負けてられないわね……」

蝋燭が揺らめく実験室。永琳は再び机に向かった。



文が襖を開けると、燭台の灯りに照らされた部屋に横たわる、妖夢の姿があった。
黒とオレンジだけが支配する空間。ほんの少しだけ、文はその光景に見入る。あまりにも幻想的な光景に、妖夢はすでに息を引き取って、抜け殻になってしまったかのように思えた。
そんな考えを懸命に振り払う。そして、まだ自分は不安を捨て切れていないのだと気付く。
妖夢は必ず助かる。そう信じなければ、助かるものも助からない。妖夢を助けようとしている関係者は、全員そう信じているに違いなかった。自分だけが信じないわけにはいかない。妖夢を助けるために、自分だって重要な役割を担っているのだから。

「文ちゃん。ご苦労様」

妖夢の隣にいた幽々子が、文に柔らかな口調で声をかける。
悲壮感などまるでない。昨日まで、白玉楼の居間で微笑んでいたときの、あの幽々子の声と寸分違わなかった。

「はい、幽々子さんもご苦労様です」

文もいつもと同じように返し、妖夢を挟んで反対側に座る。
妖夢の顔を見ると、顔色こそは分からないものの、幾分か落ち着いているように思えた。
しかし、まだ呼吸が早い。今朝、白玉楼から永遠亭まで背負ってきたときに、妖夢が発した痛々しいまでの呻きを文は思い出す。
思い出すだけで胸が締め付けられるようだった。二度とあんな声は聞きたくない。また、妖夢の鈴を転がすような可愛い声が聞きたかった。

「いま、寝たばかりなのよ。もうちょっと早く来たらお話できたのにね」
「いえ、いいです。妖夢には話すことさえ許しちゃいけません。そんな暇があったら、さっさと病気を治してもらうべきです」

いつもの調子で話す文に、幽々子は、そうね、と言って微笑む。

「この子は自分のことよりも他人を優先してしまうから。きっと、文ちゃんが来たら、自分が元気になったってことを見せたくて、無理しちゃうと思うのよね」

幽々子は妖夢の額のタオルに手を載せる。しばらく、幽々子はそうしていたので、文は何も言わずに眺めていた。

「この子の体調が悪かったのは、こんな状態になる三日前辺りから気付いていたの」
「え?」

独り言のように呟く幽々子。出し抜けだったので、文は少し意表を突かれた。

「いつもなら、病気はすぐに治ったし、全然気に留めていなかったわ。でも日を追うごとに、どんどん疲れたような顔をしていって。その時におかしいと気付いて、休ませるべきだったのよ。それをしなかったのは、私の怠慢。こんなひどい風邪を引いてしまったのは、私に責任があるわ」
「そ、それは違います。たとえ、幽々子さんが休ませたとしても妖夢は発症していました。永琳さんの話していた里の人も、どう転んでも病気にかかる以外になかったんです。幽々子さんに非はありません」
「……」
「今回のことは、逃れようのないことだったんだと思います。色々な出来事が重なって、妖夢は病気にかかってしまった。元を正せば、小町さんが白玉楼に来たことから始まっているんです。けど、私も、妖夢の病気の根本の原因に携わっていると言えます。幽々子さんに責任があるのなら、小町さんと私にも責任があります。言い換えれば、妖夢のそばにいた全員が、妖夢を病気にしてしまったんです」
「……」
「だからこそ、私たちは妖夢を救わなければならないんです。小町さんの言っていた通り、まだ手遅れじゃありません。もう少しの辛抱ですよ。私も、もうウジウジするのはやめました。幽々子さんも、あまり自分を責めないで下さい。お願いします」

文の言葉を静かに聞いていた幽々子は、そうね、ありがとう、と呟いて、妖夢の額から手を離した。

「今日は私も妖夢の横で寝ます。妖夢が元気になるまで、ずっとそばにいるって決めました。いいですか?」
「もちろんよ。この子もきっと喜ぶわ。妖忌と私以外の人と一緒に寝たことがないからね」
「妖夢が小さい頃は、妖夢は幽々子さんと一緒に寝てたんですか?」
「ええ、怖い話をしたときなんかは、夜中に部屋に来るから、その時に一緒に寝たわ。私もお化けなんだけどね」
「幽々子さんはちっともお化けっぽくないですよ」

二人は妖夢を挟んで笑いあう。
たった一日前のことなのに、文はこんな和やかな会話を、遠い昔のように感じていた。

「……早く、妖夢を元気にしましょう。それで、妖夢の前で色々と子供の頃の話を聞きたいです。どんな反応をするか、今から楽しみですよ」
「あらあら、意地悪ね。妖夢に怒られるのは私なんだから、そのことは覚えておいてね」

妖夢を挟んだ、文と幽々子の会話は続き、少しずつ夜は更けていく。
障子に映る燭台の光。それは、ゆらゆらと揺らめき、吹けば飛びそうなほどに儚かった。

やがて灯は消され、屋敷は闇に包まれる。長い夜に身を委ねながら、住人たちは朝を待つ。



しかし、深い竹林に覆われた永遠亭の朝日は、けして見ることは叶わない―――





◇ ◇ ◇





うぅ…………うぅ…………

どこからか、不規則な音が聞こえてくる。
獣が呻くような、低く、重苦しい音。それを布団の中で微睡みながら、幽々子は右耳で聞いていた。

締め切られた障子の向こうからは、微かに雨の音が聞こえてくる。ついに降り出したのだろう。昨日の雲は予想通りの雨を降らしたようだ。

うぅ…………うぅ…………

まだ音は鳴り止まない。雨音に混じって聞こえてくる音は、幽々子のすぐそばで生まれているようだった。
幽々子のそば、そこには病床の妖夢がいる。

……

布団を跳ね飛ばすように飛び起きる。普段の幽々子からしたら考えられないほどの乱暴な行動。

そして、すぐに隣で寝ていた妖夢を見た。


「うううぅぅぅぅぅ……!! あうううううぅぅぅぅぅぅ……!!」


妖夢が、必死の形相で、胸を掻き毟りながら、喘いでいた。

「よっ、ようむっ!!」

幽々子は叫び、妖夢の肩に手をかける。
熱い。触れていられないほど熱い。もはや、人間の体温ではなかった。

「妖夢っ!! しっかりしなさいっ!! 私はここにいるわよっ!!」
「はあっはあっ、あああううぅぅぅ、はああぅぅぅぅぅっ……!!」

妖夢の苦しがりようは尋常ではない。昨日の朝よりもさらに悪化している。
幽々子の頭はパニックを起こしかけていた。

「えっ……、な、なに……? 妖夢……?」
「あ、文ちゃんっ!! すぐに薬師さんを呼んできてっ!! 妖夢が大変なのっ!!」
「なっ……! こ、これはっ……!」

ようやく起きた文は、幽々子の必死の叫びで瞬時に状況を把握する。
寝巻きを直すこともしないまま、布団から跳ね起きて廊下に通じる襖を目指す。

「すっ、すぐに呼んできます!! それまでに妖夢を落ち着けてくださいっ!!」

言い残し、文は廊下を蹴って永琳がいる実験室を目指す。

「大丈夫よ妖夢……! 私はここにいるわ……! 落ち着いて……!」
「あっあああぁぁぁ、はああぁぁぁ、はあっ、はあっ、あうううぅぅぅぅぅ……」

幽々子は固く妖夢の手を握り、祈るように目を閉じる。
妖夢は、まるで何かにとり憑かれたかのように呻くのをやめる気配は無い。
幽々子にはどうすることも出来ない。ただ、ただ歯がゆい。唇を噛み締めながら祈ることしか出来ないなんて。

まただ。また一歩遅かった。
文に勧められて、眠ったりしなければ。妖夢の状態が落ち着いているからって、あそこで眠ったりしなければ……!
自分の意志の弱さに呆れ果て、そして呪う。呪って妖夢が助かるのならば、いくらでも呪ってやりたい。
でも、そんなことをしても事態は何も好転しないのは分かりきっている。
幽々子に出来ることは、妖夢の手を握り締め、自分の存在を呼びかけることくらいしかなかった。



「はあ……、はあ……、はあ……」

十二畳の座敷には、五つの人影があった。
幾分か落ち着きを取り戻したものの、まだ苦しげな表情で息を吐く妖夢。
かたわらで触診を進める永琳。助手をする鈴仙。
その診察を、耐え切れない不安と共に見つめる幽々子と文。

妖夢の狂ったかのような苦しみを見た永琳は、例の丹を鈴仙にすぐさま用意させた。
今度は経口ではなかった。注射器を使った静脈投与で、少しでも早く妖夢を落ち着ける必要があった。それほどまでに、今回の発作は凄まじいものだった。
まるで台風が過ぎ去ったかのように、座敷はいつもの状態に戻っている。妖夢の吐息の音と、半分ほど開かれた障子の間から、しとしとと降る雨の音が、その座敷の音の全てだった。

しばらく妖夢の体を調べていた永琳は、やがて手を止め、妖夢の腋に入れられた体温計を取り出す。
そして、その端正な顔を歪めた。

「永、琳さん。妖夢は……助かるんですよね……? 助けてくれるって、言ったじゃないですか……」

沈黙に耐え切れなくなった文が言葉を紡ぐ。
やや俯いていた永琳は、腕だけを動かして、取り出した体温計を文に手渡した。

「えっ……? なに、これ……」

文は渡された体温計を、様々な角度から食い入るように見つめる。
だが、どんなに見方を変えてみても、体温計の水銀には“隙間がなかった”。

「ウドンゲ。ここにある解熱剤の中で、一番強いものを持ってきて。それをすぐに妖夢に与えてちょうだい。その後、昨日小町が稼いできたお金を使って、ありったけの丹の材料を買ってきなさい。急いでね」
「はい……分かりました」

鈴仙はすぐに立ち上がり、座敷から逃げ出すようにいなくなる。これ以上、見ていられないと言うかのように。

「薬師さん……妖夢は……」

おずおずと、幽々子が永琳に尋ねる。

「……ここ数日が山ね。……………………………………………………………………覚悟しておいて」

氷水をかけられたかのように感じた。







ついに、降ってきた。

最初はそう思った。
そろそろ明るくなってくるだろうと思った頃。そして、もう送った霊の数を数えるのもめんどくさくなった頃だった。
目の前を一本の白い線が走り、三途の川に落ちて、波紋も見せずに消えていった。
少しずつ線は多くなり、五分も経つと針が空から落ちてくるかのようになった。

……冷たかった。

雨具なんて気の利いたものは持っていない。元々あたいは、こんな日は仕事をほとんどやらずにサボっていた。
何十年も船頭をやって来て、雨の日に舟を漕いだのは、夏の日の夕立に襲われたときくらいだった。
夏の日の夕立は気持ちがいい。容赦なく照りつける日差しの中で舟を漕いだご褒美のように感じる。下着までぐしょ濡れになっても、笑い飛ばしてそのまま仕事を続けていく。仕事をしているうちに乾いてしまうと思ったし、実際にそうなった。

でも、こんな寒い日の雨は、きっと乾かないと思う。
雨は、いつ止むのかも分からない。夕立みたいに、ぱたと止むことはないだろう。
それに、雨宿りをする時間などないのだ。一文でも多く稼ぐこと。それが、今のあたいに出来る最大の仕事なのだから。

肌に突き刺さる針は、血ではなくて体温が流れ出ていくようだった。
かじかんだ指先と、白く染まる息。雪の日でもないくせに、なんでこんなに寒いんだろう。
妖怪でも、寒いものは寒いんだ。だから、そんなに意地悪しないでくれと、恨めしげに灰色の空を見上げた。



桟橋が見えてきた。
その向こう側にある、砂と小石が交じり合った岸。昼寝に使う大岩。枯れ果てた広葉樹。
昨日一日で、見なくても絵がかけるくらいに目に焼きついた風景だった。

「……?」

だから、その風景に見慣れない物が入っていると、嫌でも目立った。
桟橋に誰か立っている。
この雨の中、何も差さずに突っ立っている。ずっと長い間、こちらを見つめていたようだった。

「……」

あたいは大した反応も見せず、黙々と舟を漕ぐ。手を振る気さえ起きなかった。
なぜなら、そいつが、まるで地獄に突き落とされたような顔をしていたから。

あたいの相棒は、すでに意思があるかのように、桟橋にヘリを着ける。
舵取り棒を舟の中に投げ入れ、流されないようにロープで固定する。
その作業を、そいつは一言も言わずに見つめていた。幽霊か何かのように。

一通りの作業を終えると、あたいは桟橋に飛び乗った。

「お疲れさんだね。また取り立てに来たのかい?」
「……傘くらい差してください。びしょ濡れじゃないですか」

そいつは、あたいの問いに答えず、伸ばせば手が届くくらいまで、こちらに歩み寄ってきた。
途端に雨がやむ。こいつの頭上で循環している風が、雨を吹き飛ばしているのだろう。

「……なんか、あったのかい?」
「……」

大体の見当はついていた。それを、目の前にいる死にそうなやつに言わせるのは酷だろうか。
でも、こいつは、あたいに情報を伝える役目をかって出てくれた。その仕事を取ってはいけないと思う。
なにより、はっきり言ってほしかった。

「妖夢が…………危篤です」
「……」

それほど驚きはしなかった。こいつの顔は、もう雄弁にそのことを語っていたのだから。

「今朝、発作が起こって……永琳さんはここ数日が山だと言っていました。いつ…………………………命を落としてもおかしくない、と」
「……」
「小町さん……。永遠亭に来ませんか? 妖夢のそばにいてあげませんか? 私も、今日は妖夢についてあげようと思っています。だから、小町さんも」
「文」

あたいは最後まで言わせずに割り込んだ。

「あたいは帰らない」
「え……?」

信じられないものを見るような目で見られる。だから、あたいはきっぱり拒絶する。少しだけ怒りを含んだ目を向けながら。

「あたいが、ここで妖夢のところに行ったら、それは妖夢は助からないと認めたことになる。あたいは、永琳さんが薬を作ってくれるまで、ここで金を稼ぎ続けると誓った。それを曲げることなんて出来ない。あたいは、妖夢は必ず助かると信じている。……文もそうだったんじゃないのかい?」
「……」
「そうじゃないってんなら、あたいはお前さんを見下げるよ。お前さんの嫌いな、口だけ達者で何もしていない人間と同じだ。そんな中途半端な覚悟でいられたら迷惑だ。さっさと家に帰って、大好きな新聞でも書いてるといいよ」

あたいの責める口調に、文は耐え切れなくなったのか下を向く。
そんな文の肩に、あたいは、ぽんと優しく手を載せた。

「あたいだって、今すぐ妖夢のところに行きたい。心配で心配で仕方がない。だけど、行ったって、非力なあたいには何にも出来ないんだ。ただ、妖夢が弱っていくのを見つめていることしか出来ないんだよ。そんなの、きっと耐えられない。自分で自分を殺したいくらいに思うに違いない。だから、あたいは自分の出来ることをする。金を稼いで、少しでも妖夢が助かる可能性を上げるしかないんだ。指を咥えているだけなんて、あたいには絶対に出来ないんだよ」
「小町さん……」
「文だけじゃない。みんな不安なんだ。その中でも一番不安なのは幽々子さんに違いない。でも、きっと妖夢が助かると信じて懸命に看護している。それを忘れちゃいけないよ」

文は目を赤くして、涙を浮かべながら、

「はい、そうですね……」

と頷いてくれた。

「……これから、永遠亭に戻って、小町さんの雨具を取ってきます。朝ごはんも作ってもらいますね。だから、どこかで雨宿りしていてください。風邪を引きますよ」
「ああ、分かった。頼むよ」

あたいの返事を確認すると、文は軽く地を蹴って、風と共に姿を消した。

再び、雨が降り注ぐ。
あたいの足は、再び、再思の道の麓に向かう。
雨の冷たさなど、妖夢の苦しみに比べれば、唾を吐きつけられるくらい弱々しいものだった。










「なあ、お前さん。あたいの舟に乗ってかないかい?」
『ひっ! な、なんだい、アンタ!』

あたいに肩を掴まれて、こちらを振り向いた霊は、あたいの姿を見て手を振り払った。
何だよ……あたいはお化けじゃないよ。
ふと、周りを見回すと、たくさんの霊がひしめいているはずの広場に、あたいの周りだけポッカリと空間が空いていた。
みんな、あたいを見て見ぬふりをしている。ちらちらとこちらを見ながら、関わりあうのを避けている。

「……」

鏡があったら見てみたいもんだ。一体、今のあたいはどんな顔をしているのか。
たった一日、徹夜で舟を漕いでいただけなのに、飛びのくくらいに驚かれるとはね。笑いたくないのに笑ってしまう。

空を見上げる。相変わらず、弱いんだか強いんだか分からない曖昧な雨が、あたいの顔に突き刺さっている。
いつまで降っているつもりなんだろう。早く上がってくれないと、余計に客に引かれるじゃないか。

……上がってくれないんなら、あたいだって負けないよ。

髪をかき上げて、額に貼りついた鬱陶しい前髪を払う。
そして、空に向かって、精一杯の笑顔を浮かべてやる。あたいの仕事に水を差す空に、挑戦するかのように。

そのまま周りを見回す。
霊の頭上に浮かぶ銭。少しでも多く持っている霊を探す。コツはもう分かっている。

「お客さん! あたいの舟に乗ってかない!?」

威勢のいい声をかけて、戸惑う霊の腕を強引に取る。そのまま宙を浮いて逃さない。

さあ、まだまだ稼ぎまくるよ。妖夢はきっと助かるんだから。







一歩一歩、足を廊下に踏み出すごとに、靴下の中に冷気が染みこんでくる。
今日はこんなに寒かっただろうか。永遠とも思える長い廊下を歩きながら、文は考える。まるで、氷の板の上を歩いているかのように感じられた。
しかし、きっと、昨日とほとんど変わらないに違いない。冷たいと思わせるのは、自分の心が冷え切っているからだ。文はそう思う。
心持ち一つで、世界はこれほどまでに変質してしまうのだ。ありとあらゆる事象が、文には自分を責め苛んでいるように感じられた。

「……」

文は、小町が言っていたことを反芻する。
自分に出来ることは、金を稼ぐことだけ、妖夢のそばにいても何も出来ない。だから、金を稼ぐ。まだ、妖夢が助かる希望があるから。
小町の心の中には、確かにその気持ちもあっただろう。自分の出来ることを全うしようとする責任ある行動。素直に立派だと思う。
だが、その裏で、妖夢が自分の目の前で命を失うのを直視したくないという気持ちもあったに違いなかった。
がむしゃらに資金を稼ぎ、妖夢が危険な状態であることを懸命に忘れようとしているのだ。金を稼ぐことで妖夢の命の炎が少しずつ強くなっていくと信じ込んで。

「……」

だが、小町は自分に比べれば遥かに建設的な行動をしている。
自分には、妖夢のためにしてあげられることが、これといってない。出来ることは、せいぜい空を飛び回って薬を買ってきたり、小町に妖夢の状態を伝えたりすることだけ。誰にでも出来る、呆れるほど簡単な仕事ばかりだ。
小町も、幽々子も、永琳も、鈴仙も、自分にしか出来ないことを懸命にやっている。それなら、自分に何が出来る? 文はそれを考えれば考えるほど、どんどん泥沼にはまっていくような気がした。

考え事をしながら歩いていると、前方に妖夢が寝ている部屋が見えてきた。
幽々子もこの部屋の中にいるだろう。また、あの発作が起こるやもしれない恐怖に怯えながら。
文も、出来ればそんなところに居合わせたくない。だが、もう永琳の薬に頼らなければならない今、薬を買いに行けという指示もない以上、文に考え付くのは、妖夢の看護を幽々子と共にやることだけだった。

襖を開けると、相変わらず荒い息をついている妖夢と、こちらに背を向けて妖夢の頬の汗を拭いている幽々子がいた。
今朝の発作が凄まじかったから気がつかなかったが、昨日に比べて症状が悪化しているように見えた。危篤、という状態なのだから当たり前なのだが。

「……文ちゃん?」
「あ……」

振り返りもせずに名前を呼ばれた文は、少しだけ体を震わせる。

「はい……」
「さ、立っていないで、こっちにいらっしゃいな。妖夢のそばにいてあげて」

驚くほど落ち着いた声だった。今朝の幽々子の取り乱しようを見ていただけに、文には目の前にいる幽々子が別人のように感じた。
敷居を跨いで畳を踏む。そして、幽々子と向かい合わせになって座った。

「こまちゃんはどうだったかしら?」
「……相変わらずです。雨宿りをしてろと言ったのに、勝手に雨の中で仕事をしていました。このままじゃ、妖夢と布団を並べる日も遠くありません」
「そう」

幽々子も困った風に笑う。それから、しばらく二人とも無言だった。


雨の音と、妖夢の息遣いだけが聞こえる。
時の流れが、少し遅くなったような気がした。


「この子は、死ぬとどこに行くのかしらね」
「え……?」

幽々子が出し抜けに言った言葉に、文は意味を理解するのに時間がかかった。

「な、なに言ってるんですか。妖夢は助かります。幽々子さんも、そう信じているでしょう?」
「ええ、ごめんなさい。でも、ふと考えてしまってね」

そう言うと、幽々子は文の背中越しに見える、雨に打たれ続ける竹林をぼんやりと見つめた。

「半人半霊って、人間でも幽霊でもないから、死んだ後はどこにいくのかてんで見当もつかないの。生きている方が死ぬんだから、死んでいる方とくっついて完璧な幽霊になるのかしらね。それなら、妖夢は今度は幽霊になって、白玉楼にずっといてくれるのかもしれないわ」
「……」
「でも、もしかしたら天国でも地獄でも冥界でもない、どこともしれないところに行っちゃうってこともあるのかなぁって思ってね。そうしたら、私は白玉楼に一人残されてしまう。あんな大きなお屋敷に一人ぼっち。美味しいお料理を作ってくれる人も、一緒にお話をしてくれる人もいないの。私は、永遠に、白玉楼で一人になってしまうかもしれない」

そう言うと、幽々子は妖夢の顔を見て、儚そうに笑う。

「それは、すごく寂しいなあ……って。そう思っただけ」

幽々子が喋るのをやめると、雨の音が音量を増す。文には、喋る前よりも、大きく聞こえたような気がした。

「私は……」

その音を破るように、文が口を開く。
妖夢を見つめていた幽々子は、少し上目遣いに文の顔を見る。

「これほど長く生きてきたのに、一人の友達の死に直面した今、何をしたらいいのか分からないんです。一体、私は何をしたらいいんでしょう……?」

文の自問とも思える問いに、幽々子は少しだけ微笑んで答える。

「そうね……文ちゃんは妖怪だから、近しい人の死というものを経験したことがないのね。だから、混乱しているのよ。無理もないわ」
「……」
「でも、こうやって妖夢のそばにいて心配してあげるだけでもいいのよ。妖夢にはきっとその気持ちは届いているわ」
「そうでしょうか……」

幽々子の言葉に、文は歯がゆさを感じた。
自分に対してだけではない。先ほどの幽々子の話を聞いてから、訳の分からないものが胸の中を渦巻いていた。
きっと、それは払えるはずなのに、なぜか出来ないもどかしさ。
妖夢が元気になりさえすれば、そのもやもやは、きっと晴れるに違いなかった。



雨はまだ降り続いている。
春雨にはまだ早い。早く太陽の光を浴びたいと、文は切に祈った。










永遠亭の一角にある、いくつもの座敷を繋ぎ合わせて作られた実験室では、ガラスの擦れ合う音とぶつかり合う音が絶え間なく響き、人影が忙しなく動いていた。

「ウドンゲ、さっきの薬をここに移して。それから、また材料が少なくなってきたわ。補充もお願い」
「は、はいっ!」

鈴仙は永琳の指示を受け、いつもの倍のペースで体を動かしている。奮闘しているのは、小町だけではなかった。
妖夢が危篤に入ってから、すでに五時間が経過し、いつ命を失ってもおかしくない極限状態の中、永琳と鈴仙は新しい特効薬の開発に懸命に取り組んでいた。
いくつもの試作品を作り、実験を重ね、その繰り返しをもう何度も続けてきた。
しかし、未だに患者に投与できるだけの薬は開発できていない。失敗作、と書かれたラベルが貼られた試験管やビーカーは、すでに十に達しようとしていた。

永琳は、普通の妖怪や人間よりも、遥かに早い薬の精製速度を持っている。
通常、薬の開発にかかる精製と実験の時間は何ヶ月にも及び、一朝一夕で新薬が開発されることなどありえない。しかし、永琳は、人間には投与できなかったとはいえ、今回のインフルエンザの新薬をたった二日で開発してしまった。
その大きな役割を果たしているものは三つある。

一つ目は、永琳が習得している薬の精製用の術。
彼女は、月で知らぬものはいないほどの薬の大家・八意家に生まれ、幼い頃からその秘術を厳しく仕込まれた。
数々の薬の精製法はもちろんのこと。薬の成分を判別し、一つ一つに分離する術。拒絶反応の有無を瞬時に判別できる術。顕微鏡のレンズを無限に近い倍率にまで上げる術。八意家が気の遠くなるような時間をかけて編み出してきた数多の術を、永琳はほとんど習得していた。
開発のために、何日も遠心分離機にかけていなければならないような薬も、永琳が何事か唱えれば一瞬で済んでしまう。薬の開発速度が尋常ではないのは、こういった開発の効率を上げる術を、永琳がいくつも知っているからである。

二つ目は、月人の薬の知識体系。
月人の薬師の能力と知識は、地球上の人間や妖怪のそれを遥かに上回る。未だに解決の目処が立っていない不治の病でさえも、月人は何千年も前に薬を開発していた。事実、永琳は肉体を不死にする薬を開発している。そんな薬は地球上では伝説上のものであり、作ることは不可能だ。
だから、月人である永琳にとって、インフルエンザというありふれた病原菌の特効薬を作ることなど造作もなかったのだ。

三つ目は、永琳自身の知能。
何万、何十万という腕のいい薬師を輩出してきた八意家だったが、永琳はその歴史上の薬師の中でも、上から数えて五本の指で足りるであろうという天才的な頭脳を持っている。
発想力、創造力は飛びぬけており、凡人には及びもつかない奇抜で画期的な薬を作り出すことが出来た。
また、八意家の秘伝の術は百万に届かんという量であり、薬師はそれぞれの専門分野を持つことが一般的であったが、永琳はそのほぼ全てを暗記しており、状況に応じて記憶から引っ張り出すことが出来る万能薬師だった。
故に、文献等を調べる手間がほとんどない。分厚い本に載っている精製法を超える精製法を考案することも可能だった。

こんな事情もあって、永琳は今回の新型インフルエンザの薬の製作に楽観していた。
潜伏期間が異様に長いとはいえ、患者の命を繋ぐ薬を与え続けている数日の間に、特効薬を開発できる自信はあった。

だから、妖夢がたった二日で、命にかかわる発作を起こしたのは、大誤算だった。

半人半霊という体質が仇になったのだろうが、普通の人間に比べて明らかに免疫力が低いようだった。
永琳が作った丹は、体力を回復させることで、その人間自身が持っている免疫力を最大限に発揮させることに主眼が置かれている。
妖夢に元々免疫が少なかったとすれば、丹の効果が上がらないのは自明だった。

妖夢の発作をうけ、永琳はようやく自分の持てる知識をフルに発揮する覚悟が出来た。
いままでは頭の片隅に余裕があり、危機意識が足りなかったのは否めなかった。しかし、妖夢がこれ以上は命を引き延ばせないところまで来た以上、最初と同じく二日以内、いやもっと早く人間に投与できる特効薬を開発しなければならなかった。

「師匠、補充が終わりました」
「ありがとう。……もう、こんな時間ね。少し休憩してもいいわよ」
「師匠こそ休んでくださいよ。このところ、ほとんど寝ていないでしょう? 病気にならないとはいっても、疲れは溜まるんですから」

鈴仙に休憩を勧められるが、そんな時間は無いのが現状だった。
しかし、少し煮詰まってきたのも確かだった。一旦小休止するのも悪くは無いと永琳は考える。

「……そうね、じゃあ少しだけ休みましょう。お茶でも入れてきてくれる?」
「はい、分かりました。取って置きのを持ってきますね!」

素直に永琳が頷いたのが嬉しかったのか、鈴仙はすぐに研究室を飛び出していく。
その姿を見送りながら、永琳は近くにあった背もたれのない椅子に座り込んだ。

(もう少しだと、思うんだけどね……)

ウイルスを殺す薬は出来た。しかし、このウイルスは防御力が高すぎるのだ。多少数を減らしただけでは、すぐに増殖してしまうし、強い薬を投与すると、人間の方が悲鳴をあげてしまう。
だから、人間が耐えられ、ウイルスだけを殺すことが出来る薬を作るべきなのだが、それがなかなかうまくいかなかった。

すでに永琳の頭の中には数十通りの薬の精製法が用意されていたが、それをすべて試すのには、いくら精製が早いといっても時間が足りない。小町が頑張っているとはいえ、資金不足も要因だった。
出来る限り、可能性が高そうな薬を、時間の許す限り試すしかなかった。

(でも、それでも成功する確率は五分。低すぎるわね……)

これほど頭を悩ませるのは、本当に久しぶりだった。
その悩みの種のインフルエンザウイルスについて、永琳はもう一度特徴をおさらいしてみることにした。
悩んだら原点に戻ること。永琳が常に自分に言い聞かせている座右の銘だった。

(今回のインフルエンザの特徴は二つ。一つは、核となるウイルスが僕となるウイルスをいくつも従え、外部からの攻撃を防御していること……)

普通なら信じられないことだが、事実は受け止めなければならない。極めて特殊な変異に違いない。こんなウイルスが幻想郷中に蔓延しなくて本当に良かったと、永琳は思う。

(そして、もう一つ。攻撃を受けて死滅した僕のウイルスを、核のウイルスが吸収し、増殖の材料としていることね……)

一番の悩みはここだった。
いくら攻撃しても、ウイルスの死骸がある限り増殖は止まない。そして、増殖する前に薬を投与すると、その前に患者の命が危うくなる。
インフルエンザウイルスは時限付きのウイルスである。時間が経てば、核といえども必ず消滅する。患者の命を引き延ばすことが出来れば一番良かったのだが、もうそれは出来なくなったことは痛いほど承知していた。

溜め息をついて、永琳は天井を見上げる。自分の肩にかかった期待はずっしりと重い。
小町も、文も、幽々子も、慧音も、鈴仙も、そして輝夜を始めとする永遠亭に住む者たちも、里の村人も、多くの人が、永琳が薬を作ってくれるのを今か今かと待っている。万が一にも失敗しようものなら、皆の失望と落胆は計り知れない。
皆も自分の出来ることをし、永琳の薬の開発を助けてくれている。後押しをされている永琳は、何がなんでも薬を作らなければならないのだ。

「はあ……」
「溜め息はよくありませんよ?」

いつの間にか戻ってきていた鈴仙が、熱い湯気が立ち上る湯飲みを永琳のそばの机に置く。

「ありがとう。なかなか難儀な仕事だと思って、ついね」
「師匠は幻想郷一の薬師です。だから、絶対に薬を開発すると信じています。焦ると出来るものも出来なくなりますよ?」

弟子に諭され、苦笑しながら、永琳は熱い湯気が立ち上る湯飲みに口をつけた。

「……? ……! うっ! な、なに、これは……!」

一口啜っただけで、苦いような酸っぱいような独特の味が口内に広がり、鼻を抜けて目を刺激した。

「……あ、あれ? お口に合いませんでした?」
「ちょ、ちょっとウドンゲ? これは一体なんのお茶なの?」
「え、えーと実はですね……」

鈴仙が口にした野草の名を耳にしたとき、永琳は軽く眩暈がした。

「あなた……師匠を毒殺する気? まあ、私は死なないけど、冗談にしてはキツすぎるわよ」
「ち、違いますって! これは私が最近作った、疲労回復のお茶なんですよ!」
「は? 疲労回復?」

あまりにも意外な言葉を聞いたので、永琳は目を丸くする。

「この野草は大量摂取すると危険だけど、適度な量なら神経を刺激して、血流を良くする、って師匠言ってましたよね。それから一ヶ月くらい、色々試してようやく出来たお茶なんです。味は悪いかもしれませんけど、騙されたと思って飲んでみて下さいよ。体が温かくなって頭が冴えますよ? 私自身で実験したんですから間違いないですって!」

身振りを交えて懸命に説明する鈴仙を見ると、本当にこれは薬になるらしい。
まさか永琳も、あの野草をお茶として飲もうなどとは考えもしなかった。通常なら、医薬品としてうつ病に用いられるのだ。師匠が奇抜な発想をするだけに、弟子も感化されてしまったのだろうかと、永琳は呆れてしまう。

「ふう……分かったわよ。あなたがそこまで言うなら飲んであげます。別に毒でも効かないけどね」
「毒と薬は表裏一体、師匠はいつも言っているじゃないですか。それを実践したまでですよ」
「そうね……。いままで作った特効薬は、少なければ害はないけど、多すぎると毒になる。つまり、ウイルスにだけ効く毒を作ればいいわけよね……」
「人間の体を通して投与するわけですから、人間に影響を与えないなんて無理だと思うんですけど。無害な薬を作らない限り」
「それがなかなか出来ないから苦労しているのよね……」
「うーんと…………じゃあ、毒は毒でも、ウイルスのところに着いたら初めて毒になる薬とかはどうです?」
「ん? どういうこと?」
「ほら、よく嫌がらせであるじゃないですか。剃刀をつけた封筒を送りつけて、開けた相手を傷つけるっていう。あれって、郵便屋さんは封筒を開けないから傷つかないけど、送られた相手は封筒を開けるから傷つきますよね。郵便屋さんが人間で、送られた相手がウイルスです。だから、人間の体を通っている間は害はないけど、ウイルスに届いた瞬間に毒になる薬とか、まあ、そんなイメージなんですが」

「……………………………………」

「あ、でも、逆に剃刀をつける“封筒”に当たるものを作らなければならないわけですか。それもまためんどくさい話ですね。やっぱり、普通に薬を作ったほうが早いかもしれな」
「ウドンゲ」

永琳は、鈴仙に最後まで言わせずに名を呼んだ。

「えっ、は、はい、なんでしょう?」
「あなたが弟子で、本当に良かったわ……」
「へ?」

永琳はゆっくりと立ち上がると、腕を組んで、右手を顎に当てて考え込んだ。

「……」

鈴仙は知っている。この状態の永琳は、いま最高に集中しているのだ。
呼びかけても聞こえない。だから、鈴仙はじっと待つ。次に、師匠の口から紡がれる言葉をひたすら待つだけだった。

「……ウドンゲ。今から言う材料を、大至急集めて来なさい。足りなければ、小町のお金や永遠亭の資金を使ってすぐに買ってくるのよ」
「は、はい」

鬼気迫るといっていい永琳の表情に、鈴仙は気圧された。







舵取り棒を漕ぐごとに、かぶった笠から水滴がぽたぽたと落ちていく。
肩にかけた蓑は水を吸い、着けた時とは比べられないほど重くなっていた。

しとしとと雨が降り続ける中、あたいは彼岸から此岸に帰る途中だった。
薄い霧が立ち込め、川のど真ん中からは、どっちの岸も見ることは出来ない。あっちに着く時間は大体把握していたが、それでも直前までゴールの見えない航路は、いつになっても不安を掻き立てるものだった。

「ふう……」

あたいは川の上で、少し小休止する。もちろん、川に流されないように最低限の力で漕ぎながら。
いつもなら、疲れていてもあっち側に着くまで気合を入れて漕ぐのだが、そろそろ限界に来ているのかもしれなかった。
昨日から一睡もしていない。口に入れたものは、今朝文が持って来てくれた握り飯だけ。
それもあっという間に胃袋に消化され、もう昼飯の時間も大きく回った。今はちょうどおやつ頃だろう。

「おやつか……」

あたいは、二日前に白玉楼の布団の上で、みんなでおやつを食べたことを思い出した。
このまま時が止まってくれたらと思うほど、楽しかったし、温かかった。
また、あんな時間を過ごせたら、どんなに幸せなことだろう。布団の上じゃなくてもいい。文と、幽々子さんと、そして妖夢と。また、みんなと新しい思い出を作りたかった。

「……」

だけど、あたいはこんな思い出なんて欲しくなかった。
感覚の無い手。筋肉痛を通り越して軋みを上げている腕。全身の疲れ。眠気。
白玉楼で過ごした日々が天国ならば、間違いなく、今あたいがいるところは地獄だった。
ああ、そうか。
これが地獄ならば、天国はなんと魅力的なことか。
笑いと安寧が彩る世界。日溜りの日々を、気心知れたやつらと共に過ごす。そんな、どこにでもある幸せを味わえる所こそが天国だった。

ようやく分かった。
天国と地獄なんて、こんなに身近にあって、コインの裏表に例えられるくらいに簡単に変わってしまうのだ。
家を潰されたこと。妖夢が倒れたこと。
あたいは一ヶ月にも満たない間に、二回も、天国から地獄にまっさかさまに落とされる経験をしてきた。
なんとも酷い仕打ちだった。確かに、あたいは真面目に仕事をしていなかったけど、お仕置きにしては酷すぎる。

でも、もう一度、あの日に戻りたい。
たとえ、また地獄に落とされることになろうとも、あの温かい日々が戻ることを渇望している。
きっとそれは、人間だろうが妖怪だろうが、等しく持ち合わせているささやかな願望に違いなかった。

「……あ」

気が付くと、舵を取る手が止まって、大分下流に流されていた。

「……いけない。これじゃあ、三途の最下流まで行っちゃうよ……」

そこに何があるかは知らなかったが、きっと、ろくでもない物が待ち受けているに違いなかった。



岸が見えた。
あたいがいつも船を着けている桟橋も、視界の正面に捉えられた。

下流に流されたおかげで、いつも見ている風景が違った角度に置き換えられている。
流れに逆らって舟を漕ぐのは本当につらいが、それでも力を振り絞って舟を漕ぐ。

「……」

桟橋が大分大きくなってきた頃、霧に中に人影が見えた。
……また、文だろうか。文だとしたら、今度こそ、もたらされる情報は……。
そんな不吉な考えを懸命に振り払い、その人影を注視する。

「……? ……あ……」

それは文ではなかった。でも、文以上に、あたいがよく知っているお人だった。
番傘のような古風な傘を差し、こちらをじっと見つめている。……なんで、こんなところにいるんだろう。今頃、あっちの方で仕事に追われててんやわんやに違いないのに。
その人は一歩も動かない。すごく厳しい表情をしている。いつもお説教を受けている時の顔に似ていた。
……あたい、なんかヘマでもしただろうか。白玉楼に住み始めてから一度も何も言われなかったから、てっきり上手くいっているものだと思っていたのに。

だんだんと、その人の顔が大きくなる。呼びかければ声が届くくらいまで近づいた。
いつもなら名前を呼ぶのだが、それすらも億劫に感じられ、あたいは桟橋に着くまで何も喋らなかった。

船を着けると、桟橋の上に飛び乗って、その人の顔を間近に見た。

「……お久しぶりです、四季様」
「……ええ、久しぶりね、小町」

四季様は、ようやく、微かに笑ってくれた。



あたいと四季様は、桟橋の上から三途の川の下流の方を並んで見つめていた。
四季様に許しを貰って、あたいは桟橋の上に腰掛けている。立っているのは疲れるから。
足元にあるあたいの舟が、川の流れに乗ってゆらゆらと揺れていた。

「今日はどうしましたか? 見ての通り、あたいは真面目に仕事をしていますよ」
「……そのようね。こんな雨の中でも仕事をするなんて、殊勝な心がけよ」

四季様は珍しくあたいを褒めた。
それに、ここ二週間のあたいの仕事の成果は、この人の方がよく知っているはずだった。
これでお説教を受けたなら、あたいの苦労が報われない。

「……二十七」
「え?」

四季様が脈絡もなく数字を口にする。

「なんですか、それは?」
「あなたが、昨日の午後零時から、今日の午後零時までに送った霊の数よ。勤労態度優秀の死神の目安となる、一日二十の数を超えたわ。頑張ったわね。私も鼻が高いわよ」
「……そうですか。そりゃめでたい。初めての受賞ですね」

あたいは大して嬉しくもなく呟く。別にそんなものがあったって、あたいに金が入ってくるわけでもない。無いのと同じだった。
四季様は軽く溜め息をついて、あたいに聞く。

「……何か、あったのかしら?」
「…………」
「今から二週間とちょっと前くらいだったわね。あなたがいつも送ってくるような霊とは、かけ離れた徳を持つ霊が、私のところに送られ続けてきたのは」
「…………」
「最初は、何か欲しい物でも出来たのでしょうと思った。でも、それが一週間、二週間と続くと、さすがに考えを改めざるをえなくなった。ようやく、あなたも死神としての本分を弁えたのだろうと、掛け値なしに嬉しくなったわ」
「…………」
「でも、昨日から今日の様子を見て、さらに考えが変わった。今までは、多くとも十を超える霊が送られてくることはなかったわ。それが、倍以上の二十七。明らかにおかしいと思った。二週間前からのことも合わせ、あなたの身に何かが起こったのだろうと考えた」

そこまで言うと、四季様はそばにしゃがみこんで、笠をかぶったあたいの横顔を覗き込んできた。
あたいも、四季様の方に顔を向ける。

「困ったことがあったら、相談しろと言ったでしょう? あなたをそこまで駆り立てているものは、一体何かしら?」
「……」

この人には嘘は通じない。もう何十年もあたいを下にしてきたのだ。
だからあたいは、逆に聞いてみることにした。

「四季様は……死神は、人を助けちゃいけないと思いますか?」
「え……?」
「……死神は、死者の魂の運び手。だから、今にも死にそうになっている人間にかかずらってはいけないんでしょうか? たとえ、それがどんなに親しい人間であったとしても、手を差し伸ばさずに、そのまま死に誘うのが本意なのでしょうか?」

あたいは、四季様の答えを待たずに、言を継ぐ。

「あたいはそうは思いません。死神も血の通った生き物です。死にそうになっている者を見たら、あたいは助けてやります。たとえ、それが死神に相応しくない行為であったとしても、あたいはそれに逆らい続けます。永久に、命が尽きるまで」
「…………」
「あたいが運ぶのは、あたいの知らないところで死んだやつで十分です。人生半ばで死んだやつ、後悔しながら死んだやつ。そいつらを四季様の所に送って、来世に送り出してやりたい。今度は自分が納得のいく生き方をしろよ、って言ってやりたい」
「…………」
「でも……あの娘は、まだ生を終えるには早すぎる。だから、あたいは、あの娘の命を救いたい。目の前で命の炎が消えようとしているやつを助けてやりたい。まだ見たことのない新しい世界が見つけてほしい。あたいが望むのは……それだけです」

言いたいことを言い終えると、あたいは俯いて舟を見下ろした。

「……なかなか、難儀なことをしているようね」
「…………」
「自分の道を信じること。数ある善行の中でも、それが出来る者は数少ない。あなたがその道を行くのなら、私は止めはしません。あなたの言った通り、納得のいく生き方をしなさい。未練を残さず。あなたの道を行きなさい」

そう言うと、四季様はあたいの横に腰掛けた。

「……スカート、濡れますよ?」
「いいんですよ」

それっきり、あたいたちは一言も喋らず、
いつまでも変わらず流れていく三途を見つめていた。



どのくらいこうしていただろうか。
もう仕事を始めないといけないと思ったあたいは、立ち上がると四季様の方を向いて告げた。

「じゃあ、そろそろ仕事に戻ります。金はいくら稼いでも足りませんので」

なんとも言えない複雑な表情を浮かべた四季様が軽く頷いたのを見ると、あたいは背を向けて、再び再思の道の麓を目指そうと一歩を踏み出した。





そこに、一陣の風が現れた。





「こっ、小町さんっ!!」

桟橋の袂の突然現れたそいつは、転がるようにこちらに向かってきて、そして叫んだ。





「えっ…………永琳さんが特効薬を作ってくれましたっ!!!」





「え……」

聞き間違いではない。聞き間違いであってほしくない。聞き間違えであったなら、今度こそ、あたいは全世界の神を呪う。

「ほ…………本当かい、文っ!!」

足がもつれて、なかなか前に進まない文に、あたいはなりふり構わず駆け寄った。
頭にあった笠が風で脱げてしまったけど、そんなことは気付きもしなかった。

「さ、さ、さっき鈴仙が妖夢の寝室に駆け込んできて……く、薬が完成したって……よ、妖夢が助かるって……」
「そ、それで妖夢は!?」

あたいは倒れこんだ文を必死に支え、一番聞きたい言葉を待った。

「す、すみません……。そ、それが……」
「ま、まだダメなのか!? 妖夢は治ってないの!?」
「そ、それが……足りないんです……材料が……」
「ざ、材料……!? 薬の!?」

切れ切れの息をしながら、文は何度も頷く。

「い、一体何が足りないの!? あたいの金で買ってくればいいじゃないか! ここに来る必要なんてない! 早く商店街の薬屋に行ってくるんだよ!!」
「ち、違うんです。お、お金が……薬を買うお金が、足りないんです……」
「か、金……!? 昨日の分じゃ買えないっての!?」

少しずつ息を整え始めた文は、ゆっくりと、今の状況を話し始めた。

「は、はい……。足りない薬は、昨日、私と鈴仙で買ってきた、インフルエンザのワクチンなんです……。裏通りの薬屋で買ってきたもので、それが、小町さんから渡されたお金を全て使っても、小瓶一杯分くらいしかもらえなくて……」
「こ、小瓶一杯!? う、嘘だろ!? しょ、商店街に行く前に渡した金って、確か銀銭一枚相当以上の金が入ってたよ!? それで小瓶一杯だっての!?」
「は、はい……。その一杯分のワクチンも、永琳さんの実験で使い果たしてしまって……。妖夢や里の人たちを救うには、最低でも三百ミリリットル。大きなコップ一杯分くらいは必要なんだそうです……」
「そ、そんな……」

銀銭一枚相当の彼岸共通通貨で、小瓶一杯の薬。
それがコップ一杯分となると、銀銭三枚は必要だ。た、足りない……。圧倒的に足りない……。

「小町さん……。今までに稼いだお金ってどのくらいになりますか? 昨日、小町さんから受け取ったお金が少し残ってますから、それと合わせて、これから商店街に買いに行こうと思います」
「だ、ダメだ……。今日稼いだ分は、大体三百文。銀銭は千文相当だから、買える量は昨日よりも少ない……。これじゃあ、みんなを救えない……!」
「え……? そ、そんな……」

あたいの腕から、ずるずると文は落ちていき、その場にへたり込んだ。
あたいも、がっくりと膝を折る。

「こ……ここまで来て……結局、妖夢を救えないのかよぉっ!!」

あたいは吠え、両拳を桟橋の板に叩きつけた。
悔しかった。涙が出てきた。こんなに悔しい思いをするのは、あたいが生きてきた中で初めてのことだった。
雨があたいの頭を叩く。こんな時でも容赦はなかった。

「く、薬がもっと安かったなら……買えるのですが……」
「なんでそんなに高いのさっ! 流行り病の薬なんだから、もっと安くてもいいはずなのにっ……!」
「く、薬を売っているところが、一軒しかなかったんです……。他の病院や薬局には、薬はおろか、インフルエンザなんて知らないと言われてしまって……。その薬屋さんは、外の世界から薬を手に入れられる方法を知っているらしいんです。だから、そこしか薬がなかったから、高くついてしまったんです……」

他では取り扱っていないから、割高になったというのか!? こっちは命がかかっているんだ!
いくら誰も知らないような珍しい薬だからって、少しくらい値引きしてもいい……

「…………………………ん……? ちょ、ちょ、ちょっと待って、文っ! 今なんて言った!? も、もう一回言ってくれ!」
「えっ……? な、何をですか……?」
「い、今さっきの、薬を売っているところが一軒しかなかったっていうやつだよ! さ、さっきお前さん、その薬屋しか、インフルエンザっていう病気を知らなかったって言ってなかった!?」
「え? あ……はい、言いました。正確には、医薬組合の方が知っていましたが、その人も調べる時間が必要でした。インフルエンザ、と言われて、すぐにどんな病気か分かったのは、医療機関ではその薬屋の店主さんだけでした。もっとも、薬の需要がない病気ですから、誰も知らないのは無理は無いと思うんですけど……」
「なん、だと……?」

熱くなっていた頭が、水でもぶっ掛けられたかのように、一瞬で冷えたものに変わっていく。
そして、最低温度にまでなった後、あたいの脳が少しずつ、さざ波立ち始めた。

「……? 小町さん? ……どうしたんですか?」
「…………」

あたいは答えない。
その代わりに、桟橋の上にあった木片を握り、文に見せた。

「……文。例えば、この木切れ。これがもし、外の世界から流れ着いて来たものだとしたら、いくら払う?」
「へ? い、いきなりなんですか?」
「いいから答えてくれ。この木の切れっぱしに、文はいくら払って買う?」
「か、買うわけありませんよ。こんなの、持ってたって薪くらいにしかならないじゃないですか」
「そう。買うわけがない。……でも、もしこの木が、一キロ先でさえ撮影できる超高性能のカメラだとしたら、どうする?」
「そ、それは…………ちょっと考えるかもしれませんけど……」
「つまりは、そういうことさ」

訳も分からず、訝しげな表情を浮かべる文。……まだ分からないのか。

「こ、小町さん、一体、何が言いたいんですか?」
「……外から流れてきた物は、その正体が分かって初めて価値が出るんだ。いくら、この木がカメラだと言っても、それを証明しなければ誰も買いやしない。お前さんの話を聞く限り、その外から流れてきたっていうインフルエンザのワクチンは、その店主以外、誰も知らなかったみたいじゃないか。そんな怪しげな物に、誰が金を払って買うっていうんだい?」
「っ!! ま、まさか……!」
「そうさ。お前さんがよそ者だと知って、そいつにまんまとやられたんだよ。外の世界から来た未知の物は、拾ったやつがいくらでも値を吊り上げて売れる。でも、誰も知らないくらいに正体が広まっていない物に金を出すやつなんかいない。だから、あの商店街で売られている外の世界の物は、ほとんどが箱売りで、タダ同然だ。それなりの値で売られているのは、正体が普遍化している物だけだ。お前さんと初めて商店街に行ったときに売られていた、あのカメラのようにね」
「…………………………」
「要するに、そいつは、お前さんの妖夢を助けたいっていうひたむきな心を利用して、薬を高額で買わせたんだ。ようやく見つけた薬だ、いくら払っても欲しがるに違いないと読んだ。そして、お前さんは、そいつの読み通り、まんまと金を払ったってわけだ」

目を見開いて、文は絶句する。まったく、さっさとそのことを言っていれば、こんなに悔しがらなくてよかったんだ。
文は項垂れ、自分の失態を悔いているようだった。しかし、そんなことをしている暇などない。
あたいは立ち上がり、文の頭を見下ろした。

「……そいつは、今どこにいる」

そして、あたいは聞く。自分でも驚くくらい、底冷えする声だった。

「………………………………商店街の裏通り。入り口に程近い、汚い店です。道筋は覚えていますから、私が案内します。十分もあれば着きますよ」

そう言うと、文は顔を上げる。
……こいつは本気で怒ると、表情がなくなるタイプみたいだな。……あたいとは逆みたいだ。

「……すぐに行きましょう。時間がありません。こうしている間にも、使わなくていい時間を使っていることになります」
「当たり前だ。あたいらにケンカ売ったこと、死ぬほど後悔させてやる」

文はちょうど、あたいが腰に掴まれるくらいにまで宙を浮く。あたいはそれに掴まる。
……きっと、耳が千切れるくらいに速いに違いない。今のうちに縛り付けておいた方がいいだろうか。

「小町」

ふと、後ろのほうから四季様が声をかけた。

「四季様。すいませんが、これから行くところが出来ました。今日一杯仕事を休ませてください。お説教なら、何時間でも、何日でも聞きます。だから、今日一日は勘弁してください」

振り向いたあたいの顔を見た四季様は少しばかり息を飲んだ後、ふう、と小さな溜め息をついた。

「……仕方ありませんね。こういう場合、閻魔である私が出向くべきなのですが……今回はあなたに代役を頼みましょう。少しお灸を据えてきてあげなさい」
「かたじけないです」
「ただし」

最後に、四季様は、こう付け加えた。

「出来る限り、穏便に済ませるのよ。やり過ぎは許しませんからね」
「了解です」

即答すると、文と共に一瞬で風になった。





〜〜〜





その薄暗い店内は、一目では薬屋であることが判別できない。
橙色の灯りに灯された古い棚が浮かび上がり、奥には細長いカウンターがある。その上には棚卸でもしたかのように、いくつもの薬瓶が不規則に並べられていた
カウンターの中心には相変わらず汚い格好をしたこの店の店主がおり、足をカウンターの上で組んでまどろんでいた。薬の近くに土足をやる。そんな態度は、この店主の薬に対する態度を表しているかのようだった。

店主は手を頭の上で組みながら、昨日来た二人の小娘のことを思い出す。
あの素直そうな小娘を薬漬けに出来なかったのは残念だった。夜中頃にじわじわ効いてきて、この薬が欲しくて欲しくて堪らなくなる予定だった。あの兎の小娘さえいなければ。口惜しいが、力ずくでやるのは避けた。手を汚さず、じわじわと体を冒していくのがこの店主の趣味だった。

しかし、その分、思いもかけない大金を置いていってくれたことに喜悦する。店主はカウンターの隅に置かれた銭袋に目を遣った。この金を元に、さらに大量の薬を作り、さらに儲けることが出来る。
まったく、いいように騙されて、きっと疑うことすらしなかっただろうとほくそえんだ。あの大金があれば、インフルエンザなどというありふれた病気の薬など、外の世界では渡した十倍以上は買えるはずだ。
店主は笑いがこみ上げてくるのを止めることは出来なかった。作りたい薬はいくつもある。どれから手を付けようかと、店主は薄気味悪い笑みを浮かべながら思いを巡らせた。


ドガァッ!!!


店内に爆発音のような凄まじい音が轟いた。
足をカウンターに上げてくつろいでいた店主は、その音に驚いて椅子とともに無様にすっころんだ。
慌てて身を起こし、音がした方を見遣る。上り階段の上りきったところにある扉は、ちょうつがいを両方とも完璧に破壊され、階段の下に横たわっていた。
店主は少し曲がったメガネを付け直しながら、今度は先ほどまでドアがあった所を見る。

そこにいたのは、淡い逆光を浴び、肩に歪な鎌を担いだ……赤髪の死神だった。

死神は踏みしめるように階段を下り、カウンターに身を預けている店主にゆっくりと近づいていく。
憤怒。地獄から来た鬼こそ相応しい。そんな表情を浮かべながら。
店主は思わず後ずさり、後ろにあった棚に背中をぶつけた。そして、叫ぶ。

「な、何だね、お前は! ど、ドアを壊して入ってくるなんて、正気じゃないぞ!」

死神の怒髪天を衝く表情は変わらない。なおも店主を睨みつける。
やがて、店主の正面に立った死神は、カウンターに左手を叩きつけて、身を乗り出すようにして言葉を発した。

「……ここにあるインフルエンザのワクチンをありったけ出せ。この店にはあると聞いた。今すぐ用意しろ」

女の声とは思えないほどに低く、重い声だった。
店主はようやく立ち上がり、震えを含んだ声で答える。

「い、インフルエンザ? そ、そんな物は知らんよ。ここにはそんな物はない。か、帰ってくれ。え、営業妨害だぞ?」
「あ、これですよね、店主さん。昨日、ここの薬を持ってきてましたよね」

急に死神のいる場所とは違うところから声が聞こえてきたので、店主はハッとしてそちらの方を見る。

「お、お前はっ!」
「どうも、またお邪魔してますよ。さすがに、あれだけじゃ足りなかったもので、また来ちゃいました。リピーターなんですから丁重にお迎えしてくれるとありがたいですね」

昨日、店主が薬漬けにしようとした天狗の少女が、インフルエンザの薬が入った棚を漁り、なみなみと液体の入った一升ほどの瓶を二つ取り出して抱えていた。
いくら死神に気を取られていたからといって、一瞬で自分のすぐ横に現れた少女に、店主は戦慄した。

「……おい。何故嘘をついた。あるのに何故無いと言った?」
「さ、さあ……。な、何か勘違いをしているんじゃないかな? あれはインフルエンザの薬ではない。た、ただの風邪の薬、」

そこまで店主が言った後、死神の体が激しくぶれ、その瞬間、店主は左頬に凄まじい衝撃を感じ、右の方に吹っ飛ばされた!

「ふぎゃあっ!!」

猫が踏みつけられたような滑稽な声を上げ、店主は棚に突っ込んで床に仰向けに倒れこむ。
棚に陳列されていた瓶が何本も落ち、甲高い音をいくつも奏でた。

死神は追い詰めるようにカウンターを回り込み、瓶の破片を踏み砕きながら店主のそばまでやって来た。

「ひ、ひぃっ!」

店主はようやく、自分の命の危うさに気付く。カウンターを支えにしながら、必死に逃げ出そうともがく。
だが、もう遅い。店主が嘘をついたことで、ついに死神の怒りは、かさを超えてしまった。

死神は店主の襟首を掴み、強引にこちらを向かせる。
怒りに燃える赤い瞳で、怯えた店主の目を至近距離で覗き込む。

「た、助けてくれ、わ、悪かった。薬は確かにある。売ってやるから離してくれっ」
「てめぇ…………まだ勘違いしてやがるな? あたいは、あいつが騙された分を取り立てに来たんだ。あいつがてめぇに渡した金は、あたいがあいつに託したもんだったんだ。だから、あたいが騙されたのと変わらねぇんだよ!」

死神は突き放すように、店主の体を床に転がす。
尻餅をついた店主はそのまま後ずさり、死神はそれを一歩一歩追いかける。

「てめぇが嘘をついたことで、妖夢は死の瀬戸際まで追い込まれた。てめぇが妙な色気を出さなきゃ、死ぬほど苦しんでいる妖夢をもっと早く助け出すことが出来た!」

じゃりっ。

「妖夢だけじゃねぇ。里の人たちも余計に苦しむことになった。もう一週間以上も寝たきりの人たちだ。その人たちをてめぇは蔑ろにした!!」

じゃりっ

「病気にかかった人だけじゃねぇ。文、幽々子さん、慧音さんに永琳さんに鈴仙、病人の家族。その人たちの増えなくていい心労を増やした。すべて、てめぇが金のためにやったことだ!!!」

ついに店主は背後を壁に阻まれ、死神に追い詰められた。
それと同時に、死神は担いでいた鎌を両手で高速回転させる。
そして、殴りつけるような横薙ぎで、一気に店主の頭上の壁に刃を突き刺した!

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
「いいかっ!! 妖夢だけじゃねぇ、里の人が一人でも死んでみろ!! あたいは、てめぇを許さない…………その汚ねぇ首ぶっちぎって、水竜どもの餌にしてやるからなぁっ!!!」

死神の怒号が、店主の鼓膜を激しく揺さぶる。
失神寸前にまで追い込まれた店主は、半分白目を向いて、ガタガタ震えながら、だらしなく涎を垂らした。

「小町さん、その辺にしときましょうよ。それ以上やったら、閻魔様に怒られますよ。薬も手に入ったし、早く帰らないといけません」

両脇に一升瓶を抱えた天狗が、壁に鎌を突き刺した格好のまま、凄まじい形相で店主を見下ろしている死神に緊張感無く声をかける。
しばらく死神はそのままだったが、やがて無言で刃を壁から抜き、再び鎌を肩に担いで、天狗の後について店の出口に向かった。



「ま、まてっ!」

死神と天狗が外に出ようとしたとき、裏返った声で店主が呼び止めた。

「こ、こんなことをしてタダで済むと思うなっ!? あたしは裏の世界に、幾人も強力な妖怪の知り合いがいるっ! お、お前らなど、すぐに捻り殺せる連中だっ! すぐに襲わせてやるから覚悟しておけよっ!?」

その声を聞いた死神は、気だるそうに振り向くと、上がった階段を再び下り始めた。

と、その死神の顔の横を突風が吹き荒れ、何か大きな塊が一直線に店主の顔をめがけて飛んでいった。

「ふぎゅうおわっ!!」

なんとも形容しがたい悲鳴を上げ、店主の顎が死神の方に向く。
そして、店主の体が倒れ伏すと共に、店主の顔に命中した大きな布袋の中から大量の銅貨が宙に溢れ出し、雷鳴のような激しい音を立てて床に散らばった。

「あ〜ら、ごめんなさい。お代を払おうとしたら手と風が滑っちゃいました。不可抗力ですから、許してくださいね」

薄く笑いながら、悪意をたっぷり含んだ声で天狗は言う。
そのまま店内に降り立ち、スタスタと店主が転がっている所に歩み寄り、鼻血を撒き散らしている姿を冷ややかな視線で見下ろした。

「したければご勝手にどうぞ。いつでも襲ってくるといいですよ。ただし、あなた方はケンカを仕掛けたことを後悔するでしょうね」
「にゃ、にゃに……?」
「あなたが命を弄んだ人間の中には、冥界の主、西行寺幽々子さんの従者が含まれています。私たちはその従者を助けるために動いていました。彼岸に住んでいるあなたなら、この意味が分かるでしょう。もし、あなたが私や小町さんを襲えば、恩を受けている西行寺の当主は必ず報復に来ます。冥界を敵に回すことになるんですよ」
「! ま、ましゃか……!」
「さらに、西行寺の当主は、幻想郷の中でも最も力の強い妖怪の一人である、八雲紫と懇意です。あなた方が何人いようと、あの人はちょっと指を捻っただけで殺せる。嘘だと思うなら、私たちを襲いなさい。死を以って知ることになるでしょう」
「……」
「もっとも、その前に私を襲えば返り討ちにしてあげます。そして、天狗の仲間にあなたが行った非道を触れ込みまわって、社会的に抹殺してあげます。どんな記事が出来るのか、今から非常に楽しみですよ。向こう百年は外を出歩けなくなるでしょうね」

完全に沈黙した店主は、視線を彷徨わせている。すでに天狗の声は聞こえていなかった。
その姿を一瞥し、天狗は店主に背を向けた。

壊されたドアから冷たい風が流れ込んでくる。
まさに、嵐のような数分間だった。
小汚い薬屋に舞い込んだ二つの嵐は、店主と店内をボロボロにして音も無く去って行った。





〜〜〜





降りしきる雨を切り裂いて、文は弾丸のように空を飛ぶ。
水滴が体にかかることなど、これっぽっちもない。纏った風が、一滴たりとも逃さず跳ね飛ばしながら突き進んでいく。
外から見たら、小さな竜巻が空を横断しているように見えたことだろう。
しかし、あまりにも速すぎて、普通のやつには白い筋が一瞬で通ったようにしか見えなかったに違いない。それほど、今のあたいたちは高速だった。

やがて、視界一杯に広大な竹林が広がる。
文は全くスピードを落とすことなく竹の間に突っ込んでいく。
文が太い竹から身をかわすごとに、あたいは上下左右に体を振られる。
恐ろしかったが、ここで手を離すわけにはいかなかった。もし離したら風に吹き飛ばされて、顔面を強打して複雑骨折するに違いない。

そして、あっという間に竹林を抜ける。
文は、高下駄の歯を地面に突き立てて急ブレーキをかける。
派手な水飛沫があたいの両側に上がり、まるで水の壁のようだった。

永遠亭の玄関前で完全に停止する前に、あたいは文の腰から手を離し、戸を思いっきり開け放った。
靴を放り出すように脱いで、長い廊下を疾駆する。
永琳さんの実験室はどこだった? 同じような襖ばかりで、どこだったか覚えがない。適当に突っ走っているだけだった。

「小町さんっ、行き過ぎですっ! 戻ってくださいっ!」

後ろから着いてきた文が呼び戻す。しまった、やっぱり通り過ぎた。
後ろを振り向くと、すでに文が一枚の襖を開けて中に飛び込んでいた。

「永琳さんっ! ワクチンを持ってきました!」

文がそう叫んだと同時に、あたいもその部屋の中に身を投じると、永琳さんがこちらに走り寄ってくるところだった。

「ま、まさか、その瓶に入っているものが、全部……? 高額の薬ではなかったの?」
「小町さんが、あの薬屋の詐欺に気づいたんです! これは、その抵当に奪ってきたものです! 最初から、あのワクチンは安価な薬だったんですよ!」 

一升瓶を抱えた文を見た永琳さんが、嬉しい誤算に顔を崩す。

「……よくやってくれたわ……!」

永琳さんは、顔一杯に喜びと驚きを同時に浮かべ、あたいたちを労ってくれた。

「師匠っ!! 慧音を連れて来ました!! 丹の材料も十分持って来ました!! すぐにでも調合が出来ます!!」

あたいたちの後ろから、鈴仙と、そして慧音さんが、抱えきれないほどの野草や薬瓶を持って駆け込んできた。

「いいわ……! これで準備が整った……!」

永琳さんは全てを確信したように一つ頷いた。

「永琳さんっ! 妖夢は……妖夢は助かるんだよね!?」
「もちろんよ……! 私の知識と技と術を総動員して……そして、月の頭脳と言われた八意永琳の名にかけて、明日の朝までに特効薬を作ってみせるわ!!」

あたいの声に、永琳さんの目は鋭さを増し、生気を満ち溢れさせていた。
大丈夫だ、この人ならきっとインフルエンザの薬を作ってくれる。そう、信じるに足る眼光だった。

「さあ、あなたたちにも手伝ってもらうわよ! 一刻の猶予もないわ! よく聞きなさい!」

鈴仙、文、慧音さん、そしてあたいに向かって、永琳さんは最後の指示を出す。

「ウドンゲは調達してきた材料を使って、すぐに注射用の丹を作りなさい! そして、妖夢に点滴を! その後の容態を観察し、逐一私に報告しなさい!」
「はいっ!!」
「文はウドンゲの手伝いをしなさい! 指示はウドンゲが出すわ! 材料が足りなくなったら、永遠亭の資金を使ってすぐに買ってくるのよ!」
「はいっ、分かりました!!」
「慧音はここに残りなさい! 薬の調合の手伝いをしてもらうわ! 繊細な仕事だから、失敗しないように注意しなさい!」
「承知した!!」
「そして、小町!」
「ああっ!!」
「あなたには材料を磨り潰す仕事よ! 腕が動かなくなるまで、潰して潰して潰しまくりなさい!!」
「おおうっ!!」
「さあっ! 四人ともすぐに手を洗ってきなさい! ウドンゲ、案内してあげて!」
「はいっ!! みんなこっちよ!!」

鈴仙の声に従い、あたいたちは研究室を飛び出る。
再び、ここに戻ってきたとき、最後の長い戦いが始まるのだ。

(妖夢、待ってろ……もう少しだからな……!)

死の淵に立たされた妖夢を救う。絶対に救い出す。
そして、またあの味噌汁を飲むんだ。あの笑顔を取り戻すんだ!



十二畳の座敷は、一転してあわただしい空気に取って代わられていた。

「鈴仙! これでいいですか!?」
「まだよ! もう少し細かく砕いて! 粒が消えてなくなるくらいに!」

文が妖夢の枕元で、額に汗を滲ませながら、薬草をすり鉢で磨り潰している。
鈴仙は携帯型の点滴器具を、慣れない手つきで一生懸命に組み立てていた。
畳の上には、大小様々の薬や調合用の道具が並べられ、足の踏み場もないほどだ。

「兎さん、私に出来ることは、あるかしら?」
「大丈夫です。あなたはそうやって、妖夢の手を握っていてください。私たち全員の想いが、妖夢に届くように!」

何も出来ずに歯がゆい思いをしている幽々子に、鈴仙はそう言葉を投げる。
幽々子もそれに応じ、未だに荒く息をしている妖夢に視線を注いだ。

「は〜い、差し入れだよ〜」

不意に、襖が開くと同時にそんな声が聞こえた。
てゐが器用に片手でお盆を持ちながら、襖を開けていた。その盆の上には、湯気が立ち上るお握りと湯飲みが載せられている。

「てゐ! 気が利くじゃない!」
「まあね〜。こんな時くらい、おふざけは無しよ。お金も取らないから安心していいわ」

悪戯っぽく笑うてゐに、鈴仙は苦笑する。

「師匠たちのところにも持って行ってあげて! あっちの方が遥かに大変なはずよ!」
「そのつもりよ。姫様のお世話も、他の兎たちに任せてくれていいわ。じゃ、頑張ってね」

てゐは、お盆を邪魔にならないところにそっと置いて座敷を後にした。

「鈴仙! このくらいでいいですか!?」
「……よし、じゃあ、それを容器に移し変えて、次はお湯をありったけ持ってきて! 実験室に大量にあるはずだから!」
「はいっ!」

(妖夢……もう少しよ……頑張って……!)

妖夢の手を握り締めながら、幽々子は懸命に祈りを込める。
再び元気になるまで、もう二度と離さないと誓いながら。



舟を漕いでいるときとは、さすがに勝手が違うもんだ。
あたいは、握っても指が届かないほどの太い摺り子木を両手で持ち、相撲取りの杯のようなすり鉢の中に大量の薬草を入れ、歯を食いしばりながら葉を磨り潰していた。

「ふぅっ、こりゃ、さすがに、きついねっ」

これで二順目とはいえ、すでに腕がパンパンだ。終わったら、すり鉢をよく洗って、今度は違う薬草を磨り潰さなければならない。
それでなくとも、あたいは連日の舟漕ぎで腕が痛くなっている。これ以上やったら筋肉が切れるんじゃないだろうか。
だが、泣き言は言ってられない。あたいの筋肉が一本切れたくらいで妖夢が救えるなら、こんなに安い代償はなかった。

周りを見回すと、慧音さんがスポイトを使って、試験管の中に一滴ずつ慎重に薬品を垂らしている。
慧音さんは昨日今日と、珍しい薬草を自前で調達していたらしい。
この人は幻想郷中の歴史のことならどんなことでも知っており、貴重な薬草が群生しているところも把握していた。
危険もあったらしいが、あたいの一ヶ月の給料が一瞬で飛ぶような薬をいくつか入手し、持って来てくれた。

その薬草を、永琳さんは即座に今回の薬に組み合わせ、より質の高い薬を作ろうとしていた。
なんでも、妖夢が生きているうちは、いまかかっているインフルエンザに二度とかからないように出来るらしい。
つくづく、すごい人だなぁと思う。

(あ、そういえば……)

ふと、永琳さんがどんな薬を作ろうとしているのかが気になった。
永琳さんはワクチンを欲しがっていたみたいだが、ワクチンっていうのは、病気が入り込む前に体に耐性を作ってしまう薬のことだ。
だから、すでに病気にかかってしまった妖夢には効かないはずなのだ。

「永琳さん。今度の薬はどんな薬なの? 人間に耐えられる薬なんだよね?」
「喋る前に、手を動かしなさい!! あなたは妖夢を殺したいの!?」
「は、はいっ!」

怒声に怯み、あたいは材料を磨り潰す速度を上げる。
そうだ、今は薬を作るほうが先決だ。おしゃべりしている暇などない。薬が出来上がったら、後でいくらでも話を聞ける。

「永琳、そんなに怒ることはないだろう。今回は、小町さんのお金で買ってきたワクチンが決め手になったそうじゃないか。ならば、小町さんには聞く権利があるんじゃないか?」

すでに自分の作業を終え、薬品を火にかけて待機中の慧音さんが永琳さんをなだめる。

「……そうね、ごめんなさい。そのまま手を動かしながら聞きなさい。簡単に説明してあげるわ」

永琳さんは喋りながらも、もの凄い速度で手を動かしている。薬を入れ、混ぜ、移し替え。プレパラートに薬品を垂らし、顕微鏡を覗き、再び薬を調合する。
まるで、すべての手順が分かっているかのように動き、脳の中でいくつも違うことを考え、同時に実行しているような感じだった。
……これが、天才か。あたいのような凡人には及びもつかない頭の構造だった。

「今回のインフルエンザの特徴は二つあったわ。まず、核となるウイルスが僕となるウイルスをいくつも従え、外部からの攻撃を防御していること。そして、攻撃を受けて死滅した僕のウイルスを、核のウイルスが吸収し、増殖の材料としていることよ。私が以前作った薬は、大量投与すれば、全てのインフルエンザウイルスを殺せるけど、その前に人間を殺してしまう。そこに問題があった」

永琳さんが薬を試験管に垂らすと、蒸発するような音と共に白い煙が天井まで届いた。

「ならば、投与時は人間には無害だけど、インフルエンザの核に到達した時に初めて攻撃する薬を作ればいい。剃刀レターのようにね」
「で、でも、その核ってやつはたくさんの他の僕ってやつに守られてるんだろ? なら、辿り着くことが出来ないじゃないか」
「その解決策のヒントとなったのが、小町さんのワクチンというわけか」
「ええ、その通りよ。このワクチンの“ある特徴”を利用して、実験で核に毒を盛ることに成功したのよ」

永琳さんは、あたいと文がインチキ薬屋からぶん取ってきた一升瓶の中身をビーカーの中に移し替える。

「ある、特徴?」
「ええ。ワクチンには二種類あるのよ。一つは“生ワクチン”という生きた病原菌の毒性を限りなく薄めて、それを投与し、一生ものの免疫を作るワクチン。そして、もう一つは“不活化ワクチン”という滅菌処理で病原菌を死んだ状態にして投与する一時的なワクチンよ。このワクチンは後者、不活化ワクチンだったのよ」
「! つまり、それを核に誤認させるというのか?」
「そうよ。この不活化ワクチンを改造し、人間の体に無害な“器”にする。そこに核が一瞬で消滅するような猛毒を注入しておく。それを患者に、あらかじめ投与しておくのよ」
「そして、その後に人間が耐えうる量の、以前永琳が作った薬を投与する。すると……!」
「面白いことになるのは分かるでしょう」
「……」

つ、ついていけない。ちっとも簡単じゃなかった。

「攻撃され、僕を失った核は見境なく“死骸”を食らうわ。その中に“毒を持った死骸”が入っているとも知らずにね。果て無き食欲を逆に利用してあげたのよ」
「お、恐ろしい事を考える……。そんなことが出来るのは、恐らく、この地にはあなたしかいないだろうな」
「褒め言葉として受け取っとくわ」

呆れた表情の慧音さんに、作業しながら永琳さんは不敵に笑う。

「つ、つまり、その改造したワクチンを使えば、妖夢は助かるっていうこと?」
「ええ、そうよ。毒を盛る器を一から作るには、色々と面倒な作業をする必要があった。そこで思いついたのが、あなたのお金で買ってきたワクチンだったのよ。それを使えば、少し弄っただけで立派な器になるの。本当に感謝してるわ」

永琳さんは、ここで初めてあたいの目を見る。
いきなりだったので、ちょっとあたいは驚いた。この人、こんなに綺麗な目をしてたんだな。

「さあ、お喋りはここまでよ! 明日の朝までに薬を作ると宣言した以上、果たさなければならないわ! 慧音、そろそろ出来そう!?」
「ああ、もうすぐだ。出来たら知らせる」
「小町はもっと早く薬を磨り潰しなさい! まだまだ薬草はたくさんあるわよ!」
「は、はいっ!」

永琳さんの声に、再びあたいは懸命にすり鉢と格闘し始める。

「師匠! 点滴を開始しました! 今は文が見てます!」
「よし、じゃあ、こっちを手伝って! ワクチンに毒を注入する作業、手順は分かってるわね!?」
「はいっ、大丈夫です!」

新しく参入してきた鈴仙が、あたいの目の前にやって来て顕微鏡を覗き込んだ。

「鈴仙、妖夢は?」
「大丈夫よ。あの高価な薬を、点滴する、なんて贅沢なことをしてるんだもの。少なくとも、明日の朝までは確実にもつわ。心配しないで、私たちは自分の出来ることをやりましょう」
「ああ、そうだね!」
「今回は、あなたがいなかったら、里の人が命を落とす前に薬を作れなかったかもしれない。本当に感謝してる。ありがとう」
「それを言うのは、みんなが助かってからにしよう。それに、あたいは大したことはしていない。ただ金を稼いでいただけだ。特効薬を作れたのは、永琳さん、そして鈴仙がいたからだろう? だから、あたいなんかより鈴仙の方がよっぽど偉いさ」
「……あなたって人は……」

鈴仙は複雑な笑みを浮かべたあと、再び手元の作業に集中し始める。あたいもそれに倣い、摺り子木をこれでもか、というほどの力で振り回した。

途中、てゐがお握りを持ってきてくれたり、輝夜さんが深夜にもかかわらず激励に来てくれたりした。
みんなの意思が一つになった作業は続く。



そして、作業は、永琳さんの予告通り、朝まで続いた――――――


















































永琳さんが、ビーカーに入った液体をスポイトで取り、それを試験管の中に一滴垂らす。

その試験管の中には、すでに透明な他の液体が入っており、滴はその液体の中に落ちた。

あたい、慧音さん、鈴仙はそれを固唾を飲んで見守る。

試験管が示した反応は……………………………………………………………………………………青!

「行きなさいウドンゲっ!! 早く妖夢に投与しなさいっ!!!」
「はいっ!!!」

永琳さんの最後の命令が下った!
鈴仙は、注射器といくつかの薬を持って実験室を飛び出す。
あたいと慧音さんは、その鈴仙を追いかける。
廊下に出て、板を踏み割らん勢いで走り、妖夢の寝ている部屋を目指した。



襖を開けると、枕元で正座している文と、妖夢の手を固く握っている幽々子さんがいた。
鈴仙は、妖夢の左腕に刺さっている点滴の針を素早く抜き、今度は幽々子さんがいる方に回り込んで注射器で薬を吸い上げる。
幽々子さんが妖夢の手を握った状態のまま、妖夢の上腕をロープで縛る。
血管が浮き出ててくると、鈴仙は慎重に針を妖夢の腕に滑り込ませた。

すると、針が刺さったところから青白く、淡い光が現れ、薄ぼんやりと妖夢の腕を包み込み始めた。
腕から喉へ、顔へ、左腕へ、そして足首に至るまで、妖夢は光に包まれた。
それを見届けた後、鈴仙は白い粉薬を取り出し、紙で包み込んだ。
妖夢の口を開けて、薬を紙から少しずつ口内に入れ、水と共に飲ませていく。

……やがて、少しずつ光は小さくなっていく。

数分後、全ての光が消えてしまうと、そこには、呼吸が落ち着いた妖夢の顔があった。

鈴仙は妖夢の額、喉に手をやり、触診する。
そして、告げた。










「熱が…………引いてます…………!」





















「ようむぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!!!」





幽々子さんが堰を切ったように涙をこぼし、妖夢の頬を掴んで泣き声をあげた。

「うあああぁぁぁぁ……っ!! よかった……!! ようむっ、助かったわよ……!! 本当に……本当に良かった……!!」

幽々子さんの嗚咽は、文にも伝染し、雫が畳に、一つ、二つと落ちた。
慧音さんは、一つ大きな息をつき、微笑して何度も頷いた。
鈴仙も穏やかに笑い、妖夢と幽々子さんの抱擁を見つめていた。

……良かった。
本当に……良かった。
これで、また、あの平和な日々が戻ってくる。
また、妖夢が作ったうまい食い物が食える。
みんなで笑いあって、食卓を囲める。
残り数日の白玉楼での暮らしを、この上なく楽しく過ごせるだろう。

……あ、あれ?
な、なんだか、部屋が回ってる?

『こ、小町さんっ!?』

文の声が遠く聞こえる。
まるで、布越しに話しかけられているような……。
……あれ? なんで、あたい、正面向いて天井見てるんだろう。
見上げてなんかいないのに……。

……

まあ、いいか。
なんだか、すごく眠い。
このまま寝ちまおう。
妖夢と添い寝して、起きた妖夢を驚かすってのも面白いかもね。
ああ、そんなバカなこと考えるのも億劫だ。
瞼が、重い。

じゃ……お休み……。
きっと……いい夢が見られるだろうね……。

竹が邪魔して見えないはずなのに、あたいには、間から朝日が零れているような気がした……。










永琳は自室にある椅子に、膝に毛布をかけて腰掛けていた。
仮眠を取るときは、彼女はいつもこうしている。まだ布団で寝る気にはなれなかった。薬を投与した後に何が起こるかは分からない。万が一のために、すぐに起きられる体勢を作っておくべきだった。

「……」

でも、おそらく、その心配は無いように永琳は思う。
あれだけの想いのこもった薬なのだ。きっと、自分が叩き起こされることはない。
少しばかり、寝不足を解消しておこう。
そう思った途端、実験室に続く扉が開いた。

「ご苦労さま、永琳……あら、お休み中だったかしら?」
「あ、姫。いえ、これから寝るところでしたから、問題はありませんよ」

輝夜の来室に、永琳はすぐに立ち上がろうとするが、輝夜がそれを止めた。

「徹夜続きで疲れたでしょうに。座ったままでいいわよ」
「はあ……では、お言葉に甘えて」
「あの娘は……助かったのね」
「はい、とりあえずは。今はウドンゲが慧音と共に、里の人間の患者に薬を届けに行っています。そちらの方も、もうカタがついている頃でしょう」

永琳の言葉に、輝夜は満足そうに頷く。

「なかなか小気味いい二日間だったわ。絆、というものがあるのなら、あの四人にはきっと堅固なもので結ばれているのでしょうね」
「ましてや、小町と文は冥界に縁はほとんどなかった。たった二週間、寝食を共にしただけです。だからこそ、この絆は尊い」
「私たちにも、同じような絆で結ばれていると信じたいわね。なにしろ、もう何十年、何百年も共に暮らしているのだから」
「無論ですよ。我々は家族です。身を投げうってでも守るべきものと思っています。兎の一匹に至るまで」

輝夜は、ええ、そうね、と返して、永琳の机に腰をかけた。

「あの赤毛の娘は、本当によく頑張ったわね。過労で倒れたんでしょう?」
「いくら妖怪とはいっても、二日間ほとんど飲まず食わずで、おまけに休みなく舟を漕ぐという重労働をしていれば、さすがに倒れますよ」
「うふふ、本当によく似ているわね、あなたたちは。身を顧みずに無茶をするところ辺りがそっくり」
「……不本意ながら、そうかもしれません。あの娘には学ぶべきところがたくさんあった。知識ではなく、心を教えられたような気がします」
「死神という人の死を生業にする者だからこそ、思いやりというものが育まれているのかもしれないわね。長いこと生きてきたけど、あれほど人間味のある妖怪を見るのは珍しいわね」
「そうですね」

輝夜と永琳は笑いあう。小町に対して、敬意と賞賛を表しながら。

「さて、と。あんまり長居すると、あなたが眠れないからね。そろそろ退散するわ」
「ありがとうございます。実を言うと、もう眠くて仕方ないんです。申し訳ないですが、少し休みますね」
「ええ、ゆっくり休むといいわ。それじゃあね」

輝夜が静かに扉を閉めると、音は柱時計が動く音のみとなった。
永琳は、ふう、と息をつくと、椅子の背もたれに身を預け、そのまま目を閉じた。

窓の外の竹の葉は、春一番を思わせる風に煽られて大きく傾いでいる。
その向こうに見える幻想郷の空は、三日ぶりの青空が顔を覗かせていた。


















































〜 epilogue 〜










「ん……」

ゆっくりと目を開けると、障子を通して、顔の半分だけに日光が当たっているのに気付いた。
見慣れた天井、見慣れた机、見慣れた襖。
自分が横たわっている場所は、紛れもなく、白玉楼の自室だった。

「ここは……永遠亭じゃない……?」

熱を出して倒れ、永遠亭で一度目が覚めたことは覚えている。そばにいた幽々子の顔を思い出せる。
ならば、なぜ、自分はここにいるのか……。
妖夢は横になりながら、自分が置かれている状況を確認した。
白い寝巻きに身を包み、愛用の布団の中にいる。時刻は……大体、十時ごろか。明らかに寝坊しすぎだった。

身を起こし、しばらくぼんやりと思考を巡らせる。
土間で水をかぶり、寒さに凍えながら布団に入って眠りにつき、それから後からの記憶がほとんどない。
まるで、あの日の翌日のような感じだった。風邪を引いたのは夢に過ぎず、ただ単に寝坊をしただけなのでは……そんな考えも浮かんでしまう。
でも、あの尋常ではない苦しみは、今でもはっきり覚えている。間違いなく、自分は重い風邪にかかったのだ。
その間、幽々子や小町、文はどうしていたんだろう。きっと、心配したに違いない。心が痛んだ。

しかし、すでにその苦しみは欠片ほども感じず、長い間寝ていたことで体がだるく、節々が痛む程度だった。
どうやら快復はしたらしい。一日体を動かせば、すぐに体調は戻るだろう。

「そうだ……みんな、どこにいるんだろう……」

白玉楼はひっそりとしていて、誰の気配も感じない。少なくとも、居間には人はいないようだ。自室に近い居間は、人がいればすぐに分かる。
もう朝食の時間は過ぎてしまったし、小町は仕事にでも行っているのだろうか。文もそれについて行っているだろう。
幽々子は……? 自室で何かを食べながら寛いでいるのだろうか。昼餉も近いというのに、妖夢が何度言っても幽々子は間食を全く改める気配はない。半ば諦めていた。

「……あ、ちょっと、トイレ……」

なんとなく尿意をもよおした妖夢は、だるい手足に活を入れて布団から這い出る。
開け慣れた松の襖を開けると、いつも通りの廊下が左右に伸びていた。



渡り廊下を歩くと、暖かい日差しが妖夢の首から下を照らす。季節は本格的に春になったのだろう。冥界の桜も、そろそろ蕾が開くに違いない。
妖夢はどの四季も平等に好きだったが、とりわけ桜が満開になる一週間の間が特別に好きだった。
物心ついたときに初めて見た、見渡す限りの桜の海。
あまりの凄さに驚き、感動し、そばにいた妖忌に取りすがって泣いてしまった。気恥ずかしく、そして暖かな思い出だった。

厠までの道程は長い。
一旦、部屋から渡り廊下に出た後、再び屋敷の廊下に入り、今度は裏庭の渡り廊下に出る。そこでようやく厠の扉が見える。
広い家も考えものだ、と当初は妖夢も思ったが、慣れてしまえば遠い厠も当たり前になってしまった。
ここで生活していれば、運動不足になんてならないだろう。そんな詮無い事を考えながら、妖夢は厠を目指した。

裏庭には、布団を干したときに使った物干し竿がまだ残っていた。
すでに布団の陰はなく、肉のついていない骨のような雰囲気だった。
裏庭は南向きゆえ、太陽がその姿を垣間見せている。
あの時の、小町と文とお喋りした時と同じ、柔らかな太陽だった。

やがて、厠の扉が見えるところまで妖夢は足を運ぶ。

「……あれ?」

そして、違和感に気付いた。理由はそんなに大したことはなかった。
厠の扉が開け放たれていたのだ。誰かが完全に閉めきらずにおいて、風が開けてしまったような、そんな感じだった。

「……」

でも、それだけなら、妖夢は気にも留めずに厠に歩いていっただろう。
しかし、足は自然と速くなる。
なぜなら、開け放たれた扉が閉まらないように、“水の入った桶”が置かれていたのだから。

妖夢は逸る気持ちで厠の前にたどり着く。
そして、その中を覗き込んだ。


中には、

六畳の広い厠の床を、

こちらに背を向けて、

雑巾で懸命に磨いている幽々子の姿があった。


「ゆっ、幽々子さまっ!!」

妖夢は叫び、厠の中に飛び込んだ。

「? 妖夢……?」

ゆったりとした動作でこちらを振り向く幽々子。
妖夢は便所の床に這いつくばっている主の身を起こそうと、肩に手をかけた。

「ゆ、幽々子さまっ! 何をなさっているんですっ! そんなことは私がやります! すぐにお立ちになってください!」

ご不浄の掃除などを主にやらせていたと知れたら、先代である祖父になんと顔向けをしたらいいのか。
妖夢は膝をついてこちらを見ている幽々子の肩を、後ろに引っ張って立ち上がらせようとした、その時、


「妖夢っ!!!」


幽々子の怒声が体を突き抜け、妖夢は、ひっ、吐息を飲んで動きを止めた。
初めて聞いた、幽々子の怒鳴り声。遅れてきた震えを、妖夢は隠すことが出来なかった。

幽々子はゆっくりと立ち上がり、妖夢の方に歩みを進める。笑顔が似合う大きな目を鷹のように細めて。
妖夢は、それに合わせるように、一歩ずつ下がっていく。
やがて、厠を出て、渡り廊下の日差しが背中を照らす。
そこで、幽々子は歩みを止めた。

「…………魂魄妖夢。西行寺家当主、西行寺幽々子の名において、あなたに命を下します。背くことは許しません」
「…………」

妖夢は頷くことも出来ない。目を見開き、背中に汗を噴き出しながら、幽々子の言葉に耳を傾けることしか出来なかった。
そして、幽々子は妖夢に言い放った。

「あなたの今日一日の仕事を禁じます。自室で過ごし、明日の仕事に備えられる力を蓄えなさい。……以上です」
「…………え」

妖夢が言葉の意味を理解する前に、幽々子は妖夢を腕の中に抱きこんだ。

「……気が付いたのね、妖夢……。良かったわ……」
「ゆ……幽々子様……?」
「ごめんなさい。あんなに辛い目に遭わせて……本当にごめんなさい……」
「……」

妖夢は、幽々子が泣いていると気付いた。
どうしたらいいのか、全く分からずに、妖夢は幽々子の抱擁に身を任せるだけだった。

ふと……妖夢は頬に何かが流れているのに気付いた。

「あれ……?」

……涙だった。
自分の意思に関係なくとめどなく流れる涙に、妖夢は戸惑う。

「ゆ、ゆゆこ、さま……うっ、く……」

妖夢の嗚咽を聞いた幽々子は、さらに腕に力を込めた。
……二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。







妖夢の自室には、用を足して布団の中に戻った妖夢と、かたわらでいつもの笑顔を浮かべている幽々子と、……ぐしぐしと涙を流している文がいた。

「あ、文さん……。お、お願いだから、もう泣き止んで? ね?」
「うぅ〜、だって、だって、嬉しいんですもん……! また妖夢の声が聞けたんですもん……! これが泣かずにいられますか……!」

非常に困った表情の妖夢と、それを楽しそうに見つめる幽々子。
文がやってきたのは、妖夢が幽々子と共に自室に帰ってくる途中だった。

文は、妖夢の危機が去った後、意識を取り戻すまでの間の看病をかって出た。
それは、自分が妖夢を危険な病気に冒してしまったという罪悪感からに他ならない。
さっきまで妖夢の部屋にいなかったのは、無縁塚で仕事をしている小町に、幽々子が作った弁当を届けに行っていたからだ。
帰ってきてみると、布団がもぬけの殻になっていたので、軽いパニックになりながら白玉楼の中を探していたら、二人に遭遇したというわけだった。

「妖夢、本当に体の調子は大丈夫ですか? あんなに重い病気にかかったんですから、まだ本調子じゃないんでしょう?」
「ううん、もう平気よ。ずっと寝ていたから体がだるいだけで。明日から、またいつものように働けるわよ」
「妖夢の大丈夫は、全然信用できないんですよ。今回だって、無理しないで体調が悪いことを私たちに言ってれば、あんな目に遭わなかったかもしれないんですから」
「う……そう言われると返す言葉がないわね……。でも、今は嘘じゃないわ。働こうと思えば、いつでも働けるもの」
「妖夢。もし、今日無断で働いたりしたら……分かってるわね?」
「……」

幽々子が究極の笑顔で凄んだので、妖夢は沈黙した。

「あーあ、小町さんも、今日くらいはお仕事休めばよかったんですよ。今日中には目が覚めるだろうって永琳さんも言ってたのに、お楽しみは後に取っとくー、なんて言っちゃって」
「きっと、こまちゃんは自分が仕事に行って今まで通りに過ごすことが、日常が戻った証だ、って言いたかったのよ。妖夢はもう心配いらないって分かっているからこそ、仕事に行ったんだと思うわ」
「……そうかもしれないです。それに、自分が稼いだお金は薬代になってしまいましたからね。残り数日、白玉楼に泊まれる限られた時間の中で、出来るだけ稼ぎたいっていうのもあるでしょうし」
「……」

妖夢は、文から自分が倒れてからの二日間の様子を聞いていた。
朝早くに文に背負われて永遠亭に行ったこと、永琳の仕事を文たちが手伝って新薬の開発に取り組んだこと、そして……小町がその薬の材料を買うために、今まで稼いだ金を全て投げうってしまったこと。

「……やっぱり、私のせいで、小町さんに余計に迷惑をかけてしまったんですね……。私、どうしたらいいか……」
「妖夢、それは違うわ」

幽々子のきっぱりとした否定に、妖夢は俯いていた顔を上げた。

「こまちゃんは妖夢のためにお金を使ったことを、少しも気に病んでいないのよ。むしろ、自分のお金で妖夢を助けられたことを誇りに思っている。もし、妖夢がこまちゃんに対して申し訳ないという気持ちでいたら、こまちゃんには失礼に当たるわよ」
「……」
「だから、妖夢に出来ることは、感謝をすること。死の淵から救い出してくれたこまちゃんに、心を込めてありがとうって言うだけでいいのよ。それだけで、こまちゃんの苦労は労われるわ。ね? 難しいことはないでしょう?」
「……そうですね。小町さんが帰ってきたら、私は精一杯、感謝の言葉を送ります。そして、残り少ない白玉楼の生活を、一生懸命お世話します。私に出来ることは、そのくらいしかないですから」

妖夢がそう言うと、幽々子は嬉しそうに頷いた。

「……さて! 妖夢も起きたことですし、そろそろ掃除を始めましょうか。確か、今日は廊下の雑巾がけでしたよね?」
「えっ、文さんが仕事をするの?」
「今日一日だけですけどね。妖夢が元気になったら、すぐに食客に戻りますから、そこのところはよろしく」

文はそんな冗談を言って立ち上がると、妖夢の部屋を後にした。

「……私もお仕事に戻るわ。妖夢はゆっくり休んでなさい。寝てるのが嫌なら、居間でコタツにでも入っているといいわ」

幽々子も、文の後を追うように部屋からいなくなった。

「……」

部屋に残された妖夢は、さて、どうしようかと考える。
寝ようか、とも思ったが、さすがに数日寝っぱなしだったので眠気は全くなかった。

「困ったなぁ……どうしよう……」

いつもなら仕事をしている時間だけに、暇になったらなったでやることがない。
コタツで入っているのもいいが、それもまた暇だった。

「……散歩にでも行こうかな」

じっとしているのがダメだったら、体を動かしたかった。ちょっとしたリハビリも兼ねて。

「……うん、そうしよ」

決定した妖夢は、布団にかけてあった半纏を着て、玄関に向かった。



「ああ、いい天気」

白玉楼の門を抜け、目の前に広がった広大な前々庭を妖夢は歩く。
門の影に隠れて日の当たらない所の雪も、すっかり溶けきったようだった。もう、冬の名残は微塵も残っていない。
また、新しい春がやってくる。草が繁茂し、花々が咲き誇る。
冥界は春が一番美しい。命が芽吹く季節が一番美しいというのも、変な話ではあった。

妖夢は庭の細長い道を行く。向かう先は、白玉楼の北階段。
まだ桜には早いが、一足先に麓の木々の群れが見たかった。
あの息を飲むような桜の海。網膜に焼き付いているその光景は、目を閉じればありありと思い浮かべられる。
人間も妖怪も入り乱れての大宴会。一週間という短い期間を惜しむように、たくさんの者が訪れる。
毎度のように片づけをするのは妖夢だったが、こんなにたくさんの者が冥界の桜を愛しているのを見ているだけで、そんな苦労など吹き飛ぶのだった。

「……」

やがて、妖夢は階段の頂上に立つ。
当然のように、桜は咲いていない。規則正しく並んだ桜の木は、まだ薄紅の衣を纏うには早かった。
妖夢は階段に腰掛けて景色を眺める。
階段掃除をしているときにいつも見ていた風景なのに、なんだか懐かしく感じた。

「……小町さん、ここの掃除をやったんだよね……」

遥か下に続いている百余段の長い階段。数日前に、小町が懸命に箒で掃いてくれたことを妖夢は思い出した。

「……」

幽々子は、小町に感謝をすれば、それでいいと言った。
文は、自分がかかった病気は避けられなかったことだったと言った。
しかし、生来の性格からか、妖夢は小町に多大な迷惑をかけた後悔の念を捨て切れてはいなかった。

「……」

あの人は、何故あんなにも自分の事を気にかけてくれるのだろうか。
感謝はいくらしても、したりない。
命を救ってくれた恩を、どうやって返せばいいというのだろうか。

妖夢は太ももに顔をうずめて、少しだけ涙ぐむ。
小町に会いたかった。
会ってどういう言葉を交わそうとは考えなかった。
ただ、ただ、小町の顔が、妖夢は見たかった。

暢気で、豪快で、細かいことは気にしない性格で。そして、力強くて、頼もしい、姉のような存在。
そんな小町に、妖夢はひたすら会いたかった。

「……?」

ふと、妖夢は誰かに呼ばれたような気がした。

……空耳だろうか。
そう思った妖夢は、なんとなしに階段を見下ろした。

そこに、

一つの人影を認めた。







お天道様は、もうすぐ真南に達しようとしている。
本格的に春に差し掛かってきたようで、心地よい日光が無縁塚に降り注いでいた。
ここには遮蔽物なんかほとんどないから、一日中日光は当たりっぱなしだ。
夏は辛いが、それ以外の季節には日光浴にうってつけの場所だった。

あたいは、昼寝岩に腰掛けながら、馬鹿みたいに代わり映えをしない三途の川をぼーっと眺める。
今日送った客は、八文を持った一人のばあちゃんのみ。
相変わらず、待っているだけじゃあ、無縁塚にはてんでお客は来ない。
それなら、前みたいに再思の道の麓に下りろって話だが、なんとなく、やる気が起きなかった。

「あ〜あ、なんだか、気が抜けちゃったね〜」

そんな気の抜けた声を出しながら、あたいは岩に寝転んで視界を青い空で一杯にする。
妖夢の病気が治ってからというものの、仕事に対する意欲が消え失せたように感じる。

無理もないのかもしれない。あの騒動の中で、あたいは十年分の仕事をしたと感じている。
たった二日で十年分の仕事の意欲を使い切ったのだから、いま意欲が出なくても仕方ない。
こんな、四季様に言ったらお説教決定の無茶理論で、自分を正当化しているのだった。

でも、やる気が出ないのは本当だった。金を全部妖夢の薬代に使ってしまったことで、心のどこかで喪失感みたいなものを味わっているのかもしれない。
稼いだ金を薬代に消したことには後悔など微塵もしていない。だが、改めて金を貯めるための気力というか、そういうものを充填しなければならないのだ。

まあ、とどのつまり、“やるきが出ない”の一言に限る。
難しいことを考える必要などない。理屈ではない。なんとなく、やる気が出ないのだ。

こういう場合、あたいの相場はサボることと決まっている。
だけど、文から幽々子さんお手製の弁当を貰ったので、正午まではいなくてはならない。
さっきチラッと中を覗いて、……戦慄した。幽々子さん、本当に料理うまかったんだなぁ……。

まあ、いい。
客が来ないなら、寝るのみ。
久しぶりの、こんなにいい天気なんだから、昼寝をしなけりゃ勿体ない。
お、ようやく、普段のあたいっぽくなってきた。やっぱり、真面目やシリアスは合わないなぁと実感する。

そんな馬鹿なことを考えながら、あたいは気持ちのいい陽気に身を任せて目を閉じた。










『もし、お嬢さん』
「ん……?」

誰かに肩を叩かれたように感じ、あたいは薄く目を開いた。

『ちょっと起きて下さいますか? 私を、三途の向こう岸に届けて欲しいのですが』

少ししわがれた、優しい声があたいにかけられる。あ、お客さんか。
あたいは気だるそうに身を起こし、相手の姿を確認する。かなり高齢のじいちゃんのようだった。

「あ〜、はいはい、三途の川にようこそってね。そんじゃあ、運賃を出してくれる? タダじゃあ、渡せないからね」
『運賃、ですか? それはどういった?』
「お前さんの懐の中にでも、金がいくつか入ってただろ? それを全部出してくれ。金の数の応じて、三途の川幅が決まるからね。たくさん出せば、あっち側に早く着くよ」
『ああ、なるほど、そういうことですか。ふむ、ですが私はここに来るまでに一枚のお金しか持っていませんでしたから、たくさんは出せませんよ』
「なんだい、たった一文かい? お前さん、顔に見合わず極悪人だったようだね」
『ははは、私としては、一生懸命生きてきたつもりなのですがね』
「……まあ、いいや。運がいいよ、お客さん。あたいはどんな客が来ても拒まないからね。時間がかかろうが、送ってってやるよ」
『それはかたじけない。それでは、運賃をお渡しします。どうぞ、よろしくお願いします』

じいちゃんは懐から、一枚の銭を取り出し、手のひらに載せてあたいに見せた。
その銭は、お天道様の光を浴びて、金色のように煌いた。

「……うお、まぶし……随分と光る銭だね。磨いたりでもしたのかい?」
『いえ……そのようなことはしていませんが。元々こんな色をしていましたよ?』
「は? じゃあ、何でこんな色をしてるんだい? 銅銭は赤っぽくて、鈍い色をしている……のに……」

ここに来て、ようやくあたいは、このじいちゃんが持っている物が銅銭じゃないことに気付いた。


「…………………………………………………………………………………………………………へ? まじ?」


じいちゃんが持っていた物は、銅銭でも、銀銭でも、ましてや鉄銭なんてオチでもなかった。
金色に輝いているのは、お天道様が光らせているわけではなく、その銭自体が輝いているのだった。

顔から汗が噴出して、だらだらと流れ始める。
こんなことあるわけねーというあたいの理性が、目の前にある物を受け入れてはくれない。
あたいは昼寝岩の上に四つんばいになりながら、しばらく犬の彫刻のように固まっていた。

『……もし、お嬢さん。これではやはり不服でしょうか? ならば他の死神のところに参らせていただきますが』
「いえ、とんでもないです」

即答し、敬語だった。

「じゃ、じゃ、じゃ、じゃあ、わ、わわわ、渡して、あ、あげましょうか? は、は、張り切って、ふ、舟を、こ、漕がせて、もらいますので……」
『ああ、それは良かった。はい、お納め下さい』

じいちゃんが銭をあたいの手のひらに載せると、三途の川に異変が起こった。

「げ」

見ると、彼岸がすぐ目の前にあり、歩いて渡れるような距離にまでなっていた。
ていうか、これって舟使う必要あんのか?

『おや? もう、向こう岸が見えていますね。これでは船旅は短いものになりそうだ』
「そ、そ、そうです、ね……」

あたいは汗を垂らしながら、手のひらに銭を載せたまま、呆然と彼岸を眺めていた。



桟橋から舟が離れて一分。
彼岸側の桟橋に着いた。

「ど、どうぞ、彼岸に到着です。お、お降りになって下さい……」
『ああ、どうもありがとう。よっこらしょ、っと』

じいちゃんの手を引いて、桟橋の上に引っ張りあげる。
此岸の方を見ると、すでにあっち岸は見えなくなっていた。

「そ、それじゃあ、あ、あたいは、これで。お、おじいさん? 達者でね?」
『はい、あなたもお仕事を頑張ってください。たくさんお話を出来なかったのは名残惜しいですが』
「い、いえ、恐縮です。そ、それじゃあ、あたい行きますんで、これで失礼します!」

船に飛び乗って舵取り棒を全力で漕ぐ。
行きより帰りの方が舟を漕ぐ時間が長いなんて、きっと、これから一生の間にこれっきりしかないだろうなぁと思いながら。




















老人は、桟橋の上で船影が霧の中に消えるまで、ずっと見送っていた。
そして、ゆっくりと踵を返し、腰の裏に両手を当てながら少しずつ歩みを進めていく。
ここからは、閻魔のいる裁判所まで、自分の足で歩かなければならない。老いた足腰には堪える道だ。
しかし、この老人はそんなことを気にした風もなく、微笑を浮かべながら歩いていく。まるで、困難が楽しいというかのように。

しばらく、老人が道なりに進むと、小さな丘陵が見えてきた。
道は段々と緩やかな上り坂になってくる。老人は歩く速度を落とし、一歩一歩踏みしめるように坂を行く。

やがて頂上に差し掛かったとき、そこには一つの人影があった。

「……」

老人はその姿を認めると、穏やかな笑みを浮かべ、一つ頷いて見せた。
その人影は女性のようだった。
時間をかけて、顔がはっきりと見えるくらいにまで歩み寄った後、ようやく老人は口を開く。

『……これで、よろしかったですかな?』

老人がそう言うと、女性は深く頷いて、

「……はい。無理を言って申し訳ありませんでした」

と謝罪した。

『いやいや。このくらいのことなど造作もないこと。いくらでもやって差し上げましょう。ましてや、閻魔殿のお頼みとあらば、聞かないわけには参りませんからな』
「……」
『あなたからお話を聞いたとき、あのお嬢さんの頑張りには心を打たれました。私の持っていたお金で、お嬢さんの苦労が報われるならば、これほど嬉しいことはありません』

老人は後ろを振り返り、今はもう見えない赤毛の少女のことを思う。

『あのお嬢さんは、本当に良い上役をお持ちになった。上に立つ者で、これほど目下の者を考えてくれる者は数少ない。上役の鑑のような方ですな』
「……いえ、今回のようなことは、本来ならば許されないことです。死者の霊魂を連れてくるのは死神の仕事。閻魔がその仕事に干渉することは出来ません。今回は、特例を認めてもらったからこそ、あなたを優先的にあの子のところに送ることが出来たのです」
『その特例を認めてもらう代償が、降格と減給ですか』
「……」
『地位ある者は、その地位にしがみついてしまうもの。もっとも、これは人間に限ったことではありますが。たとえ、閻魔殿といえども、その地位をこれほど簡単に捨てることなど、そうそうに出来るものではないと私は思いますが』
「閻魔にとって、地位の上昇は担当できる裁判の範囲が広がるだけに過ぎません。一種の指標のようなものです。ですから、私は閻魔の地位の上げ下げなどに一喜一憂することはありませんよ。大切なのは、自分が担当した裁判を全力で行うこと。さすれば地位など自然についてきます。ほんの百年の間、また努力すればいいだけのことですよ」
『ご立派なことです。その心があればこそ、人を裁くことが出来るのでしょうな』
「あの子は、この一ヶ月足らずの間にボロボロになるまで傷つきました。それを放っておくことなど私には出来ません。あの子だけが傷ついて、上に立つ私が指を咥えて見ているだけなど我慢なりませんでしたから。私はあの子の上司です。上司は部下を見守り、助けるもの。降格をして、あの子の借金その他を全て返し、苦労を労えることが出来るならば、これほど安いものはありませんよ」

老人は感服した目で女性を見る。
そして、かつては自分も同じように考え、それを実行してきたことを思い出す。閻魔であるこの女性が同じように考えているのならば、自分がしてきたことは間違いではなかったと確信できた。

『さあ、そろそろ参りましょうか。早く、有り難いお言葉を拝聴したいと思います』
「……ええ。あなたの粗探しは、なかなか骨が折れそうですけどね」

二人は互いに笑い合い、連れ立ってゆっくりと丘を下っていった。


















































気が付いたら、あたいは空の中にいた。

すっかり雪の白が消えた幻想郷の大地を見下ろし、少しずつ、少しずつ上昇していく。
船を桟橋に着け、飛び降り、稼いだばかりの銭を握り締め、何も考えずに飛び立った。
無我夢中だった。
行くところがある。それだけの想いが、あたいの体を突き動かしていた。

千切れた綿のような薄い雲の層を何枚も破り、雲の上をひたすら目指す。
以前にも、こんなことがあったことを思い出す。その時あたいは、今よりも厚くて冷たい雲の層を抜けて一つのお屋敷を目指していた。
ああ、そうだ。
あたいは、あそこを目指しているのだ。

何故?
そこに、今すぐ顔を見たいやつがいるからだ。
そいつは根っからの生真面目だから、あたいのしたことに余計な罪の意識を感じているに違いない。
だから、あいつに会ったら、あたいは言ってやるのだ。
金色に輝く銭を掲げ、“もう気に病むことなど一つもない”と。

やがて見えた、巨大な門。すでに玄関のようにくぐれるようになっていた。
それだけの時間を、あのお屋敷で過ごしてきた。
かけがえのない時間を過ごしてきた。
死にそうなくらいに辛いこともあったけれど、今ならきっと酒の肴になるだろう。

西行妖の霊木を望み、見慣れたお屋敷が見えてきた。
眼下に広がる裸の桜。そろそろ、その晴れ姿を見せてほしいものだ。
遥かに長い石畳。あたいは一気に高度を下げて、そのスレスレを飛んでみる。左右の石灯籠をぐんぐん追い抜く。
やがて見えた、石階段。あたいが掃除をした所。ぶつかりそうになる寸前で、あたいは頭を上に向けた。


そして、階段のてっぺんに、あいつはいた。


「妖夢っ!」

階段を半分上ったところで着地して、そいつの名を呼んだ。
膝を抱えていたそいつは、少しだけ赤くなった目でこちらを見た。
目をぱちくりとさせて、あたいを幽霊か何かのような目で見つめてくる。
だから、あたいは白い歯を見せて、二カッと笑ってやった。

そしたら、そいつは急に立ち上がって、階段を駆け下りてきやがった。
病み上がりの癖に無茶をする。ちょっと泣き顔になってるし。
あたいもゆっくりと階段を上っていく。走っていったら、きっと、これからあいつがすることに対処できないだろうから。

少しずつ、距離が狭まって、あたいは軽い体を抱きとめた。
まとめて転がり落ちないように、足をしっかりと踏ん張って。
そいつはあたいの胸に顔を押し付けて、ごめんなさい、ありがとう、と繰り返し呟いていた。
……まったく、謝るのか、お礼を言うのか、どっちかにしなよ。
あたいは頭を撫でてやる。さらさらとした銀色の髪は、指の間を砂のようにすり抜けた。

しばらく、そうしていると、今度は階段の上の方から声が聞こえた。
仕事の相棒の天狗と、能天気なお嬢様だった。
天狗は大きく手を振っており、お嬢様は満面の笑みを浮かべていた。

腕の中にいるやつに上を見るように促すと、久しぶりに柔らかな笑顔を浮かべてくれた。



そして、あたいは空を見上げる。

冥界の空はどこまでも青く、突き抜けていて。

上を向いたから、少しだけ鼻の奥がツーンと痺れた。





〜 終 〜



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