「それでは〜、村紗水蜜ちゃんの〜明るい前途を祈って〜乾杯したいと思いま〜す。グラス持って〜」

あたいの声に合わせ、十人いる男どもが全員グラスを掲げた。

「かんぱ〜い!」
「かんぱ〜い!」

そして、一気にあおる。一瞬で空になる。
乾杯の時は、その名の通り全部飲むのが、あたいたちのローカルルールである。

「よ〜し、はくしゅ〜!」

全員飲んだのを確認すると、あたいは拍手を求める。
狭い部屋なので、うるさいくらいの拍手が巻き起こる。

「よーし、てめえら! 新しい妹分を全力で祝うぞ!」
「当たりめぇよ! 言われるまでもねぇ!」
「こんな、めんこい後輩持てて俺たちゃラッキーってもんよ!」
「おい! お前ばっかり村紗ちゃんの隣にいるんじゃねぇぞ!」
「けっけ、座りたきゃ、力づくでどかしてみろや!」
「上等だ! 五本飲みいくか!?」
「おう! やれやれ! 酒はいくらでもあるぞ!」
「村紗ちゃ〜ん、俺にお酒ついでくれな〜い?」
「馬鹿野郎が! 主賓につがせんな!」
「お前さんら! ちったぁ、落ち着きなよ!」

大騒ぎである。
あたいがたしなめても、テンションが下がることはなかった。

「いや〜、悪いね。バカばっかりでさ」
「は、はい、皆さん元気ですね」

さすがに圧倒されたようだ。
こいつらに変なことされないように、隣にいるあたいが気をつけなければならなかった。

さて、この様子を見てお分かりかと思うが、現在、村紗ちゃんの歓迎会を行っている。
三途中州の商店街にある居酒屋に、あたいたちは集まった。馴染みの店で、宴会するときはいつも使っている。

研修を始めてまだ二日目だが、待ちきれないやつがたくさんいたので、今日いきなり召集をかけてみた。
そしたら、十人も集まりやがった。来たかったけど都合で来られないやつもいた。まあ、涙を飲んでもらおう。

「さあ、たくさん食べて飲みな。金は、こいつらに払わせるからね」
「おい、小野塚! 始終、村紗ちゃんと一緒にいながら金すらも払わねぇのか!」
「そうだぜ! お前が全部おごりやがれ! それで差し引きゼロだ!」
「あ〜ん? 聞こえないねぇ〜」
「てめぇ! 都合のいい時だけ耳ふさぐんじゃねぇぞ!」
「耳くそ溜まってんのか!?」
「村紗ちゃんは、気前のいい男が好きだってさ。ほらほら、アピールの絶好の機会だろ?」
「はい! 払います! なので、村紗ちゃん付き合って下さい!」
「阿呆が! 小野塚の術中にはまるんじゃねぇ!」
「俺も払う! 村紗ちゃんの分だけ!」
「せせこましいこと言ってんじゃねぇよ! 払うなら全部払いやがれ!」

ギャーギャー騒ぐ大の男たち。実にやかましいことだ。
まあ、毎回こんな感じでストレスを発散しているのだ。お通夜みたいな宴会は意味ないしね。

「そういえば、村紗ちゃんは酒は飲めるのかい?」

枝豆を食べながら、あたいは村紗ちゃんに聞いた。ていうか、それは宴会の前に聞くべきだったと今更思った。

「え? あ、はあ。少しぐらいなら」
「そいつは良かった。まあ、飲めなかったらジュースでもいいだろうしね。ほらほら、ここにある料理は全部村紗ちゃんのものだよ。たくさん食べな」
「あ、ありがとうございます」

フライドポテトを取って、パクパクと食べる村紗ちゃん。仕草が可愛らしかった。

「村紗ちゃ〜ん、お酒飲まな〜い?」
「あ、はい。ありがとうございます。いただきます」

男の一人が徳利を持ってきたので、お猪口を両手で持って差し出す村紗ちゃん。

「いや〜、可愛いねぇ。小野塚と真逆だね」
「あーん? あたいは可愛くないってのかい?」
「おい! 小野塚が正気を疑うことを口走ったぞ!」
「どうした! 変なものでも食ったのか!?」
「おら! そこまでにしときな! ハンマーで殴るよ!」
「こわーい! 小野塚さん凶暴です!」
「自分で可愛いって言うんじゃねぇよ!」

色々な反応をしながら、馬鹿みたいに笑う。実に口の悪いやつらだった。
村紗ちゃんの方を見ると、くすくす笑っていた。なんか、こいつらと騒ぐと引いてしまうかと思っていたが、心配しなくてもよかったようだ。

「村紗ちゃん、これ飲まないかい? これ」

あたいはメニュー欄にある一つを指差して見せた。

「さわー、ですか?」
「そうそう。酒をジュースとか果汁で割ったやつ。清酒は慣れてないときついけど、これは凄く飲みやすいよ。女の子にも人気だし。頼んでみようか?」

サワーやカクテルは、ここ、三途中州の商店街でしか味わえない。
外の文化が日々流れてくるので、幻想郷では体験できないことが出来たりする。

「美味しそうですね。飲んでみたいです」
「よっしゃ、頼もうか。何がいいかい?」
「ええと……あ、これイチゴが入ってるんですか?」
「そうだね、イチゴサワーだ。村紗ちゃんはイチゴが好きかい?」
「はい、果物の中では一番好きです」
「うーん、可愛いねぇ。じゃあ、早速頼もう。おい! お前さんら! 注文するからオーダー出しな!」
「冷酒冷酒! 徳利で! 五本!」
「ビールピッチャーで持って来い! 全然足らねぇ!」
「モスコとスクリューとソルティ頼む!」
「お前、相変わらず女みたいなの頼みやがるな」
「うるせぇな、美味いからいいんだよ!」
「焼酎ロックで! グラス三個持ってきて!」
「お前さんら、ペース速いよ! ちったぁ自重しな!」

後で金を出すのはあたいたちだ。貧乏なやつらの集まりなので、出来るだけ金は抑えた方がいい。

あたいは、ちょうど通りがかった店員の女の子を呼ぶ。

「はい、喜んで!」
「イチゴサワーと、熱燗一本。冷酒を徳利で五本。おちょこはいいや。あと、ビールピッチャー一個。モスコミュールとスクリュードライバーとソルティドッグ。最後に焼酎。えーと、グラス三個と氷持ってきて」
「はい、喜んで!」

注文を終えると、女の子は笑顔で注文を伝えにいった。

「ちょっと待っててね。すぐに来るから」
「は、はい。凄いですね、慣れてますね」
「んー?」

村紗ちゃんは驚いているようだった。

「まーね。しょっちゅう酒盛りしてれば要領を覚えるさ。村紗ちゃんにも出来るよ」
「そうでしょうか……ちょっと引っ込み思案なので……」

確かに、村紗ちゃんは仕切るのは苦手そうだった。

「まあ、出来なくても得意なやつに頼めばいいのさ。あたいに任せてもらってもいいよ」
「はあ、じゃあ、そうします」
「村紗ちゃん村紗ちゃん!」

すると、男の一人がメニューを持ってやってきた。

「これこれ! これ飲まない?」

指さしたメニューを、村紗ちゃんは読み上げた。

「ええと、らぶまじっく、ですか?」
「なんだとう!!」

さっきまで騒いでいた男どもが、急に静まった。ていうか、あんだけ大声あげていて、よく聞こえたな。

「てめぇ! 抜け駆けする気だな!」
「許さんぞ貴様! 歯ぁ食いしばれ!」
「うるせぇ! 戦に抜け駆けは華だというだろうが!」
「お前がやんなら、俺に回せや!」
「なんでそうなる! やんのは俺だ!」

そして、再び騒がしくなる。あー、うるさい。

「ど、どうしたんですか? 皆さん」
「あー、さっきの『ラブマジック』っていうのが原因だよ」
「? 何ですか、それ?」
「ここのとっておきのメニューなんだけどね。レモンとリンゴとザクロをベースにしたカクテルなんだけどさ」

だが、ただのカクテルではないのだ。

「それには、ストローが二本ついてるんだよ。意味分かる?」

あたいがそういうと、村紗ちゃんは首をかしげた後、段々と顔が赤くなった。

「そ、それって……」
「そうそう、多分考えているんで合ってるよ」

高級な飲み屋に行くと、カクテルには必ず二本ストローがついている。
なぜかというと、果肉の入ったカクテルの場合、ストローが詰まって使い物にならなくなることがあり、その時、予備のストローを使うからだ。

しかし、ここの居酒屋は、節約をしているのか基本的にカクテルにストローをつけない。
だが、一個だけ例外があるのだ。
それが、『ラブマジック』というカクテルで、一本ではなく、二本ストローがついてくる。それは、予備のストローではない。
意味は、名前が示すとおりである。

「まあ、チューするわけでもないからさ。あんまり気にしないでいいよ」
「そ、そんな! それでも恥ずかしいです!」
「うーん、そうかい。じゃあ、しょうがないね」

あたいは、パンパンと手を打った。

「おい、お前さんら! 村紗ちゃんとラブマジックしたいなら、教官のあたいを倒しな」
「なんだと!?」
「ま、まさか、あれをやるのか!?」

ざわざわ、と男どもが騒然とする。

「当たり前だろ? そんだけハードルが高くなきゃ、ありがたみがないだろう。簡単に村紗ちゃんといちゃいちゃ出来ると思わないことだね」
「ちっ、しょうがねぇ……てめぇら! 意地でも勝つぞ!」

おっしゃあ! と気合を入れる。
ふっ、ちょろい……。

「じゃあ、一発目は誰だい?」
「俺だ! さっさと決めてやるぜ!」

立ち上がったので、うすら笑いを浮かべながら、あたいも立ち上がる。
絶対勝てよ! 勝ったらラブマジックだ! とか声援が上がる。

「じゃあ、行くよ」
「来やがれ!」

あたいたちは、お互いに右手と右足を引き、構える。
そして、溜めた息を一気に吐き出した!

「「じゃんけんぽん!!」」
「あっちむいてほい!!」

わずか二秒で、男の敗北は決した。



「はーい、残念でしたー」

あたいは、うおぉぉ、とか、ぐおぉぉ、とか唸って頭を抱えている男たちを見下ろす。
ちょっと快感だった。

「じゃあ、村紗ちゃんとのラブマジックはお流れねー」

あたいは悠々と腰を下ろした。
一仕事終えたので、ビールを一気に飲んだ。美味い。

「す、凄いです。十人抜きなんて……」

村紗ちゃんが、驚きの表情であたいを見る。

「まあね。昔、文と修行したことがあってね。普通のやつには負けないくらいになったんだよ」

弁当争奪のために身につけた技だったが、ここまで使えるようになるとは、あたいも思わなかった。

すると、さっき頼んだ品を店員の女の子が持ってきた。

「はいよ、イチゴサワー。飲んでみな」
「あ、ありがとうございます」

村紗ちゃんは、両手でグラスを持って一口飲んだ。

「うわぁ、美味しいです」
「そうかい、どんどん飲みな。メニューにあるサワーを全部飲んでいいから」
「お、小野塚……」
「あん?」

打ちひしがれていた一人の男が話しかけてきた。

「なんだい? 泣きの一回は認めないよ」
「分かっている……だが、一つ提案させてくれ」
「あん? 何を?」

もぐもぐと唐揚げを食べながら聞いてやる。

「お前は、俺たちの勝負に勝った……だから、ラブマジック権は、お前の物になったはずだ」
「はあ。それで?」
「だから、お前はそれを行使する義務がある。分かるか?」

男がそう言った途端、干からびたミイラが水を吸ったように、男どもが蘇り始めた。

「そ、そうか! 百合か!? 百合だな!?」
「そうだ! 俺たちはそれを見ることが出来る!」
「女と女のラブマジック! ご、ゴクリ……!」
「滅多に見られんぞ! ただでさえ、女っけないからな、俺たちは!」

また場がうるさくなった。
あたいは呆れた目をした。いまさら、こいつらの性癖に疑問を抱き始めた。

「全くうるさいねぇ。女同士でやっても面白いくないじゃないか、ねえ?」
「あ、いえ……」

あたいがそう言うと、村紗ちゃんがイチゴサワーを飲みながら俯いてしまった。
それを、男どもは見逃さない。

「おおっ、村紗ちゃん、まんざらでもなさそうだぞ!」
「百合か!? 百合だな!?」
「やべぇ、興奮してきたぜ!」

騒ぎが一層増す。

「なに、村紗ちゃん、あたいとラブマジックしたいの?」

意外な村紗ちゃんの反応に、あたいはサラミを食いながら聞く。

「あ、いえ……男の方は、ちょっと……でも、小町さんなら……」

その答えに、男どものテンションはピークになる。

「よっしゃあ! 頼むぞ、ラブマジック! いいな、お前ら!」
「いいぞいいぞ! 早く頼め!」

意味の分からんテンションについていけず、あたいは、やれやれと肩をすくめた。
まあ、いいや。ネタになるし。

「よーし、じゃあ、やってやるから、あたいの酒代はお前さんらが払うんだよ。いいね?」
「ちっ、しょうがねぇ!」
「それで百合が見られるのなら!」

男どもは、あたいのなすがままだった。これで、酒代は浮いた。

いい気分で、あたいは村紗ちゃんの方を見た。
村紗ちゃんは、恥ずかしそうな顔をしながら、イチゴサワーをちょっとずつ飲んでいた。



三時間後。
あたいらは、店の外に出た。

「ほんじゃあ、またね〜」

あたいは、皆に別れを告げる。

「おう、ちゃんと送ってけよ」

他のやつらは二次会に行くという。
しかし、村紗ちゃんは家族が心配するので、ここで切り上げることになった。
夜も遅いので、あたいが送っていく必要があった。一応、教官だしね。

「皆さん、ありがとうございました。凄く、楽しかったです」

村紗ちゃんは、ぺこり、とお辞儀し丁寧にお礼を言う。

「おう! また飲もうぜ!」
「今度は俺と行こうな!」
「ふざけんな、許さんぞ!」

テンションが高いままの阿呆どもだった。
基本的にうるさいが、酒が入ると三割増しくらい騒がしくなる。

「よし、行こうか」
「はい」

切りのいいところで、あたいたちは歩きだした。男どもは反対の方角に行く。
久しぶりに美味い酒を飲めて、満足だった。

「皆さん、いい人ばかりですね」

ふと、村紗ちゃんがそう言った。

「そうかね。バカでうるさくて口の悪い連中だけどね」
「そう言い合える友達って、なかなか出来ないですよ。うらやましいです」
「うーん、でも、村紗ちゃんが罵詈雑言言ってる姿は想像できないねぇ」
「あ、いえ、そういうのではなく……なんて言ったらいいんでしょうか」

ちょっと困っている村紗ちゃん。伝えたいことは、何となく分かった。

「まあ、適当に付き合ってくれればいいよ。長くいると阿呆が移るからね」
「あはは、頑張ります」

そんなことを言いあいながら、あたいたちは此岸に続く大橋を目指した。



村紗ちゃんの家は、人間の里の近くにあるという。
里は幻想郷にいくつかあるが、その中で最も人間が住んでいる場所だ。
命蓮寺、というお寺を開き、里と助け合って暮らしているらしい。
出来てからまだ数ヶ月なのに、人間と馴染んでうまく生活しているようだった。

あたいたちは駄弁りながら、お寺を目指した。
村紗ちゃんの家族のことを詳しく聞いた。話を聞いていると、なんだか物凄い集団だった。村紗ちゃんの頭が良いのも頷けた。

そんな感じで三十分ほど飛ぶと、前方に里の光が見えてきた。
闇に沈み、儚げなオレンジの明かりがちらほらと浮かんでいる。蛍の明かりのようだった。

「あ、あそこです」

村紗ちゃんが指さした方角に、それなりの大きさのある建物が見えた。

「へえ、あれが村紗ちゃんの家かい」
「はい、そうです」
「あれから、でっかい船が出来るなんて信じられないねぇ。凄いことだ」
「あ、二週間後に出航しますから、ぜひ来てください。お乗せしますよ」
「そりゃいい。空飛ぶ遊覧船とは、さぞ気持ちいいだろうねぇ」

あたいたちは話しながら、お寺の門の前に降り立った。

立派な門をくぐり、玄関に向かう。

「ただいま〜」

村紗ちゃんが玄関の戸を開け、帰宅を告げる。
すると、右の方から誰かが現れた。村紗ちゃんよりやや長い、肩にかかる髪をした美人だった。風呂上りのようで、タオルを手にしている。

「あら、お帰りなさい。遅かったわね」
「うん、お酒飲んできた」
「そう、良かったわね」

そうやり取りする村紗ちゃんと女の人。村紗ちゃんの姉のような印象を持った。

「あら、そちらは?」

女の人は、あたいに気付いた。

「うん、小野塚小町さん。私の先生」
「あら、あなたが。初めまして、雲居一輪と言います。ムラサがお世話になってます」

丁寧に腰を折る一輪さん。この人が雲居一輪さんか。村紗ちゃんの話で出てくる割合が多かった。一番仲がいいのだろう。

「どーも、小野塚です。よろしくー」

軽く挨拶するあたい。

「ムラサを送って下さったのかしら? わざわざ、ありがとうございます」
「いやいや、これも仕事のうちなんで。可愛い後輩ですからね」

あたいがそう言うと、一輪さんは微笑んだ。村紗ちゃんをもっと丁寧に真面目にした感じだろうか。そんな人だと思った。

「じゃあ、これで失礼するっす。お休みなさい」

あたいは、しゅたっ、と右手をあげて、帰る意思を伝える。

「はい、お気をつけてお帰り下さい」
「小町さん、お休みなさい」
「ああ、二日酔いにならないようにね。船頭が酔ったら笑いものだからね」

あたいの冗談に、村紗ちゃんは笑った。

「そんじゃ、これで。さいなら〜」

あたいは、ゆっくりと戸を閉めた。

「ふむ」

そして、軽く息をつく。

「よし、帰ろ!」

今日は長い一日だった。でも、楽しさと充実感を存分に味わえた。
明日も、また村紗ちゃんと過ごす。仕事だが、全く苦痛でない。
どんな一日になるだろう。それがとても待ち遠しかった。

あたいは、門に向かって歩く。
夜は、どんどん更けていくばかりだった。







「う〜ん……」

緩慢に寝がえりを打つ。
意識は、睡眠と覚醒の間をゆらゆらと揺れていた。

腹にしかかけていなかった布団は、横に放り出されている。
白い寝巻は乱れ、みずみずしい足が見え隠れしていた。

「ほらー! 起きなさーい!」

スパーン! と障子が開き、一輪の威勢のいい声が部屋に響く。

「う〜ん……」
「ほら、さっさと起きなさい! 遅刻するわよ!」

慣れた足取りで一輪は部屋に入る。そして、ムラサの体をまたいで、両腕を引っ張った。
強制的に起き上がらされる。寝巻がずり下がって、右の肩が見えていた。

「う〜ん……もうちょっと……」
「ダメよ! もう朝ごはんを食べる時間しかないわよ! 雲山、立たせて!」

一輪がそう言うと、脇の下に何かが入る感触がした。
そして、ふわりという浮遊感。それを感じると、布団の上に立っている自分がいた。

「はい、着替え! 着たら顔を洗って大広間に来なさい! 早くね!」

それだけ言うと、一輪は駆け足で部屋から出ていった。

ムラサは、ぼんやりとした目で、畳の上を見た。
自分の死神装束が、きちんと畳まれて置いてあった。



「う〜ん……」

顔を洗い、多少目が覚めたが、まだ完全ではなかった。
酒のせいだろうか。確かに、久しぶりにたくさん飲んだが。
でも、二日酔い特有の気持ちの悪さはない。単に、寝るのが遅くて睡眠時間が足りていないのだろう。

そんなことをつらつら考えながら、ムラサは大広間の障子を右に開いた。

「おはよう、ムラサ」

すると、優しい声がかけられる。
そちらを向くと、白蓮が食後のお茶を楽しんでいた。

「あ〜、おはようございます〜」
「眠そうですね。しっかり起きないと、仕事に差し支えありますよ」
「はぁ、そうですけど〜」

少したどたどしい足取りで、ムラサは自分の座布団に向かう。そして、すとん、と腰を下ろした。
すでに、煮物と漬け物が用意されている。肉を使っていないから、一輪が作ったのだろう。

「はいはい、さっさと食べなさい。三日目で遅刻したら、小町さんが呆れるわよ」

台所に通じる入り口から、一輪が盆を持ってやってきた。湯気の立つご飯と味噌汁が載せられている。

「ありがと〜いただきま〜す」

間延びした口調で礼と挨拶をする。
最初に味噌汁から手をつけた。一輪の味噌汁の味だった。

一人で食べるのは久しぶりだった。いつもは全員で食事は取るから。
ほんの少しだけ寂しさを感じながら、ムラサはもぐもぐと口を動かした。

「はい、お茶ですよ」

白米を食べていると、視界の横から湯飲みが差しだされた。

「あ、ありがとうございます〜」

家長である白蓮が、お茶をわざわざ入れてくれた。嬉しいと同時に申し訳ない気持ちになる。

「一口飲んでみなさい。目が覚めますよ」
「はあ、そうですか〜」

言われるまま、ムラサは湯飲みを傾けた。
舌の上でお茶を転がし、程よい熱さになったところで飲みこむ。

すると、

「はっ!?」

まるで、冷水を全身にぶっかけられたような感覚を覚えた。

「どうですか?」

白蓮は、いつもの笑顔を浮かべていた。

「えっ、なんですか? これ?」
「目の覚めるおまじないをかけてみました。効いたでしょう?」

効いたどころではない。脳が二つ目の心臓になって、全身の血が巡るのが感じられるほどだった。

「な、なんか、物が良く見えすぎて怖いです」
「あら、ちょっと効きすぎましたかね。私がいつもやっている感覚でしたから」

白蓮がどんな時でも眠そうな態度を出さないのは、この術があったからなのか。
ちょっと、納得してしまった。

「はっ、時間!」

そこで、ようやくムラサは時計を見た。
八時半前だった。

「ま、まずいっ!」

命蓮寺から三途まで約三十分だ。九時に集合だから、ちんたらしていたら遅刻する。
ムラサは、食べる速度をあげた。それを白蓮が微笑ましく見つめていた。







「う〜ん……つまらん」

ページを閉じ、袋の中に放った。

「は〜、最近、当たらないねぇ……」

昼寝岩の上に寝転がる。そして、満足を提供してくれなかった本の代金に想いを馳せた。

意外に思われるかもしれないが、読書はあたいの趣味だ。
乱読家なので、ジャンルを問わずに読んでいる。お金がかかる本に無価値なものはない、というのがあたいの持論だ。たまにつまらん本はあるけど。

船頭死神をしていると、生の物語を聞けるから面白い。霊は、小説家なのだ。自分の波乱に満ちた人生を、あたいに提供してくれるありがたい存在だ。
しかも、あたいはお金を払うのではなく、貰って話を聞く。こんなにうまい仕事は他にないのではないだろうか。

まあ、船頭死神は、あたいの趣味と実益を兼ね備えた天職である。よほどのことがない限り、辞めることはないだろう。
そんな船頭の醍醐味を、これから来るであろう後輩に説く。受け入れてくれるかは分からないが、それを伝えるのも教官のあたいの役目だろうと思った。

「そういや、今日は遅いね……」

そろそろ九時になるだろうか。時計を持ち歩かないので、時刻が分からん。
いつもなら、けっこう早めに来るので、程よい時間まで無駄話をしている。まさか、三日目にして遅刻だろうか。

「こまちさーん!」

すると、寝転がっているあたいの左上から声が聞こえた。どうやら、来たようだね。

あたいは起き上がり、声のした方に顔を向けた。
空を覆っていたパラソルの陰から、初々しい死神の姿が現れた。

「お、来たね。今日はちょっと遅かったね」
「すいません! 少し寝坊しました!」

村紗ちゃんの慌てている顔は初めて見た。普段が落ち着いているから、こういう姿を見ると微笑ましい。

「まあ、遅刻じゃないからね。気にしないことだよ」
「はあ、ありがとうございます」

普段のあたいを棚に上げて、偉そうにしてみる。教官の時は真面目モードなので、勘弁してほしい。

「よーし、じゃあ、今日のメニューを始めようかね。それとも、ちょっと休むかい? 急いで来たんだろ?」
「あ、いえ、大丈夫です。小町さんにお任せします」
「そうかい。じゃあ、午前中は新しい場所を案内しよう」
「新しい場所、ですか?」
「うん。村紗ちゃんはメニューを前倒しで進めてるからね。やっとくことはさっさとやって、のんびりしようじゃないか」

そう言って、あたいはふわりと宙に浮かんだ。

「こっちだよ、ついといで」
「はい、お願いします」



三途の河には、メインになる場所が二つある。

言うまでもなく、三途の河と中有の道である。

中有盆地に霊は集められ、中有の道を通って、三途の目指す。これが、死んだ者が辿るセオリーだ。

だが、どんなものにも、イレギュラーがあるものだ。なので、知識として頭に入れておかなければならない。

まず、六十年目周期で起こる霊の大量発生である。
あたいは、仕事を始めて七年目で、これに遭遇した。

六十年という周期は、『生まれ変わり』の周期であり、外の霊が異常に増えるのだ。
そのため、中有盆地に霊が収まり切らなくなって、幻想郷に溢れ、花を始めとする植物に宿ってしまう。彼岸側としては、ちょっと困った事態なのだ。

なので、船頭死神は、六十年ごとに大量の仕事をこなすことになる。いままでマイペースに適当に仕事をしていると、急にやらなければならない仕事が増えるので、かなりきついのだ。

「なるほどー」

村紗ちゃんは、あたいの話のメモを取りながら頷いた。

「なんで、六十年なんですか? 原因があるんでしょうか?」
「いやー、実はあたいも詳しく知らないんだよね。四季様に聞けば教えてくれるよ」

前に説明を受けたが、難しかったので理解がめんどくさくなった。
とりあえず、六十年ごとに大量の仕事が発生する、ということだけ覚えていれば問題ないのだ。

「じゃあ、これから行くところは、それとは関係のないところなんですか?」
「うん、そう。もっと、特殊なのさ」



中有の道を横切り、あたいたちは、ぽっかりとした広場に着いた。
ふわりと、砂利の上に着地する。

「よし、着いたよ。ここが『賽の河原』さ」

三途の河から、そう離れていない所だが、空間が切り取られたかのような雰囲気。
ここに来ると、同じ三途に属しているのに違う場所に入り込んだような気分を覚える。

「なんだか、お話通りに寂しいところですね……」

村紗ちゃんは、そんな感想を述べた。

賽の河原。三途のイレギュラーの二つ目である。

彼岸が扱いに困る者の筆頭は、『子供の霊』である。
普通、人間は成長し、色々な経験を経て、他者と交流し、しっかりとした縁を紡いでから死ぬ。
だが、子供のうちに死んでしまった者は、それが出来ていない者が多い。

親の愛情を一身に受け、親の親戚や友達から可愛がられ、それでも不幸で死んでしまった者はまだいい。
一番困るのは、親にも愛されず、誰の愛も受けずに死んでしまった子供だ。

そういう霊は、非常に不安定で、三途の河を渡る資格が揺らいでいる。三途を渡るための金が決定していないのだ。
そのような子供の霊を渡そうとすると、三途の距離が定まらず、死神が危険にさらされる可能性がある。そのため、安定するまで待つ必要があるのだ。

それが、賽の河原。愛されなかった子供の収容場所である。
ここで、子供の霊は石積みを行う。石を積み、生前経験できなかった労苦を味わう。
下手すると、何百年もここで石積みをしなければならないことがある。そのくらい、生きて経験して得たものは重いのだ。

「おや、子供がいないねぇ。いつもなら、ちらほらいるんだけどね」
「けっこう、いるものなんですか?」
「まあね。最近は、自分の子供を殺す輩が多くてね。昔より増えているんだよ」
「はあ……」

村紗ちゃんは、ちょっと暗い顔をした。
まあ、賽の河原は、三途の中で一番シリアスな場所だ。普通、霊はそれほど労なく三途に辿り着き、新しい自分を目指す。ここは、その方法を苦しみながら模索する所なのだから。

「まあ、何人か話しかけてみようか。雰囲気だけ分かればいいよ」

あたいは軽い口調で言って、歩きだした。
ここは、村紗ちゃんのような優しくて真面目な子には辛いだろう。さっさと切り上げるべきだった。

「おっ、いたいた」

歩き始めて程なく、あたいは一人の子供を発見した。
女の子だ。あたいは、たまに賽の河原に来て子供の話を聞いているので、顔なじみが結構いる。その一人だ。

「やあ、ゆいちゃん。元気にしてるかい?」

あたいが近づいて声をかけると、おかっぱの女の子、ゆいちゃんは石を積むのをやめ、緩慢にこっちを向いた。

「今日は、新しいお友達を連れて来たよ。ちょっと、お話ししようかね」

にこやかに話しかけても、ゆいちゃんは無表情のままだ。生気のない目でこっちを見る。

「小町さん……」

村紗ちゃんが痛ましげな声を出す。

「ほら、新しい友達の村紗ちゃんだ。可愛い娘だろ?」

あたいが村紗ちゃんを紹介すると、ゆいちゃんは、ぼんやりと村紗ちゃんの顔を見た。

「……初めまして。村紗です。あなたは、ゆい、というのですか?」

村紗ちゃんが聞くと、ゆいちゃんは微かに頷いた。

「小町さんのところで、新しい死神として勉強しています。よろしくお願いしますね」

村紗ちゃんは、ゆいちゃんに右手を差し出した。
ゆいちゃんは、それをじっと見つめた後、横を向き、自分の前にある石を、また積み始めた。

「……」
「やっぱり、ダメかね。新しい友達が増えれば、喜んでくれるかと思ったんだけどねぇ」

そう簡単にはいかないようだ。

「……小町さん。この子は……」

村紗ちゃんは、何とも言えない顔をしていた。そして、何を言ったらいいか、言葉を探しているようだ。

「ああ、この子は賽の河原では有名でね。古株の一人なんだ」

あたいは、その辺の岩に腰をおろして、説明する。

「古株というと……? いつからここに……?」
「大体、千年前かな?」
「せ、千年!?」

驚いた声をあげる村紗ちゃんに、あたいはやれやれと首を振る。

「あたいが死神になった時から、ずっといるからね。実に、十年来の付き合いだよ。もっとも、大体の死神は、ゆいちゃんに話しかけもしないからね」

あたいは、物好きとして結構笑われているのだ。

「い、一体、この子はどうして死んでしまったんですか?」
「ああ、この子は、人買いに買われたらしい」

十年かけて辛抱強くゆいちゃんの話を聞き、それで得た数少ない情報を、あたいは話す。

「親が金に困っていたらしくてね。それで、ゆいちゃんを売ったのさ」
「……」

村紗ちゃんの目が、どんどん暗くなっていたので、話すべきか迷ったが、止めたら村紗ちゃんは嫌がるだろうと思った。

「で、他に買われた子供たちと一緒に船に押し込められてね。他の国に渡る途中だった。だけど、船が沈んじゃったらしいんだ。原因は不明だけどね」
「え……?」

すると、村紗ちゃんが顔をあげて、あたいの方を見た。

「ふ、船、ですか……?」
「ん? うん、奴隷船だね。けっこう、大きな船だったらしいよ」

あたいがそう言うと、村紗ちゃんの目が急に定まらなくなった。
なんだ? あたい、なんか言ったか?

「そ、その船は、一体、どこから、どこへ向かっていたのでしょう……?」
「へ?」

思いがけない、村紗ちゃんの質問だった。

「ええとね、おき、って言ってたかな。ゆいちゃんもよく分からなかったみたいだけどね」
「……」

おき、とか言われても、なんだか分からないけどね。『置き』とか『お気』とか。『起き』だったら、何が『起きるんだ』って話で無理やり下ネタに持っていく。

「……? どうしたの? 村紗ちゃん?」

そんなバカなことを考えていると、村紗ちゃんの様子がおかしいことに気付いた。
じっと一点を凝視していたので、あたいは顔の前で手を振ってみた。

「あ……」
「なんだい? どうかした?」

村紗ちゃんはしっかりしている印象だったので、こんなぼんやりとしているのは意外だった。

「あ、あの……ちょっと、お話が……」
「? なんだい?」
「ええと……ここじゃ、ちょっと……」

村紗ちゃんは、ちら、とゆいちゃんを見た。
なんだ? ゆいちゃんに聞かれたくないのか?

「はあ、じゃあ、あっちに行こうか」
「はい……」

訳が分からなかったが、とりあえず村紗ちゃんの話を聞こう。
そうしないと、話が進まなかった。



「で、なんだい?」

あたいは、話しやすいように、軽い口調で聞いた。
でも、村紗ちゃんは、なかなか話そうとしない。ちょっと俯いて、目も忙しなく動いていた。

あたいは、少しずつ心配し始めた。なんだか、とてつもなく重大なことを言おうとしているような気がしたのだ。

「話せるのなら、話してみな。それで楽になることもあるよ?」

あたいは、出来るだけ優しい口調で言った。
教官として、新人の悩みを聞くのは当たり前のことだった。

村紗ちゃんは、話す気力を振り絞っているようだった。
あたいは、ゆっくりと待った。

数分後。

「あ、あの……」

村紗ちゃんは、かすれるような声を出した。

「うん、なんだい?」
「あの、私、たぶん……」

いくらか逡巡した後、村紗ちゃんは言った。

「私が、あの子の……命を……奪いました……」
「……」

あたいは、その言葉を理解しようとした。

「……へ?」

だが、なんでそうなるのか、話の筋が見えなかった。

「な、なんでだい? 村紗ちゃんとゆいちゃんは、会ったこともないんだろ?」

あまりに飛躍した話だったので、あたいはやや混乱した。

「え? 新手のギャグ?」
「ち、違います……多分、私のせいで、あの子は死んだんです……」

ここで村紗ちゃんが笑ってくれる淡い希望は、一瞬で消し飛んだ。

「あの……私、千年前に隠岐にいたんです」

あたいは、話が理解できるまで、村紗ちゃんの話を聞くだけだった。

「私、水難事故で、隠岐で死んだんです。でも、未練が強くて、念縛霊になってしまった。それから、その海域を通る船を片っ端から沈めていた時期があったんです」

ようやく、あたいは話が見えた。
四季様も言っていた。村紗ちゃんは船幽霊だったと。いままで、人間の命を奪っていたから、今度は命を生かしたいから船頭死神になったと。

「で、でも、ゆいちゃんの船を沈めたっていう証拠はないだろ?」

そうだ。船を片っ端から沈めていたとしても、ゆいちゃんの命を奪ったという確証はない。

「いえ……十中八九、私のせいです……」
「な、なんで、そう言い切れるのさ?」
「小町さん、言いましたよね。あの子は奴隷船に乗っていたって」

あたいは、ハッとした。

「私が、初めて船を沈めたのが、子供がたくさん乗っていた奴隷船だったんです。奴隷船なんて、滅多に存在するものじゃない。だから、よく覚えています……」
「……」

おき、という地域を通っていて、それが奴隷船。
可能性としては、なくはない。いや、むしろ、高い。

「あの子が死んだのが、千年前。私が、隠岐にいたのも千年前です。あの海域を通る船を、私は残らず沈めていました。だから、間違いないです……」

むう、とあたいは唸り、腕を組んだ。

「となると……村紗ちゃんは、どうしたいんだい?」

思いがけないことだったが、あたいとしては、村紗ちゃんの意向を聞くしかなかった。
あたいが、どうこう出来るものではない。完全な部外者だからだ。

苦しそうな顔をする村紗ちゃん。必死に考えているのが分かった。

「……あの……」

そして、一つの考えを言った。

「あの子を……ゆいちゃんを彼岸に送ることは出来ないのですか……?」

それは、今の村紗ちゃんの立場を踏まえた上での、最善の方法だと思った。
村紗ちゃんは、罪を認め、それを償おうとしている。だが、ここで腹を切るような真似をしても、ゆいちゃんは救われない。意味がない。
村紗ちゃんがやってしまったことは、すでに過去のものだ。だが、ここにきて、村紗ちゃんは、奇跡的にゆいちゃんに会うことが出来た。
船頭死神、という職に就いたことで、村紗ちゃんはここで縛られているゆいちゃんを助けることが可能なのだ。その機会をふいにしてはいけない。

「うーむ……」

あたいは、目を閉じて頭をフル回転させた。
今までやってきた船頭死神としての知識と経験を全て思い出す勢いで。
村紗ちゃんの力になりたい。ゆいちゃんも彼岸に送りたい。
その一心で、あたいは考えを巡らせた。

「……難しいかもしれない」

あたいは、正直に考えたことを言葉にした。

「賽の河原にいる霊は、自分が死んだことを認め、死後の世界に旅立つ覚悟を決めなきゃならない。それは、あたいらが関わることではない。自力で何とかしなきゃならないんだよ」
「……」

村紗ちゃんは、俯いた。頭がいいから、どういうことなのか分かるだろう。
船頭死神は、霊が三途を渡りにきた時にしか、基本、関われない。例外は、中有盆地に霊を捕まえに行くときだ。
三途の河は、霊を試す関門の一つだ。それは、厳粛に行われなければならない。そうしないと、裁判を担当する閻魔様が困ってしまう。
あたいらは、決められたルール通りに霊を彼岸に送ること。それが、仕事なのだ。

「でも……」

村紗ちゃんは、顔をあげて言った。

「でも、賽の河原の霊と交流してはいけない、というルールはないですよね?」
「ん?」

思いがけないことを言ったので、あたいはキョトンとする。

「ああ、それは自由だ。でも、そんな物好きは、あたいくらいしか知らないねぇ」

あたいがそう言うと、村紗ちゃんは、また考え始めた。

「……なら、一つお願いがあります」

そして、あたいの目を見て、村紗ちゃんは言った。

「なんだい?」
「……今日一日、あの子と一緒に遊ばせて下さい」

驚くべきことを言った。

「な、なんでだい?」

あたいは、村紗ちゃんの意図が分からなかった。

「小町さん、昨日言っていました。霊は、三途の河から中有盆地までなら行き来できる。それは、賽の河原の霊も違わないですよね?」
「ん? あ、ああ、そうだね」
「なら、あの子も中有の道に行くことが出来る。出店を楽しむことが出来ます」

つまり、中有の道の屋台に、ゆいちゃんと行きたいということか。

「私は、あの子に認めてもらって、彼岸に行きたいと思わせます。そうすれば、三途を渡る資格が出来るということですよね?」

あたいは、確かめるように頷いた。
賽の河原の霊を、積極的に彼岸に送りたいと考えるなど、あたいでさえも全く思わなかった。
村紗ちゃんは、ゆいちゃんのために何が出来るかを考えられたから、そういう発想に至ったのだろう。
確かに、村紗ちゃんの言っていることは、理屈では可能だ。ゆいちゃんが彼岸に行きたいと強く思えば、おそらく懐に金が出現する。それは、三途を渡るための通行料になる。

「お願いです、小町さん。今日一日でいいです。許してください。お願いします」

村紗ちゃんは、深く腰を折った。
その姿を見て、あたいは許可しようかと思ったが、教官としての立場を思い出し、冷静に考える。

一週間の船頭研修は、このまま順調に行けば、おそらく時間が余る。村紗ちゃんなら余裕で終わる。一日くらい、どうってことないかもしれない。
だが、研修中に三途の霊にかかずらうのは、いささか問題がある気がする。四季様が知ったら、あたいが説教を受けるかもしれない。

常識的に考えて、ゆいちゃんのことをやるのは研修が終わってからだ。村紗ちゃんが一人前として船頭をし始めたら、やればいい。
でも、あたいがそう言ったら、村紗ちゃんはゆいちゃんのことが気がかりになって、研修に身が入らなくなるような気がした。あたいの、いままでの村紗ちゃんと接しての直感だった。

「む……」

すると、あたいの頭に妙案が浮かんだ。

「よし、じゃあ、こうしよう」

あたいの声を聞くと、村紗ちゃんは顔を上げた。

「本当は、研修の最終日にやるんだけどね。今日、それを消化してしまおう」
「? 何ですか?」
「簡単な話さ。研修で習ったことを復習、もしくは課題を見つけてそれをやる、っていうのがある。『自由課題』っていう名目でね」

自由課題には、何をしてもいい。村紗ちゃんがやりたいと思う課題を見つけ、それに取り組むのだ。

「自由課題のテーマは、『賽の河原の霊との交流』。こんなんでどうだろうかね。テーマは何でもいいから、文句は言われない。言われたら、あたいが言い返してやるよ」
「小町さん……」

村紗ちゃんは、ちょっと瞳をうるませていた。

「よし、じゃあ、そうしよう。時間は、今日一日だよ。それまでに、一応の成果を挙げないとね。あたいが怒られるからさ」
「は、はい、ありがとうございます」

村紗ちゃんは、もう一度深くお辞儀した。
難しい課題だとは思うが、村紗ちゃんなら何かしてくれるのではないか、と漠然とした期待が胸をよぎった。







中有の道には、祭りさながらの出店が軒を連ねている。

地獄で罪をほろぼし、人間の輪廻の輪に戻る寸前になった霊が、ここで卒業試験をするのだ。
出店を真面目にやり、その金をチョロマカしたりしなければ、晴れて地獄から解放される。

まあ、この試験に落ちる霊は、そういない。地獄の苦しみを味わうと、逆戻りするのに恐怖心を持つからだ。地獄は曲がった性根を叩き直してくれる収監所なのだ。

「ほら、見えてきましたよ」

村紗ちゃんが左指を指す。
右手には、無感情な目をしたゆいちゃんの手が握られていた。

「まず、何をしましょうか? ゆいちゃんの好きなことをしましょうね」

村紗ちゃんが笑顔でゆいちゃんに話しかける。
ゆいちゃんは、ぼんやりと村紗ちゃんを見つめるだけだ。

それにもめげず、村紗ちゃんはたくさんの会話を振る。返事をしてくれるの待っている。
あたいは、それは並大抵のことではないと知っている。あたいが十年かけてゆいちゃんから返事をもらったのは、数回しかなかったのだから。

十分ほど空を飛び、あたいたちは、中有の道の入り口に着いた。

「うわ〜、すごいですね。楽しそうですよ」

村紗ちゃんは顔を輝かせるが、ゆいちゃんは関心なさげに往来を見ている。
ここに来るのは、ゆいちゃんは初めてだろう。だから、何か反応があるかもしれないと思ったが、淡い希望に過ぎなかった。

村紗ちゃんは、ゆいちゃんの手を引いて歩きだした。

「あ、見てください! 美味しそうなのが売ってますよ」

村紗ちゃんが最初に目を付けたのは、フランクフルト屋だった。肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。

「食べてみませんか? お金は、もちろん私が払いますよ?」

ゆいちゃんは答えることなく、ぼうっと村紗ちゃんの顔を見た。
村紗ちゃんは、それが頷いたと理解したのか、ゆいちゃんの手を引いてフランクフルト屋に向かった。

「はい、らっしゃい!」
「二本ください。出来たてのやつを」
「はいよ!」

テキ屋とやりとりし、村紗ちゃんは昨日、今日と稼いだばかりの金を渡す。そして、二本のフランクフルトを受け取ると、一つをゆいちゃんに渡した。

「はい、どうぞ。やけどしないように注意してくださいね」

そう言うと、村紗ちゃんは早速フランクフルトを頬張った。

「うーん! お肉はやっぱり美味しいですね。ほら、ゆいちゃんも食べてみてください。美味しいですよ」

村紗ちゃんとフランクフルトを交互に見ていたゆいちゃんは、小さな口を開けて一口かじった。

すると、輝きを失っていた瞳がわずかに見開かれた。
そして、少しずつゆいちゃんはフランクフルトを食べ始めた。

「慌てなくともいいですよ。逃げたりしませんからね」

村紗ちゃんは、嬉しそうな笑みを押さえようとしなかった。



それから、二人はいろいろな出店を楽しんだ。
焼きそば、あんず飴、射的、らくがきせんべい、輪投げ、じゃがバタ、くじ、焼き鳥……。

ゆいちゃんは表情にこそあまり出さないが、とてもたくさんの物を食べた。おそらく、こんなにおいしい物を食べた記憶がないからだろう。

あたいは、二人の姿を後ろから見ていた。
自由課題は、村紗ちゃんの卒業試験のようなものなので、あたいが口を出さずにいる必要がある。村紗ちゃんが助けを求めるまで、見守るしかないのだ。

でも、今の感じだと、そういう機会はないように思う。
二人は姉妹のように仲良くしている。村紗ちゃんだけが喋っているので、はた目にはそうとは思えないが、あたいには良い雰囲気が感じられるのだ。

このままなら、ゆいちゃんが生きる楽しみを覚え、生まれ変わりたいと思うかもしれない。
もちろん、それはか細い希望だが、無いよりはましのはずなのだった。



一時間ほど、二人は屋台を楽しんだ。

ぼろいベンチの上に座り、お好み焼きを食べている。箸を二本もらって、一つのお好み焼きを突ついていた。

「ほら、ソースがついてますよ。ゆっくり食べてくださいね」

村紗ちゃんは、懐からハンカチを取り出し、ゆいちゃんの頬を拭いた。
ゆいちゃんは何も言わなかったが、多分、感謝の気持ちはあったのではないだろうか。

あたいは焼きトウモロコシを食べながら、木に寄りかかって、二人の背中を見ていた。
ちょっとだけ、うらやましい感情を抱きながら。

「あ〜、やっと見つけました」

すると、あたいの左上から聞いたことのある声がした。
ひらりと地面に着地したのは、あたいらの密着取材をしているやつだった。

「よう」

左手を挙げて、軽く挨拶するあたい。

「ここにいるなら、言っといてくださいよ。探し回ったじゃないですか」
「今日は、緊急でスケジュールを変えたからね。連絡する暇もなかったさ」

不満の顔をするのもそこそこに、文は早速ノートを取りだした。

「何ですか、緊急って?」
「最終日にやる自由課題を今やってるのさ。村紗ちゃんの希望でね」
「はあ、よく話が見えないんですけど。どういうことですか? あの女の子と関係が?」

ベンチに座っている二人を見て、文は疑問を投げてくる。
あたいは、かいつまんで事情を話した。

「へえ〜、それは興味深いですね」

ペンを走らせながら、文は神妙な顔をした。

「何だい? いつもなら、ネタが手に入って喜ぶところだろうに」
「まあ、そうですが。でも、おもしろおかしく書いたら、村紗さんが可哀想でしょう。もう少し、過程を見守る必要がありますね」

あたいは、ほう、と感心した。
前までは、人の不幸をバシバシ記事にしていたくせに、驚きの変化だった。
あたいらが経験したあの冬が、文に影響を与えたのだろうか。事件の当事者になる辛い気持ちを、ようやく理解したのかもしれない。

「まあ、一枚写真を撮ってもバチは当たらないでしょう。いいですか?」
「いいんじゃないかい、そのくらいなら」

あたいが許可を出すと、文は早速二人の正面に回り込んだ。

「どうも〜、射命丸です」
「あ、文さん。こんにちは」

村紗ちゃんは、文に気づいていなかったようだ。

「事情は小町さんから伺いました。なかなか、難儀なことをしているようですね」
「いえ、そんなことはないですが」
「お二人の写真を撮らせてください。いいですか?」
「はあ、構いませんが。ゆいちゃんもいいですか?」

村紗ちゃんが呼びかけるけど、ゆいちゃんはお好み焼きを食べるのに夢中なようだ。
村紗ちゃんは苦笑する。

「いいみたいです」
「ふむ、では、こっちを向いてください」

文がカメラを構え、二人にレンズを向ける。フラッシュが焚かれて写真が撮られた。

「しかし、千年も石積みをしていたとは。なかなか根性がありますね」
「う〜ん、そんな感じじゃないんですが。未練を持ってしまったんでしょうね」
「未練ですか。それを断ち切ることができれば、彼岸に送れるんですね?」
「そういうことらしいです。なので、こうして生きる楽しさを思い出してもらおうとしているのですが」

文は、ふーむ、と息をつきながら、メモを取った。
そして、言った。

「それなら、未練を直接断ち切った方がいいんじゃないですか?」
「え?」

村紗ちゃんが、目を丸くした。

「未練を断ち切る、ですか?」
「はあ。出店を楽しんで生きることに喜びを感じさせるのも悪くないと思います。でも、それって、間接的ですよね。ゆいさんが楽しいという感情を未練より上回せなければならない。それって、時間がかかりません?」
「……」

確かに、文の言うとおりかもしれない。

「では、直接的にやるとは?」

村紗ちゃんが文に聞く。

「簡単ですよ。ゆいさんが心残りに思っていることを叶えてやればいいんです」

あたいは、あっ、と心の中で思った。その発想はなかった。
なるほど、賽の河原の霊は、生きたいという感情を自発的に思わせるのを促すしかないと思っていた。

でも、ゆいちゃんが感じている迷いや未練、要するに負の感情を取り除いてやれば、自然に希望が生まれる。
死神の仕事規則に縛られていない、文だからこそできる発想だった。

「悩んでいることが解決されれば、自然に前を向けますよ。人間も妖怪も同じことだと思いますが」
「そうですね……」

村紗ちゃんは、文のアドバイスを受けて熟考に入った。

数分後。

「……ねえ、ゆいちゃん」

ゆいちゃんに声をかけた。箸を止め、ゆいちゃんは緩慢に文の顔を見た。

「ゆいちゃんは、今、なにが一番したいですか?」

そう問いかけた。優しく、包み込むように。
それは、ゆいちゃんと一番長くいたあたいさえしなかった問いかけだった。

ゆいちゃんは、相変わらず、ぼんやりとした目をしている。
村紗ちゃんは、それをしっかりと見つめる。

やがて、

『お母さん』

と、ぽつりと言った。

「お母さん、ですか?」

こくり、とゆいちゃんは頷く。

「お母さんに、会いたいのですか?」

もう一度、ゆいちゃんは頷く。

「そうですか……優しいお母さんだったんですね?」
『うん』

ゆいちゃんは、まだ反応が鈍いが、きちんと村紗ちゃんの話を聞いている。
それは、いままでのゆいちゃんを見てきたあたいには驚くべきものだった。
母親に対する強い渇望。それが、ゆいちゃん賽の河原に縛られている理由なのか。
あたいは、いままで、ゆいちゃんのそばにいるだけで、何もしていなかったことを知った。そして、深く後悔した。

「……分かりました」

村紗ちゃんは、手をゆいちゃんの頭に乗せて、ゆっくり撫でた。

「じゃあ、私がお母さんを連れてきてあげます」
『え……』

ゆいちゃんの顔が、明らかに驚きの色に染まる。
当然ながら、あたいが初めて見る表情だ。

『ほんとう……?』
「もちろんです。ゆいちゃんは、お母さんに会えると、嬉しいですよね?」

ゆいちゃんは、頷く。

「ゆいちゃんが嬉しいと私も嬉しいです。だから、お母さんを呼んできてあげますよ」
『どうして……?』

ゆいちゃんは、首を傾げた。なぜ、村紗ちゃんがそうしてくれるのか、分からないのだろう。
村紗ちゃんは、少し詰まりながら、理由を話した。

「それは……私はゆいちゃんのお友達だからです。お友達は、お互いに助けるものです。だから、変なことではありませんよ」

そう言って、村紗ちゃんは右手をゆいちゃんの顔の前に差し出した。
綺麗な小指が立てられている。

「嘘をついたら、針千本を飲んであげます。約束しましょう」

ゆいちゃんは、その小指をじっと見つめた。
いつまでもそのままだったので、村紗ちゃんはゆいちゃんの右手をとり、小指を自分の小指に絡ませた。

「信じてください。ゆいちゃんの願いは、きっと叶えてみせます」

村紗ちゃんは、優しく微笑みかけた。
よく晴れた、青空の下。
村紗ちゃんの誓いが、今、ここに立てられたのだった。







お天道様はとっくに沈み、空が群青色に染まっていた。
夏至も過ぎた七月。だんだんと日が短くなるが、まだまだ夜になるには早い。

あたいたちは、再び賽の河原に戻ってきた。
今日は、村紗ちゃんとゆいちゃんを遠くから見ているだけの仕事だったが、妙な充実感を感じていた。

「それじゃ、ゆいちゃん。また来ますね」

村紗ちゃんが、そう言って頭を撫でる。
ゆいちゃんは、かすかに頷いた。

本当に僅かだったが、ゆいちゃんは村紗ちゃんとコミュニケーションしている。
それは、信頼の感情が芽生えたからなのか。あたいはゆいちゃんではないので、想像するしかなかった。

「また、お祭りを楽しみましょうね。ここで石を積んでいるよりは楽しいですよ」
『……うん』

ゆいちゃんが首を縦に振ると、村紗ちゃんは満足そうに微笑んだ。

「それじゃ、行きましょうか」

ここで別れる決心をつけ、村紗ちゃんはあたいと文の方を振り返った。

『あ……』

すると、ゆいちゃんが小さな声を上げた。

「ん? どうしましたか?」

村紗ちゃんは、それをちゃんと聞いていた。
振り返り、改めてゆいちゃんの顔を見る。

『……』

ゆいちゃんは、迷うような仕草をした後、ゆっくりと口を開いた。

『……おかあさんに、会える……?』

それは、千年もの間、ゆいちゃんの心の奥底に秘められていた願望、希望の光だった。

「もちろんです。必ず、連れてきますよ」

それを知っているからこそ、村紗ちゃんははっきりと言った。
ゆいちゃんの瞳が、僅かに揺れたような気がした。

「それじゃ、行きますね。疲れたでしょうから、ゆっくり休むんですよ」

そう言って、村紗ちゃんは再び背を向けた。
ふわり、と浮かび、賽の河原を後にする。

群青色の空の中に身を投じる。
一番星が、西の空に輝いていた。



「……小町さん」

賽の河原から離れて数分。
やはり、村紗ちゃんが口を開いた。

「いいよ、何でも聞きな。しがないやつだけど、全力でサポートするよ」

村紗ちゃんの心意気に応えたい気持ちは、もうパンパンに膨れていたあたいだった。

「……はい。では、単刀直入に」

村紗ちゃんは、あたいの予想通りの言葉を口にした。

「ゆいちゃんのお母さんを、賽の河原に連れてくることはできますか?」

あたいは、今日の二人をぼーっと眺めていたわけではない。
村紗ちゃんとゆいちゃんが、どうすれば心安らかになれるのか、ずっと考えていたのだ。

「うん、遠回しじゃ仕方ない。はっきり言おう」

その上での結論を聞かせた。

「不可能ではないよ」

それは、嘘偽りない言葉だった。

「ただし」

さらに、あたいは言葉を続ける。

「途方もない時間がかかることを覚悟しなければならないよ」
「……」

覚悟をしていたのか、村紗ちゃんは感情を表に出さなかった。

「具体的に行きましょうよ。何をしたらいいんですか?」

隣を飛んでいた文が、メモを取りながら聞いた。

「うん、まず、死者の個人情報の取り扱いについて話すよ。それを理解しないと、話が進まない」

あたいには、しっかりと説明する義務があった。

「閻魔様が裁いた霊は、一人残らず、プロフィールが書類に収められる。それは、閻魔王様が仕事をしている大法廷にある資料室にまとめられる。それを管理するのが、事務官、っていう連中なんだけどね」

頭の中で話を組み立てながら、あたいは続ける。

「三途を渡りに来る霊は、一日だけでも相当な数だ。それが、何百年と続くと、ものすごい数の書類が発生する。でも、閻魔様に裁かれた者の逝く末が全部記録されている。例外なくね」
「つまり」

村紗ちゃんがあたいの話の続きを言ってくれた。

「その資料を片っ端から、しらみ潰しで当たっていけば、いずれ、ゆいちゃんのお母さんが見つかると」

あたいは、その通り、と返した。

「でも、ゆいさんの話では、調べるための情報が圧倒的に足りませんね。おき、という地域で亡くなった人間を全部調べなければ」
「そうだね。事務官は、死んだ地域が分かれば、調べるべき資料を絞ってくれる。だから、情報が多いのがベストだ」

村紗ちゃんは、難しい顔をして俯いた。

「……もう少し、ゆいちゃんと話して、手がかりをつかむ必要がありそうですね」
「そうだねぇ、ゆいちゃんは少しだけど村紗ちゃんを気に入り始めているみたいだからね。話してくれるかもしれない」

そして、それは村紗ちゃんにしかできないだろう。

「……分かりました。小町さん、明日、ゆいちゃんをお話できる時間はありますか?」

あたいは、ふむ、と息をついて考えた。

「午前中なら大丈夫だろう。村紗ちゃんは、一日のメニューを半日で終わらせられると見込んでるからね。だから、平気だよ」

あたいの言葉に、村紗ちゃんは、ありがとうございます、と礼を言った。

「十分な情報が得られたら、四季様に事情を話してみよう。それで、大法廷の資料室を調査する時間を融通してもらおう。仕事をさぼったら、首になるからね」

あたいの軽い口調に、村紗ちゃんはちょっとだけ笑った。

「う〜む、これは面白い記事が書けそうですね。一人の女の子を幸せに導くまでの過程が書けそうです」
「よかったじゃないか。さっきまで乗り気じゃなかったからねぇ」
「思わぬ方向転換、ですね。やはり、三途の船頭の仕事は、取材のしがいがありますね。ネタ提供、感謝しますよ」

ほくほくしている文を、あたいは呆れ混じりに見つめた。

村紗ちゃんの船頭研修三日目は、舟に一度も乗ることがないままに過ぎていった。







命蓮寺の門をくぐり、村紗は自分の家に戻ってきた。

「おっ、来た来た」

すると、玄関の上から聞き慣れた声が聞こえた。

「ん、ただいま」

村紗は、屋根の上にいるぬえに帰宅を報告した。
ひらり、とぬえは村紗の横に降り立つ。

「待っててくれたの?」

村紗は、多少の冗談を含んで言った。

「は? 別に〜。何となくいただけだよ」

ぬえは、右上に視線を逸らした。
長いこと一緒にいるが、ぬえの思考は読みづらい。気分屋で自己中心的なのは知っているが。

「今日は、イワナだってさ。大きいのが穫れたって」
「へえ、嬉しいなぁ。イワナは美味しいよね」

ヤマメと並んで、川魚の王様である。
海のない幻想郷において、魚は川魚しかないのだが。

「早く手を洗って、大広間に来な。遅れたら、アンタのイワナは私の物ね」

そんなことを言って、ぬえは玄関の戸を開け、家の中にさっさと入っていってしまった。
子供のようなぬえに苦笑しながら、村紗は手洗い場を目指すことにした。



「それでは、いただきましょう」
「いただきまーす」

白蓮の開始の合図に、全員が唱和する。
食卓の上には、イワナの焼き物、ナスの炒め物。キュウリとトマトとレタスのサラダが並んでいた。

「実に夏らしい食事ねぇ。美味しそうだわ」
「そうですね。収穫されたての物を食べるのは、とても幸せですね」

一輪の感想に、白蓮が返す。
二人の前にイワナがないのは、少し寂しい感覚を村紗に覚えさせた。

「うん、美味い。旬の物は、やはり違う」
「ご主人は、肉が食えれば旬だろうがどうでもいいでしょうに」
「そんなことはないぞ。どんなものでも、旬は三割り増しで美味い。肉が好物なのは否定しないが」

星とナズーリンのいつもの掛け合いで、食卓は和やかな雰囲気に包まれた。

「秋はやっぱりサンマだな。でも、ここにいたら、もう二度と味わえないだろう」
「サンマがなくとも、美味しい物はたくさんありますよ。新米が食べられますからね」
「姐さん、栗とか山菜じゃなくて、米をチョイスしますか」
「私は、ご飯と漬け物があれば生きていけますよ」
「えー、そんなのつまらなーい。間違ってもそんなもの出さないでね」
「居候はもうちょっと遠慮しなよ。タダでご飯を食べられるんだからね」

ナズーリンが突っ込むと、ぬえは口を尖らせた。みんなの笑い声があがる。

「村紗、今日の仕事はどうでしたか?」

白蓮が話題を変えた。
会話に参加しなかった村紗に、話題を振った。

「へ? あ、大丈夫です」
「どうしたかな? 疲れたかい?」

星が村紗の様子に、敏感に反応した。

「いえ、そんなことは……」

一応、村紗は否定する。

「話せるのなら、話してみなさい。私たちは、一つ屋根の下に住んでいるのですから」

白蓮が、優しく促す。
村紗は、いくらか逡巡した。
でも、絶対に話せないことでもないし、話さないと皆が心配するかもしれない。
村紗は、今日の出来事を話すことにした。

「あの、実は……」

賽の河原で、ゆいに出会ったこと。
彼女が、村紗が海に沈めた船に乗っていたこと。
もう一度生きたいと思わせるため、中有の道の出店で遊んだこと。
お母さんに会わせれば、未練を断ち切って、彼岸に渡りたいと思わせることができるのではないかと考えたこと。
これから、彼岸の大法廷で調査を開始する予定であること。

村紗は、順序立てて丁寧に説明した。
シリアスな話だったので、皆はちゃかさずに聞いていた。

「それは、とても難しいことですね」

白蓮が、端的な感想を言った。

「閻魔が罪を裁き始めた時期から今日までの死者の数など、予想もつかないわね。砂漠の中から、一粒の砂金を見つけるようなものね」
「いや、そのゆいさんが亡くなった時期は、千年前だ。当時の人間の寿命は、五、六十歳くらい。つまり、そのあたりの時期の資料を調べればいい」
「あ、確かにそうですね。そうすれば、かなり絞り込めるわ」

一輪と星が意見を交わす。

「大法廷にある資料がどの程度の情報を記してあるか分かりませんが、ゆい、という名の子供を持っていた女性を調べればいいでしょう。事務官がいるようなら、手伝ってもらった方がいいですね」
「はい、そのつもりです」

白蓮のアドバイスに、村紗は頷いた。

「でも、それでも膨大な数の資料を調べなければね。条件は、もっと絞り込めるような気がするわ」
「うん、だから、明日もっとゆいちゃんから話を聞くつもり。何か手がかりがあるかもしれないから」

出来るだけ検索情報を絞った方がいい。それでも、すぐに見つけることは出来ないだろう。
しかし、村紗は数年単位の時間がかかろうが、探す覚悟が出来ていた。ゆいを死なせたのは自分なのだから。その罪悪感が、探すことを絶対に拒否させない。

「しかし、ゆいちゃんの母親が、すでに輪廻している場合はどうするんだい?」
「え? あ、そっか。その可能性もあるんだ……」

星の指摘に、村紗は痛いところを突かれたような気分になった。

「彼岸に渡った霊の行く末は、三つあると伺いました。天国、地獄、冥界。冥界にいるのなら、いいでしょう。しかし、生者に不可侵の天国と地獄。そこにいるのなら、簡単には会えないでしょうね」

白蓮の言うとおりだった。
しかも、冥界に送られた場合でも、すでに新しい人間に生まれ変わっている可能性がある。そうすれば、探せる可能性は、限りなくゼロに近い。
千年前の人間だ。そんな昔の人間は、とっくにそうなっている可能性の方が高い。

「うーん……どうしたらいいでしょう……」

村紗が悩む姿に、皆がつられるように難しい顔をする。
暗礁に乗り上げたようだった。

「……別にそんな面倒なことをしなくてもいいんじゃないかい?」
「へ?」

その沈黙を破ったのは、ナズーリンだった。

「そのゆいって子は、母親に会いたがってるんだろう? 別に本人を使う必要はない」
「え? なんで?」

村紗には、ナズーリンの言葉の意味が、全く分からなかった。

「本人を使わないって……偽物を使えばいいってこと?」
「その子は、母親に会いたいっていう未練があるんだろう? だったら、母親が目の前にいるって錯覚させればいい。騙されているって悟られなければいいだけだ」
「……」

確かに、そうなるかもしれない。
ゆいが母親に会えば、彼岸行かせることが出来る。小町もそう言っていた。
母親が彼岸にいると分かれば、きっと、ゆいもそこを目指そうとするはずだ。それで解決するのだ。

「でも……偽物の用意はどうするのよ。いくら子供だからって、親を間違えるかしら。それに、顔は一切分からないのよ?」

一輪が当然のことを言う。

「簡単なことだ」

しかし、ナズーリンは、こともなげに言った。

「これを使えばいいんだよ」

そして、左の親指で、横を指した。

「……ん?」

そこには、魚の骨をとろうと奮闘しているぬえがいた。

「あっ、そうか!」

パチン、と村紗は手を合わせる。ようやくナズーリンの言っていることが分かった。

「ぬえが、その子の母親を演じればいい。それなら、顔を知る必要などない。その子が知っている母親の顔が、そのままぬえの顔になる。それなら、行けるだろう」

封獣ぬえは、姿を見る者のイメージを操ることが出来る。一種の催眠術だ。
村紗が母親を連れてきたといい、それでゆいが母親の姿をイメージし、そこですかさずぬえに会わせれば、ゆいはぬえの姿を母親としてみるはずだ。

「なるほど。それはうまい手だ」
「よく考えたわね、ナズ」

星と一輪の褒め言葉に、大したことじゃない、とナズーリンは言い、食事を再開した。

「ぬえ、明日、私と一緒に来てくれない?」

村紗は、興奮気味にぬえに話しかける。

「ん? めんどくさいのなら、お断りだよ」
「お願い。私のおかずを一つあげるから」
「えっ、まじ?」

村紗の条件に、ぬえは即座に食いついた。

「うん。だから、お願い。私と一緒に来て」
「うーん、しょうがないなぁ。じゃあ、行ってやるか。ちゃんと約束守ってよ?」
「うん、守るよ。よろしくね」

扱いやすいぬえを、村紗は微笑ましく思った。

明日、ぬえを連れて、賽の河原に行く。
そして、ゆいを救い出す。もう、目の前にゴールがある。
村紗は、胸に希望が満ちるのを感じていた。







翌朝。
村紗は、ぬえを伴って空を飛んでいた。
今日も良い天気だった。夕立などに見舞われなければ、ずっと晴れているだろうと思った。

「どこにあんのよ、その三途の河って」

ぬえが当然の疑問を口にする。

「ここから北にある妖怪の山のふもと。そこに中有の道、っていうのがあって、その終わりにあるの」
「ふーん、なんか、つまんなそう」
「そんなことないよ。中有の道には、お祭りみたいな出店があるから」
「出店?」
「うん、焼きそばとかリンゴ飴とか綿菓子とか。美味しい物がたくさんあるよ」
「ほう」

ぬえの目が、キラリと光った。

「じゃあ、なんかをそこで奢って。夕食の一品は勘弁してあげるから」
「まあ、いいよ。でも、ちゃんとやってよね」
「分かってるって。子供を騙すくらいチョロいよ」

騙す、という言葉に村紗は多少の罪悪感を覚えた。
でも、何年もかけて資料を当たるより、遥かに手間がかからない。一刻も早く、ゆいを彼岸に送りたいのだ。あんな寂しいところで石を積んでいる姿は、村紗は見たくなかった。

村紗たちがやる作戦は、こうだった。

まず、ゆいに村紗が「母親を連れてきた」と報告する。
すると、ゆいは自分の母親像をイメージするはずだ。
そこで、すかさず、空中に待機していた小町がぬえを連れてくる。この時、すでにぬえは自分の能力を使っている。
村紗と小町はぬえにしか見えないが、ゆいは違う。母親と錯覚し、再会できたと思うだろう。
そして、これからが重要だが、母親役をやっているぬえが、ゆいを彼岸に渡るよう説得しなければならない。
どんな説得をするかは、話し合ってある。「私は、今、彼岸で暮らしている。ゆいも一緒に来なさい」と言えばいいのだ。
母親が住んでいるところに行きたいと、ゆいは必ず思うはずだ。その強い想いを抱かせれば、彼岸に渡る資格が出来る。
そうすれば、村紗の舟に乗せて彼岸に送れば、万事解決。最高の形だ。

小町にこの作戦を話し、判断してもらおう。おそらく、ゴーサインが出ると村紗は思っている。
早く、ゆいに新しい人生を歩んでほしい。その気持ちでいっぱいだった。

はやる気持ちを抑えながら、村紗は仕事場を目指す。
妖怪の山が、少しずつ大きくなっていった。







「うーむ……大丈夫かな」

あたいは、昼寝岩に座って、一枚の紙とにらめっこしていた。
題名に『村紗ちゃんスケジュール表』と書いてある。あたいの手作りだ。

昨日、急遽、自由課題をやったので、大幅に予定を組みかえる必要があった。
一週間のうちに、村紗ちゃんに教えることはすべて教えないといけない。

それをしっかり終えないと、四季様からお叱りを受ける。
一度始まると長いからなぁ……。

それに、今日から、ゆいちゃんの聞き取り調査が始まる。
その時間も考え、無理なく課題をクリアできるようにスケジュールを組まないといけない。
研修期間はあと四日だが、実質、半分の二日でこなさなければ。けっこう大変である。

でも、村紗ちゃんの吸収の良さなら、あんまり苦労はしないかもしれない。やってみないと分からないが、いくらかの希望はあった。

「……よし、こんなもんか」

とりあえず納得の行く日程を組み、畳んで荷物袋に放り込んだ。
今日のメニューは遠距離渡しである。三途を無事に渡れるギリギリの六文の銭を持った霊を探してきて、長い時間舟を漕ぐトレーニングをする。
村紗ちゃんは華奢な体をしているから、けっこう辛いかもしれない。あたいのフォローは重要だった。

「こまちさーん」

すると、聞いたことのある可愛い声が聞こえた。
そちらを向くと、村紗ちゃんが到着したのが見えた。

「よう、おはようさん。今日は余裕を持って来たね」
「おはようございます。今日も、よろしくお願いします」

いつも通り、丁寧に挨拶する村紗ちゃんに、あたいは笑みを向けた。

「ん? 誰だい、その娘は?」

やってきたのは、村紗ちゃんだけではなかった。変わった羽をした黒髪の女の子が、村紗ちゃんの後ろでこっちを見ていた。

「はい、紹介します。私と同じ寺に住んでいる、封獣ぬえと言います」
「ほう、村紗ちゃんの家族かい?」
「ええ。さ、ぬえ、こちらがさっき話した小野塚小町さん。挨拶して」

ぬえちゃんは、くりくりした目をしながら言った。

「こんちは」
「うん、こんちは。遊びに来たのかい?」
「ちがーう。こんなところ、頼まれなきゃ来ないって」

口を尖らせて、そんなことを言うぬえちゃん。生意気盛りな子供みたいな印象を持った。

「小町さん。今日は、一つ相談があります」
「相談?」

すぐにピンときた。

「ゆいちゃんのことかい?」
「ええ。昨日、みんなとそのことを話し合いまして。その中で、よい考えが生まれたんです」
「ほう、そうかい」

あたいとしては、ゆいちゃんの個人情報を調べて、資料室を当たるしかないと思っていたが。

「どんな考えだい?」
「はい、お話します。良い方法か、検討してください」

村紗ちゃんは、一つずつ話し始めた。



「……なるほど」

あたいは、思わず唸ってしまった。

「どうでしょうか? 可能だと思いますか?」

村紗ちゃんが期待を込めたまなざしをする。
確かにおもしろいアイディアだと思った。

あたいは、直接ゆいちゃんの母親を連れてくるしかないと思っていた。だが、ぬえちゃんの能力があれば、ゆいちゃんに母親が来た、と錯覚させられるかもしれない。

賽の河原の霊が彼岸に渡る場合、彼岸に渡ろうという強い意志が必要だ。それがないと、通行料の銭が出現しない。
その意志は、どんなものでもいい。過程がどうであれ、母親が彼岸にいるから渡りたい、という想いがあればいいのだ。

「うん、可能だと思う。騙す、っていう言い方は悪いけど、ゆいちゃんは、ぬえちゃんを母親だと勘違いするだろうね」
「どんな手段を使ったっていいじゃん。本人が納得すればさ」

ぬえちゃんが、達観したようなことを言う。

「ただし、一つ条件がある」
「え、はい、なんでしょうか?」

気がかりなのは、一つだけだ。

「簡単なことさ。この方法でゆいちゃんが彼岸に渡ったなら、ぬえちゃんが関わったということを内緒にしよう」
「え? 何ででしょうか?」
「うん、彼岸のお偉い方、つまり、閻魔様方が渋い顔をするかもしれないからさ」

是非曲直庁で働く者は、細かく決められた規則を守る義務がある。
中でも閻魔様は、かなり、いや、ものすごく厳格に規則に沿って行動する。裁判官が規則を破ったら、裁判をやる意義がなくなるからだ。

「彼岸に関わる仕事は、是非曲直庁に勤める者がやる。それが大前提なんだ。死神でもないぬえちゃんが、その仕事に関わったなら、閻魔様たちの心証を悪くするかもしれないからね」
「な、なるほど……」

死神になって日が浅い村紗ちゃんは、そこまで考えが及ばなかったようだ。

「ということは、ぬえが関わると、何か不都合が?」
「いや、賽の河原の霊を彼岸に導く説得に、決まった規則はない。だから、黙認されると思う。あたいが言いたいのは、『その説得をしたのがぬえちゃんだと知られないようにする』ってことさ」
「はあ……そうしないと、閻魔様の機嫌を損ねると」
「うん、だから、「賽の河原の霊を説得して、彼岸に送りました」とだけ言えばいい。「誰が説得した」と言わないようにするんだ。そうすれば、嘘はついてはいないからね」

なるほど、と村紗ちゃんは頷いた。

「どうだい? 守れるかい?」
「はい、大丈夫です」
「ぬえちゃんも内緒にしとくんだよ」
「ん? 別にいいけど」

よし、これで大丈夫だ。

「じゃあ、ゆいちゃんのところに行こうか。無事に終わったら、屋台のおでんで祝杯をあげよう」
「おでん?」

すると、ぬえちゃんが反応した。

「あんたのおごりよね?」
「ん? まあ、構わないけどね」
「ぬ、ぬえ。失礼なこと言うんじゃないの」
「? 何が?」

きょとんとするぬえちゃんに、たしなめる村紗ちゃん。
しっかりした姉とフリーダムな妹みたいだった。



賽の河原の上空。そこの全景を見渡せる場所に、あたいたちは到着した。

「……じゃあ、行ってきます」

そして、村紗ちゃんが先に降りていく。手はずは、すべて把握していた。

「ぬえちゃんは大丈夫かね。演技とか出来る?」

村紗ちゃんが合図するまで、あたいたちは暇だった。

「鵺をバカにしないでよ。ただの人間なら、簡単に騙せるわ」
「それはいい。でも、ちゃんと手はず通りにゆいちゃんを彼岸に導くんだよ。説得するのはぬえちゃんだからね」
「分かってるって」

自信満々な様子である。
あたいの印象だが、ぬえちゃんは保護者になったことがないであろう。だから、きちんとゆいちゃんの母親になりきって説得できるか、一抹の不安はあった。

でも、任せるしかない。時間をかけずに問題を解決するのに、これ以上の方法はないかもしれないのだ。

先に行った村紗ちゃんの背中が遠くに見える。合図をしたら、あたいたちもそこへ向かう。

一分後。村紗ちゃんがこちらを振り返り、右手を挙げた。

「よし、行こうか。もう変身しといた方がいいんじゃないかい?」
「ん? もう変わってるわよ。アンタ、私の能力を理解してないね?」
「そりゃ、失礼した」

あたいは軽く肩をすくめ、ぬえちゃんの前を行った。
これでうまくいけば、ゆいちゃんは彼岸に渡れる。とても喜ばしいことだ。
だけど、微妙な寂しさも感じる。あたいが、一番ゆいちゃんと一緒にいたからだろうか。
でも、それは抱いてはいけない感情だ。ゆいちゃんが輪廻の輪に戻るのは、あたいの悲願なのだから。



一分もかけずに、あたいたちは村紗ちゃんの元に到着した。

「やあ、ゆいちゃん。元気かい?」

あたいは、いつものように軽い感じで挨拶する。
ゆいちゃんは、地べたに座っていなかった。しっかりと自分の足で立ち、あたいの顔を真剣に見つめている。

『お母さんは、どこ?』

開口一番に、ゆいちゃんは言った。

「うん、ここにいるよ」

あたいは、親指で背後を指し、道を譲るように横にどいた。

それを見た、ゆいちゃんの顔は、あたいはきっと生涯忘れないだろう。
瞳が見開かれ、太陽の光を吸ったように輝き出す。白かった顔が、みるみるうちに紅潮していく。
死者が生き返った。そんな様相。
赤くなった右の頬を、一筋の涙が伝った。

『お、かあ、さん』

絞り出すように言葉を紡ぐと、ゆいちゃんは、たどたどしい足取りで歩き出す。
一歩、また、一歩と。最愛の母親の元へ。

堪えきれなくなったのだろう、ゆいちゃんは駆けだした。

「うわっ」

そして、一気にぬえちゃんの胸に飛び込んだ。

『お母さん! お母さん! うわぁぁぁぁぁん! うわぁぁぁぁぁん!』
「ちょ、ちょっと! 離れなさいって……!」
「! ダメよ!」

ゆいちゃんにいきなり抱きつかれ、ぬえちゃんは驚いたのか、引き離そうとする。
それを、村紗ちゃんが止める。いままで、あたいが聞いた中で一番大きな声だった。

ぐっ、とぬえちゃんは口をつぐんだ。拒絶したら、どうなるか理解したのだろう。
ぬえちゃんは困った顔をしながらも、胸の中で泣きじゃくっているゆいちゃんの頭に手を置いた。そして、ゆっくりと撫で始める。

ゆいちゃんの泣き声が、寂しい賽の河原の空気を震わせていた。



実に十分、ゆいちゃんは泣き続けた。
いままで溜めていたものを全て吐き出すように。
それはそうだ。千年もの間、ゆいちゃんはここで、ずっと石を積んでいた。
拷問と同じだ。ゆいちゃんは、ようやく、それから解放されたのだ。

「……大丈夫?」

泣き声が小さくなった頃を見計らって、ぬえちゃんが声をかけた。
ゆいちゃんは、顔を上げた。目が真っ赤で、顔は涙でくしゃくしゃだった。

『お母さん……会いたかった……』
「……私もだよ。ゆいに会えて嬉しいわ」

ぬえちゃんは、ゆいちゃんの頭を撫でながら言った。優しい笑みを浮かべながら。
演技なのだろうと思うが、実に自然な笑顔だったので、本心で言っているのではないかと、あたいは錯覚した。

ぬえちゃんは腰を落とし、ゆいちゃんに視線を合わせた。

『お母さん。お母さんは、どこにいたの?』
「ええとね……河の向こう岸にいたのよ」
『かわ?』
「そう。ずっと、ゆいが来るのを待ってたのよ」

ぬえちゃんは言葉を選びながら、あらかじめ練っておいた作戦通りに話した。

「ゆいも来なさい。ここにいたら、いつまでも一緒に暮らせないでしょ?」
『うん、行く。お母さんと一緒にいたい』

ゆいちゃんは即答した。まるで、別人のようだった。
あたいの、いままでの苦労が、こんなにも簡単に片づいてしまった。苦笑を禁じ得ない。
いや、そうではない。あたいが十年間、ゆいちゃんのところにいたから、村紗ちゃんがゆいちゃんに会え、そして、ぬえちゃんを連れて来ることが出来た。
そう考えれば、決して無駄ではなかったのだ。

ぬえちゃんは、ゆいちゃんの頭を撫でる。ゆいちゃんは、恥ずかしそうに笑う。
あたいは、初めてゆいちゃんの笑顔を見た。

すると、ゆいちゃんの胸元がぼんやりと輝いた。
それが何なのか、あたいはすぐに分かった。

「ゆい、懐を探してごらん」

ぬえちゃんは、ゆいちゃんにそう話しかけた。何が起こったのか、ぬえちゃんも見当がついたのだろう。
ゆいちゃんは、言われるままに胸元に手を突っ込んだ。
そして、何かを取り出す。

『なあに、これ?』
「そのお金をこの死神さんに払って、河を渡るのよ。そうすれば、私の待っているところへ行けるわ」

そう言われ、ゆいちゃんがあたいの方を見た。

『しにがみさん。連れてってくれる?』
「……」

ゆいちゃんが綺麗な目で、こちらを見つめてくる。

……だが、あたいはその目を直視できなかった。

「……ゆいちゃん、まだ、懐に金が入ってないかい?」

あたいが聞くと、ゆいちゃんはきょとんとした後、改めて懐を探った。

『……ないよ。これだけ』
「……」

嫌な汗が、あたいの背中を伝った。

「? どうしたの? このお金があれば、ゆいを連れてってくれるんでしょ?」

ぬえちゃんが聞いてくる。その通りだ。あたいら死神は、そのためにいるのだから。

だが。

「こ……小町さん……」

村紗ちゃんが、青い顔をしている。勉強家だから、意味が分かったのだろう。

あたいは、こういうこともありうると想定に入れなかった、自分のオツムを恨んだ。







三途のほとり。あたいの仕事場に戻ってきた。
ゆいちゃんとぬえちゃんは、水切りをして遊んでいる。仲良くしているので、微笑ましい気分になる。

だがそれも、いま直面している大きな問題の前では、気休めにもならなかった。

あたいと村紗ちゃんは、昼寝岩の上に座って、向かい合っていた。
こんなにもお天道様が輝いているのに、あたいたちの顔は暗い雲が立ちこめているかのように沈んでいる。

……何を言い出したらいいのか、分からない。あたいにもどうしたらいいのか分からないのだから、死神になって三日目の村紗ちゃんには、見当もつかないだろう。

「小町さん……」

村紗ちゃんは、絞り出すように言った。

「何か……何か、方法はありますか?」
「……」

いつもなら、即座にあたいは答える。
だけど、村紗ちゃんとぬえちゃんと、そして、ゆいちゃんの気持ちを考えれば、それを口に出すのは、あまりにも残酷だった。

ぬえちゃんのおかげで、ゆいちゃんは彼岸に渡る決心が付いた。
舟に乗るための銭も、もくろみ通り現れた。

しかし……その銭が……

「三文は、厳しいかもしれない……」

あたいは、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
その言葉に、村紗ちゃんは下を向いて沈黙してしまった。

銭は現れたのだ。そこまではいい。
しかし、その銭の数が問題だった。

三途を渡るには、最低六文が必要だ。
しかし、ゆいちゃんが持っている銭は、三文だった。

五文だったら、もしかしたら行けるかもしれない、と希望を持てるが、三文は明らかに厳しい。
ましてや、子供のゆいちゃんが大人みたいな体力があるなど考えられない。必ず、河中で疲弊し、消滅してしまうだろう。

消滅したら、人間に生まれ変われない。動物か、昆虫か、それとも単細胞生物か。
何になるかは、天が決めてしまうのだ。

そんなことは、あたいと村紗ちゃんは望んでいない。大人になる前に死んでしまったのだ。もう一度人間になって、天寿を全うしてほしい。

それに、村紗ちゃんは、ゆいちゃんの命を奪った張本人だ。あたいよりも、そのことを強く強く望んでいるだろう。

何とか妙案を探るが、何も浮かんでこない。
十年船頭をやってきたあたいは、六文未満の霊で三途を渡れたやつに会ったのは、片手で数えられる。それも、四文以下のやつは、皆無だった。

「どうしたら、いいんでしょう……」

村紗ちゃんは、そればかりを繰り返している。他に言うことが思いつかないのだろう。

遊んでいるゆいちゃんのはしゃぐ声が聞こえる。あんなに元気なゆいちゃんの姿は、初めて見た。
あれが、本当のゆいちゃんなのだ。生きていたら、きっと朗らかで友達もたくさんできただろう。

なんとか、三途を渡らせ、また人間として生きてほしい。それが、あたいの一番の願いだった。

「……しかたない」

いつまで考え込んでいても、らちが開かない。あたいの脳みそには、この問題を解決できる知識は皆無だ。
ならば、もっと頭のいい人に聞くしかない。彼岸のルールに一番精通している人。その人なら、何か裏技的なものを教えてくれるかもしれない。

あたいは立ち上がり、昼寝岩から飛び降りた。

「どうするんですか、小町さん?」
「もう、四季様に聞くしかない。あの人なら、何か方法を知っている可能性がある。相談しに行ってくる」
「わ、私も行きます」

村紗ちゃんは、慌てるように岩から飛び降りた。

「あたい一人だけでもいいよ。ゆいちゃんと遊んでいたらどうだい?」
「そんなこと出来ません。私は、あの子を救う義務があります」

村紗ちゃんは、ちょっと憤慨した顔をした。
ちょっと失言だっただろうか。反省する。

「よし、じゃあ、さっさと行こう。時間が惜しいからね」
「はい」

あたいたちは、ゆいちゃんたちに彼岸に行ってくる旨を伝え、三途の向こうを目指した。







裁判所は、いつも通りだった。
改装したことがあると聞いたことはない。百年、いや、千年単位で変化していないのだろう。
それは、何事にも翻らない、強固な意志を感じさせた。

「よう! 小町ちゃん、こんちは!」

門の前に辿り着くと、馴染みの守衛がいた。

「こんちは。今日も仕事かい?」
「ああ、俺の担当じゃないんだけどね。担当のやつが腐ったもんを食って腹壊しやがってさ。それで、急遽、俺が呼ばれたんだよ」
「ははあ、それは災難だねぇ」
「まったく、新しい酒を手に入れたから、今日は一日中飲もうと思ったんだけどね。優雅な休日が台無しだ」

実に残念そうな顔をする守衛。
昼間っから酒を飲むのはだらしないとか言った覚えがあるが、全く改めようとしない様子だった。

「ん? 小町ちゃん、そっちの娘は誰だい?」

すると、守衛は村紗ちゃんに気づいた。

「ああ、話くらい知らないかい? 此岸に船頭の募集をして、応募者が来たって。この娘がそうだよ」
「おおっ、なるほど。いやー、かわいい娘じゃないか」

守衛が軽いお世辞を言うと、村紗ちゃんは、どうも、と小さく言って黙礼した。

「自己紹介は後にしてくれるかい? いま、急いでるんだ」
「ほう、四季様かい?」
「まあね、ちょっと困った事態になったから、アドバイスをもらおうと思ってね」

あたいがそう言うと、守衛は、分かった、と頷いた。

「酒の席が出来たら、呼んでくれるかい? いつでも行くよ」
「了解。そんときは、村紗ちゃんも連れていくよ」
「うん、じゃあ、頑張ってくるといい。村紗ちゃん、また会おうね」
「はい、よろしくお願いします」

丁寧に村紗ちゃんは返し、門の中に足を踏み入れた。



重装備の衛兵の横をすり抜け、つづら折りの階段を上り、あたいたちは、四季様の執務室を目指した。

「四季様の部屋に入ったことあるかい?」

何となく、あたいは聞いてみた。

「はい、仕事の初日に一度」
「そうかい。四季様はどんな感じだった?」

漠然とした質問だったが、村紗ちゃんは自分の中で咀嚼して答えた。

「……優しくて真面目な人だと思いました。それに、隙がないというか……欠点が全く見えませんでした」
「なるほど」

村紗ちゃんの印象は正しいだろう。魂を裁く閻魔様は、常に他者より上にいなければならない。隙があるということは、つけこまれてしまう、ということだ。だから、滅多に閻魔様は短所や弱みを見せない。
四季様は閻魔様の中でも優秀な部類に入る。そのことをよく理解しているのだ。

「まあ、長いこと付き合ってると、いろいろ見えてくるんだけどね。初対面じゃ分からないか」
「はあ。小町さんは、四季閻魔様の下にずっといるんですか?」
「まあね。他の閻魔様の下についたことはないよ。だから、多少プライベートは知ってる」

普段があれな感じだから、どんな小さなことでも、四季様の個性を知るとびっくりする。完璧に見える人にも、性格があるのだ、と再確認するのだ。

「四季様の意外な趣味については追々話すよ。今は、四季様にアドバイスをもらうために頑張ろう」
「そうですね……真剣にやりましょう」

三途の渡航ルールは、実に千年以上も前に作られたものだ。
それを覆す方法がある可能性は、かなり低いに違いない。
だけど、諦めたら、ゆいちゃんは人間から動物に転落してしまう。あたいたちの願いは、それを防ぐことだ。

長い廊下をてくてく歩き、あたいたちは『四季映姫』と書かれたプレートのついたドアの前に立った。

「じゃ、行くよ」
「……はい」

腹に力を込め、あたいはドアを二度ノックした。

「どうぞ」

聞き慣れた、優しい声がする。
それを聞いた後、あたいはドアノブを捻って中に入った。

「こんちは」
「失礼します」

四季様は、いつも通り、正面にあるでかい机に向かっていた。
その上には、書類が山ほど積まれていた。まずいな、忙しいところだっただろうか。

「お疲れさま。どうしましたか? 何か、問題でもありましたか?」

だが、四季様はおくびにも出さない。不機嫌になる姿は、あたいでも見たことは皆無だ。お説教をしている時を除いて。

「いや、研修自体は順調なんですけどね。村紗ちゃん、優秀ですし」
「まさか、もう終わりそうなんて言うんじゃないでしょうね?」
「いやいや、そんな超人はいませんって」

珍しい四季様の冗談に、あたいは突っ込む。

「ふむ、では何用ですか?」
「えーとですね、実は」
「小町さん」

あたいが説明しようとすると、村紗ちゃんが遮った。

「私がお話します。今回のことは、私が始めたのですから、私に説明義務があります」
「む」

そう言われると、そうかもしれない。

「どうやら、複雑な事情みたいですね?」

四季様が見透かしたように言う。

「……はい。私では、どうにもならなくて……閻魔様にご相談をしようと」
「分かりました。話してみなさい」

優しく促され、村紗ちゃんは一つ一つ丁寧に話し出した。



「……現状は、こんな感じです」

一通り説明を終え、村紗ちゃんは軽く息をついた。

「……なるほど」

四季様は相づちを打ちながら、最後まで聞いた。
途中、ゆいちゃんを死なせたのが村紗ちゃんだ、と聞いたときに腕組みをした。話に没入して、真剣に聞くときにする四季様の癖だった。

「小町さんも、ゆいちゃんを渡す術を知らないとおっしゃられました。でも、もしかしたら、閻魔様はご存じかもしれない、と伺ったので、ここに来ました」

村紗ちゃんは、ゆいちゃんが渡航を決意する鍵になった、ぬえちゃんのことは話さなかった。うっかり言ってしまうかとやや心配だったので、安堵した。

「事情は分かりました。楽にしなさい」

四季様が腕組みを解くと、村紗ちゃんの緊張した顔もいくらか柔らかくなった。

「……どうでしょうか。何か方法がありますか?」

村紗ちゃんが聞くと、少し考える仕草をした後、四季様は言った。

「ありません」
「……え」

たった五文字で、四季様は答えを出した。

「ちょ、ちょっと、四季様。もうちょっと考えてくださいよ。何か、決めつけている感じがします」

たまらず、あたいは横から割って入った。

「……そうしたいのは、山々なのよ。私もね」

四季様は座り心地の良さそうな椅子から立ち上がり、背中にあった窓から外の景色を眺めた。

「三途の渡航ルール。それは、私がまだ地蔵だったよりも昔に、偉大なる十王が作ったルール。環境に応じて改正はされてきたけど、今日までベースはすべてそこにある。ある意味、聖域なの」

淡々と説明する四季様の背中は、なんだか遠く見えた。

「私は、その十王に仕える閻魔。彼らが絶対の存在であり、逆らうことなどできない。よっぽどのことじゃないと、進言もできない。私は、彼らの作った規律を守ることが仕事であり義務なの」
「……」

あたいたちは、何も言えずに四季様の言葉に耳を傾けていた。

「その、ゆい、という娘は、数え切れない命の一つ。彼女だけを特別扱いはできない。三文しかお金がないなら、それを受け入れるしかない。たとえ、犬や虫に身を落としてもね」

四季様の言うことは、あまりにも残酷な正論だった。

「分かってちょうだい。その娘のことを気にかける気持ちは分かる。でも、人間ではなくなっても命は輪廻する。来世の、そのまた来世では人間になっているかもしれない。それに希望を持つことは、いけないことかしら?」
「……」
「私の話は、以上です。研修に戻りなさい。あなたには、期待がかかっているのですから」

四季様は振り返り、微笑みを浮かべた。
……どうやら、ここまでか。
四季様が助けることができない、と言うなら、それに従うしかない。
あたいらは、四季様の下にいる平社員なのだから。

あたいは、一つ溜め息をついて、村紗ちゃんの肩に、ポン、と手を載せた。

「……行こうかね」

少し俯いている村紗ちゃんを促す。ショックは大きいだろうが、あたいがそれを支えなければ。
ゆいちゃんは、村紗ちゃんの舟に乗せてやろう。あたいも一緒に乗って、楽しい気分で来世に送ってやろうと思った。

「……そんなの……おかしい」

すると、村紗ちゃんはぽつりと言った。

「そんなの、おかしい」

顔を上げた村紗ちゃんの視線が、四季様を射ぬいた。

「どうしたのかしら?」
「……閻魔様にお聞きします。答えてくださってもよろしいですか? 研修中の身ゆえ、分からないことがあります」

四季様はかすかに驚きの表情を浮かべた。
だが、冷静さは全く崩さなかった。

「何かしら?」
「三途を渡りに来た霊の持っているお金。あれは、何を表していますか?」

あまりにも馬鹿げた質問だった。そんなことも分からないのかと、叱られるような。
閻魔様にする質問ではない。あたいの背中を、冷や汗が伝った。

「む、村紗ちゃん? そのくらいなら、あたいが教えてやるからさ。ここはお暇しよう」
「私は、四季閻魔様に聞いています。すみません、小町さん。ちょっと、待っていてください」

冷静な声だったが、明らかに拒絶があった。こんな村紗ちゃんは、あたいは初めて見た。

「答えて下さい。四季閻魔様」

村紗ちゃんが急かすと、四季様はゆっくり口を開いた。

「霊が持っている銭は、生前の徳を表しています。それは、つまり生前にどれだけの人に好かれていたか。その人数が多ければ、銭も多くなります」
「生前の徳とは、何ですか?」

即座に、村紗ちゃんは問いを重ねた。

「生前の徳とは、霊の一生で、どれだけ他人に尽くしたか、です。直接的でも間接的でもいい。自分以外の者に幸せをもたらすこと。それが、徳、です」
「そこがおかしいです」

村紗ちゃんは、強い口調で言う。四季様は、それでも表情を崩さない。

「どこがですか?」
「それでは、人間の寿命次第で、徳の多さは大きく変化してしまう。百歳の老人と二十歳の若者とでは、どう考えても、経験が違う。長く生きただけ、有利になります」
「……」

村紗ちゃんの指摘に、四季様は反論しなかった。

「ましてや、十にも満たないで死んでしまった子供は、圧倒的に不利です。十歳ですよ? まだ、人に尽くすということをちゃんと理解しているのか怪しい。それを、不運と切って捨ててしまうんですか? それは、命の差別です。閻魔様がそんなことをしていいんですか?」
「……言い方が悪かったですね。霊が持っている銭の多さは、どれだけ愛されているか、です。だから、両親や親族に誕生を祝福されていれば、銭は十分持てる、と訂正します」
「それでも、まだおかしいところはあります」

本当に、本当にかすかに、四季様は眉根を寄せた。

「それでは、祝福されなかった子供、生まれてくるのを望まれていなかった子供はどうするんですか? 最近、そういう親が多いと、小町さんが言っていました」

……そうだった。よく覚えているものだと思った。

「そういう子供を、不運、で片づけるつもりですか? それも、差別です。しかも、未練を断ち切る、と銘打って、賽の河原なんてあまりにも寂しい場所に閉じこめている。ゆいちゃんは、千年もあそこにいた」
「……」

村紗ちゃんの言うことは、すべて正論だった。
なぜ、あたいもそう思わなかったのか、不思議だった。

「千年もの間、石を積み続けて、やっと彼岸に渡ろうと迷いを断ち切った。それは、賞賛され、尊重されるべきであって、罰を与えられるようなことには、断じてならない。それが、普通の感覚です。それを認めずに犬に転生しろなどと、あまりにも馬鹿げている」
「……」

これだけ村紗ちゃんに言われても、四季様は何も言わなかった。

「何か、間違っていますか? 間違っていたら、言って下さい」

四季様は、小さな溜め息をついて、腕を組んだ。

「……それでは、何をしたらいいと思いますか?」
「賽の河原、という場所が特殊すぎるんです。あそこは、徳を積めなかった子供が、辛い人生を味わうためにいる。そこまでは分かります。ならば、それを充分に味わったのなら、他の子供の霊と対等に扱わなければならない。あそこにいる子供は、殺人や強盗をした罪人と同じ扱われ方をしています」

村紗ちゃんは、核心を突いた。

「だから、あそこを卒業した者は、無条件で彼岸に渡れるようにした方がいいです。地獄でもないのに、地獄と同じ扱われ方をしているのですから」

村紗ちゃんがそこまで言うと、四季様はおもむろに椅子に座った。

「……いいでしょう」

そして、ぽつりと言った。

「あなたの言い分は、全くもって正しい。私や小町のような、規律に縛られすぎている者には、どうやっても思いつかない発想。まだ規律を覚えたてのあなただから思いついたのでしょうね」

四季様が討論で負ける姿を、あたいは初めて見た。

「あなたの言い分は分かりました。そして、望んでいるのは、賽の河原の霊の、待遇の改善。そうですね?」

村紗ちゃんは、しっかりと頷いた。

「今すぐにでも、取りかかりたいところですが……一つ、あなたがやらなければならないことがあります」
「……なんでしょうか?」
「簡単なことです。あなた一人がいくら訴えても、所詮、たった一人が言っていることに過ぎない。それでは、説得力がない」
「……つまり、署名を集めてこい、と?」

四季様は頷いた。

「少なくとも、千は必要です。それがあれば、私も十王に臆すことなく提案できる。……出来ますか?」
「やります」

即答した。

「分かりました。時間はいくらかかってもいい。ゆっくり取りかかりなさい。しかし、そっちに気を取られて、研修をおろそかにしないように。何度も言いますが、あなたは期待されているのです」
「ありがとうございます」

四季様は、満足そうに頷いた。

「小町。村紗さんを出来うる限りサポートをしなさい。それは、研修が終わっても、私が言わない限り続けること。よいですね?」
「あ、はい、分かりました」

それは一向に構わない。村紗ちゃんの心意気に、あたいが手助けできれば、これほど嬉しいことはないだろう。

話が終わると、あたいらは執務室を辞した。
忙しくなりそうだな、という漠然とした思いが、あたいの胸によぎった。







あたいたちは、三途の上にいた。
此岸に向けて、村紗ちゃんは舟を漕ぐ。舟漕ぎの練習の一環だが、もう、あたいがサポートしなくても真っ直ぐ漕げるようになっていた。

「なかなかやるね、村紗ちゃん」

裁判所を出て、彼岸から出発し、舟に乗ったところで、あたいはようやく村紗ちゃんに話しかけた。
四季様とやり合った村紗ちゃんは、なんか話しかけづらいオーラをまとっていたから。

「……何がですか?」

村紗ちゃんは、背を向けて舵取り棒を漕ぎながら言った。

「あたいも長いこと船頭やってるけど、閻魔様に意見する船頭を見たことがない。ましてや、納得させるなんて不可能だと思っていたよ。閻魔様は、常に正しいことだけをするからね」
「十王が作った規律を過信しすぎているんです。だから、自分の行動に疑問を持てないんです。私は、今回の件で、閻魔様に人を裁く権利があるのか、疑問を持ちました」
「おっと、それは聞かなかったことにするよ」

よほど頭に来ているのだろう。いつもの頭のいい村紗ちゃんなら、こんな暴言を吐くわけがない。

「村紗ちゃんの言っていることは、正論だったよ。だから、四季様も認めただろう? 頭が固かったら、村紗ちゃんの話に耳を傾けなかっただろうしね」
「……そうですね」
「どんな存在だって、間違いはするさ。神様だって、時には間違う。大切なのは、間違いを認め、それを直すよう努力することだ。本当に頭のいい人は、それが出来る人だと、あたいは思うよ」

とりあえず、あたいは弁護をしておく。
これから村紗ちゃんが閻魔様の下で働くのなら、不信感を持ったまま仕事をしたら、まずいだろう。

「……そうですね。大切なのは、常に勉強することです。聖もそう言っていました」
「うん。また、納得のいかないことがあったら、何でも言いな。口は相手に自分の考えを伝えるためについてるんだからね」

今回の件で、あたいは思考を停止する恐ろしさを味わった。偉い人が作ったルールに迎合していたのだ。
自分の意見を常に持つ。それは、考える力のある者にとって、とても大切なことだと、改めて知った。

「しっかし、これから忙しくなりそうだね」

そうだ。あたいたちは、ようやくスタートラインに立てた。
ゆいちゃんを救うためには、これからが正念場なのだ。

「千の署名ですか……やはり、簡単にはいかないでしょうか」

今回の件を、知らない人に丁寧に説明して、同調させなければならない。
かなり時間がかかりそうであることは、簡単に予想できた。しかし、諦めてはならない。

「地道にやるしかないかもしれないねぇ。あたいは、他の連中を引っ張ってきて、商店街で署名を集めてみるよ」
「申し訳ありません、私の我がままで……」
「いやいや、これも仕事のうちさ。気にしないことだ」

あたいも村紗ちゃんと同じく、ゆいちゃんを助けたいのだ。そのためならば、いくらでも働ける。

「村紗ちゃんは、どうするかい? あたいと一緒に行くかい?」

あたいがそう言うと、村紗ちゃんはちょっと考えてから言った。

「命蓮寺のみんなに相談してみます。頭のいい人たちばかりですから、もっといい方法が思いつくかもしれない」
「そうかい。まあ、焦らずにやっていこう」

ゴールまでの道は遠いが、歩いただけ近づいていく。
辿り着けないゴールはないのだ。大切なのは、諦めないことだ。

あたいたちは、署名の集め方について話し合いながら、三途の上を滑っていった。



「こまちさ〜ん、むらささ〜ん」

此岸に着き、桟橋の上に飛び乗ると聞き慣れた声が聞こえた。

「よう」

軽く手を挙げて挨拶する。文がてくてくとこちらに歩いてきた。

「事情は聞きましたよ。どうでしたか?」
「あん? まだ、お前さんには話してないけどね」
「ここにいた鵺に聞きました。ゆいさんを彼岸に送るまで、あと少しみたいじゃないですか」

どうやら、大体の事情は知っているようだ。説明するのもめんどくさいので助かる。

「おや? ゆいちゃんたちがいないじゃないか」

首をいくら回しても、ゆいちゃんとぬえちゃんの姿が見えなかった。

「中有の道に行きましたよ」
「え? 知ってんの?」
「鵺に言われたんですよ、お金を貸せって。しょうがないので、お駄賃をあげましたが」
「ほう、優しいところがあるじゃないか」
「情報と友好をいっぺんに得られるなら、安いもんですよ」

うふふ、と笑う。やはり、こういう打算を入れるところは文だった。

「こんにちは、文さん」

村紗ちゃんが、舟と桟橋をロープで繋いでこちらに来た。

「はい、どうも。どうでしたか、成果は?」
「あれ? ご存じですか?」
「ぬえちゃんが話したんだってさ」

なるほど、と村紗ちゃんは頷いた。

「まあ、日陰で話しましょう。冷たい飲み物を持ってきましたよ」
「おっ、気が利くじゃないか」
「いーえー、取材対象と仲良くするのは当然のことです」

仕事みたいな感じで言うが、根は優しいやつなのだと、あの冬を乗り越えたパートナーのあたいは分かっていた。

あたいたちは休憩するために、パラソルのある昼寝岩の方に足を向けた。



「なるほどなるほど。なかなか面白いことをやってきましたね」

メモを取りながら、文は嬉しそうにする。

「頭の固い閻魔をやりこめるとは、なかなかやりますね、村紗さん」
「あ、いえ、私の意見を素直に出しただけですので」
「正直、冷や冷やしたよ。お説教を覚悟したしね」
「そんなの、小町さんはいつもやってるじゃないですか」
「うるさいね。目ぇくり貫くよ」

あたいがチョキにした拳を繰り出すと、文はひらりとかわした。ちっ。

「となると、署名集めが課題になりますね。その辺は、どうお考えですか?」
「とりあえず、三途中州の商店街で、あたいは他の死神を引っ張ってきて署名集めすることは決まってるよ」
「村紗さんは?」
「私は、命蓮寺のみんなに相談してみます。妙案が出なければ、小町さんのお手伝いをします」
「そうですか」

メモを取ると、文は、うーん、と唸った。

「そうすると、千集めるのは、かなり時間がかかりそうですね」
「そうだね。村紗ちゃんの研修が終わってから、じっくり取りかかってもいいね」
「いえ、私はすぐに始めたいのですけど……。やっぱり難しいですか?」

不安そうにする村紗ちゃん。あたいは腕組みして研修の課題を思い出した。

「とりあえず、残っている目立った課題は、舟の前後ターン、下流から上流へ向かう技術、あたいの舟の並行なしでの村紗ちゃん単独での十本渡し。こんな感じだね」
「それを、今日一日で終わらせることは出来ますか?」
「へ?」

言っている意味が一瞬分からなかった。

「いやいやいや、それは無茶だ。村紗ちゃんがどんなに優秀でも、物理的に時間が足りない。夜が明けちまうよ」
「そうですか……」

残念そうな村紗ちゃん。あたいとしても、無理をさせたくはない。ていうか、あたいがきつい。

「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。あと四日で三つの課題のクリア。二日くらいで終わるじゃないですか。充分、前倒しですよ」

文が道理に叶ったことを言ってくれた。

「じゃあ、こうしよう。多分、あたいの感覚だと、一日半みっちりやれば、課題をすべて終えられる。今日は、午後いっぱい研修。明日は頑張って一日研修。それで、全課程終わるはずだ。それから、署名集めに移らないかい?」

要するに、さっさと課題を終えてしまって、気がかりなく活動するということだ。

「……分かりました。やることはやらないといけませんよね」
「うんうん、そうだよ。頑張ってみよう」

地獄のスケジュールをこなさずに済み、あたいは安堵した。

「あ、そうだ」

それで、一つ思いついた。

「文。お前さんの新聞で、署名を呼びかけてくれないかい?」
「はい?」

ここで話を振られると思わなかったのか、文は目を丸くした。

「いい感じに記事を起こして、読者の協力を得るんだよ。そんなに難しくないだろ?」
「うーん、そうですねぇ……」

さすがに即決は出来ないか。
しかし、あたいには殺し文句がある。

「頼むよ〜。お前さんの新聞は有名になったじゃないか」
「そ、それは、そうですけど……」
「その新聞が署名を募れば、きっと反響があるよ。そしたら、もっと有名になるじゃないかい?」
「うーむ……」

考え込む文。新聞記者のプライドを刺激してやれば、難のある性格の文もちょろいもんである。

「……分かりました。協力しましょう。まあ、人助けですね」
「おお、頼むよ。感動的な記事を期待しているよ」
「任せてください。でも、あんまり期待しないでくださいね。基本的に、妖怪は人間のことには無関心ですから」
「ちょっとでも成果があればいいさ。期待してるよ」

どのくらいの効果があるのか、さっぱり検討つかないが、やることはやった方がいい。文は、基本的に仕事に手を抜くことはないから、最大限のことはしてくれるだろう。

「じゃあ、今日は、これで失礼しますかね。ネタが出来ましたし、明日の朝までに号外を作りましょう。早い方がいい」
「すみません、文さん。よろしくお願いします」
「いいんですよー。ご飯の種を提供していただいてるんですから。持ちつ持たれつですよ」

そう言って、文は、ひょい、と昼寝岩を飛び降りた。

「それでは、研修頑張ってください。署名を集め終わったら、また来ます」
「はい、よろしくお願いします」
「期待してるよ」

文はひらひらと手を振って、地を蹴った。一瞬で姿を消す。

「よし、じゃあ、昼飯前に一本行こうか。前後ターンのやり方をレクチャーしてあげよう」
「はい、お願いします。……でも、前後ターンって何ですか?」
「舟の進行方向を逆にする技術さ」
「えっ、そんなこと出来るんですか?」
「まあ、船頭の技術の中では、一番難しいものの一つだね。でも、けっこう使うからね。しっかり覚えよう」

あたいたちは休憩を終え、昼寝岩から桟橋の方に向かった。







空が群青色に染まる頃合い。
夕暮れはとっくに過ぎ去り、夜の気配が色濃くなっていた。

「じゃ、行くね」

ぬえちゃんは、ゆいちゃんに目線を合わせ、頭を撫でた。

『うん……また、来てね?』
「もちろんよ。明日も遊びましょう」

ぬえちゃんがそう言うと、寂しそうだったゆいちゃんの顔が少し晴れやかになった。

ゆいちゃんは、三途の周辺から外に出られない。だから、ぬえちゃんとは、一旦これでお別れなのだ。
そのことを話したら、ゆいちゃんはダダをこねた。まあ、当然のことだ。
でも、ぬえちゃんが根気強く説得すると、最後には首を縦に振ってくれた。ゆいちゃんがぬえちゃんを母親だと思いこんでいるにしても、随分と二人は仲良くなっているように感じた。

「ゆいちゃん。明日もお母さんを連れてくるからね」

村紗ちゃんが優しい声をかける。

『……うん、待ってる』
「よし、いい子ね」

村紗ちゃんは、ゆいちゃんの頭を撫でた。ゆいちゃんは、くすぐったそうにしている。

「じゃあ、小町さん。行きます」
「ああ、お疲れさん。命蓮寺の人たちにもよろしくね」
「はい。じゃあ、行きましょう」
「うん」

村紗ちゃんとぬえちゃんは、ふわりと地を離れて、暗くなりつつある空に向かった。
ゆいちゃんは、二人の姿が見えなくなるまで、その場で見送っていた。



「はあ、疲れた」

充分に三途から離れると、ぬえが溜め息をついた。

「神経使うわー。バレなくてよかった」
「お疲れさま。ゆいちゃん、すごく楽しそうだったよ」
「千年ぶりにお母さんに会えたんだもん。そりゃ、楽しいでしょうよ」

サバサバとした口調で、ぬえは言う。
しかし、村紗には、ぬえの本心が分かっていた。

「そんなこと言って、あなたも楽しかったんでしょ?」
「ベ、別にそんなことないって」
「だって、あなた言ったわ。また明日会いましょうって。こりごりだったら、あなた、きっぱり今日だけで終わらせたでしょう」

ぬう、とぬえは小さく唸った。

「気まぐれよ、気まぐれ。気分屋だもん、私」
「はいはい、そうしときましょうか」

認めようとしないぬえを、村紗はおかしそうに笑った。

「……私、あそこに泊まった方がいいかな」
「え?」

意外なことをぬえが言った。

「説得するのに、いろいろこじつけたじゃん? 不審に思われるかもしれない。だったら、そばにいた方がバレないと思わない?」
「うーん……」

確かにそうだった。ゆいは、母親が夜も一緒にいてくれないことに疑問を持ったのだ。当然のことだった。
そこで、ぬえはいろいろと嘘を言った。彼岸からここに来たのは特例で、夜になったら村紗の家に泊まらなければならない。
また、ゆいは、あとどのくらいで三途を渡れるのか、と聞いた。ぬえは、はっきりと分からないが、あと数日で渡れる、と答えた。
規則だから、しょうがない、とぬえは説得した。まだ子供のゆいは、不信感を抱いていたかもしれないが、母親が言うことを素直に聞いてくれたのだ。

「みんなに聞いてみようか。ぬえが外泊してもいいかって」
「そうね。二日、三日くらいなら、許してくれるでしょ」
「じゃあ、私も泊まろうかなー」
「勝手にすれば。野宿でもいいならね」

ぬえは、大昔から野宿だったから慣れているのだろう。村紗は元人間で、屋根のある家以外で寝た経験はほとんどない。海で船を狙っていたときを除いて、だが。

それにしても、ぬえがここまで、ゆいのことを気にかけるとは思わなかった。全くの赤の他人と一緒に夜を明かしたい、などと言わないやつだと村紗は思っていた。
何かが変わったのか、それとも、元々こういう性格だったのか。

意外なぬえの一面を見て、村紗は新鮮な感情を抱くのだった。



「ただいまー」

二人は命蓮寺に戻ってきた。かすかな醤油の香りがした。
靴を脱いで上に上がろうとすると、左の廊下を踏みならす音が聞こえた。

「おかえりなさい。ちょっと、遅かったわね」

顔を見せたのは一輪だった。出迎えに来てくれたらしい。

「今日、何ー? 何か分からない」

ぬえが早々に聞いてくる。

「鍋よ。野菜とかいろいろもらったからね」
「鍋!?」

激しく反応するぬえ。靴を素早く脱いで、大広間に向かおうとする。

「なべなべ〜♪」
「ちょっと、先に手を洗ってきなさい。ずっと外にいたんだから」
「ちぇ〜」

一輪の注意を受けると、Uターンして手洗い場に向かった。

「ムラサも手を洗ってきなさい。もう、みんな待ってるわ」
「うん、分かった」

村紗が返答すると、一輪は元来た方に引き返した。
さっさと手を洗いにいこうと、村紗はぬえの後を追った。



「それでは、いただきましょう」
「いただきまーす」

ぐつぐつと煮える鍋。
白い湯気が立ち上り、そこからかいま見える新鮮な肉や野菜。
挨拶が終わると、全員が一斉に箸を伸ばした。

「おにくおにく〜♪」
「野菜も食べろよ、野菜も」
「うん、美味い。やはり、鍋にすると美味さが増すような気がする」
「ご主人は肉が食えれば何でもいいでしょうに」
「そんなことはないぞ。肉は料理によって、千変万化するからね」
「一輪、そっちの鍋には何が入ってるの?」
「肉が入っていないだけでそっちと同じよ。あ、山菜はそっちには入ってないわね」
「あ、美味しそう。ちょうだい」
「好きに取ればよいですよ。まだ、余っているでしょう?」
「ええ、なくなったら追加するだけですしね」

命蓮寺の鍋は、二つある。肉が入っているものと野菜しか入っていないものだ。
一輪の他に、肉が料理できるナズーリンも作ったことは暗黙の了解だった。

「ナズ、このお肉どこの?」
「人間が寄付金の代わりに持ってきた。今朝捌いたやつだそうだ」
「へー、新鮮だね」
「ほら、ぬえ。肉ばっかり食べないで、野菜も食べなよ」
「星だって肉ばっかりじゃん。私とそんなに変わらないくせに」
「むっ、よく見てるな」

ぬえと星の掛け合いに、笑い声が漏れる。

「ムラサ、ぬえ。どうでしたか、成果は」

話に一区切りついたところで、白蓮が二人に聞いた。
昨日話し合ったことが上手くいったのか、気になるのだろう。

「大丈夫大丈夫。子供を騙すなんて、朝飯前よ」

ぬえが白米を頬張りながら、からかうような口調で言う。

「ムラサはどうですか?」
「ええ……」

いろいろなことがあった。それを、村紗は皆に話す義務がある。
今日あった出来事を頭の中でまとめ、村紗は一つずつ話し出した。
ゆいがぬえをお母さんだと思い、三途の渡し賃が出現したこと。
それは三文しかなく、三途を渡る最低金額の六文に届いていなかったこと。
上司の閻魔に相談し、そこで千の署名を集めれば、ゆいを渡してもらえるように閻魔王に頼んでくれることになったこと。
そして、千の署名を、できるだけ早く集めるにはどうしたらいいか、みんなに聞こうと思っていたこと。

「そうですか……」

白蓮は、村紗の話を聞いて静かに頷いた。

「千か。なかなか多いね」
「この里には、どのくらいの人間がいるのかしら。足りなかったら、妖怪にでも頼むしか……」

星と一輪が、考えを巡らせる。

「ナズ、なんかいい方法はある?」

村紗は、ナズーリンに話を振った。
昨日、ぬえをゆいのところに連れていくという妙案を思いついたのは、ナズーリンだったからだ。長いことみんなと一緒にいるが、ナズーリンの頭の回転の速さは、おそらく白蓮よりも優れていると思っていた。

「そうだね……」

ナズーリンは、視線を宙にさまよわせる。さすがに、即座に答えが出るものではないようだ。

「一つ一つ、皆に事情を説明して署名してもらうのは、時間がかかりすぎる。すぐにでも成果を出したいんだろう?」
「うん……そうなんだけど、地道にやるしかないのかなって。いい方法、思いつかないし」

面倒だが、里の家々を回って、署名を呼びかけるしかないのか。けれど、ゆいに少しでも賽の河原に居続けさせるのは心が痛んだ。

「ん……いや、そうじゃない」

すると、ナズーリンが何かを思いついたように、小さな声を上げた。

「えっ、何か思いついた?」

それを、しっかり村紗は聞いていた。

「うん、署名というのは、一人一人に呼びかけて、名前を書いてもらうものだ。そういうものだろう?」
「う、うん」
「ならば、それをいっぺんにやればいい」
「いっぺんに?」

ナズーリンの言わんとしていることが、村紗にはまだ分からなかった。

「なるほど。発想を転換させればいいんだ」

今度は、ナズーリンの主の星が声を上げた。

「要するに、たくさんの人を一ヶ所に集めて、そこで署名を募ればいいんだ」
「あ、なるほど。それなら、事情の説明は一回で済むわ」

一輪が、ぽんと手を打つ。
つまり、集会のようなものを開けばいいのである。
里の人間を集め、そこで事情を演説する。そして、理解を示した者に署名をしてもらえばいい。無理矢理ではないから、文句は出ないはずだ。

「でも、そんなにたくさんの人が来てくれるかな?」
「そんなの簡単じゃん」

すると、鍋にがっついていたぬえが声を上げた。

「釣ればいいんだよ。餌で。美味しいものでも用意したら?」
「そうか。集会に来てくれた人に、何か贈り物をしよう。うちは、それなりに里の人間たちから信仰されている。小さなお守りでも作ればいいんじゃないかな?」
「そうね。うちって、そういう商売はしていないのかって言われたことがあるわ。つまり、需要はあるわよね」
「ならば、私と一輪でお守りを作るまじないをしよう。ムラサとナズーリンとぬえにも手伝ってもらうよ。大量に作らなければならないからね」
「はい、分かりました」
「ご主人の命令なら従う。さっさとやってしまおう」
「しょうがないなー。やってあげるわよ」

気持ちのいいくらい、トントンと話が進んでいく。
少しずつやるしかないと思っていたにも関わらず、皆の助けを得たら、驚くほど事が進む。
自分は、一人で悩む必要はないんだ。村紗は、こんな素晴らしい者たちと一緒に暮らしていることに、感動を禁じえなかった。

「だが、ご主人」

ナズーリンが、盛り上がっていた話を止めた。

「なんだい?」
「誰が演説する? それを決めなければ」
「それは、私がやりましょう」

すると、意外な方向から声が上がった。

「え、聖自らですか?」
「もちろんです。それは、命蓮寺の代表がすることです。説得力を持たせるには、それなりの立場のある者の言葉が不可欠です」
「で、でも、それは、私がやるのが筋のような気がします……」

村紗が、不安げに言った。

「あなたは、船頭の仕事があります。今が重要な時期なのです。放り出してしまうのは、いささか無責任ですよ」
「むう……」

そう言われると、その通りだが……。

「大丈夫です。すべて、私たちに任せなさい。あなたの想いは、しっかりと引き継ぎます。心配せずに、心安らかにいなさい」

白蓮は、笑みを浮かべて言った。圧倒的な包容力を、村紗は感じた。
確かに、皆に説明するのなら、一番の当事者である村紗がするのが筋だろう。
だが、里の人間に尊敬されている白蓮なら、代理としても問題があると思えない。いや、村紗がやるよりも、多くの人を納得させられる。

筋を気にするプライドは捨てるべきだ。自分の願いは、ゆいを彼岸に送ること。それが、至上目的なのだ。

「……分かりました。聖、よろしくお願いします」

村紗が頭を下げると、白蓮は、任されました、と柔らかい声で言った。

それから、皆はどんなお守りを作ったらいいのか話し合う。家内安全、安産祈願、無病息災。いろいろな案で盛り上がる。

皆の助けを得て、ゆいの彼岸渡航の署名活動が始動した。







唯一の光源であるランプが、机を橙色に染めている。

そして、文は、ようやく夜になっていることに気づいた。

「はあ、もうこんな時間か……」

筆を置き、椅子の背もたれに背中を預ける。
調子よく記事を書いているときは、時間が経つのを忘れる。自分の集中力にはたまに驚かされる。
しかし、寝食を忘れてしまうのは健康に良くない。なおざりにすると妖怪でも健康を損なう。
そうすると新聞の記事が書けなくなるかもしれない。それは、文にとっては耐えられないことだった。

「……うーん、こんな感じでいいのかしら……」

七割がた埋まった原稿を見直す。今回の記事は、事実の列記や自分の考察だけでは足らない。
人に訴えかけ、協力を求めないといけない。そんな記事など滅多に書いたことがないので、文には勝手が分からなかった。

しかし、やらなければ。
友達というか、悪友というか、でも、大切な人には間違いない人からの依頼を受けたのだ。手を抜いてがっかりさせたら、気持ちよくない。

こういう考えが生まれたのは、間違いなく、あの人の影響であろう。
暢気で細かいことは気にしないけど、誰よりも熱くて優しい人。他人を認めることは滅多にしない文にとって、彼女はその数少ない人物だった。

打算とか裏とか、あの人と付き合っていると、それらがつまらないものに思えてくるから不思議だった。
長いこと生きてきた文だが、そんな人物には、この千年、一人たりとも会ったことがなかった。

「よし、もうちょっとつめよう。そしたら、適当な物を食べればいいや」

そう考え、文は再びペンを取って、原稿に向かった。
書き終わったら、すぐに新聞を刷り、朝早くに号外として配らなければならない。いまは時間が足りないのだ。

そうやって、ペンを動かし初めて五分くらい経つと、

コンコン

と、玄関のドアが叩かれる音がした。

「ん?」

それに気づき、文は返事をしようと思った。
だが、その前にノブが動いてドアが開かれた。

「おーっす、文いるー?」

顔を見せたのは、自称、ライバルと公言している鴉天狗だった。文は、嘆息する。

「返事を聞かずにドアを開けないでください。あなたはそんなに偉くないです」
「なに細かいこと気にしてんのよ。別にいいじゃない」

全く悪びれもせず、姫海棠はたては小さく口の端をつり上げた。
そして、さっさと靴を脱いで、上がり込んでくる。

「ほらほら、客が来たんだから、お茶くらい出しなさいよ」
「そんな不遜な人に出すお茶などありません」
「けちくさいわねー。新聞から滲み出てるそのものだわ」

好き勝手なことをぶちぶち言っているはたて。これ以上は時間の無駄だと、文は用件を聞くことにした。

「で、何ですか、こんな夜に。勧誘なら間に合ってますよ」
「あんたの記事が読みたいのよ」

あまりにも意外なことを言ったので、文は数秒意味を考えてしまった。

「……は? 何でですか?」
「敵を知るのは実力アップの最善方法。だから来たのよ」
「意味が分かりません」
「しょうがないなー。めんどくさいけど説明してやるわよ」

もったいぶった言い方をして、はたては事情を話し始めた。

「あんた、いま新聞で連載してるでしょ。貧乏死神シリーズの最新記事」
「? はい、してますが?」
「それがやたら好評らしくてね。私の耳にも届いたわけよ。私の周りは、その話題で持ちきりだったわ」
「ほう」

それは、とても嬉しい知らせだ。

「それを伝えに来たんですか? ご苦労なことです」
「何でそんなのを伝えに来なきゃいけないのよ。そうじゃなくって、前の貧乏死神シリーズ、あるでしょ?」
「? ありますけど?」

文の最高傑作として、しっかりと保存してある。

「それ、読ませてよ」

はたてがそう言うと、ようやく来訪の意味が分かった。

「どうして、こんな時間にくるんですか。明日の日中でいいでしょうに」
「記事の実力アップするには、時間がもったいないのよ」
「しょうがない人ですね……」

他人の都合を全く考えないところは、さすがに他人の接触を断って家に引きこもってただけある。

「いま、忙しいんです。他の人に見せてもらえばいいじゃないですか。たぶん、保管している人がいるんじゃないですか?」
「見つけるのがめんどいのよ。あんたに直接見せてもらった方が早いでしょ?」
「……」

嘆息極まれりだった。

「そこの戸棚の中にあります。勝手に探してください」
「よーし、じゃあ拝見しましょうかね」

いそいそと戸棚に向かうはたて。

「ん? あんた、いま連載中のやつ書いてるの?」

その前に、はたてが聞いてきた。

「違います。これは、明日の朝に配る号外です」
「号外? なんでよ?」
「説明するのがめんどくさいので、話しません」
「ちぇーケチねぇ。じゃあ、直接見るわ」

そう言って、文の机に近づいてくるはたて。そして、文がいま書いている原稿をのぞき込んだ。

「なになに? 『署名募集 命を救うために』? なにこれ?」

題字を見て、はたては首を傾げた。

「見ての通り、署名を集めるための記事です」

文はペンを走らせながら、簡潔に答えた。

「えーと、……なに、この人間の子供なの? 命を救うってのは」
「そうです」
「なによ、つまんないことやってるわねー。どうでもいいじゃないの、人間なんて。署名を募ったって誰も来ないわよ」
「……」
「あんたは犬が死んでいたら、心を痛めるわけ? あはは、どうでもいいわ。そんな時間があったら、私は新聞を書いてるわよ」
「……」
「な、なによ」
「取り消しなさい」
「は?」
「ゆいさんの命を、犬と呼んだことを取り消しなさい」
「な、なに怒ってんのよ……」
「ゆいさんは、千年も苦しんできた。そして、ようやく光が見えた。その光を掴むには、私の記事が必要なんです」
「……」
「あなたには、絶対に分からないでしょう。人間の素晴らしさが。ただ漫然と暮らしている妖怪よりも、命を懸けて研鑽した人間の魂の方が、はるかに眩しい。人間は、想像を絶する可能性の固まりなんです」
「……」
「帰りなさい。不愉快です。しばらく来ないでください」

文はそれだけを言うと、はたてを睨むのをやめ、再び机に向かった。

五分後、はたては小さく舌打ちし、玄関のドアに向かい、静かに外に出ていった。







「……よし、出来た」

最後の印刷を完了し、文は一息ついた。
結局、徹夜である。原稿を気に入るまでリテイクしたため、予想以上に時間がかかってしまった。

原稿を書き終わると、新しく買った小型輪転機をフル回転させ、実に五千枚もの号外を刷り上げた。
机に積み上げられている号外の山。これを今日の朝中に配らなければならない。
いまは五時。ちんたらしてられない。

「よし……じゃあ、行こう」

朝ご飯は、これが配り終わったらだ。まだまだ頑張らなければ。
文は、壁に掛けてあったたすきを肩に掛け、そして、新聞の束を抱えた。
おそらく、十回家を往復すれば終わる。早く、配り終えよう。

文は、玄関に向かった。

「……」

そして、ノブを捻り、ドアを開けると、そこには人がいた。

「や、や。おはよう」

ぎこちない笑みを浮かべ、挨拶してくる。

「なんですか? しばらく来るな、と言ったはずですが」
「い、いや、そうなんだけど……」
「私は忙しいんです。申し訳ないですが、また後で」
「あ、あのさ!」

文が横を通り過ぎようとすると、はたては呼び止めた。

「わ、私にも手伝わせてくれない!?」

その言葉に、文は足を止めて振り返った。

「た、多分、部数がいっぱいあるでしょ? だから、私と手分けした方が早いんじゃないかな、と思ってさ」
「……」
「い、いや、もちろん、何にもいらないよ! ボランティアってやつ? あ、あはは……」
「……」
「だ、だからさ。手伝ってあげるよ。恩を売るとか、そんなのはないからさ!」

文は、眉一つ動かさずに、はたての顔を見つめていた。

「だ、ダメ……?」

そんなはたてに、文は大きなため息をついた。

「あなたは、たった三文字の謝罪の言葉を知らないのですか?」
「え?」

驚いたような顔をするはたてだが、言葉の意味が分かると、真剣な顔になった。

「……ごめん」

それを聞いた文は、ようやく表情を緩めた。

「中に刷り終わった新聞があります。持ってきなさい。あなたは北担当、私は南です」
「あ、う、うん! 分かった!」

はたては、ぱっと明るい顔をし、急いで家の中に入っていった。

文はやれやれといった感じで、苦笑に似た笑顔を浮かべた。







午前八時。
朝にも関わらず、気温は高い。日光を受けなくとも、じんわりと汗が浮かんでくる。
夏はそんなに嫌いではない。というより、それぞれの顔を見せる四季を肌で体感するのが、一輪は好きだった。

「お待たせしました。では、行きましょう」
「はい」

白蓮が靴を履いたのを見計らい、一輪は玄関の戸を開けた。

すると、トンテンカン、という軽快な音が大きくなる。
境内の脇にある、道具を収納する小屋。その前に、木槌を持って作業をしている星、それを手伝っている様子のぬえがいた。

「お疲れさま。出来そう?」

そんな二人に、一輪は声をかけた。

「ん? ああ、それほど手間をかけずに出来るよ」

星が笑顔で答えてきた。いつもの虎柄の服を脱ぎ、薄着一枚だ。紐で袖を縛っている。
日光で照らされた腕は、引き締まっていて余分な肉がない。さすがに、虎の化身か。胸が膨らんでいなければ、男と間違えるかもしれない。

「ご苦労様です。私たちは二時間ほど出てきますね」
「はい、よい結果を祈っております」

白蓮がねぎらい、星は成果の結実を願う。

「ぬえも、ちゃんとお手伝いするのよ」
「へいへい、分かってるわよ」

一輪が釘を刺すと、面白くなさそうに、ぬえは口を尖らせた。
普段は、もう遊びほうけている時間だから、仕事をするのが嫌なのだろう。

「じゃあ、行きましょうか、聖」
「そうですね」
「いってらっしゃい」

星の見送りの言葉を受け、二人は門の出口に向かった。

「それにしても、ぬえはよく手伝う気になりましたね」

あれだけ気まぐれで自分勝手なぬえが、星の手伝いをしている。普通なら、考えられないことだった。

「ぬえを子供扱いしてはダメですよ。あの子なりに頑張っているんですから」
「うーん、どうしても妹扱いしちゃうんですよね」

手間のかかる妹。白蓮はそう考えてはいないのか分からないが、他の面々から見たら、ぬえは共通の妹だった。

「それに、気づきませんでしたか?」
「はい?」

白蓮の質問の意味が、一輪には見当がつかなかった。

「あの子、昨日にムラサの手伝いに行って帰ってきたら、雰囲気が変わっていました。前よりも、良い気配がしました」
「え、そうですか? 私には分からなかったです」

完全に、いつものぬえだと、一輪は思っていた。

「おそらく、いま、三途を渡ろうと頑張っている子供に共感したのでしょう。いろいろと面倒見たそうじゃないですか」
「ああ、夕食の時、そんなことを話してましたね。でも、めんどくさかったとか言ってませんでしたっけ」
「それは、口だけですよ。本心は違います。楽しかったんでしょうね。もしかしたら、母性のようなものを抱いたのかもしれません」
「ぼ、母性……」

ぬえとは、縁遠いように聞こえる言葉だった。

「あの子も、たくさん経験して成長しています。妖怪は、精神が命です。肉体は滅びないから、精神の鍛錬は不可欠なのですよ」
「そうですかねぇ。あの子は、あのままでも愛嬌があっていいような気がしますけど」
「大人になったら寂しい、ですか?」
「そんなところですかね」

二人は他愛のない話をして笑いながら、里の入り口を目指してテクテク歩いていった。



昨日の夕食時、命蓮寺のメンツが考えた署名活動の内容は、こうだった。

まず、星・ナズーリン・一輪がお守りを作った。
白蓮の演説を聞きに来てくれた人全員に配る贈り物である。
どのくらい作ればいいのか分からなかったが、とりあえず五百個を作った。それに三人が、それぞれ『家族円満』『安産祈願』『無病息災』の願いを込める儀式をした。
修行をしている三人の作ったお守りは、普通のお守りよりも桁違いに御利益がある。それを無料で配ろうなど、破格もいいところだ。

その間、白蓮が演説の原稿を作った。夜通しやっていたらしい。
絶対に手を抜いてはならない。そんな白蓮の声が聞こえるようだった。

朝になると、二チームに分かれた。

一つは、命蓮寺での作業組。星とナズーリンとぬえだ。
彼女たちは、木材を使って案内板を作り、演説が行われる講堂までの道順を案内する。
そして、その講堂に、ナズーリンが冷気を生み出す術をかけ、室内を冷やす。タダでさえ夏なのに、人が大量に密集したら、蒸し風呂になる。この辺の配慮は、白蓮が考えた。

二つは、里での聴衆集め。白蓮と一輪だ。
彼女らは、里を隅から隅まで回り、ビラを配り回る。演説の内容、日時、場所、プレゼントの配布。それらを紙にまとめた。
白蓮が複写の魔法を知っているので、ビラ作りにそれほどの時間はかからなかった。便利なものである。
そして、最初は、一輪だけで行こうと思っていたのだが、「演説者が、演説を聞いてもらえるように出向いたほうが、誠意は伝わる」と白蓮が言ったので、彼女も里に行くことになった。無論、白蓮自らが行く必要はない、という者もいたが、白蓮が珍しく強引に押し切った。

そんなわけで、一輪は白蓮を先導しながら里に向かう。
村紗の願いは、もうすでに命蓮寺のみんなの願いだった。



命蓮寺を出発して、五分。
里の東の入り口に二人は到着した。

「さて、行きましょうか」

一輪は拳を軽く握り、やる気を捻出した。

「姐さん、チラシをお願いします」
「分かりました」

一輪は白蓮の前に、ハンカチのような小さな袋を出した。
何かが入っているのか、膨れている。
一輪は、その袋の中から、何かを取り出した。それは、手のひらに載るほどの、実に小さい紙の束だった。

そして、白蓮が小さく何事か呟くと、紙の束が一気に引き伸ばされたように大きくなる。
一輪の右手の上には、百枚程度のチラシが出現した。

「姐さんも、お願いします」
「ええ」

白蓮は、一輪から袋を受け取り、中から同じように紙の束を取り出す。同じように呟くと、チラシが出現する。
要するに、物の拡大縮小の魔法である。非常に便利で、引っ越しなどをするときに、この魔法ほどありがたいものはない。白蓮は、この術で里に何度も感謝されていた。

「では、行きましょう」

白蓮の声に一輪は頷き、里の入り口を目指した。

しかし、そこに入る直前で、二人は声をかけられた。

「あれ〜、白蓮さんじゃない! 一輪さんも!」

中年の女性だった。その他に二人、同じ年くらいの女性がいる。ひさしの下で、井戸端会議をしていたようだ。

「おはようございます。みなさま、お元気ですか?」
「元気元気! 元気じゃなきゃ、やってられないってね!」
「すぐバテちゃうからねぇ。気ぃ、しっかり持っとかないと」

穏やかに白蓮が話しかけると、女性たちは景気良く返事した。

「今日は、どうなさったんだい? こんなに早くから」
「ええ、これを配りに来たのです」

白蓮は、三人の女性に、ビラを一枚ずつ配った。

「なになに? 『署名嘆願演説の開催 小さな命を救うために』?」
「どういうことだい?」
「実は、いま、小さな子供の命が消えようとしているんです。それを食い止めるために、みなさまの署名が必要なんです」
「ほう、そうなのかい」

白蓮は、実に端的に言った。複雑な事情を一言でまとめたような。

「白蓮さんのお願いとあらば、聞いてあげたいねぇ」
「そうだねぇ。うちの子の膝小僧の怪我を治してくれたのも白蓮さんだからねぇ」
「ありがとうございます。ぜひ、足を運んでください。お越しになった全員の方に、うちの寺で作ったお守りを差し上げます」
「ほう! それはいい!」
「命蓮寺のお守りかい。それは、御利益がありそうだねぇ」
「タダなのかい?」
「ええ、無料です。ご家族やご友人を誘ってお越しください」
「こりゃ、いいことを聞いたね。早速みんなに伝えないと」
「ああ、そうだ、白蓮さん。そのビラ、まだ配るのかい?」
「え? ええ、千枚近くありますからね」
「そりゃ、大変だ! じゃあ、あたしらで手伝ってやろうじゃないか!」
「え? いえ、そんなことをさせるわけには……」
「大丈夫大丈夫、気にしないでいいから」

そういうと、女性の一人が白蓮の手にあるビラを、全部取り上げた。

「この辺の家に全部配ってやるよ。白蓮さんたちは、他に行くといい」
「本当によろしいのですか? お忙しいでしょうに」
「そうね、井戸端会議が忙しいんだよねぇ」
「そりゃ、忙しいって言わないねぇ」

からからと、女性たちは笑う。

「じゃあ、あたしらは手分けして配るよ。はい」
「よし、じゃあ、行ってこようか」
「白蓮さんたちも頑張りなね」

そう言って、女性たちはビラを持って手近な家から訪問し始めた。

「……何というか、みなさん元気ですね」
「そうですね。健やかで良いことです」

一輪が少し唖然とすると、白蓮は嬉しそうに笑った。



それから、一輪たちは里中を回った。
人間の里は広い。二人だけでは、昼頃に終わるはずだった。

しかし、驚いたことに、次に話しかけた青年も、先ほどの女性のように手伝いを申し出た。
その次の中年の男性も、その次の子供たちも。
白蓮が望んでいないにも関わらず、手伝いたい、という人が後を絶たなかった。

おかげで、千枚あったチラシが、あとたった五十枚になった。わずか、一時間足らずのことである。

一輪は、白蓮の慕われ方がこれほどとは思わなかった。
手伝うのが当たり前、という思考が出来ているのだ。それは、深く慕っているからに他ならない。

聖輦船が地上に出て、四ヶ月しか経っていないのに、白蓮は、もう里の人たちの多大な信頼を受けている。
改めて、聖白蓮という存在の偉大さに気づいた一輪だった。



「もう、回るところないですよね?」

一輪が念のために聞く。

「そうですね……東西南北、八方は行き尽くしましたね」

二人は、里の中心にいた。商店が立ち並び、活気にあふれていた。

「あと、これだけですね。じゃあ、ここで配っちゃいますか?」
「そうですね。もう、それほどかからないでしょう」

二人は五十枚のビラを分けあい、道行く人に声をかけ始めた。

「よろしくお願いします」
「ん? おお、白蓮さん! お世話になっています」
「あら、私をご存じですか?」
「あ、申し訳ない。俺が一方的に知っているだけでして」
「なるほど、失礼しました」
「白蓮さんは、ここで何を?」

白蓮が、今までの人同様、いきさつを説明する。

「なるほど。じゃあ、俺も手伝います」
「え? しかし……」
「いいってことですよ。命蓮寺に賽銭を入れ始めてから、いいこと付くしで感謝してるんです! 博打でほとんど負けなしですからね! このくらい安いもんですよ」
「そうですか、では、お願いします。でも」
「?」
「博打は程々にしましょうね」
「はは、分かりました。他ならぬ白蓮さんの言葉なら、素直に聞けそうです」
「ふふ、ありがとうございます」
「じゃあ、俺はこれで。演説、頑張ってください! 絶対聞きに行きます!」

青年は、ビラを持って道行く人に配り始めた。

そして、白蓮は一つため息をついて、一輪の方を振り向く。

「……なんですか?」

一輪は、笑顔で自分のビラを白蓮に差し出していた。

「姐さんがやれば、十秒で終わります。よろしく」
「バカなことを言うんじゃありませんっ」

実に面白い表情をしている白蓮を、一輪は面白そうに笑った。







命蓮寺に戻ってくると、門の前に立て札が立ててあった。
『←演説会場』
と毛筆で書かれてある立て札である。

「星さんたちは、もう仕事が終わっているようですね」
「そのようですね。案内に従って歩いてみましょうか」

二人は矢印の方に進み、会場となる講堂を目指した。道順はもちろん知っているが、ちゃんと矢印の通りに進めば講堂に着くのか確認するためである。

立て札は、全部で四枚あった。分かれ道や分かりにくいところにちゃんと立てられてあり、迷うことはないと思われた。

そして、無事に講堂に着いた。
中に皆がいるようで、かすかに会話が聞こえてきた。

「お疲れさまー」

一輪は、講堂入り口の賽の目状の戸を右に開けた。
瞬間、

「うわ、涼しいわねぇ」

まるで、講堂の中が冬になってしまったような錯覚を覚えた。

「お疲れ。もう終わったのかい?」

講堂の中心に座り、こちらに背を向けていたナズーリンが振り向いて言った。
この講堂の涼しさは、ナズーリンが作り出したものだろう。
二人は靴を脱いで畳を踏み、みんなが座っているところに向かった。

「ええ、姉さんの人徳があってね。あっという間に終わったわ」
「なんだい、人徳って?」
「まあ、座って話せばいい。炎天下を歩き回ったんだ。喉も渇いているだろう」

まだ薄着一枚でいる星が言った。そして、横にあった麦茶の入っている水差しを使い、コップを二つ用意して注いだ。

「ありがとうございます。なんか、けっこう時間がかかるかと思ったけど、みんな早めに終わったわねぇ」
「私も手伝ったんだよ」
「はいはい、偉いわ。普段からお手伝いしてくれると嬉しいわね」
「それは私の気分次第。今日は、唐揚げが食べたいなぁ」

そんなことを言うぬえに、一輪は苦笑した。

「はい、聖もお疲れさまでした」

星は、麦茶の入ったコップを二人の前に置いた。

「ありがとう。みなさんのおかげで、すぐに配ることができました。感謝しないといけませんね」
「何か、良いことでもありましたか?」

星が聞くと、白蓮はいきさつを話した。

「ほう、それは殊勝ですね」
「聖のことを想う者がどれだけいるか、よく分かる結果だ」

星とナズーリンが感心するように言った。

「じゃあ、いっぱい来てくれるかな?」
「いや、まだ分からない」

ぬえの期待に、ナズーリンが冷静に答えた。

「聖自らチラシを渡したのなら、効果は絶大だっただろう。だが、実際にチラシを配ったのは単なる里人だ。効果は半減していると考えてもいい」
「むっ、じゃあ、私たちがやったことは、あんまり意味がなかったってこと?」

一輪が少し不満そうに言った。

「いや、チラシを配るのを手伝ってくれる、という好意を無碍にするべきではない。この場合は、どうやったって里の人間に手伝ってもらう以外になかったんだ。だから、意味がないなどということはない」
「要するに、手伝ってもらうのは必然だったってことだね」
「なるほど」

ナズーリンと星の説明に、一輪は納得した。里人は、白蓮自らチラシを配っているのを発見したら、絶対に手伝おうとしてくる。それを追い返すなど、出来ようもない。

「まあ、人事は尽くしました。あとは天命を待ちましょう」

白蓮が悟ったような口調で締めた。

「ねぇ、今日のお昼は?」

ぬえがそんなことを聞いてくる。

「まだ、十時過ぎくらいよ。もうお腹減ったの?」
「いいじゃん、ただの確認よ」
「そうねぇ、ソーメンでもしようかしらね」
「えー、こないだ冷や麦だったじゃん」
「お中元でまだ余ってるのよ。全部食べるまで毎日ソーメンかもね」
「いや〜!」

恐ろしいことを一輪が言うと、ぬえはくねくねした。
全員の笑いが漏れる。

「何で、お中元はソーメンが多いんだろう。何か理由があるのだろうか?」
「うーむ、定番だからかな?」
「引っ越しの時に必ず蕎麦を配るのと同じかもね」
「でも、ソーメンでなければならない理由はない。酒や醤油などでも許されるだろう」
「ソーメンが無難ってことかもしれないな。ありきたりだけど、相手に一定の好感を与えるとか」
「どんな贈り物でも、貰うほうは嬉しいものですよ。大切なのは、好意です」
「えー、でも、ぱんつとか送ってきたら引くわー」
「君は、どうしてそういう極端なほうに行くんだ」

ナズーリンがつっこむと皆が笑った。

実に柔らかい空気が流れる。
白蓮が演説するまで、あと、二時間半あまりのことだった。







「よーし、これで午前中は終わりにしよう」

舟が桟橋に着くと、あたいはひらりと飛び乗った。

「お疲れさん。なかなか良かったよ」
「ありがとうございます」

額に汗を滲ませて、村紗ちゃんはロープで舟を桟橋に固定する。もう慣れた作業だ。

九時から正午までで、村紗ちゃんは、前後ターンと下流上りを覚えた。いいペースである。いや、今までも順調だったけど。

ともあれ、これで研修の課題は、村紗ちゃん単独での十本渡しだけだ。それが終われば、晴れて村紗ちゃんは一人前の船頭になれる。
ピカピカの船頭が、これからどう仕事をしていくのか、とても楽しみだった。

「じゃあ、昼飯食おうかー。今日はなんだい?」
「一輪は卵焼き弁当とか言ってましたね」
「おっ、いいねぇ。村紗ちゃんは砂糖を入れる派かい、入れない派かい?」
「ええっと……どっちもです」
「別に砂糖入りが好きな大人もいるから、あたいは偏見しないよ?」
「いや、そんなこと、一言も言ってないし……!」

懸命に否定するが、村紗ちゃんが甘党なのは、あたいの鋭い観察眼ですでに見抜いていた。

からかいながら、昼寝岩に向かう。日陰が恋しい季節だ。
その上には、ゆいちゃんがちょこんと座っていた。

「お待たせしたね。それじゃ、お話しようか」
『うん』

大人しくしていれば、お母さんに会える。それを、きちんと守っているのは、とても健気だった。

ぬえちゃんは、今日の白蓮さんの演説に向けて、命蓮寺のみんなと準備をすることになっている。
午前中で準備をし、午後一時半に開演である。ぬえちゃんは、準備を終え、お昼を食べたらここに来ることになっているのだ。

だから、ゆいちゃんを説得するのが大変だった。泣かしてしまう寸前まで行った。朝から遊ぶつもりでいたから、当然だった。
何とか村紗ちゃんと二人がかりで納得させた。お母さんは急用が入ってしまった、お昼に絶対来るから、そうしたら遊べばいい。そんなことを繰り返し言った。

ゆいちゃんは基本いい子なので、何とか受け入れてくれた。まだ子供であり、千年ぶりの母親との再会を果たしたのだから、感情的になってもおかしくない。我慢強い子だと思った。

「よーし、弁当食べるよー」
「いただきまーす」

あたいたちは、弁当のふたを開いた。
あたいのメニューは、昨日作った炒飯の残りである。あと、たくあん。……わびしいという声が聞こえるようだ。

村紗ちゃんは、相変わらず彩り豊かな弁当だった。妖夢の弁当を思い出すなぁ。

「はい、ゆいちゃん。あーんしてください」

村紗ちゃんは、卵焼きを一つつまんで、ゆいちゃんの鼻先に出した。黄色と白をしている柔らかそうな卵焼きである。
ゆいちゃんは、小さな口を開いて、ぱくりと食べた。

「どうですか?」

村紗ちゃんが期待を込めたまなざしで聞く。

『甘い』

ゆいちゃんは、一言、口にした。

「そうでしょう? 美味しいですか?」
『うん、美味しい』
「じゃあ、もう半分あげましょう。私も食べたいですからね」

そんな感じで、村紗ちゃんはゆいちゃんに弁当を分け与えた。

「演説、成功するといいねぇ」

あたいは、軽い口調で言った。

「妖怪にも助けてもらえればよかったんですけど……」
「まあ、人間を助けようなんていう奇特な奴は滅多いないだろうねぇ。助けを求めて手を差し伸べてくれるのは、やっぱり人間だね」

今回の署名集めは、とにかく数が勝負だ。
なので、里で細々と暮らしている人間より、圧倒的に数の多い妖怪の力を借りるのが定石だ。

しかし、白蓮さんが難色を示した。
人間の子供、ゆいちゃんに同情してくれるのは、妖怪よりも人間だと。
そして、妖怪は人間の手助けをするような価値観は持っていない。きっぱり言ったらしい。
人間と妖怪の垣根のない世界を目指している白蓮さんだったが、現状を誰よりも知っているからこそ、こういう冷静な分析が出来たのだろう。

「里の人間って、いったいどのくらいいるんでしょう。考えたこともありませんでした」
「えーとね、慧音さんが言うには、幻想郷全土に五千人いるって。里に人口は集中していて、四千人くらいいるらしいよ」
「そうですか……つまり、最低でも四人に一人の署名を貰わないといけないということですね」
「現実的な数字じゃないか。多分、充分に可能だよ」
「そうだといいんですが……」

心配そうな顔をする村紗ちゃん。命蓮寺のみんなと一緒に頑張りたい気持ちでいるのだろうか。

「まあ、命蓮寺の人たちに任せればいいさ。すごい人たちばかりなんだから」
「はあ、信じていないわけじゃないですけど。それに、みんなに比べたら、私に出来ることは微々たるものです」
「村紗ちゃんが今やることは、一人前の船頭になることだ。みんなが願っている。それに応えればいいだけさ」
「……そうですね」

今日は、研修を休んですぐにでも手伝いたいのだろう。
しかし、四季様の心証を悪くしたら大変だ。どんなペナルティを言ってくるか分からない。

あたいは、四季様に研修内容を報告する仕事があり、結果をちゃんと伝えなければならない。そして、四季様はあたいを推薦した閻魔王様に報告するだろう。
嘘なんか書いたら一発でばれる。だてに閻魔ではないのだ。四季様はゆいちゃんの事情を知っているが、研修をさぼってやっていいなんていう理屈はない。

それに、村紗ちゃんはゆいちゃんを自分の手で彼岸に送りたいだろう。クビになって、それを不意にしたら元も子もない。

「きっとたくさん集まるさ。前向きに考えよう」

あたいが励ますと、村紗ちゃんは、はい、と、まだ心配そうに頷いた。







午後一時十五分。

「演説会場はこちらでーす。暑い中、ご来場ありがとうございまーす」

命蓮寺の門の入り口で、一輪は大きな声を出していた。
一時前に客の出迎えに出たが、ちらほらともう客が来ていた。
あわてて対応し、現在に至る。十五分前となった今、次々と客が門をくぐっていった。

(どうなのかしら。印象では、たくさん来ているようだけど)

数を数えていなかったので、どのくらいの客が来ているのか分からない。目標の千、というのはかなり大きな数だ。
多いに越したことはない。千を割ったときの、村紗の落胆した顔が容易に想像できた。

一輪は、一生懸命、呼び込みをする。ここで印象を悪くすることは出来ないのだ。

「一輪」

すると、名を呼ばれた。横に、いつの間にかナズーリンが立っていた。

「どうしたの?」
「いい報告だ。贈り物のお守りが尽きた」
「あら!」

確かに、良い報告だった。

「けっこう来てるわね。数を数えていなかったけど、お守りは五百個くらいあったわよね」
「ああ、順調と言えるかもしれない。まだ、開演まで十五分もある。これから続々と客が来るはずだ」
「うん、好調ね」

署名集めなど初めての経験だったので、来てくれる客の数など見当がつかなかった。
だが、今の調子なら、成功に終わる目算が強くなってきた。

「でも、お守りを渡せなかった人たちはどうすればいいのかしらね。全員にプレゼントするって言っちゃったしね」
「ご主人が整理券を配っている。後日、それを持っている者にあげればいいだけだ」
「あ、なるほどね」

この辺の臨機応変さは、頭のいい主従の得意とするところだった。

「では、ここを頼む。私は、講堂の客に対応する」
「うん、よろしくね」

報告を終え、ナズーリンは自分の持ち場に戻っていった。

「よし、頑張りましょう」

新たに気を引き締め、一輪は呼びかけを続けるのだった。



講堂内。
冷房の術が効いているが、多くの人が詰め込まれているため、やや温度は上昇しているような気がした。

一歩間違えば、おしくら饅頭になりそうな状態。
白蓮は、その光景を正座しながら落ち着いて見つめていた。
講堂がこんなにも人で埋まるなど、四ヶ月という短い時間の中で無かった。
呼びかけに応えてくれた人たちに感謝をしつつ、その時を待った。

「聖」

呼びかけたのは、星だった。

「調子はどうですか?」
「順調です。すぐにでも始められますよ」

余裕の表情で白蓮は言う。

「あと五分で開始します。気を落ち着けてお待ちください」
「うん、ありがとう」

演説内容は、すべて頭に入っている。あとは、どれだけ人々に共感を与えるかだ。

「それにしても、予想以上の人たちが来てくれましたね」
「立ち見の客が出るかもしれません。その場合、障子を取り外しますが、問題ないですね?」
「良いですよ。不快な思いをさせないように気をつけなさい」
「分かっています。帰られたら、困るのは私たちです。ムラサのためにも、つまらないことで署名数を減らしたくない」
「そうですね」

白蓮は、ムラサのことを考えた。
今頃、研修に励んでいるだろう。ゆいを、一日でも早く彼岸に送りたい気持ちを抑え、白蓮たちにすべてを任せた。
その期待に応えなければ、落胆させてしまう。なんとしても、成功を収めなければならない。

「……そろそろ参ります。聖、よろしくお願いします」

星の声に、白蓮はしっかりと頷いた。







「皆様、ご静粛にお願いします」

星がざわざわとしている客たちに、大きな声で呼びかけた。

「これより、聖白蓮の演説会を行います。少しの間、ご静聴をお願いします。なお、演説内容に共感を覚えた方は、お名前の署名をお願い致しますので、どうか、よろしくお願いします」

星は深々と一礼し、顔を上げると同時に白蓮のほうに視線を投げた。
白蓮は立ち上がり、聴衆の正面に歩み寄る。星はそこを譲り、端の目立たないところで座った。

白蓮の姿が見えると、次第に拍手が起こり、それが伝染して会場内は手を打つ音で満たされた。

それが小さくなるのを見計らい、呼吸を落ち着け、白蓮は第一声を発した。

「たくさんの方々にお集まりいただき、誠にありがとうございます。今日は、皆様に大事なお話があり、お忙しい中、時間を割いていただきました。どうか、最後までお聞き下さいますよう、お願いします」

白蓮は、最敬礼をする。拍手が、観客席から再びあがる。
それが落ち着いてから、白蓮はゆっくりと口を開いた。

「あなたの手で、小さな命を助けて下さい」

演説の第一声が、それだった。
ざわ、とかすかに客席がざわめく。

「賽の河原という場所があります。幼くして命を散らせてしまった子供が、人生の苦しさを味わうために、そこで石を積んでいます」

白蓮は、右手を胸に当てて続けた。

「人間は、百年で力尽きる。天寿を全うしたとも言えます。つまり、人間は百年あれば、悔いのない人生を送れるように定められているのです」

白蓮は、左手を挙げ、両手の平を胸に当てた。

「賽の河原では、千年、石を積んでいる子供がいます」

多くの者が、目を見開いた。

「私たちは、この子を救いたいと思っています。十にも満たない人生だったにも関わらず、百年で充分人生を送れる人間にも関わらず、実に十倍もの時間、その子は石を積み続け、苦行に耐えています」

白蓮は、ゆっくり両腕を開いた。

「あまりにも可哀想だと思いませんか? 千年は、新しい命として生まれ変われる長い時間です。その子は、それを許されず、ただ、石を積むしかない。それを、強制されているのです」

白蓮は、体の前で手を組んで続けた。

「私たちは、それを非道なことと思い、彼岸の閻魔に話を持ちかけました。しかし、彼岸の閻魔が定めた法は、それを許しませんでした。ただ、一つの可能性を残して」

白蓮は、左手を胸に当てた。

「その可能性とは、紛れもなく、その子を助けられる可能性でした。法を変えることができるのは、閻魔の上につく十人の閻魔王たち。その閻魔王たちに嘆願し、法を変えさせるしかないのです」

白蓮は、両手を胸に当てた。

「閻魔の出した条件は、法を変えさせたいと願う千人の署名でした。それがあれば、閻魔は閻魔王に意見することができる。法を変えさせる望みがあるのです」

白蓮は、少しだけ俯いた。

「私たちは、もちろん、その子を救いたい。しかし、それ以上に、これからの未来を懸念しています。これから先、何の罪もない子供が、賽の河原という寂しいところに、いることを強制され、石を千年積み続けるという事態が必ず起こる。簡単に想像できることです」

白蓮は、顔を上げ、意志を込めた瞳で前を見据えた。

「皆さんが親となり、もし、不幸で子が若くして亡くなったとき、賽の河原に永遠に閉じこめられるかもしれない。愛の末に産まれた子供が、皆さんが死ぬよりも長い時間、苦行に耐えなければならないのです。そんなこと、皆さんに耐えられますか?」

白蓮は、周りを見渡して言った。

「お子さんのいる方。我が子がそんなことになったら、どう思うでしょうか? お子さんたち。仲の良い友達が、そんなことをさせられたら、どう思いますか? これから命を紡ごうとしている方たち。そんな希望のない世界で、子を作ろうとできますか?」

白蓮は、両手を胸に当てた。

「そんな未来は、私たちは望んでいない。死とは、旅立ち。新しい人生を迎えるために、死があるのです。それを許されない未来など、認めることはできません」

さらに、白蓮は続ける。

「あなたが、未来を希望にあふれるものにしたいと、少しでもお考えなら、私たちに力を貸して下さい。賛同の気持ちと、紙に名前を書くだけの労力。それだけで、これからの未来が明るいものになるのです」

白蓮は、再び、両手を体の前で組んだ。

「どうか、お願いします。あなたの未来を守るために。私たちに力を貸して下さい。どうか、お願いします」

そして、腰を折って、白蓮は深々と一礼する。
その姿は、まるで自分の子供を助けたいと訴えている母親のようで。
観客の心に、強く、強く訴えかけた。

どこかから、小さな拍手があがる。
それは少しずつ大きくなっていく。さざ波が広がっていく。
講堂内は、拍手と歓声に包まれる。たった十分の間に、熱狂的な渦が巻き起こった。

白蓮は、ゆっくりと頭を上げる。
その顔には、穏やかな笑みが浮かべられていた。







「ありがとうございます。こちらにお名前を書いて下さい」
「どうもありがとう。頑張るよ」

星とナズーリンは、署名を集めるのに追われていた。
誰一人として、そのまま帰る者はおらず、我先にと署名をするため、集まっていた。

白蓮は、老若男女と握手していた。応援の言葉を浴びながら。
端的かつ、短く、分かりやすい演説は、人々の心を捉えた。白蓮たちのやろうとしていること、それが人々の未来に関わってくること。それらをまとめて説明しきった。
ゆいの境遇を話すだけでは、同情しか得られない。やらなければ、これから死ぬ全ての子供の命が不幸な境遇になる。人事ではないと思わせるのが重要だったのだ。

笑顔で、白蓮は握手を交わす。晴れ晴れとした表情だった。







「お疲れさまー!」

講堂の中央にいる皆に向かい、一輪が声をかけた。
靴を脱いで、こちらに歩いてくる。

「いやー、盛況だったわね! 素晴らしかったって、たくさん声をかけられたわ!」

嬉しそうな一輪の顔に、皆の顔が穏やかになる。

「あ、それが集まった署名ね?」
「うん、いまから数を数える。ナズーリン、始めるよ」
「了解」

そう言って、星とナズーリンは連なった名前の数を数え始めた。

「姉さん、魔法を使ったんですか? 十分くらいで、皆の足取りが軽くなってました」
「何もしていませんよ。真剣に、懸命に訴えかけただけです。それに、魔法などを使ったら、不正でしょう。閻魔に見抜かれて終わりです」
「そう言えば、そうですね。後ろめたい気持ちがあったら、いい気がしませんもんね。正々堂々やらないと」

一輪はやや興奮気味だが、白蓮は澄ましたものだった。
彼女が取り乱したり、うろたえたりする姿は、一輪が弟子になって今まで全くないことだった。

「集計が終わった」

すると、ナズーリンがそう言った。

「えっ!? いくつ?」
「489だ。ご主人は?」
「もうちょっと待ってくれ。すぐに終わる」

数を数えるのは、さすがにナズーリンの方が速いようだった。

「うん、私の方は、462だ」
「ということは……489と462を合わせると……」

一輪は、暗算して答えを求めた。

「……えっ?」

それは、一輪の期待する答えと違っていた。

「えっ? ちょっと待って。ナズはいくつだったっけ?」
「……489だ」

ナズーリンは、やや低い声で言った。

「で、で? 星さんは?」
「私は……462だ」

星は、ため息混じりに言った。

「か、数え間違いとかは?」
「ない。あったとしても、誤差でこんなに差があるとは思えない」

ナズーリンが吐き捨てるように言った。

つまり……

「合わせて、951。……千には、ちょっと足りませんね」

白蓮が、きっぱりと告げた。

「そ、そんな……」

あれだけの人数がいて、ほぼ全員が署名したというのに、まだ足りないなどと、一輪は考えもしなかった。

「ど、どうすれば……」

ナズーリンが面白くなさそうな顔をする。星が腕を組んで考え込む。白蓮だけが、いつも通り平静だった。

「やはり、千は難しかったようだ。一回の演説では集まらなかったか」

星が、冷静に分析する。

「……仕方がないな。あと49だ。里全体を回って、今日の演説に来なかった者のところを回るしかないだろう」
「それしかないようですね。まだ、三時です。急げば何とかなるかもしれない」

ナズーリンの対策に、白蓮が同調する。
一輪は、ぺたんと畳の上に座った。

「はあ……そうか……残念ね」
「まだ、諦めるには早い。頑張らなければ。一輪もムラサを喜ばせたいだろう?」

星が励ましてくる。……それはそうだ。あの娘が一番、ゆいのことを気にかけているのだから。
一輪にとっては、妹のような存在なのだ。悲しがらせるわけにはいかない。

「……そうね。じゃあ、すぐに里に行きましょう。四人でやれば、今日中には何とか……」
「うん、やるしかない」
「いちいち事情を説明するのが面倒だな。そのために、今日は演説を開いたというのに」
「過ぎたことは言っても仕方ありません。すぐにやりましょう」

白蓮の言葉に、三人は頷いた。

「あの〜」

すると、講堂の入り口の方で、聞いたことのない声がした。
そちらを全員が見ると、女の子が一人立っていた。

「? どなたですか?」

一輪は、不思議そうに問いかけた。見たところ妖怪のようだが、一度も見たことのない顔だった。

「あ、ここが命蓮寺さんで間違いないですか?」
「ええ、そうですけど……」
「あっ、そうですか。なんか、でっかいところだったから、間違えたかと思っちゃって」

頭を掻く女の子。

「で? 君は誰だい?」

ナズーリンが、やや強い口調で言う。

「私は、鴉天狗の姫海棠はたてって言います。射命丸文の使いで来ました」
「射命丸?」

その言葉で、一輪は思い出した。たしか、ムラサの仕事の斡旋をしてくれたのが、射命丸文という妖怪だった。

「射命丸さんの使いとは、一体どんなことですか?」

星がさらに聞く。

「はあ、これを届けに行ってこいと言われまして。自分で行けって言ったんですけど、忙しいとか返されましてね」

そう言って、はたては靴を脱いで講堂に上がってくる。
一輪は立ち上がり、はたてが持っていた物を受け取った。
それは、名前らしきものが書かれた紙束だった。

「? 何ですか、これは?」
「署名です。あなたたちは、彼岸の法律を変えさせようとしているそうですね。その力になるために、妖怪の山の連中に求めたんです」
「えっ、署名……?」

一輪は、聞き間違いではないかと思った。

「でも、人間の子供に好き好んで同情を寄せる奴なんて滅多にいませんからねー。あんまり集まりませんでした。今も募集中ですが、大した成果は上げられないと思います。とりあえず、今回は52人の署名を持ってきました」
「……」

はたての話に、白蓮も含めて、四人はぽかんとした。

「……ナズ」

最初に声を出したのは、一輪だった。
そして、計算に関しては右に出る者はいないナズーリンに問うた。

「489足す462足す52は?」

その計算式の答えを、ナズーリンは即答した。

「……1003」

全員が、石のように固まった。

「? なに? なんなの?」

様子が明らかにおかしかったので、はたては戸惑っているようだった。

「い……」

一輪が、わずかに声を漏らす。
そして、

「いやったぁーーーー!!」

思いっきり、はたてに抱きついた。

「うわっ、ちょっ、ちょっと!」
「ありがとう! 本当にありがとー!!」
「な、何なのよ……! ちょっと、離れなさいって、離せっつーの!」

いきなり抱きつかれたはたては迷惑がった。しかし、一輪はそんなこと気にしない。渾身の力を込めて抱きついていた。

他の三人の顔に、安堵の笑顔が広がる。
天が、まさに微笑んだ瞬間だった。







太陽が没し、黄昏が空を支配するとき。
あたいは、桟橋に座って彼岸の方を見ていた。

「おっ、来たね」

確認して、立ち上がる。霧から船影が現れ、舵取り棒を漕いでいる女の子の顔が見えた。

ゆっくりと、舟は桟橋に近づいてくる。午後から始めた十本渡しが、無事に終わろうとしていた。

「お疲れ〜。よく頑張ったね」

あたいはねぎらいの言葉をかける。

「ありがとうございます……ちょっと疲れました」

さすがに疲れの色を隠せない村紗ちゃん。そりゃそうだ、休憩もなしにぶっ続けで舟を漕いだんだからね。

村紗ちゃんは、桟橋に舟をつけると、ロープで固定した。

「よーし、これで、研修の全課程は修了だ。おめでとう、これでピカピカの一人前の船頭だよ」
「ありがとうございます。なんだか、あっという間でした」

疲れを顔に出しながらも、村紗ちゃんは柔らかく笑った。

「まさか、三日残しで全部終わるとはねぇ。あたいの時は一週間みっちりやったんだけど」
「早く終わらせたかったですから。これで、気兼ねなく動けます」

背負っているものが、あたいの時と違うのだろう。適当にやっていたあたいより、村紗ちゃんの方が真剣さがある。
それに、真面目だからね。

あたいたちは、話しながら昼寝岩に向かう。
そこには、ゆいちゃんとぬえちゃんがいた。

「あっ、終わったん?」

ぬえちゃんがこちらに気づいた。

「うん、今日で研修は終わり」
「あっそー、よくやったじゃん」
「あら、あなたが褒めてくるなんて珍しいわね」
「きまぐれだよー」

そんなことを言うぬえちゃん。理屈で考えないで、感性で生きているような印象を持っていた。

「ゆいちゃん、お母さんとのお話、楽しかったですか?」
『うん』

少しだけ笑みを見せるゆいちゃん。笑うなど、あたいの時は微塵も見せてくれなかった。嬉しいと同時に、ちょっとだけ悔しく思う。

「何を、お母さんから聞いたんですか?」
『えーと、一寸法師とか、かちかち山とか。あとは、さるかに合戦とか。いっぱい』
「そうですか、楽しそうですね」

村紗ちゃんは、嬉しそうな顔をした。

「私も、ようやくお仕事に一段落つきました。明日、何もすることがなければ、お話しましょうね」
『うん、いいよ』
「はい。じゃあ、行きましょうか」
「そだね。ゆい、明日も来るからね。大人しくしてるんだよ」

ぬえちゃんは、ゆいちゃんの頭を優しく撫でた。

『うん、ばいばい』
「いい子だね。じゃあ、また明日」

そう言って、ぬえちゃんはふわりと浮かぶ。あたいたちも、それに続く。
ぬえちゃんは一度振り返り、ゆいちゃんに手を振った。
ゆいちゃんも、顔を明るくして手を振り返した。



「ぬえちゃん、なかなかやるじゃないか」

充分高度を上げたところで、あたいは口を開いた。

「ん? 何が?」
「ゆいちゃん、もうお前さんに懐いてるよ。大したもんだ」
「別にぃ。適当に話してるだけだし」
「でも、楽しいでしょ?」
「ベ、別に。正直、子守なんかやってらんないわ」

全く嫌がっていない声色で、ぬえちゃんは言った。

「今日、もし千の署名が集まっていたら、私も仲間に入れてね」
「いいけど。でも、集まってなかったら?」
「そうしたら、しょうがないわね。署名集めをするわ」
「当てにならないような気がするけど。人間は基本、自分勝手だし」
「あなたがそれを言うんだ」

村紗ちゃんのつっこみに、あたいは思わず笑った。
ぬえちゃんは、頬を膨らませる。

「きっといい結果が出てるさ。人間は、助け合いの動物だからね」
「そうですね。他人に手を差し伸べて生きていくのは素晴らしいことだと思います」

今日中に千が集まらなくても、少しずつ、根気強くやっていれば、いつかは溜まる。
人間は、心、を持っているのだから。村紗ちゃんが諦めなければ、きっと想いが通じ合う。
あたいは、それを見守る義務があった。

空には、ちらほらと星が輝き始める。
夜が近づいていた。







翌朝。
あたいは、いつものように昼寝岩に寝っころがり、本を読んでいた。
相変わらずいい天気で、日光が燦々と無縁塚に降り注いでいる。
パラソルで出来た影にいないと、どんどんと汗が滲んできた。

村紗ちゃんの研修は終わった。しかし、あたいには、まだやることがある。四季様にも命令されたし。

それは、村紗ちゃんのサポートだ。
そして、今回の件の顛末を見届けなければならない。

あたいとしては、頑張っている村紗ちゃんに興味がある。
十王の作った法を覆させるという、とんでもないことをしようとしているのだから。

けれど、完全に応援しきることができなかった。
なぜなら、あたいが彼岸の出身であり、十王を絶対の存在として子供の頃から教えられたからだ。

彼岸の頂点に立っている十王。物申すなんて、命に関わる気がする。白い服についた醤油みたいに、その考え方はこびりついて消えない。

悔しいが、悪く言えば十王に逆らおうとしている村紗ちゃんと一緒にいるのは、怖いのだ。
村紗ちゃんが正しいことをしようとしているのは理解できる。
でも、それとこれとは別なのだ。
四季様だって、十王に意見するのは怖いだろう。署名を集めれば交渉してやる、と言ってくれたが、出来ればやりたくないに違いない。

村紗ちゃんが困ったら、出来る限りサポートはする。
それは、十王を敵に回さない範囲でだ。
つまり、あたいは全力で村紗ちゃんを助けられない。自分の力の無さが、悔しい。

あたいは、どういう風に考え、行動すればいいのか。
未だかつてないほどの、難問だった。

「こまちさーん!」

すると、もうお馴染みになった声が聞こえた。
あたいは上体を起こし、声のした方を見た。

「おはようさん。全部持ってきたかい?」
「おはようございます! もちろんです! 一枚たりとも無駄に出来ません!」

かつてないほどにテンションの高い村紗ちゃん。まあ、それも無理ないだろう。

昨日、あたいも状況を把握するため、命蓮寺に向かった。
村紗ちゃんが帰宅を告げて、玄関の敷居をまたぐと、すぐさま一輪さんが飛んできた。

それから、なんと、たった一日で署名が千集まったと言ったのだ。
その証拠を見るため、村紗ちゃんは大広間に直行した。そこには、確かに紙の束が置いてあり、一輪さんの言っていることが嘘ではないと分かった。

それから、村紗ちゃんが一輪さんに抱きついたり、ぬえちゃんを巻き込んだり、滑って転んでも笑っていたりと大騒ぎだった。

大広間には、文と友達のはたてさんもいた。
二人がいなければ、こんなに早く千は集まらなかったと一輪さんが説明した。
ぜひ、夕食を食べていってくれと言われたので、ご相伴に預かるという。
命蓮寺の精進料理には興味がありますからねー取材も出来て一石二鳥です、とたくましい文に、あたいは苦笑した。

すると、家長の白蓮さんが料理を持ってきたときにあたいを目に留め、一緒に食べていってくれ、と言った。
別に何もあたいはしていなかったので最初は断ったが、村紗ちゃんが、お世話になっているのだから食べていってください、と強く希望した。
なので、食っていくことにした。精進料理というものを初めて食ったが、味付けしてある料理に慣れきっているあたいは、正直、物を食っている気がしなかった。もちろん口には出さなかったけど。

食事の前に、祝い酒だ、と星さんとナズーリンさんが日本酒を四本持ってきた。
ちょっとした宴会になった。目標を達成できたので、盛り上がったのは言うまでもない。

酒が尽きると、あたいと文たちは帰宅の旨を告げた。村紗ちゃんと一輪さんが見送りに来てくれた。

あたいは、明日の朝、集まった署名を全部持ってくるように村紗ちゃんに言った。
もう村紗ちゃんは研修をしなくてもいいので、朝一で四季様のところに行こうと提案した。
村紗ちゃんは即座に首を縦に振った。ゴールが見えた嬉しさを隠せない様子だった。

そんな感じで、今に至る。
これから裁判所に向かい、四季様に嘆願するのだ。

「ぬえちゃんもお疲れさん。それは、あたいが引き継ぐよ」
「お願い。あー、重かった」

紐に縛られた紙の束を、あたいはぬえちゃんから受け取る。確かに、紙は多くなると重いからね。

「小町さん、早速行きましょう。早く、閻魔様に渡さないと」
「まあまあ、落ち着いて行こう。四季様は逃げたりしないよ」
「ムラサ、子供みたーい」

ぬえちゃんがいたずらっぽい顔をして言うと、村紗ちゃんはムッとなった。ぬえちゃんに言われたくないからだろうか。

「よし、行こうか。ぬえちゃんはゆいちゃんを頼むよ」
「りょうかーい」

あたいは立ち上がり、署名の束を持って桟橋に向かう。
朝とはいえ、強い日光があたいの体を照らした。



最近、裁判所に通う頻度が上がっている。
一週間に一回でも多い方なのに、今は一週間に四度目だ。
まあ、村紗ちゃんの研修をしているので、上司の四季様に報告しなければならないから、必然だが。

しかし、四回のうち、二度は研修の内容とは関わりのないことだった。
ゆいちゃんを彼岸に送りたいという信念を持った村紗ちゃん。この子が頑張る限り、あたいも応援しなければ。
一応の先輩として、村紗ちゃんのやりたいことを叶えること。その努力をする義務が、あたいにはあった。

「あれっ、よう、小町ちゃん。村紗ちゃんも」

裁判所の門の前に到着すると、馴染みの守衛がいた。

「よう」
「どうしたんだい? もう一週間に三度目じゃないか」

さすがに不思議そうな顔をする。
あと、正確には四度目だが、説明するのがめんどくさかった。三度目に来たときは、この人が当番じゃなかったからね。

「まあね、いろいろあるんだよ」
「ふーん、訳ありかい?」
「まあ、そんなとこ」
「俺に関係はなさそうだけど、何か入りようだったら、何でも言ってくれよ」
「はは、ありがと」

そんなやりとりを交わし、あたいたちは裁判所の敷地の中に入った。



「いよいよですね」

村紗ちゃんが、期待を込めた声で言った。

「そうだねぇ、けっこうあっさり話が進んだね」
「命蓮寺のみんなと、天狗のお二人のおかげですね。もちろん、小町さんも」
「ん? あたいは何にもしてないよ?」
「いえ、小町さんが、文さんとお友達じゃなかったら、署名はまだ集まっていなかったかもしれません。こんなに早く集まったのは、元を辿れば小町さんのおかげです」
「ふーむ」

確かに、文に署名の記事を書けと言ったのはあたいだ。
そういうことなら、あたいもちょっとは役に立ったのかもしれない。

「まあ、あたいたちの出来るのは、ここまでだね。後は、四季様に全部託そう」
「大丈夫でしょうか……お一人で怖い人たちと交渉するわけですよね?」
「大丈夫大丈夫。四季様はめちゃくちゃ優秀だから。伊達に裁判の最難関、無縁塚を担当しているわけじゃないよ」
「はあ」

村紗ちゃんは、ピンとこないようだ。まだ、あんまり四季様と接していないからかね。

「信頼してるんですね」
「ん? まあねー。説教癖はあるけど、仕事の腕は確かだからね。真面目すぎるのをどうにかしてくれればいいんだけどねー」

そんなことを話しながら、あたいたちは四季様の部屋を目指した。
やがて、辿り着く。ノックをして、返事が聞こえた後にノブを捻った。

「四季様、おはよーございます」
「おはようございます」

あたいは、いつもの感じで軽い挨拶をする。村紗ちゃんも入りぎわに挨拶した。

「おはよう、二人とも。どうしたのかしら?」

四季様は、あたいたちが何をしにきたのか分からないようだ。
あたいは、ふっふっふ、と不敵に笑う。

「? どうしたの?」
「署名集まりました」

あたいはそう言って、四季様の机に、どさっ、と署名の束を置いた。

「えっ、まさか、もう……?」
「はい、本当です」

村紗ちゃんもにこやかに笑って、あたいが置いた横に、持っていた束を、どさっ、と置いた。
四季様は、目を丸くする。驚いた顔は久々に見たなぁ。

「ほ、本当に千あるんでしょうね?」
「ありますよー、1003人分らしいです。数えてみたらいいと思いますよ」

あたいは、いつもの冗談を言う口調で言ったが、四季様にはマジだと伝わったようだ。

「閻魔様。約束通り、千の署名を集めました。閻魔王様たちに嘆願をお願いします」

村紗ちゃんが、一礼して言った。

「む、村紗さん、あなた、研修は?」
「そんなの、とっくに終わりましたよ。四季様だって、村紗ちゃんの優秀さは知ってるでしょうに」
「つ、つまり、昨日は研修をやりながら、署名を千集めた、と?」
「そうです。たくさんの人に助けてもらって、集めました」

村紗ちゃんがそう言うと、四季様は深くため息をついた。
そして、被っていた帽子を取り、机の上に置いた。

「……いいでしょう」

そして、いつもの余裕のある四季様の顔に戻った。

「あなたの強い想いは分かりました。そして、一日で署名が集まったという緊急性を考慮します。多忙な閻魔王の方々が集まるか分かりませんが、今日明日中に会議を開くよう要請してみます」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」

村紗ちゃんは、四季様の言葉に顔を明るくした。

「さーて、あたいらが出来るのはここまでですよ。後は、全部、四季様に任せますからね」
「分かっています。署名を集めれば交渉すると言ったのは、私です。全力を尽くしましょう」
「おおう、四季様の本気なんて、ほとんど見たことがないっすよ」
「私の知る限り、あなたも本気を出している姿は稀ですね」

そうっすね、とあたいは笑う。四季様も柔和に笑った。

「会議の結果は、すぐに知らせます。あなたたちは、仕事に戻りなさい。一応、村紗さんは一週間の研修期間があり、今日を入れてまだ三日あります。本配属を受けるまで、研修期間内です。それまで、小町の指示を仰ぐように」
「分かりました」

村紗ちゃんがすぐに返事すると、四季様は鷹揚に頷いた。

「あなたの気持ちは分かりました。私は法を変える権限はありませんが、訴える力はある。あなたの想いは、必ず、閻魔王に伝えましょう」
「はい、よろしくお願いします」

村紗ちゃんは、すべてを託すように、四季様に向けて深く、お辞儀をした。







無縁塚のあたいたちの職場に帰ってきた。
舟を桟橋にくくりつけ、昼寝岩の方に向かう。

「おっ、帰ってきた」

そこには、ぬえちゃんとゆいちゃんが仲良く遊んでいた。オセロをしている。ぬえちゃんが持ってきたのだろうか。

「どうだった?」
「うん、うまくいったよ。後は、閻魔様が頑張ってくれるって」
「ほー、よかったじゃない」

ぬえちゃんは、にっ、と笑った。村紗ちゃんも笑顔を返す。

「ゆいちゃん」
「?」

村紗ちゃんが、ゆいちゃんに声をかける。
真剣にオセロ板を見ていたゆいちゃんが、いま気づいたように顔を上げた。

「もう少しですよ」

そして、村紗ちゃんは、優しく頭を撫でた。
ゆいちゃんはきょとんとしていた。何が、もう少しなのか、分からないようだった。

話せないもどかしさをあたいは感じた。
でも、ゆいちゃんは知る必要ないのだ。話したら、いたずらに悲しくなるだけ。
これでいい。あたいたちは、やることはすべてやったのだから。

ゆったりと時間は過ぎる。
四季様から吉報が届くのを、あたいたちは焦がれるように待つのだった。





















〜 彼岸・大法廷 13番会議室 〜



「時間だ。では、会議を始める」

頭を光らせ、見事な白い髭を生やした老人が厳かに宣言する。
十王の長老、初江王(しょこうおう)である。

「おい、変成(へんじょう)と泰山(たいざん)と等(とう)はどうした?」

黒髪の少年のような姿の、宋帝王(そうていおう)が聞く。

「変成は、部下がミスして、その尻拭いに追われている。等は仕事が山積み。泰山は体調不良だ」

長い金髪をし、眼鏡をかけた青年の姿の、五官王(ごかんおう)が答えた。

「なんだよ、泰山はまたかよ。あいつ、病ばっかで、最近、ろくに会ったことがないぜ」
「ならば見舞いでも行け。精のつく物を持ってな」

短髪で黒い眼帯をつけた初老男性の姿の、都市王(としおう)が言った。

「気色悪い。男が行っても喜ばねぇだろう」
「そんなことはないでしょう。気持ちの問題ですから」

やや肥満な体をした穏和そうな中年男性の姿の、五道転輪王(ごどうてんりんおう)が言った。

「じゃあ、閻魔が行きゃあいい。サービスしてくりゃ、元気になるぜ。どこが元気になっちまうか知らねぇがな」

下品なことを言う荒々しい風貌の男。秦広王(しんこうおう)である。

そして、その失礼な言葉を、微笑んでさらりと流す美しい女性。
腰まで届く銀の髪をした、もっとも上座にいる十王の紅一点。閻魔王である。

「……」

さすがに、映姫は圧倒されていた。
彼岸を治めるトップの面々。変成王と泰山王と等王は欠席しているが、それでも、七人もの十王がいるのは圧巻だった。

映姫は、自分の上司である閻魔王に相談し、小町たちが署名を持ってきた当日に、十王を集めてくれないか、と頼んだ。
理由は、法改正に関わる重要な話がある、と説明した。

閻魔王は、十王の中で、もっとも権力がある。彼女が呼びかければ、他の十王は無視できない。
閻魔王が自分の直属上司であることを、映姫はこれほど幸運に思ったことはなかった。

そして、閻魔王のおかげで七人の十王がその日のうちに集まった。いま、映姫は十王との会議に臨んでいる。
緊張は、ピークに達していた。

「無駄話はそこまでにしろ。我々は、時間がいくらあっても足りんのだ」

初江王が、貫禄ある声色で言った。

「はあ〜、じじいはもう枯れちまったってわけか?」
「そこまでにしろ、秦広。下品すぎるぞ」

たしなめたのは、眼帯をつけた都市王だった。

「無駄話は、よそでやれ。今日は、映姫の話を聞きにきたんだ」
「そうだ。映姫ちゃん、一体どんな話だい?」

金髪の五官王と、少年の宋帝王が聞いた。

映姫は、ちら、と閻魔王の顔を見る。
閻魔王は、かすかに頷いた。

「……はい。お話します」

映姫は席を立ち、十王の面々の正面に立った。

「十王の皆様。足を運んでくださり、感謝の極みでございます」
「いいっていいって。映姫ちゃんのためなら、どんなところでも行くよ」
「ありがとうございます」

宋帝王が軽く言うが、映姫は気を抜かない。

「それでは、今回はどんな話で? その紙束と関係あるのですか?」

中年の五道転輪王が言った。

「はい。昨日、私の部下である小野塚小町。そして、その小野塚に研修指導を受けている村紗水蜜が署名を集めました」
「署名?」
「はい。目的は、賽の河原の子供霊の待遇改善です」

十王の間に、困惑の色が広がった。

「賽の河原に、何か問題でも?」
「はい。村紗水蜜の訴えをお聞かせします」

映姫は、村紗の想いを口にした。

「賽の河原には、生前、親の愛を受けずにおり、そして、死後に発生する三途の渡し賃が不安定な者が入ります。ご存じの通り、愛を受けながらも死んでしまった子供と、一線を画しています」

さらに、映姫は続ける。

「愛を受けて育った子供は、三途を渡るのに十分な渡し賃を持つ。幼くして死んでしまった者に対する、特例です」

それを前置きした上で、映姫は続ける。

「しかし、賽の河原は違う。愛を受けなかった子供が、石積みをして人生の苦労を知り、渡し賃を安定させる必要がある。そして、二日前に、千年もの長い時間をかけて石を積み、この渡し賃を安定させ、手に入れた子供が出ました」
「ほう」

初江王が声を漏らす。

「しかし、問題だったのは、その渡し賃が三文しかなかったことです」

十王に、次第に理解の色が浮かんできた。

「村紗水蜜の訴えは、他の子供よりも遥かに苦労した子供が三途を渡れないのは、絶対におかしい。他の子供同様、特例を認めるべきだ、ということです。私は、それを聞き、確かに賽の河原の霊に対する待遇が、平等ではないと思いました」

そして、映姫は持ってきた紙束に手を乗せる。

「そのように考えているものたちの署名がこれです。わずか、一日で千を越える署名が集まりました。多くの者が、おかしいと感じています」

そこまで言い、映姫は十王の顔を改めて見回した。

「私の話は以上です。審議をお願いします」

深く頭を下げ、映姫は自分の椅子に静かに腰を下ろした。

「それでは、皆の意見を聞く。発言を」

初江王が、他の十王に聞く。

「筋は通っている。千年は、決して短い時間ではない。それの苦労の成果が三文では、やりきれないと考えるのが普通だ」
「理解は出来る。賽の河原自体、あまり目を向けていなかったから気にしなかったが」
「変えてもいいんじゃない? 映姫ちゃんがおかしいと思っているんなら、なおさらさ」

五官王と都市王と宋帝王が、前向きな意見を出した。

「映姫に問う」

初江王が、映姫に聞いた。

「はい」
「賽の河原の子供霊で、どのくらいの者が未練を断ち切り、三途を渡ろうする?」

しまった、と映姫は思った。
しかし、嘘を言うわけにはいかない。

「……年間で、一人。もしくは、いません」

それを言った途端、十王の態度が変わった。

「なんだ、それほど早急なものでもない」
「百人単位なら、考えんでもないが、年に一人では……」
「法を改正するほどの大事ではない。もっと重要な案件は、他にある」

次々と否定的な意見が出る。映姫は、歯を噛みしめた。
十王は基本的に忙しい。だから、重要案件から片づけていかなければならないのだ。優先度の低い仕事は、どんどん後回しにしてしまう。

さらに、彼岸の法の改正は、ものすごく大変なのだ。
十王の過半数が支持し、さらに議会で審議される。それから、彼岸全土の住人の改正許可をもらい、そこで初めて改正が許される。要するに、手間と時間が非常にかかる。

よほど、重要でなければ、法改正案は廃案になる。そんなこと、映姫は分かっていたはずだった。

「お、お言葉ですが……!」

これ以上、否定意見が出たら、却下される。
そう思い、映姫は立ち上がって言った。

「三途を渡りに来る老若男女と、賽の河原の霊、どこが違うでしょうか……! 命は、平等に扱わなければならない……! 私たちは、そのことをよく弁えているはずです……!」
「そうだ、映姫ちゃんの言うとおりだ」

すると、宋帝王が同調した。

「たった一つの命でも、我々にとっては、重要なものだ。秤に掛けるようなことをしてはならない。すべて平等に、等価に判決を下さなければ。それが、道理じゃないか?」
「宋帝、言いたいことは分かるが、法改正は並大抵の労力じゃないぞ。今回の案件は、重要度が低い。後回しにしても問題ない」
「それに、我々が賽の河原の仕組みを作ったのだ。それを改正するとなると、批判は避けられん。最近は平穏なのだ。それをかき乱すようなことはしたくない」

映姫は悔しく思った。十王が、めんどくさいから、批判されたくないから、と言って、法改正を渋っている。
そんなものは、栄光ある十王の発言ではない。仕えるべき上司ではない。

「私は、改正に賛成です」

すると、その映姫の心を汲み取ったかのような発言が発せられた。

「閻魔……」
「映姫は正しいことを言っています。それを理解せず、我々の都合で蹴るのは、十王のやることではありません。労力や保身など、小さなことです」

凛とした声で、閻魔王は言う。
発言力の最もある閻魔王の言葉に、他の十王は考え込んだ。

「どうした、閻魔も正しいと言っているじゃないか。迷う必要はない。我々が出来るのは、より良い法を作ることだろう」

宋帝王が、後を押す。閻魔王が賛成したことで、形勢が逆転した。
このまま行けば、一気に話が付く。映姫は、小さな興奮を胸に宿しながら、閻魔王に感謝した。

「……それでは、多数決をとる。挙手をするように」

初江王が促す。
これならば、過半数は取れる。取ってしまえば、議会で審議がかけられる。
そうすれば、可能性は一気に開けるのだ。

「待て」

だが、挙手の前に声があがった。
止めたのは、秦広王だった。

「なんだ、秦広?」
「映姫に聞く。この法改正は、直ちに執行された方がいいな?」

まさか、話を向けられるとは思わなかったので、映姫は意表を突かれた。

「あ、はい。しかし、法改正は時間がかかるのが常。なので、急いでいるわけでは……」
「いや、手っとり早く変える方法はあるぞ」

秦広王は、薄気味悪いような笑みを浮かべた。

「どういうことだ、秦広」

宋帝王が、表情を堅くする。
そして、秦広王が言った。

「皆に、『決闘裁判』の開催を求める」
「な……」

宋帝王の目が見開かれた。

「皆も知っての通り、決闘裁判は、勝った方の言い分をすぐに聞き、反映される。つまり、いちいち議会なんかにかける手間がないってわけだ。映姫もそれを望んでいるだろう?」
「秦広」

閻魔王が、静かだがしっかりした声で言った。

「それが、最後に行われたのは、いつですか。もう五百年は行われていない」
「そんなの関係ねぇ。古くさかろうが、一発で決まるんだ。俺は、手っとり早くて好きだぜ」
「す、好き嫌いの問題ではない! それに野蛮だろう!」

宋帝王が大きな声を上げる。
なんとしても、止めたい。その気持ちが滲み出ていた。

それも当然なのだ。
なぜなら、決闘裁判という決着方法は、明らかに彼岸側が有利なのだから。

決闘裁判は、他でもない、秦広王が考え出した。

五百年前に、十王で意見が真っ二つに割れたことがあった。
そのとき、秦広王が提案したのが決闘裁判だ。

戦って、強い方が勝者。激烈で名高い、不動明王の加護を持つ秦広王らしい提案だった。

ほとんど喧嘩状態だったため、頭に血が上った十王の九人が、それに同調した。反対したのは、閻魔王だけだった。

結果は、秦広王派閥の圧勝だった。
彼は、鬼神長、地獄の鬼をまとめる存在で、最強クラスの者たちをそろえていた。他の十王の鬼神長では、比べ物にならないくらいに。

つまり、決闘裁判が行われるということは、秦広王の陣営が勝つ可能性が高い。どんなことであろうともだ。

「よし、皆に決をとる。初江、頼む」
「ま、まて! 俺は、まだ認めてないぞ!」
「それでは、挙手を求める。決闘裁判に賛成する者は、手を挙げろ」

……七人中、五人が手を挙げた。

「決まりだな。期日は、一週間後だ。そのガキは三文持っていると言ったな。では、六文に達する三文を懸けて、三回決闘だ。ただし、決闘裁判のルールに則り、人間のガキに味方できるのは、人間だけだ。映姫、分かってるな?」
「…………はい」

苦渋の顔で、映姫は頷いた。

「ああ、今回のめんどくさいことになった発端の奴は必ず出場させろ。そいつは、妖怪でもいい。こっちもとっておきのを出すからな」
「…………はい」
「ちっ!」

宋帝王は舌打ちをし、荒々しく席を立って、会議室を出ていってしまった。
秦広王は、それを満足げに見る。

「面白くなってきたぜ。久々に、血がたぎる」

会議室の中は、異様な空気に包まれていた。







「ぐあぁ、また負けた〜」

あたいは、苦悶でくねくねした。

「弱いねぇ、もう五連勝だよ」
『お母さん、つよ〜い』

ゆいちゃんが、ぱちぱちと拍手する。

「意外だわ……オセロ強かったのね」
「なに、その、私が馬鹿みたいな言い方」

村紗ちゃんの口から漏れた言葉に、敏感に反応するぬえちゃん。
確かに、あたいも頭を使うゲームは苦手だと思っていた。

「むう、これはゆゆしきことだ。あたいらの金がなくなるよ」
「そうですね……せっかく稼いだのに、このままでは全部二人の胃袋に入ってしまいます」

勝ち越した数だけ、中有の道で品物をおごる。あたいと村紗ちゃん連合対ぬえちゃんとゆいちゃん連合だ。
正直、ぬえちゃんがお金を持っているわけがないと思ったので、謝ったら許してやろうと思っていた。それが、こんな結果に……。

「よーし、今度は負けないよ。再戦だ」
「いくらやっても同じだよ。私には勝てないって」
「それは分からないわ。勝負に絶対はないのよ」

あたいらは気合いを入れて、ぬえちゃんに立ち向かう。
白熱した試合が始まった。

「ん?」

と、始まる直前で、あたいは人の気配を感じた。
そちらを首を回して見る。

「あっ、四季様!」

そこには、桟橋に降り立とうとしている四季様がいた。

「小町さん、もしかして……」
「ああ」

結果が出たのかもしれない。あたいらが四季様にすべてを託したのは昨日だが、もう会議が終わったのか?

「ごめん、二人とも。ちょっと四季様と話してくるよ」
「ん? いいよ〜。じゃあ、ゆい、やろうか」
『うん』

一時勝負を中断して、あたいらは四季様の方に向かった。

「四季様」

四季様は桟橋で待っていてくれた。ゆいちゃんの耳に入れたくない話だからだ。

「閻魔様、どうでしたか?」

村紗ちゃんが期待を込めた目をして言う。
すると、四季様は、実に重いため息をついた。

「ど、どうしたんすか? 四季様」

さえない表情。
こんな四季様は初めて見た。いつもキリッとしてるのに。

「……日陰で話しましょうか。少し長くなります」

四季様は、パラソルのついた舟を指さす。
あたいらの胸に、一抹の不安がよぎった。



三途の緩やかな流れ。
かすかに舟は揺れている。心地よいゆりかごのような気分。

「結論から話します」

だが、舟を漕ぐ気の緩みなど、目の前にいる人の真剣さの前では簡単に消し飛んだ。

「嘆願は通りました」
「えっ、マジっすか!?」
「やったぁ!」

あたいと村紗ちゃんは、手を取って喜び合った。

「ただし」

けど、四季様の制止で、あたいらは動きを止めた。

「な、なんすか?」
「決闘裁判に勝利したら、です」

あたいと村紗ちゃんは、対照的な顔をした。

「? なんですか? 決闘裁判って」

村紗ちゃんは、頭からはてなマークを飛ばす。

「けっ、けっとうさいばんっ!?」

あたいは、驚愕した。

「ま、マジっすか!? あの、五百年前の、伝説の!?」

あたいが声を上げると、四季様は小さく頷いた。

「な、何ですか、小町さん、決闘裁判って?」

此岸にいる村紗ちゃんは、もちろん知らないだろう。あたいは、かいつまんで話す。

「ええとね……五百年前に、十王の方々が大ゲンカしたことがあってね。その決着のために決闘裁判っていう方法をとったんだ」

あたいが生まれる前の話なので、話しか聞いたことがなかった。

「それは、文字通り、決闘なんだよ。相手を拳でぶん殴って従わせるんだ。要するに、ケンカで白黒つけるんだよ」
「な……そ、そんな野蛮なことを!?」
「当時の十王たちは、物凄い頭に血が上ってたからね。それを採用しちゃったんだ。でも、結果は一方的だった。秦広王っていう十王で一番腕っ節の強い人のチームが圧勝だったらしい」
「今回の決闘裁判を提案したのも、秦広王です」

あたいの解説を引き継ぐように、四季様が言った。

「村紗さんの嘆願は、採用一歩手前までいったんです。しかし、秦広王が決闘裁判を持ち出すと、手のひらを返すように、多くの十王がそれに乗った」
「な、なんで……!?」

村紗ちゃんが、訳が分からないと言う顔をする。

「法を作ったのは、十王です。ですから、それを改正されるというのは、間違いを認めた、ということなんですよ。それを、多くの十王が嫌っている。だから、乗ったんです」
「……決闘裁判になれば、秦広王が勝つ確率がもの凄く高いからですね?」
「その通り。決闘裁判、という血の気の多い方法でも、ちゃんとした決済方法なんです。十王が作ったものですから」

ふう、と四季様はため息をついた。

「秦広王は、ただ単に決闘が見たいだけなんです。戦好きの十王ですから。それに加え、法を変えたくない他の十王は、そんな秦広王でも乗らざるを得なかった。村紗さんの嘆願を聞き入れたくないからです」
「……」
「私の上司である閻魔王と、私寄りの十王である宋帝王は反対してくれましたが、多数決で負けました。もう、決定事項なんです」

それから、あたいらは沈黙してしまった。

「……どうしたら、いいんですかね?」

黙っているのが辛くて、あたいは四季様に聞いた。

「……法を変えさせたくば、決闘で勝つしかありません。しかし、今回の中心は、ゆいさんという人間の子供です。決闘裁判のルールに、種族の統一、というのがあります。つまり、ゆいさんと同じ、『人間』が決闘に臨まなければならないということです」
「そ、そんな……! だって、秦広王が出してくるのは、絶対に鬼神長じゃないですか! 人間が勝てるわけがない!」

昔、幻想郷にいた純粋な鬼ではないが、彼岸の鬼も凄く腕っ節の強い連中ばかりだ。
しかも、力では最強の秦広王の鬼神長たち。絶対に、生半可な強さではない。

「彼岸が従わせるべきなのは、人間です。人間に後れをとってはならない。だから、種族の統一があるんです。人間の力は微々たるものですから、彼岸側が負けるはずがない、と思っているのです。もし、妖怪が手を貸したら、人間側が勝つかもしれませんから」
「き、きたねぇ……」

思わず、声が漏れてしまった。
つまり、どうやっても十王側が勝つように出来ているのだ。

「しかし、秦広王は、三回の決闘中に村紗さんは絶対に出すように、と言っています」
「えっ、な、なんで?」
「……それを私に言わせますか?」
「……」

つまり、『見せしめ』ということか。

「くっ、……ざけんなよ……」

ギリギリと拳を握りしめる。ここまで十王を殴りたいと思ったのは、初めてだった。
あたいが決闘裁判に出られるなら、出てやりたいところだ。そして、鼻をあかしてやる。
でも、妖怪のあたいは、出られない。
くそ……なんて、汚いルールだ……!

「私は……」

すると、黙っていた村紗ちゃんが声を出した。

「私は……諦めません」
「村紗ちゃん……」

怖いだろうに、村紗ちゃんは唇を噛みしめ、言った。

「ここでやめたら、全部水の泡です。決闘裁判に出なければ何も変わらないなら、私は出ます。ゆいちゃんを、絶対に彼岸に送ると決めたんですから」
「……でも、決闘裁判に必要なのは、あと二人の人間です。それを、どうやって集めますか?」

そこで、村紗ちゃんは沈黙してしまった。
しかし、短時間で顔を上げた。そして、あたいの顔を見る。

「小町さん。小町さんの人脈の中で、妖怪に負けない人間はいますか?」
「えっ……」

とんでもないことを、村紗ちゃんは言った。

「む、無理だって! 人間は妖怪には勝てないよ!?」
「いいえ、人間でも強い人はいるんです。聖輦船に乗り込んできた人間は、聖よりも強かった」

聖輦船……? 何のことか分からなかったが、村紗ちゃんは人間を評価しているようだ。

「ここには、化け物みたいな人間がいるんです。探せば、絶対にいます。どうか、力を貸してください」

村紗ちゃんは、あたいに頭を下げる。
でも、秦広王の鬼神長たちに勝てるようなやつなんて……

「あ」

あたいは、思い出した。
いた。二人なら、妖怪相手でも勝負になるかもしれない。いや、なる。

「分かった。行ってみよう」
「え、こ、心当たりが?」
「ああ、ある。あたいの友達に、化け物みたいな強さの人間は、いる」

もう、二人しか考えられない。
この状況を打破するには、二人の力がなければならない。

「行こう。まだ、希望の光が、あたいたちには見えている!」







見渡す限りの、緑の絨毯だった。

春には、この緑は桃色に変わる。これほどの桜を植えてある場所は、ここ以外に存在しない。
酒と弁当を持って、多くの者が訪れる。ほとんどが生者なので、あまり似つかわしくないかもしれない。

しかし、顕界との境目にあった幽冥結界は、未だに修復されずにいる。その真意は、庶民には分からないが、あたいには何となく分かる。

ここの管理者である方は、にぎやかなのが好きなのだ。
だから、いろいろと彼岸のお偉いさんに屁理屈つけているに違いない。
頭のいい人だから、思いもよらない理由をでっち上げているかもしれない。済まして難しいことをするのは、あの人の十八番だった。

あたいが、あそこに住んでいた時、理由を最後まで教えてくれなかった。微笑みながら、のらりくらりとかわす。
良い人だと知っているが、なかなか掴みどころのない人なのだ。

「すごいですね……空の上に、こんな場所が……」

初めて入った冥界に、村紗ちゃんは感嘆の言葉を漏らす。

「春には、この下一帯が桜の花で埋め尽くされるんだ。まさに、この世のものとは思えない綺麗さだよ」
「はあ、想像がつかないです。こんなに桜が植わっているのは、外の世界でも見たことがありません」

もしかしたら、外の世界も含めて、世界一の桜の名所かもしれない。何となくだが、誇らしい気分がした。

「ほら、あそこに見えるだろ?」

あたいが指さした方角には、小高い丘がある。
そして、その上に明らかに遠近法がおかしいものがあった。

「な、何ですか、あの大きな木は? 桜?」
「西行妖っていう西行寺家の霊木だよ。妖怪桜だね」
「妖怪桜……ここの管理者は、妖怪なのですか?」
「いや、おっかないもんじゃないさ。デフォルトの顔が笑顔っていう、いつもにこにこしている人だから」
「はあ……」

持っている力は恐ろしいが、親しみやすさは抜群だ。
滅多なことじゃ怒らないが、怒らせたら大変だろうなぁ。

「ほら、見えてきたよ。あそこが西行寺家の邸宅、白玉楼だ」

あたいたちの目の前に家の屋根が見えてきた。



「す、すごい……命蓮寺よりも大きい……」

門をくぐり、見事な庭園の中を歩きながら、村紗ちゃんが声を漏らす。
植木は丁寧に刈り込まれ、歩道の玉砂利、飛び石の上にはゴミ一つ落ちていない。楓や桜の植樹も、絵画に出てきそうな姿で佇んでいる。秋になったら、綺麗だろうなぁ。

「小町さん、こんなお金持ちとお友達なんですか?」
「信じられないだろ? でも、友達なんだよねぇ。あたいも意外だけどね」

一ヶ月という短い期間お世話になったが、あたいたちは十年に匹敵する絆を紡げたと思う。
本当に、かけがえのない友達なのだ。

途中の池に架かっている石橋を越え、玄関に辿り着く。
あたいが居候していたときと、全く変わっていなかった。

あたいは、慣れた手つきで戸を開けた。

「こんちはー! 小野塚小町っすー!」

中に呼びかけると、トタタタ、という廊下を小走りに走る音が聞こえた。

「小町さんですか!?」

顔を出したのは、右手に抜き身の長刀を持った女の子だった。

「うおっ、妖夢、早まるな! あたいは敵じゃない!」
「えっ? あっ、すいません! 手入れをしている最中だったので!」

そそくさと刀を背後に隠す。ふう、とあたいは額の冷や汗を拭った。

「あはは、やっぱり天然だねぇ」
「す、すいません。気をつけているつもりなのですが」

あたいが笑うと、申し訳なさそうな顔をする。
だが、それも少しの間だった。

「お久しぶりです、小町さん」

白玉楼の庭師、魂魄妖夢は柔らかな笑顔を浮かべた。

「久しぶりだねぇ、妖夢。元気そうでなによりだ」
「小町さんも、お元気そうで安心しました。最近、来てくれなかったですから」
「仕事の邪魔になるからねぇ。妖夢が毎日大変な仕事をしているのは、痛いほど知ったからさ」
「そんな、気にしないでいいですよ?」
「まあ、気が向いたらお邪魔するよ。また、妖夢の入れたお茶が飲みたいねぇ」

そんなことを言って、あたいらは笑いあった。

「あれ? 小町さん、そちらの方は?」

ここで、妖夢は村紗ちゃんに気づいた。

「ああ、あたいの後輩の村紗水蜜ちゃん。ぴっかぴかの船頭だよ」
「よろしくお願いします。村紗水蜜です」

村紗ちゃんが挨拶すると、妖夢も反射的にお辞儀した。

「あ、ご丁寧にどうも。魂魄妖夢です。お見知り置きを」

ちょっと、堅い挨拶を交わす二人。相性はいいかもしれない。

「それで、お二人は何用で、ここに?」
「うん……ちょっと、面倒なことになってね。妖夢の力を貸してほしいんだ」
「えっ、私ですか?」
「うん、また家が潰れたってわけじゃないんだ。お前さんの、剣の腕を貸してほしい」
「剣ですか?」

まだ、さっぱり分からない顔をしている妖夢。まあ、結構複雑な事情だからね。

「詳しいことは、幽々子さんに話すよ。あの人の許可をもらわないと、妖夢が手を貸してくれないからねぇ」
「はあ、分かりました。では、居間に案内します。こちらへどうぞ」

あたいらは、白玉楼の玄関の敷居をまたいだ。



白玉楼の渡り廊下を歩く。
左手には、見事な枯山水の庭がある。これを妖夢が全部手入れしているのだ。

「相変わらず、いい庭だねぇ」
「ありがとうございます。まだまだですけどね」

あたいが思ったことを言うと、妖夢ははにかんだ。

「この庭は、あなたが……?」

あたいと並んで歩いていた村紗ちゃんが、ぽつりと言う。

「ええ、庭師は私しかいませんから。先代の祖父から受け継いでいます」
「はあ、見事ですね……」

村紗ちゃんは驚きを隠せないようだ。
そりゃそうだな。ここの庭は、おそらく幻想郷一だから。

やがて、あたいが何度も入った居間に辿りつく。あたいは、その障子の前に正座した。村紗ちゃんも慌てて座る。

「幽々子様、失礼します」

妖夢が、中に呼びかける。

「ん〜? なにかしら〜?」

間延びした声が聞こえた。あたいの記憶のそのままだった。

「小町さんが、来てくれましたよ」
「あら、本当!?」
「ええ、じゃあ、失礼しますね」

妖夢は膝をつき、障子を右に開けた。
あたいは、深々と一礼する。

「こまちゃん! 久しぶりねぇ!」
「ご無沙汰してました。お元気ですか、幽々子さん」
「ええ、もちろんよ〜。ささ、お顔を見せて?」

許しを得ると、あたいは体を起こした。
目の前には、和服姿の美人がいた。穏やかな笑顔は、ほんのりとあたいの心を暖かくした。

「さあ、上がってちょうだい。妖夢、お茶ね」
「はい、分かっておりますよ」
「こまちゃん、来てくれて嬉しいわ〜。ちっとも顔を見せてくれないんだもの」
「あはは、すんません。あたいも幽々子さんに会えて嬉しいです」

あたいは、幽々子さんの正面に座った。
村紗ちゃんが隣に座る。

「あら、あなたは誰かしら?」
「紹介します。あたいの船頭の後輩、村紗水蜜ちゃんです」
「西行寺幽々子様。お会いできて光栄です」

村紗ちゃんがちゃぶ台にぶつからん勢いで頭を下げる。

「あらあら、しっかりとした娘ねぇ。気楽にしていなさい、疲れちゃうでしょう」
「お気遣い、ありがとうございます」

なんか、いつにも増して村紗ちゃんが真剣だ。
まあ、そうか。ここで成果を上げないと、決闘裁判に不戦敗で負ける。そんなことは出来ない。

「こまちゃんについに後輩が出来たのねぇ。どうかしら? 大変?」
「小町さんのご指導の元、日々充実し、技を磨くことが出来て大変嬉しいです」
「あらーなんだか軍隊にでもいたのかしら?」
「いえ、そのような経験はありません」
「うふふ、おもしろいわね〜」

幽々子さんはニコニコ顔だ。相変わらず、どう感じているのか分からないお人だ。

「幽々子さん。実は、折り入ってお願いしたいことがあるんです」

あたいは、きちんと幽々子さんの目を見て言った。

「ふむふむ、こまちゃんの頼みなら考えないとね〜」
「ありがとうございます。じゃあ、説明は村紗ちゃんがするかい?」
「ええ、私の役目です」

村紗ちゃんは姿勢を正し、今回のことを一から説明した。



賽の河原のゆいちゃんのこと。
ゆいちゃんが三途を渡るのに充分な金を持っていなかったこと。
四季様に嘆願に行ったこと。署名を千集めたこと。
その結果、十王の下した決断は、決闘裁判による決着であること。
村紗ちゃんは、出来るだけ事細かに説明した。

「あら〜、決闘裁判なんて、懐かしい言葉が出たわね」
「あ、やっぱり、知ってますか?」
「ええ、どのくらい前だったかボケちゃって分からないけど、暴力で従わせる、なんて、十王にしては、ずいぶん乱暴なことをすると思ったわね」
「幽々子さんもそう思いますよね」
「ふむふむ、だいたい分かったわ。十王が村紗ちゃんの嘆願を聞き入れたくなかったのね」

さすがだ。全部言わなくても分かっている。

「そういうことなんですよ。そのムカつく十王の鼻をあかしてやろうとしているんですが、種族の統一、っていうのがありましてね。知ってます?」
「当事者は、同種族でなければならない。つまり、今回の話の中心にいるゆいちゃんと同じ、人間が決闘に臨まなければならない、ということね」
「そうなんですよ。汚いことだと思いましたけどね」

幽々子さんは、瞼を閉じて少し難しそうな顔をした。

「お話は分かったわ。妖夢をその決闘に出したい、ということね?」

幽々子さんは、あたいらの願いを先に言ってくれた。

「ええ、もう妖夢しかいません。人間の血が半分入っている妖夢なら、出場できるはずです。どうか、妖夢の剣の腕を貸してください」

あたいが頭を下げると、幽々子さんは、ちょっと首を傾げて黙考に入った。
妖夢は、大事な従者だ。どれだけ大切なのかは、あたいは痛いほど知っている。
下手したら命を落とす戦いだ。簡単に許可は出来ないだろう。

「幽々子様。私は全く構いません」

すると、お茶を用意し終わって、話を横で聞いていた妖夢が言った。

「これは、大恩ある小町さんに報いるチャンスです。私の剣が必要なら、いくらでも協力したいと思います」

凛々しく、妖夢は決意を述べた。

「そうね……」

しばらく考えた幽々子さんが、再び口を開いた。

「妖夢、決闘裁判は、試合じゃないことは分かってるかしら?」
「?」
「『試す』ではなく、『死ぬ』のほうの死合なの。つまり、命を奪われても問題がない。それに臨む覚悟はあるかしら?」
「……」
「あなたは、生死をかけた戦いをしたことがないわ。どれだけの重圧があるか分からないでしょう。それに耐え、自分の力を発揮できる自信があるかしら?」
「幽々子様」

幽々子さんが問うと、妖夢は笑顔で言った。

「私は、小町さんがいなければ、あのとき、死んでいました。私の心臓がいま動いているのは、小町さんのおかげです。いくら返しても返しきれない恩を受けました」

妖夢は一つ頷き、まっすぐに目を見据えて言った。

「あのとき、私は死を体験していました。だから、怖いものなどありません。小町さんに少しでも恩を返せるなら、私は全力で頑張りたいと思います」

妖夢の決意の言葉に、幽々子さんは小さく息をついた。
妖夢は、全く怖がっていない。素直な娘だから、恐怖を感じれば表情や体に変化が起こる。あたいはそのことを知っている。
しかし、妖夢にその様子は全くなかった。

「……いいでしょう」

そして、柔らかい笑顔を浮かべて言った。

「決闘裁判に、妖夢を出すことを、西行寺家当主の名において承認します」
「あっ、ありがとうございますっ!」

村紗ちゃんが、深くお辞儀する。二人が、こんなにもあっさりと聞き入れてくれたことに、あたいは深く感謝した。

「ありがとう、幽々子さん、妖夢」
「うふふ、さあ、やるからには勝たないとね。妖夢、特訓するわよ」
「はい! 頑張ります!」

元気のいい声を上げる妖夢。
二人の心意気に、あたいは胸がいっぱいになってしまった。







再び、幻想郷の空に戻ってきた。
冥界は太陽の光がそんなに届かないので、多少は涼しかった。
でも、大地の方に戻ってくると、容赦なく太陽は照り続けている。
死の世界のほうが、気候は優しい。あたいら生者は、厳しい気候に耐えて生きていくのかもしれない、と思った。

「ものすごく、簡単に承諾してくれましたね……」

村紗ちゃんがぽつりと言う。

「そうだね、よかったよ」
「でも、楽すぎました。妖夢さんは、怖いと思わなかったんでしょうか」

生死を懸けた戦いに出ろ、とあたいらは言ったのだ。普通なら、躊躇するところだ。

「命の恩人の頼みなら、誰だって多少は無理するだろ?」
「そう言っていましたね。一体、何があったんですか?」
「まあ、その話をすると長くなるんだよ。機会があったら、教えるよ」
「はあ。でも、小町さんが命の恩人なら、私も多分そうしますね」
「うん。妖夢と幽々子さんには感謝しないとね」

二人は、あたいを信頼してくれているのだ。あたいも、同じくらい二人を大切だと思っている。
あたいたちは、あの冬を越えたのだ。まだ、固い絆で結ばれているのが確かめられた。

「じゃあ、これから行く、こうまかんも、そんな思い出があるんですか?」
「うん、ある女の子を監禁を解いてね。同じくらい大変だったよ」
「なるほど。じゃあ、うまく行くかもしれませんね」
「うまく行かなきゃね。断られたら、もう頼るところがないよ」

あたいと関係が深く、生死を懸けた戦いに出てくれそうなのは、もうあそこしかないのだ。
期待も大きいが、断られたら万事休すだ。絶対に取り付けなければ。

あたいらの前方に、大きな湖が見えてきた。
そのほとりに、赤い洋館の姿が視界に入った。







「こまちさーん!」

あたいらが門の方に降りていくと、その前にいる赤い髪の女の人が手を振っていた。

「めいりんさーん、こんちはー!」

あたいも右手を挙げて応える。
そして、その人の近くに着地した。

「久しぶりねー! 元気だったー!?」
「もちろんさ。美鈴さんも元気そうだね」
「あはは、私は頑丈なのが取り柄だからね」

さわやかな笑顔を向けてくる女の人、美鈴さんは今日も快調に門を守っているようだ。

「あれ? そっちの人は?」

ここで美鈴さんは、村紗ちゃんに気づく。

「ああ、紹介するよ。あたいの後輩、村紗水蜜ちゃんだよ」
「初めまして」
「あらー、小町さんと同じ格好していると思ったら、後輩だったのね。初めまして。ここ、紅魔館で門番をやっている紅美鈴よ」

実に人懐っこい態度をする美鈴さん。やっぱり、変わってないなぁ。

「今日は、どうしたの? 妹様に会いに来た?」
「うーん、それもあるけどね。メイド長、じゃなかった、咲夜にちょっとお願いがね」
「咲夜さんに? かいつまんで、教えてくれる? 規則だから」
「ああ、ええとね……」

あたいは、出来るだけ話をはしょって話した。

「へえ……決闘裁判か。これまた、凄いことになってるわね」
「うん、それで、人間の咲夜の力を借りたいんだ。多分、あたいが知っている人間の中で、最強クラスだ」
「そりゃあ、私でもぜんぜん敵わないしね。あの人がただの妖怪になんかに後れをとるはずがないわ」
「そう。だから、あたいらの力になってほしいんだ」
「なるほど、事情は分かったわ。でも、咲夜さんが戦いに出るなら、お嬢様の許可をもらわないとね」
「うん、だからレミリア様にも会いたい。挨拶も兼ねてね」
「分かったわ。じゃあ、案内しましょう。こっちに来て」

美鈴さんは、紅魔館のでっかい門に向かい合い、金属の取っ手を、がっし、と掴んだ。
そして、ふんっ、と鼻息を漏らして引っ張る。重そうな門が少しずつ開いていった。

「凄い力……」

村紗ちゃんが、ぼそっ、と言った。

「さあ、こっちよ」

あたいらは美鈴さんの後について、夏の花が咲き乱れる紅魔館の庭に足を踏み入れた。



「ここもまた……凄いお金持ちの家ですね……」

村紗ちゃんは、きょろきょろと部屋の中を見回している。
ぶっ壊したら一生で払いきれないんじゃなかろうかという調度品や絵画が上品に飾られている。
あたいらの座っているソファーも、足下の絨毯も柔らかい。
あたいは多少慣れているが、改めて見ると、超金持ちの家だった。

あたいらは、紅魔館のリビングルームに通された。
ここでお嬢様は紅茶を飲んでくつろぐ。レミリア様に用があるのなら、最初にここにくるのが常套だ。

なので、一発で会えるかと思ったが、今日はここにいないらしい。
メイドの女の子が探してくる、と言い残して部屋を出ていった。あたいは全く知らない娘だったが、向こうはあたいを知っていて驚いた。

「小町さん、本当にここのご主人とお友達なんですか?」
「友達って言えば、友達だけどね。あたいはここで働いてたことがあるんだ。レミリア様は使用者というか、ご主人様だったんだよ」
「はあ……」

まあ、あたいはすぐに違うご主人様に仕えるよう、変更されたのだが。

すると、リビングルームの出入り口のドアが勢いよく開かれた。

「こまちー!!」

キラキラと愛くるしい笑顔を振りまいて、こっちに猛ダッシュしてくる赤い服の金髪の女の子。

「あっ、フラン様!」

あたいは立ち上がり、小さな体を抱き止めた。

「あははは! 小町だ小町だ! 美鈴の言うとおり!」
「ご無沙汰していました、フラン様。お元気でしたか?」
「うん! でも、小町が来たから、もっと元気になったよ!」

太陽のような笑顔をするフランドール・スカーレット様。
こんな娘が、恐ろしい力を持つ吸血鬼だと誰が信じるだろう。

「小町! 今日は遊びに来たの?」
「ええ、それもありますが、ちょっとレミリア様にご相談があるんですよ」
「お姉さまに? なになに?」
「うーん、話せば長くなるんですよ。レミリア様がいらっしゃったら、まとめて話しますね」
「こまっち!」

あたいとフラン様が話していると、聞き慣れたあだ名で呼ばれた。

「こまっち、いらっしゃ〜い!」
「いらっしゃい、小町」
「あ、アン、メル! 久しぶりだねぇ!」

あたいに挨拶する二人のメイドさん。アンナ・ワイズネスとメアリー・トンプソン。
あたいのメイド仕事の先輩であり、いまはフラン様の専属メイド。かけがえのない友達だ。

「まったくだよ。こまっち、全然、遊びに来ないんだもん」
「そうですね。来るなら、前もって伝えてくれれば、おもてなししますよ」
「いや〜、前来た時みたいにVIP待遇されると、気後れしちゃうんだよね〜」

郵便を使って事前に遊びに行くと伝えたら、ちょっとしたパーティーを開かれた。遊びに行く度にあんな用意をされたら、庶民としては、どうも申し訳ない気持ちになる。

「準備が楽しいんだから、気にすることないよ〜。こまっち、楽しかったでしょ?」
「いや〜、楽しいけどね。あたいは紅茶くらいを出されて、みんなとトランプしてれば、充分楽しいさ」
「うふふ、じゃあ、クッキーでも焼きますね」
「おお、メルのクッキーは美味いからねぇ!」

そんなことを言いながら、あたいらは会話を楽しんだ。

「? 小町、この人は誰?」

まだ、あたいに抱きついているフラン様が気づいた。

「ああ、紹介します。この娘はあたいの後輩です」
「自己紹介するなら、まとめてやってくれないかしら?」

すると、リビングの入り口に現れたお人が、あたいの声に続くように声をかけた。

「あ、レミリア様! ご無沙汰してます!」
「久しぶりね。元気そうで何よりだわ」

あたいが頭を下げると、紅魔館当主、レミリア・スカーレット様は微笑みを向けた。
その後ろを、しずしずと歩く銀髪の美人。

「咲夜も久しぶり! どうだい、調子は?」
「久しぶりね。おかげさまで、快調よ」

レミリア様の専属メイドにして、紅魔館のメイド長。十六夜咲夜が紅茶を持って現れた。

「話は概要だけ聞いたわ。咲夜を貸してほしいんだって?」
「ええ、不躾で申し訳ないです。咲夜の力が、どうしても必要で」
「ふむ。まあ、座って話しましょう。楽にしなさい」
「ありがとうございます。じゃあ、失礼して」

あたいは、再びソファーに腰を下ろした。フラン様も隣に座って、手を握ってくる。アンとメルは、その後ろに立った。
レミリア様は、あたいらの対面に腰を下ろす。あたいらの前に、咲夜が紅茶を出し、レミリア様の後ろに立った。

「そっちの娘は初めて見るわね。誰かしら?」
「あ、初めまして……村紗水蜜と言います。小町さんのお仕事の後輩です」
「ほう、同じ格好している理由が分かったわ。私は、紅魔館当主、レミリア・スカーレット。覚えておいてね」
「あ、はい、よろしくお願いします」

姿だけを見れば、村紗ちゃんの方が年上だが、口を開くとレミリア様の方が年上に思えた。

「じゃあ、早速、話の詳細を聞きましょう。咲夜が必要な理由は何かしら?」
「はい、お話します。どうか、力を貸してください」

そう言って、村紗ちゃんは丁寧に事情を説明し始めた。



「……お話は、以上です」

村紗ちゃんの説明が終わると、レミリア様は腕を組んで難しい顔をした。

「なんか、嫌な感じ〜。なんなの、じゅうおうって人たち」

フラン様が、口を尖らせる。

「いろいろ複雑な事情があるんですよ。彼岸の最高指揮官たちが、なめられたら終わりですからね」
「上に立つものは、そういうものよ。あなたも、私の妹なら、少しは意識しなさい」
「むう」

フラン様は納得いかなげだ。まあ、レミリア様と咲夜がいるなら、フラン様はいまの可愛い感じでいいような気がする。

「どうでしょうか? 咲夜を貸してくださいますか?」

あたいは、真剣な面もちで聞く。

「……出来るなら、私が出たいわね」
「そ、そりゃ、百人、いや、一万人力ですけど、人間に縛るっていうルールがありますからね」
「本当に、こすいことを考えるわね。気に入らないわ」

不快な感じで眉を寄せるレミリア様。

「お嬢様。失礼ですが、進言します」
「なに?」

レミリア様の後ろにいた咲夜が口を開いた。

「私は、いっこうに構いません。命令を下してくだされば、小町の力になろうと思います」
「えっ、ほんとかい!?」

あたいは身を乗り出す。

「……そうね。あなたが負けるわけがないと思っているけど」

レミリア様は、カップを持って紅茶をすすった。

「でも、ちょっと難しいわね」
「えっ、ど、どうしてですか?」

いくら咲夜が良くても、主人のレミリア様が首を縦に振らないと、仲間になってくれない。

「未来視をするとね、咲夜が勝つ公算は十分にあるわ」

そこで、あたいはレミリア様の力を思い出した。

「でも、負ける確率もそこそこ高い。命を落とす危険がある」
「……むう……」

あたいは唸るしかない。

「あなたも知っての通り、私には咲夜が必要。代わりはいないの。失うことがどれだけ紅魔館の損失か、分かるでしょう」

紅魔館は、咲夜が実質回しているようなものなのだ。
重要なことはレミリア様に報告・決断してもらうが、それ以外の雑事は、全部メイド長の咲夜が決める。
あたいは、ここで働いていたから、いかに咲夜の存在が必要か、分かるのだった。

「あなたの、この紅魔館での偉業は計り知れない。拭い去れない闇を、全部、光に変えてしまったから。結果、紅魔館で働く者は明るくなり、笑顔を浮かべるようになった。それを無視するわけにはいかない」
「……」
「でも、それでも出来ないことはある。働く者の命に関わることは、紅魔館の当主としては容認できない。それが、当然」

レミリア様の言うことは、圧倒的に正論だった。

「理解してくれるかしら? あなたの頼みを無碍にするのは、私も本意ではないの」
「小町……」

フラン様が、心配そうにあたいの顔を見る。
やっぱり、無理なのか。あたいとかけがえのない絆を結んだから、紅魔館は力を貸してくれると思った。
けど、やはり、命を左右することは断るのが自然なのだ。
白玉楼の二人は、あたいが命の恩人だから特別に許してくれたのだ。そう、特別。

その時だった。
横にいた村紗ちゃんが立ち上がり、ソファーの横に立った。

「? 村紗ちゃん?」

あたいが不思議に思った瞬間、
村紗ちゃんは、絨毯の上に両膝をついた。

「お、おい、村紗ちゃん!」
「お願いします、レミリアさん。力を貸してください」

両手を地面につき、深々と頭を下げる。
それは、自分のプライドを全てかなぐり捨てた、懇願の姿勢。

「!」

村紗ちゃんのその姿を見て、あたいも弾かれるようにソファーを立った。

「こ、こまち!」

フラン様が叫ぶ。
あたいは、村紗ちゃんの隣に並んで地べたに座った。そして、頭を地に擦りつける。

「お願いします! レミリア様、どうか、お願いします!」

そうだ、もう頼れるのは紅魔館しかないのだ。
力を貸してくれなければ、終わりなのだ。村紗ちゃんの土下座で、あたいは覚悟が足りなかったとようやく分かった。

あたいたちは、そろって頭を地につける。
レミリア様が、首を縦に振ってくれるまで。

「……二人とも、頭を上げなさい」

静かだが、有無を言わさない迫力ある声でレミリア様が言った。
あたいたちは、頭を上げざるをえなかった。

「……そんなことをされると、気分が悪いわ。ましてや、紅魔館の恩人である小野塚小町に、そうすることを許してしまった私自身も気に入らない。……もうやめて頂戴」

……やはりダメか。レミリア様が気分を害したのなら、ここまでだ。
最後の手段だったが、無駄な努力だったようだ。

「咲夜」

レミリア様は、咲夜に声をかけた。

「あなたは、私のメイドね?」
「?」

あたいは疑問に思った。当たり前のことをレミリア様が言ったからだ。

「はい。私は、お嬢様のメイドです。故に、主人の許可なしに死ぬことは許されません」
「へ?」

なんだか、二人の間だけで話が成立していた。

「……いいでしょう。小町、あなたに咲夜を預けます」
「えっ!?」

あまりにもびっくりする発言だった。

「ほ、ほんとうですか!?」
「私は言ったことを変えないわ。その決闘裁判。紅魔館当主として、十六夜咲夜を派遣します。それでいいわね?」

数秒、あたいは、意味を考えた。

「や……やったぁ!!」

村紗ちゃんが諸手をあげ、あたいに抱きついてくる。

「こまちぃ! よかったねぇ!」

フラン様も、あたいにしがみついてくる。首が締まって、微妙に苦しい。
でも、この苦しみは、ちっとも苦痛じゃなかった。あたいの顔に、自然に笑みが浮かんできた。







外に出ると、日がだいぶ傾いていた。
あたいらは、まだ夕焼けに染まる前の空を飛んでいた。

「遅くなっちまったねぇ、ゆいちゃんたち、心配してるかな?」
「仕方ないです。フランさんの気持ちを考えれば、遊ばずに帰ってしまうのは薄情です」
「まあ、そうだけどねぇ。遅くなるかもしれないって言っておけば良かったね」

咲夜の決闘裁判参加を取り付けると、レミリア様が昼食を食べていくといい、とおっしゃった。
サクサクのクロワッサンや濃厚なコーンポタージュ。新鮮な野菜に凄まじく美味いドレッシング。パンに付けるバターやジャム、マーマレード。
あたいが紅魔館で働いていたときにも出たメニュー。久しく味わっていなかったが、質が高さは変わっていなかった。どれを取っても、一級品なのだ。

「しかし、村紗ちゃん、よく食べたね」
「もう言わないでください……恥ずかしいです……」

村紗ちゃんは、洋風の食べ物を食べたことがなかった。美味しい美味しいと言って、クロワッサンを六個、コーンポタージュを五杯、サラダを三皿平らげてしまった。
あたいらがいじったのは言うまでもない。

で、昼食の後、フラン様たちと遊ぶことになった。
遊技室に行って、いろいろなもので遊んだ。トランプ、ルーレット、ビリヤード。フラン様があたいの家に来たときに教えた花札もあった。
ダーツは、メルの独壇場なので、左手で投げてもらった。でも、百発百中だった。「やっぱり、逆腕だと難しいですね」とか言っていた。

そんな感じで五時間ぐらいぶっ続けで遊んで、ようやく時間を思い出した。
あたいらは、ゆいちゃんたちを置いてきたのに気づき、お暇することにした。

見送りに来てくれたフラン様たちに感謝し、現在、無縁塚に向かっている。この分なら、夕焼けになる頃に着くだろう。

「でも、村紗ちゃん」

あたいは、ちょっとトーンを落として言った。

「はい、なんですか?」
「村紗ちゃん、強いのかい? 相手は、多分、ものすごく強いよ?」

それは、あたいの心の隅にあった懸念だった。いや、考えないように努めていた。
今回の決闘裁判で勝つには、妖夢、咲夜のほかに、村紗ちゃんも出場しなければならない。そして、三連勝をしなければ、負けなのだ。

村紗ちゃんは、とてもケンカが強いとは思えない。相手は、秦広王の鬼神長だ。簡単に勝てる敵ではない。

「大丈夫です」

だが、村紗ちゃんははっきり言った。

「私に考えがあります。開催まで一週間あれば、多分、用意できます」
「なんだい? それは」
「うまくいったら、話します。私も、それは賭けだと思っているので」

村紗ちゃんも、強敵だと思っているだろう。そして、負けたら、ゆいちゃんは彼岸に渡れない。
そのことを、よく知っているから、中途半端な作戦は立てないと思われた。

「……分かった。あたいは応援しかできない。頑張るんだよ」
「はい。小町さんが見ていてくれれば、とても心強いです」

村紗ちゃんは、そう言って笑った。
その顔は、不安など微塵も感じさせないものだった。



無縁塚に戻ってきた。
パラソルが立っている昼寝岩の上に、ぬえちゃんが座っていた。

「あれ? ゆいちゃんはどこだい?」

ゆいちゃんの姿が見えなかった。一緒にいると思っていたのだが。

あたいらは、ぬえちゃんの方に近づいていった。

「ぬえ、ただいま」

村紗ちゃんが声をかけると、ぬえちゃんが振り向いて、人差し指を唇に押しつけた。
なんだか分からなかったが、あたいらはそばに行く。

すると、ぬえちゃんの仕草の意味が分かった。

ゆいちゃんが、ぬえちゃんの膝枕で寝ていた。
遊び疲れたのだろか。すやすや、すやすやと穏やかな顔をして寝ている。
安心しきった寝顔。千年もの間、一人で寂しく寝ていたであろう、ゆいちゃんにとって、初めての安息。

村紗ちゃんは、ゆいちゃんの正面に立って、中腰になった。
そして、触れるような優しさで、ゆいちゃんの頭を撫でる。

「……必ず、あなたを幸せにしてみせます」

村紗ちゃんは、そう誓いを立てた。

決闘裁判まで、あと一週間。
その日は、ゆっくりと、しかし確実に、刻々と近づいていた。




  

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