※提督の性別は、お好きなほうをご想像ください。





 提督室のドアを開けると、利根がすでに中にいた。
「おーう、提督よ。今日もお勤めご苦労じゃ」
 利根は大らかそうな、それでいて小生意気そうな笑みを見せた。
 提督の椅子にもたれるように座り、足を机に載せながら雑誌のようなものを読んでいる。
 行儀は悪いが、靴はちゃんと脱いでいるので、提督は特に咎めなかった。
 もう慣れているのもある。
「おはよう、姐さん。ずいぶん早いね」
「むっ、失敬なやつめ。吾輩はいつも早起きである」
「でも、私が来る前にいたことは少ないでしょ?」
「むう、そういう意味ではそうであるな」
「それに、いつも筑摩さんに起こされてるんでしょ? 筑摩さん、姐さんが寝てるときをうれしそうに話すから」
「ぐわっ、あやつめ余計なことを言いおって……!」
 顔を赤くして、利根は眉をつり上げた。
 微笑ましくて、提督の頬がゆるんだ。いつものやりとりだった。
「そ、そんなことより提督よ、これを見よ! これを吾輩に積むのだ! なかなか見所があるぞ!」
「ん? どれどれ」
 利根が読んでいた雑誌をこちらに向ける。
 そこには『新型二座水上偵察機』と見出しがあり、艦載機の写真が載せられていた。
「ああ、瑞雲か。これは、うちも欲しくてね。開発させてるんだけど」
「おお、本当か!? 完成はいつ頃だ!?」
「遺憾ながら、見通しが立ってません」
 なにぃ! と利根はいきり立つ。
「まあまあ、落ち着いて姐さん。採寸とか設計とかが難しくてさー。千代田さんはいるけど、なかなかうまくいかないんだよね」
「ぬうぅぅぅ、では、疾く造るのだ! それで吾輩に載せぃ!」
「そうしたいのは山々なんだけど、姐さん。たぶん、瑞雲は姐さんに積めないよ?」
 なにぃ! と利根は再びいきり立つ。
「なんでだ! これは偵察機の改良であろう!?」
「そうなんだけど、この艦載機大きいんだよ。物理的に姐さんに載せられないんだ」
「馬鹿な! なんとかならんのか!?」
「姐さんにも載せられる偵察機の新型が出ればねー。でも、瑞雲は無理。姐さんが航空戦艦だったら余裕なんだけど」
「そ、それは、どうしようもないではないか……違う動物に生まれ変わるようなものだ……」
「そうだねー」
 提督は笑いながら、近くにあったアンティーク椅子を引っ張ってきた。
 机に突っ伏した利根の隣に持ってきて、座る。
「あのさ、姐さん」
「なんじゃー」
 ふてくされたように、利根は机に顎をのせて前髪をいじっている。
「姐さんが他の重巡洋艦よりも、倍、偵察能力が優れているのはわかってるよ。その長所は、きっといつか役に立つ」
「ほう、わかっておるではないか。ミッドウェーでいち早く敵機動部隊を見つけたのは吾輩だからな」
「確か、カタパルトが調子悪くって、修理が遅れて、やっと水上機が飛んだら、たまたま敵艦を見つけたんだっけ?」
「ご、語弊がある言い方をするでない! それに結果的に索敵が成功したのだから、いいのじゃ!」
「そりゃそうだ。別に批判してるわけじゃないんだ。……ただ、姐さんの索敵成功率って、結構低いよね。客観的に見て、千代田さんに遠く及ばない」
「そ、そんなことはないぞ!? えぇと、あれだ! 偵察機の数が足りん! あと二、三機あれば充分じゃ!」
「そこなんだけどねー。この際だから、提案しようと思うんだ」
「な、なんじゃ……」
 提督が改まった様子だったので、利根は怪訝そうに身構える。
「うちは、まだまだ新設したてのほやほや司令部だって、姐さんは痛いほど知ってるでしょ? 資源は慢性的に足りないし、みんなの燃料も何とか工面してる状態。さっき、姐さんは早く造れって言ったけど、難しいのはわかってるはずだよ」
「わ、わかっておる……伊達にお主の秘書艦はやっておらん」
「それに、姐さんはうちの主力だ。いなくなったら火力が足りなくって、困るどころじゃない。正直、姐さんと筑摩さんには攻撃に専念してもらいたいんだ」
 利根は、提督を上目遣いで睨むように見た。
「……つまり、偵察機を外して武装を強化すると?」
「しばらくはね。でも、それは資源に余裕ができるまで。これからは敵にも空母がたくさん出るはずだから、姐さんの艦載機の制空権争いは重要になってくる。うちにも空母の娘が来たら、手助けしてやってほしい」
 提督は、真摯に願い出た。利根の自尊心を逆なでしないように、きちんと言葉を選んだ。
 利根は唸りながら考え込んだ。
 長いこと腕を組んでいたが、やおらに立ち上がった。
「やはり駄目じゃ! 吾輩は偵察特化の重巡なのじゃ! わざわざ主砲を取り除いてまで求められたものを、おいそれとは捨てられん!」
 利根は、そのままドアに向かって開け放った。
「よいか!? 吾輩から偵察機を取り除いたら許さんからな!?」
 そう一言残して、利根はドアを叩きつけるように閉めた。
 提督は、苦笑いを浮かべながら溜め息をつくのだった。







 利根は、この新米少佐提督のもとに配属された、初めての重巡洋艦だった。
 軽巡洋艦と駆逐艦の主砲の火は、あまりにも小さかった。ゆえに、敵の艦隊とは、昼間に魚雷を撃ち合ってから、夜に目隠し状態で殴りあうのが主戦法だった。
 利根の20.3cm砲の火力は、それを大きく変えた。いままでの主砲が豆鉄砲のように思えた。
 軽巡、駆逐艦の主砲が届かないところから、一方的に砲撃、命中させ、高確率で即撃沈させる。魚雷攻撃も下手な駆逐艦より威力がある。
 彼女が戦果を挙げられないことはない、という、まさに鎮守府の絶対的エースだった。
 提督は利根に尊敬の意を込めて、姐、と呼んでいる。彼女は海戦知識も豊富であったので、名目は秘書艦としているが、事実上、教官のように扱っていた。
 ちょうど同じ時期に、利根型の妹艦である重巡・筑摩が加わり、そして鎮守府初の水上機母艦・千代田も参入した。
 利根を筆頭に、この三人を含めた水雷戦隊が、現時点で最強の艦隊だった。
 しかし、問題が一つあった。
 利根がやたらに水上偵察機にこだわっていることだった。
 当然だった。彼女と筑摩、いわゆる『利根型』は、従来の重巡洋艦の偵察能力を強化する目的で造られたからだ。
 後部の主砲を取り除いたことで、いままでの重巡の倍の艦載機を積むことが可能になった。空母として使える重巡洋艦。それを目指したのが利根型だ。
 だが、それでも重巡は重巡。艦載機を積むことに特化した空母には比べるべくもない。空母よりランクが低い水上機母艦の千代田よりも運用能力は低いと言わざるを得なかった。
 兵装を犠牲にして艦載機を積めば、それなりに効果はある。だが、そんなことをしなくても、千代田がいれば事足りる。
 それに、利根と筑摩は攻撃の大黒柱だ。敵は攻撃しなければ倒せない。彼女らの兵装はなくてはならない。
 こういうジレンマを抱えていた。
 提督は、利根たちの艦載機をいったん取り払い、砲塔を増やしたかった。
 しかし、それは利根型のアイデンティティーをも取り払うことになる。
 利根は、弱小鎮守府の救世主だ。彼女がいなければ、南西諸島沖の攻略はずっと先のことだっただろう。
 だから、彼女の意志を軽視したくなかった。
 これを解決するのが、提督としての使命なのだろう。
 軽巡と駆逐艦の皆を育てるか。資源を溜めて新たな重巡を開発するか。
 日々の業務をこなしながら、それを模索するのが、しばらくの課題になりそうだった。







 8月11日。正午。製油所地帯沿岸、東海域。
 晴天。波は穏やかで、絶好の進撃日和となった。
「敵影はないわ、利根姉さん。このあたりは撃滅したようね」
 筑摩が穏やかな口調で報告する。
「うむ、ご苦労であった。夜までもつれるとはな……手こずらせおって」
「でも、よかったんじゃないかしら? 最近夜戦できなくって、川内さんが鬱憤溜まってたみたいだから」
「あやつは夜になると本当に元気になるな……」
 呆れた顔をして、利根は筑摩の背中のほうを見やる。
 いまだ興奮さめやらないのか、川内が吹雪と不知火を相手に戦果を語り合っていた。
 利根は無線を起動させる。
「提督よ。聞こえるか?」
『うん、感度良好。戦果と被害は?』
「このあたりの敵はあらかた片づけたぞ。損害は軽微。千代田が小破しただけじゃ」
『了解、お疲れさま。じゃあ、帰投しようか』
「むっ、進軍しないのか?」
『千代田さんが被弾したんでしょ? 万が一があったら困る。彼女は索敵の主力だ』
「それなら、吾輩と筑摩がやればよい! なんのために我らは艦載機を積んでいるのだ!」
『いやね、姐さん。そういうことじゃなくって、千代田さんを撃沈されたくないんだ。彼女は偵察機を多く積んでいるから火力がない。囲まれたりしたら、全く抵抗できないでしょ?』
「なら、千代田だけ帰投させればよい! 攻撃できないなら、いるだけ無駄であろう!」
 提督は無線越しに唸った。
「提督、それならば敵影の捜索に重きを置いてはどうでしょう」
 そこに、筑摩が提案した。
「このあたりは未知の海域です。どんな敵艦がいるのかを知ることができれば、後の対策を立てやすくなります。すでに夜戦も行っていますし、無理は決してしませんから」
『……わかった』
 提督は、進軍を指示した。
『敵艦の索敵。それが唯一の任務だよ。単横陣を取りつつ、敵艦に遭遇したら全力で後退。深追いは絶対しないこと。いいね?』
「任せておけ! 索敵こそが吾輩の神髄じゃ!」
『期待しているよ、姐さん。でも、死ぬのは駄目だ。私が提督でいる間は、一人も命を失わせない』
「わかっておる。まだお主に教えることはたんまりあるからの」
 利根は、いつもの不敵な顔で笑った。



 南東に進路を取り、一時間。
 海は穏やかなもので、夏の日差しが水面を眩しく照り返していた。
「良い天気じゃのー。次の休みは離島で骨休めしたいものじゃー」
「あらあら、姉さん。進軍中なのですから、気を抜いてはいけませんよ」
「わかっておる。しかし、放った偵察機から知らせがない。このあたりにはおらんのではないか?」
「そうですねぇ。これだけ見晴らしがよければ、どこにいてもわかりますしね」
 利根と筑摩、それに千代田は進軍方向にまんべんなく偵察機を放っていた。
 こんな快晴下では、千代田がいなくとも偵察は成功する。ここを牛耳っている敵はいないのだろうか。
「そろそろ偵察を終えさせたほうがいいかの。燃料がなくなるであろう」
「そうですね。提督に報告を入れましょうか」
 筑摩に促され、利根は無線の電源を入れた。
 ふと、雲一つない空を見上げる。
 そこには、青の背景に針で穴を開けたように、何かが飛んでいるのが見えた。
「ん? なんじゃ、あれは?」
 飛行機だった。
 それは利根たちの進軍方向と同じほうに飛んでいる。
 つまり、背後から飛んできたということ。

 ――利根の肌が粟立った

「総員っ!! 背後からの急襲に備えろっ!!」
 同時。
 砲弾の風切り音が、急速に迫ってきた。
 着弾、轟音。
 筑摩の船体が、吹き飛んだ。悲鳴すら上げられなかった。
「ち、ちくまぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 絶叫する。
 膨大な黒煙の中、筑摩は海に浮いていた。ぴくりとも動かない。バラバラにされた船体の破片が海面におびたたしく広がり、その中心で漂っていた。
 近づいて大声で呼びかける。だが、筑摩は死んだように瞼を閉じたままだ。
「う、うわぁぁぁぁ……」
『姐さん!? どうしたの!?』
 提督の声が無線機から聞こえる。無線の電源を入れていたことが幸いした。
「ち、筑摩がっ……筑摩がやられたっ……!」
『状況を教えてっ! 敵はっ!? 数と配置を教えてっ!』
 利根は混乱し、提督の指示に従うしか考えられなかった。
 筑摩を抱えながら、背後のほうに目を凝らす。
 敵艦が見えた。数は、六。単縦陣を敷いていた。
 完全な丁字不利だった。
 しかし、利根をそれ以上に震え上がらせたことがあった。
「せ……」
『なに!? 姐さん、どうしたの!?』
「戦艦、だ……」
 敵艦隊の東。旗艦。
 それは、重巡洋艦の利根の船体を遥かにしのぐ巨艦だった。
 まだ豆粒のように小さかったが、距離を逆算すると信じがたい大きさになる。隣には軽巡洋艦や駆逐艦がならんでいたが、まだ視認が難しいほどだった。この穏やかな波でさえ見え隠れしている。
 提督が、机を叩く音が無線越しに聞こえた。
『退避っ!! 全力退避っ!! 戦艦に的を絞らせてはいけないっ!!』
「ど、どうやって逃げればよい……ど、どうすれば……どうすれば……」
『落ち着いて、姐さんっ! 戦艦がいないほうに大きく回り込むんだ! 他の軽巡や駆逐艦に狙われないで! 近づいてはならないっ! 筑摩さんを連れて、全速力で逃げてっ!』
「わ、わかった……」

 そこに、二度目の風切り音が迫る。

「ぐわぁぁぁぁっ!?」
 戦艦が再び砲弾を放ってきた。まだ無事だった利根に狙いを定めたようだ。
『姐さんっ!? 姐さん、大丈夫!?』
「う、ぐううぅぅぅっ!」
 痛みをこらえ、利根は自分の状況を確認する。
 愕然とした。自慢の20.3cm砲が、完膚なきまでに破壊されていた。
「しゅ、主砲が、大破した……」
『すぐにそこから離れてっ! 射程が違いすぎる! 止まらないでっ! すぐに動いてっ! 動けるっ!?』
「だ、大丈夫だ……退避するっ……」
 利根は筑摩の体を引っ張り、戦艦のいない西側に懸命に走った。
『千代田さんは利根姐さんと筑摩さんを曳航してっ! 川内と吹雪と不知火は、敵との間に入って護衛と威嚇射撃! 逃げるんだよ、倒そうと思わないでっ! 全力で走り抜けながら弾が尽きるまで撃ちまくってっ!』
 提督の指示に従い、皆が退避行動を開始した。
 そのうちに、敵の足の速い軽巡と駆逐艦の姿が、大きくなってくる。
 その前に川内たちが立ちふさがり、利根たちの盾になるように列を作りながら弾幕を張り巡らした。
「ぐっ……」
 千代田に引っ張られながら、利根は歯を食いしばる。
 こんな、こんなことになるなど、全く考えなかった。
 いままでは、皆を守る側だった。しかし、いまは守られている。
 その事実が、利根の心をやるせないほどに軋ませていた。
「ぐうっ……!」
 せめて。せめて一太刀。
 まだ副砲は動く。護衛を務めている三人を少しでも援護したい。
 動かない筑摩を抱えながら、利根は副砲を構えた。川内の向こうにいる駆逐艦に狙いを定めた。

 三度目の風切り音。

「がふっ」
 利根の体をかすめた。海に着水し、激しい水柱を上げた。
 起こされた波に翻弄される。
 しかし、なんとか体勢を立て直した。航続に支障はないようだった。
 そのかわりに、副砲が折られていた。根本から完全に消失していた。
 それはまさに、利根の心をもへし折ったということだった。
「ぅ、ぁぁ……」
 もう、なにも考えられなかった。
 逃げることしか頭になかった。
 筑摩と、ボロボロの船体を引きずって、遮二無二、敵に背を向けて、走った。

 それからは、利根は何も覚えていない。







 目が覚めると、ぼんやりとした視界に木目の板が映りこんだ。
 利根は、自分がどこにいるのかわからなかった。
 しかし、横たわっているのはわかる。消毒液のにおいが鼻をついた。
 開け放たれた窓から風が舞い込み、利根の頬をなでる。
 静かで、物音が全くしない。時計の時を刻む音だけだ。自分のいる部屋が世界から切り取られてしまったように感じた。
 それを破るように、ドアが開く音が室内に響いた。
「姐さんっ!?」
 提督だった。うつろに見つめていた利根に気づき、血相を変えて走りよってきた。
「よかった……! 気がついたね……!」
 そして、心底安堵したと泣き出しそうな顔をする。
「提、督……吾輩は……」
「ここは入渠ドックだよ。筑摩さんを連れてきたら、糸が切れたように気絶してね。そのまま運び込まれたんだ」
 利根には、そのときの記憶がなかった。
 しかし、思い出す。
 空を覆い尽くさんばかりの弾雨。鼓膜を破るような砲音の嵐。
 そして、瀕死になった筑摩の姿。
「っ! ち、筑摩はっ! 筑摩はどうした、提とっ、」
 利根は両腕の激痛に呻いた。提督に詰めかかろうとしたが、叶わなかった。
「ダメだよ、姐さんっ。両腕が折れてる。静かにしてて」
 提督に肩を優しく押し戻され、再びベッドに横になった。
「安心して、筑摩さんは無事だから。まだ意識は取り戻さないけど、死んではいない。修理工のみんなが全力で直してるから」
「ほ、本当か……?」
「嘘なんかつくわけないでしょ? 他のみんなも無事だったよ。護衛の三人が軽巡と駆逐艦三隻を大破させて振り切った。夜戦にまでなったけど、そうなるとこっちには余計に元気になっちゃう娘がいるからね。さすがに疲れたようで、帰投したら倒れたけど」
 提督は困ったように笑う。
 損害は甚大だった。
 しかし、誰一人として死ななかった。それが、一番の成果だった。
「……ごめんね、姐さん」
 提督が、不意に頭を下げた。
「な、何故、お主が謝る……?」
「当たり前だよ。進撃を指示したのは私だよ。あそこで引き返していたら、姐さんも筑摩さんもこんな目に遭わなかった。すべての責任は、私にある」
 それは、確かなことだった。
 艦隊の総指令官は、提督だ。被害を最小限に抑え、敵艦を倒すのが役目。
 旗艦の利根と筑摩を大破させ、相手の旗艦の戦艦に傷一つ付けられなかったのは、大きな失態だ。
「……違う」
 だが、利根は首を振る。
「お主を炊きつけたのは、吾輩じゃ。半ば、進軍を強いた。そして、吾輩は、」
 利根の視界が、一気に滲む。
「索敵を、しくじった……!」
 涙が頬を伝い、枕の布を濡らした。
「ぅぐっ……あれだけ、お主に……ふぐっ……啖呵を切っておきながら……ぇぐっ……敵に、まんまと、背中を取られた……! なにを……ぅぐっ、なにを、しておったのじゃ……!」
 涙を拭おうとしても、両腕が激痛で動かせない。
 提督は、ポケットからハンカチを取り出す。それで、利根の涙を優しく拭いた。
「違うよ、姐さん。私が後方索敵を指示しなかったのが悪い。姐さんのせいじゃない」
「違うっ! 吾輩はお主を教える立場じゃ! お主は、吾輩の我がままを最大限に汲んで作戦を練った! その吾輩が……こんな醜態を……っ!」
 涙が、次々に溢れ出てくる。
 提督のハンカチが、見る見るうちに湿っていく。
 まるで、防水区画が浸水していくかのように。

 利根は、叫ぶように泣いた。
 提督は、それが収まるまで、そばで涙を拭い続けていた。



「……提督よ」
 嵐が去った後、利根は天井を見つめながら呟くように言った。
「ん?」
 提督は短く訊き返す。
「……あの戦艦は許さぬ」
 その声は、静かで、無機質だった。
 しかし、聞いた者の背筋を凍らせるような凄みに満ちていた。
「吾輩を、強くしてくれ」
 泣き腫らした赤い目で、利根は提督の目を見つめた。
「艦載機とか、索敵とか、もうそんな詰まらんこだわりは、捨てる。吾輩は、お主の勝利のために戦う。それが、吾輩にできる償いじゃ」
 その力強い目に、提督は圧倒され、惹きつけられた。
「……もちろんだよ。姐さんは、うちのエースだ。あのくらいの戦艦、ちゃっちゃと倒してもらわないと困るからね」
 提督はおどけるように言った。
 利根の目に、再び涙が溜まり、伝った。
 だが、もう悔しさと後悔の色はなかった。
 ただ、ただ、ひたすらに未来を目指す力強い光が、灯っていた。

















〜 二ヶ月後 〜



 大湊警備府の門前に、二人の少女が立っていた。
 新設された真新しい建物は、とても清潔感を感じさせた。
「こ、ここが大湊警備府ね……」
 一人の短髪の少女が、ごくりと喉を鳴らした。
「横須賀から左遷になったところでしょ? 大したことないでしょうに」
 隣の片髪を縛った少女が鼻を鳴らした。
「馬鹿ね! 知らないの!? ここの人たちが、あの沖ノ島を攻略したのよ!?」
「……は? それって、横須賀の鎮守府の人でしょ?」
「その人たちが、ここに異動になったの! ただ単に人が増えたから、新設したところに移っただけよ!」
「う、うっそ、ホント!? じゃ、じゃあ、あの利根って人もいるの!?」
「当たり前よ! 戦艦殺しの利根よ! それくらい知ってるでしょ!?」
 それを聞いた少女の目が、一気に畏怖を込めたものに変わる。
「……た、確か、沖ノ島で敵戦艦二隻、敵正規空母一隻を撃沈だっけ? 戦艦の人たちや赤城さんと肩を並べてたとか……」
「そうよ! それだけじゃなくって、つい最近、伊勢さんが加わるまで、ことごとく敵戦艦をぶちのめしてた人よ! いまも第一艦隊のエース! 砲撃、雷撃は言うまでもなく、重巡なのに索敵が得意! おまけに現提督の教官を務めている頭脳持ち! まさに万能を絵に描いた人だわ!」
「は、話は聞いてたけど、マジなのそれ……。重巡がそこまでできるとは思えないんだけど……」
「あ、あんた、間違っても利根さんにそんなこと聞くんじゃないわよ!? 私たち吹っ飛ばされるからね!?」
「わ、わかってるわよ……。駆逐艦が重巡に喧嘩売るわけないでしょ……」
 彼女らは、大湊警備府に新しく配属された駆逐艦だった。
 今日が初日であり、挨拶に訪れたのだ。
 しかし、ここに利根がいることは、片髪を縛った少女は知らなかったらしい。
 地獄と謳われた沖ノ島海域。そこを制圧し、凱旋した英雄の一人。それ以前にも嘘のような噂が飛び交っていて、とても信じられるものではなかった。
「あ、会えるのかな、今日……」
「さ、さすがに無理でしょうよ。私たち、下っ端中の下っ端よ。会えるとしたら、なんかの式典とかで壇上に上がってるときとかでしょ?」
「そ、そうね……私たちが一方的に見るだけよね……」
 二人は色々と会話を交わし、意を決したように門の敷居をまたいだ。
 衛兵のいる玄関をくぐり、ロビーの受付係に来訪を伝えた。
 ソファーで待たされていると、正面の階段から誰かが降りてくるのが見えた。
 頭の両サイドでリボンで縛った瑞々しい黒髪。
 すらりと高い背と引き締まった体つき。
 そして、凛々しい目鼻立ち。
 彼女は、二人のほうに颯爽と歩いてきた。
 その姿に、思わず二人は弾かれたように立ち上がり、背筋を伸ばした。
「待たせたな。お主たちが新属の者じゃな?」
「は、はい! よろしくお願いします!」
 緊張した様子の二人に、彼女はたおやかに、そして自信に満ち溢れた笑顔を浮かべた。

「吾輩は利根である。吾輩がここにいる以上、もうなにも心配はないぞ」


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