点々と、点々と、赤い染みが途切れることなく続いていく。
 それは、森の奥に真っ直ぐ向かい、暗い闇の中に吸い込まれていく。
 地に敷き詰められた白い雪は、鮮やかな赤をより一層際立たせる。
 空からはゆっくりと雪片が舞い降りる。だが、その赤は色を失うことはなかった。
 闇に包まれた冬の森。雪が地面に落ちる音が聞こえるくらいに静謐だった。
 うごめく獣の息遣いも、風に撫でられた木の葉が擦れる音も聞こえない。
 音の一切を排したそこは、幻想の郷において、より上質の幻想を創り出す。
 それは、一種の神聖ささえ感じられた。

 やがて、赤い染みは途切れた。

 木の根元にうずくまるようにして、小さな息遣いが感じられた。
 短く、速く。
 小さな口から息が吐かれ、白く染まっては空気に消える。
 ただ、ただ、それの繰り返し。
 命が、少しずつ、吐息とともに、その小さな体から抜け出ていくかのようだった。
 小さな命は分かっていた。自分はこの森に抱かれて眠るのだと。
 まだ生まれたばかりの身ではあったが、頭の奥の方でそれが理解できた。
 静謐な森は、ただ見守る。無慈悲に、優しく、それを見守る。
 深い森の中での神聖な儀式は、滞りなく、最後の時を迎えるはずだった。

「あれ?」

 静寂に包まれた森の中に声が響く。
 それは、消えゆく命とは比較にならないほど生命力に満ち溢れた声。
 声の主は少女のようだった。しっかりとした二本の足で、雪を踏みしめ立っている。
 きょろきょろと辺りを見回していた少女は、うずくまった小さな影に気がついた。
「あっ……!」
 さくさく、と雪の上を小走りに走って近づいていく。
 近づくにつれて、遠目からでは分からなかった事態に気づいて、目を見開いた。
 頭の両脇から突き出た耳がピン、と伸び、スカートからはみ出した二本の尻尾が忙しなく動く。
 その手が触れられるくらいにまで近づくと、少女は雪に服が濡れるのもかまわずに膝をついた。
「ど、どうしよう……この子、血がいっぱい出てるよ……」
 追ってきた斑点とは比べ物にならないくらい、雪には大きな赤い染みが出来ていた。
 少女は、今まで見たこともない量の血液にうろたえる。手を触れようとしたが、なんとなくはばかられて、触れようか触れまいかのところで手が行ったり来たりしている。
「でも、早くしないと、この子死んじゃうよね。私は治せないけど、藍さまなら治せるかも……!」
 意を決した少女は、血を流している小さな体に触れた。
 ゾッとするほど冷たかった。
 ようやく、少女は一刻の猶予もないことを悟る。
「まっててね! きっとお前を治してあげるから!」
 少女はゆっくりと体を抱えあげると、木の葉で歪な形に切り取られた空に舞い上がっていった。



 幻想郷と外の世界とを隔てる結界、博麗大結界の境目に、マヨヒガと呼ばれる家がある。
 外の世界では伝説として伝えられているこの家には、古くから幻想郷を見守っている、ある妖怪が住んでいる。
 どこにあるのかさえ定かではなく、正確な位置を知っている者は数えるほどしかいない。周囲の森には外の世界にも通じる結界が張ってあり、森の幻影を映し出して、森に立ち入った者を元来た道に返してしまう。
 その幻の森の上空を、一人の少女が飛んでいく。
 結界は森の中に限らず、上空にも伸びているのだが、少女の飛び方には一切の迷いがない。結界の抜け方を熟知しているのは明らかだった。
 少女は一匹の傷ついた動物を抱えていた。息も絶え絶え、瀕死の状態である。
 腹から流れ出た血が、朱色の服をより一層赤色に染める。少女はそれを全く気にせず、より強く腕に力を込める。少しでも、少しでも体が温かくなるようにと。
 初めて触れたときの感触が、まだ少女の手には残っている。生き物としての温もりが全く感じられないほど冷たかった。
 妖怪の寿命は、はるかに長い。少女は猫の妖怪だった。すでに、その姿に似合わないほどの時間を生きている。そして、人間を含めた他の動物は妖怪にとって捕食の対象でしかなく、生きようが死のうが気に留めることもない些事だった。
 ……でも、放っておけなかった。
 このまま見捨ててしまう自分自身を許せなかった。
 迷いの森で偶然見つけた血の跡が、少女の心の中の何かを捉えた。
 何故なのか。それは少女にはついに分からなかった。
 困惑と心配。そんな心を併せ持ちながら、少女は森の上を風を切って飛び続けた。

 もうどのくらい飛んだだろうか。少女の前方の森が少し開け、一軒の屋敷が見えてきた。
 大きいと言えば大きいし、それほどでもないと言えなくもない。普通の家をやや大きくした感じの屋敷だった。
 瓦葺きの屋根に、木を基調にした和風の家。前庭は素朴ながらもよく手入れされており、庭のはずれには鶏や牛などの家畜も見える。
 そこがマヨヒガ。少女が育ち、現在も暮らしている我が家だった。
 少女は家と外とを隔てている門をくぐることなく飛び越える。そして、急いで玄関の戸を開け放った。
「藍さまっ! いますかっ! 大変なんです! 早く来てくださいっ!」
 少女は家の中に向かって叫ぶ。彼女の主は今時分、夕食を作っている頃だろう。玄関と台所は目と鼻の先だ。多少大きな声を出せば、必ず届くはず。
 トタトタと廊下を歩く音が聞こえ、藍と呼ばれた女性が顔を出した。
「おかえり、橙。どうしたんだ、大声出して……ん?」
 肩の辺りで切り揃えられた金色の髪に琥珀色の目。そして背後には、大きな九本の尻尾が孔雀の羽のように広がっている。
 藍は、彼女が橙と呼んだ少女の腕に、見慣れないものがあるのに気がついた。
「橙、どうしたんだ、その子は?」
「結界のはずれで見つけたんです。ひどく血を出していて……。藍さまなら治せると思ったから、連れて帰って来たんです」
 ふむ、と息をつき、藍は橙の抱えた動物の状態を見る。すでに弱々しく息をしているだけで、かなり危険な状態にあると思えた。
 白い毛は思ったほど血に濡れてはおらず、腹の辺りに丸く、黒ずんだ傷があった。他に目立った外傷はない。これが唯一の、そして一番深い傷なのだろう。
「……これは銃創だな」
「じゅうそう?」
「人間が持っている鉄砲っていう武器で出来た傷のことさ。こいつの腹に丸い傷があるだろう? 恐らく、鉄砲で撃たれたんだろうね」
「な、治せますか?」
「うん。まずは、こいつの腹の中から鉄砲の弾を取り出さなきゃならないな。見たところ、貫通していないようだし、まだ腹の中にあるようだ。それを取り出してから、傷を癒す術をかけてみよう」
「わ、わかりました。じゃあ、どうしたらいいですか?」
「居間に手ぬぐいを敷いて、こいつを傷を上にして寝かしておいてくれ。私は道具を取りに行ってくる」
「は、はいっ!」
 橙は靴を放り出すように脱いで、居間に駆け込んでいった。藍はその姿を見て、苦笑いをする。
 まったく、いつまで経っても靴を揃えないんだからな。まあ、今回は緊急だから仕方ないか。
 藍は救急箱を取りに、急いで居間とは反対の方向に向かった。

 マヨヒガの居間は十二畳の広々とした部屋である。冬なので中心には大き目のコタツが据えられている。食事の一切はここで行い、他にも何か催し事があると住人は全員集まる。ここは、団らんを演出する場所だった。
 いつもならコタツの中に肩まで入り込んで、ぬくぬくまったりと夕食を待っている橙だったが、今日はいつになく真剣な表情で、コタツに背を向けて正座をしていた。
 玄関を上がった後すぐ、傷を負った動物の子を左手で抱えながら、居間の隅にある箪笥を右手で片っ端から開けて、ありったけの手ぬぐいを畳に敷き、その上にその子をそっと載せた。
 遅れてきた藍の右手には救急箱がぶら下げられていた。居間に入るとすぐにそれを開け、十五センチばかりの鉄箸を取り出した。
 この動物の子のお腹の中にあると思われる鉄砲の弾とやらを取り出すには、当然、傷の中を棒のような物で探ることになる。
 つまり、傷をぐりぐりするということだ。あの箸を二本とも傷に突っ込んでぐりぐりするわけだ。
 ……考えただけで戦慄する。
 痛いのが好きなやつなど恐らくいない。妖怪である橙もそれは同じだった。
 箸を突っ込まれるのは自分ではないとはいえ、いま目の前で苦しそうに横たわっている動物の子に突っ込むのは、あまりにもかわいそうな気がした。
 しかし、お腹の中の弾を取り除かなければ、この子は一生何かをお腹の中に入れたまま過ごすことになる。それもかわいそうには違いなかった。
 だから、橙に出来るのは、目の前にいる主が素早く弾を取り出して、傷を治す術をかけてくれるよう願うことだけだった。
「よし、橙。こいつが暴れないように、しっかり体を押さえておいてくれよ」
「は、はい」
 橙は、動物の子の頭と腰の辺りに手を当て、畳と垂直に押さえつけた。
 その後、藍が傷に近い腹の辺りを左手で押さえ、畳に肘を突いて鉄箸を食事の時のように持ち変えた。
 藍の箸が徐々に傷に近づいていく。
 鉛色に冷たく鈍く光った箸は、動物の子の傷にゆっくりと吸い込まれていく。
 中からぷく、と血の泡が出てくる。流れ出た血は腹を伝い、清潔な白い手ぬぐいの上に赤いシミを作った。
ビクッ
「ひゃっ!」
 ひどく痛んだのか、突然、動物の子が激しく痙攣した。橙はそれに驚いて手を緩めてしまう。
「橙」
 藍は箸を動かすのを止め、諭すように言う。
「お前がしっかり押さえておいてくれないと、いつまでたっても弾を取り出せない。この子が苦しいのは私も分かっている。でも、この子はいま苦しんでおかないと、これから先、一生苦しむことになるんだ。それなら、いま一瞬だけ鬼になろう。我慢できたら、その時に褒めて労わってやればいい」
「は、はい……」
 藍に背中を押され、橙は再び体を押さえた。藍も箸を傷口に入れる。
 途中、動物の子は何度も鋭く体を震わせた。橙は震える手で体を押さえ続けた。
 藍の箸はもう三分の一程度まで体内に埋まっている。橙は畳の一点を見つめ、それを懸命に見ないようにした。
「……よし、ほうら出てきたよ」
 真っ赤に濡れた鉄箸の先に、一センチくらいの小さな丸い玉が摘まれていた。火縄銃の典型的な弾だった。それを手ぬぐいの隅に箸とともに置く。
「ら、藍さま! 早く傷を治してあげて!」
「ああ、分かっているよ。橙はそのまま体を押さえておいてくれ」
 橙に急かされて、藍はすぐに治療にかかる。弾を取り出すのに傷口を広げたため、出血はひどくなっていた。
 藍は小指の腹を犬歯で薄く裂く。
 ゆっくりと血の滴る指を動物の子の腹にあてがい、その血で傷を中心にして五芒星の印を描く。
 そして、手を印にかざして何事か眩く。印が淡い光に包まれ、みるみるうちに傷が塞がっていった。
「うわあ……」
 橙は感嘆の声を上げる。同時に思い出す。今よりもっと幼かった頃、転んで膝をすりむいて泣いていたときに、藍が撫でただけであっという間に傷が塞がったことを。
 藍は自分の知らないことを何でも知っていて、出来ないことは何もない。それは、式神と主という枠を超えた尊敬の念だった。
「これでいいかな? 腹の中も治っているはずだけど、今日は体を動かさないようにしてゆっくり休ませてやるといい。どこかの部屋にまた手ぬぐいを敷いて、暖かくして寝させてあげなさい」
「はい、わかりました!」
 元気よく返事した橙は、動物の子を抱えて居間を飛び出していく。
 その姿を見送りながら、血がたくさん出たから後で無理やりにでも何かを食べさせて血を作らせたほうがいいかな、と藍は思う。
「……でも、一体あの子は何を食うんだろう?」
 簡易手術の片付けをしながら、藍は素朴な疑問に首をかしげていた。


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