紅魔館の二階にあるメイド長室。
 十六夜咲夜は、自らの椅子に身動きせずに座っていた。
 わずかに開けられた窓からは、涼やかな風が舞い込んでくる。残暑も収まり、気持ちのよい気候になったと教えている。
 だが、そんな季節の喜ばしい便りにも、咲夜の表情の硬さはとれない。端正な顔をわずかに歪め、いくらかの悲壮にも満ちている。
 咲夜の前には、一つの物があった。
 大きめのコップに入れられた、上等な紅茶である。氷が二つ入っており、アイスティーであると教えている。
「……」
 咲夜は、ごくりと生唾を飲み込み、ゆっくりと、ゆっくりとコップに手を伸ばし、掴む。
 そして、ゆっくりと、ゆっくりとコップを口に付ける。
 ひんやりとしたアイスティーを、口内に流し込んだ。

「っふごぉっ!!」

 形容しがたい悲鳴をあげる咲夜。普段の瀟洒なメイド長を知っている者なら、全身が硬直してしまうような悲鳴。
 アイスティーのコップが、絨毯の上に落ちる。もちろん、こぼれてどんどん塗れていく。
 そんなことにも構わずに、咲夜は椅子から転がり落ちてごろごろと絨毯の上を転がる。
 事情を知らない者からしたら、実に理解不能な光景だった。







「なにかしら? 相談とは」
 紅魔館のリビングルーム。上等なソファーにゆったりと腰をかけながら、当主レミリア・スカーレットは問うた。
 その前には、真剣な顔をした咲夜が立っていた。いつも微笑を絶やさない彼女を見ているだけに、余裕を崩さないながらもレミリアは重大なことを言おうとしている気配を察する。
「まず、お詫び申し上げます」
「詫び?」
 レミリアは、きょとんとする。彼女の知る限り、咲夜がこれまで失態を犯したことなど考えつかなかったからだ。
「私の不徳の致すところです。メイド長として、自己管理を怠った責任は重い」
「……どういうことなの? 回りくどいことはいいわ」
 レミリアは、焦りに似たじれったさと、わずかに聞きたくないという感情を同時に感じる。
 咲夜がこういう前置きをするなど、とてつもなく嫌な予感がした。
「実は……」
 そして、咲夜はゆっくりと口を開いた。
 レミリアは生唾を飲み、咲夜の口元を注視した。

「歯が……痛いのです……」

「………………」
 レミリアは、咲夜の言葉を咀嚼した。
「は?」
「そうです。歯、です」
「いやいやいやいや、そうじゃなくて」
 レミリアは、聞き返すつもりで「は?」と言ったのだ。
「は……って、この歯?」
 レミリアは、まだ乳歯である歯を、いっ、として指さした。
「そうです。その歯です」
「ど、どっ、どういうことなの?」
 動揺を隠せずにレミリアは問う。
「端的に申し上げると……」
 それに咲夜は答える。
「虫歯、かと……」
「…………」
 考えがまとまらないレミリアだった。
「吸血鬼のお嬢様には無縁のことと存じますが……」
 その様子を見て取ったのか、咲夜が説明する。
「人間の歯は、非常にもろいのです。六十過ぎの老人になると、奥歯など崩壊してしまいます」
「む、虫歯って、病気なの?」
「そうですね。歯の病気です。歯磨きを怠ったり、甘い物を際限なく食べたりしていると、かかってしまう歯の病です」
「……」
 一応清潔を保つために歯磨きしているが、五百年生きてきたレミリアは、そんな病になどかかったことがなかった。
「じゃ、じゃあ、なんなの? 仕事に差し支えあるの?」
「いえ、通常業務は問題ありません。ですが……」
 咲夜は、重々しく言った。
「冷たい物が、全く食べられません。……その、歯が痛くて……」
「……」
「それに、虫歯は放っておくと、どんどん広がっていきます。健康な歯を浸食し、食べ物すら食べられなくなります。それで、体を壊してしまう危険が……」
「わ、分かったわ。重大なことであるのは」
 右手の平を向け、咲夜を制止する。
「病であるならば……休めば治るのかしら?」
「いえ、ふつうの病と違い、虫歯は治療をしないと百パーセント治りません。それも、専門の医師にかからなければ……」
 簡単に片づきそうもない問題だった。
「しかし……あなたが病気をするとは思わなかったわね……。完璧な自己管理をしているでしょう?」
「もちろんでございます。歯磨きは毎食後、三分行っています。しかし、人間は弱い。どんなに気をつけて生活していても、かかってしまうものにはかかってしまうのです。残念ながら、それは私とて同じこと、だったと」
 ううむ、とレミリアは唸った。
「……一つ提案があるのですが」
 そう、咲夜は言った。
「言ってごらんなさい」
「永遠亭の薬師に頼むのはどうでしょう。あの方なら、たちどころに治してしまう薬を作れそうです」
「いや、それはやめた方がいいわ」
「? なぜでございましょう?」
「あそこの薬師は知恵が回りすぎる。幻想郷の名家である紅魔館が頼ったら、何かしらの条件をふっかけてくるかもしれない。要するに、私が気に入らない」
「お嬢様」
「分かってるわ。病にかかったあなたからすれば、背に腹は代えられないのでは、と言いたいのでしょう。それでも、なんとか内々に処理したい問題だわ」
「それでは、どうなさるおつもりで?」
 ふうむ、とレミリアは重いため息をついた。
「……頼るしかなさそうね。うちの頭脳に」


〜朱煎パートは、こちらのサイトにて

戻る