火焔猫燐は、汗ばんだ手のひらをスカートの裾でぬぐった。
 ピンと張りつめた空気。触れただけで亀裂が入りそうなほど危うい気配をはらんだ空気。
 動いただけで、息をしただけで脆くも崩れ去ってしまうような。
 あたかも釣り合いのとれた天秤が、横風を受けて倒れようとしているような。
 そんな状態の中、彼女は一台のソファーに腰かけていた。
 暖炉のパチパチという音だけが耳朶を打つ。
 横顔に暖かさは感じ取れるが、今はそれに構っていられるほど余裕はない。
 予測がつかないのだ。これから何が起こるのか。
 彼女は不測の可能性の中にいる。だから、身構え、最悪の事態を回避できるよう心の準備を整えているのだ。
「……」
 正面に向いていた目を、油の差していない機械のように横に向け、盗み見る。
 そこには、彼女がここに来てから嫌というほど見続けた背中があった。
 後ろを向き、窓から外の風景を眺めている。
 表情は窺いしれない。いま、どんな顔をしているのか想像だにできない。
 それが不安でならなかった。
「……」
 今日の朝。
 彼女は、いつも通り、灼熱地獄跡にある自分の仕事場に向かおうとした。
 今日も張り切って死体をヨサコイサッサと運ぼうと思った。
 その直前だった。
「お燐」
 今、目の前にいる人に声をかけられた。
「ちょっと来なさい」
 短く、そう言われた。
「何ですか、さとり様」
 そう言って近づくと、腕を取られて屋敷の中に連れ込まれた。
 そして、今、この部屋にいるのである。
「……」
 彼女は、何が何だか分からなかった。
 こう言っては何だが、彼女には、何も後ろ暗いことはない。
 食料庫にあるお菓子をつまみ食いしたとか、お風呂の洗剤をむやみやたらに使ったとか、そういったイタズラレベルのことしかしていない。
 前に地上に怨霊を放った時は、こっぴどく叱られたが、それ以降悪いことはしていないと自信を持って言える。
「……」
 だからこそ、今、自分の主にこうして呼び出されている理由が分からないのだ。
 そもそも、主は人を呼び出すなんて面倒なことはしない。
 考えていることがすべて筒抜けなのだから、ちょっとカマをかければ相手の嘘など簡単に見抜ける。
 そのことをよく知っているからこそ、彼女は主に対して極力嘘をつかないし、つくつもりもない。
「……」
 一体、自分は何のためにこの部屋に連れ込まれ、何を聞かれようとしているのだろうか。
 それが全く読めない。
 心の内が読みづらい主ではあるが、今回の不可解さは群を抜いている。
 それが、彼女に不安を与える。まさか、何かよからぬことでも言おうとしているのではないか……。
「……」
 現在、9時45分。
 この部屋に入ってから、五分が経とうとしている。
 二人が部屋に入ってから、ほとんど会話をしていない。唯一は、主が口にした「そこに座りなさい」というものだけである。
 それ以降、彼女らは沈黙していた。その沈黙が肌にちくちくと突き刺さるように痛い。
「……」
 彼女は決心した。
 このままでは埒が明かない。
 主が口を開くまで待つつもりだったが、この沈黙は如何ともしがたい。
 なんとか、打開を。この状況を変える一言を。
 座して待つのは性に合わない。自分で道を切り開く。それが彼女の本質だった。
「……」
 よし。行くぞ。
 呼吸を整え、タイミングを計る。
 言うべき言葉をまとめ、予行演習を頭の中で繰り返す。
 そして、一気に……!
「あ、あの……」
 自分でも驚くくらい、か細い声が出てしまった。
 だが、出てしまったものは仕方ない。
 彼女は続けざまに言葉を発した。
「あ、あたいに何の用ですか?」
 主の背中にそう言葉をかける。
 主はぴくりともしない。声が届いていないのか。そう一瞬思わせた。
 だが、主は少しばかり首を前傾させた。俯いたのだ。
 声はちゃんと届いている。その上で、主は何かを考えている。彼女は、主の初めて見る姿に心なしか狼狽した。
「あ、あの……言いたくなければ言わないでいいと思いますよ。無理するのは良くないと思いますし」
 気遣い半分、願い半分だった。なんだか、主がとても重大なことを言おうとしているように見えたからだ。
 自分にとって手に余ることを言われたらどうしようもない。それを聞きたくないという思いから、彼女は、無理に言う必要はないと提案したのだ。
「……」
 主は、しばらく微動だにしなかった。
 ……だが、重々しく顔をあげた。
 そして、ゆっくりと振り返る。その顔は、いつも見ている顔と特に変わりはなかった。
 主はおもむろに窓際を離れ、歩き出した。
 そして、彼女の目の前に立った。
「……お燐」
 ごくり、と喉を鳴らす。
 次に出てくる言葉を恐れ慄きながら待った。
「……聞きたいことがあるのだけれど」
 主はそう言った。
 何だ、聞きたいこととは。
 自分は、主に教えを授けるほどの学は無い。
 何を聞きたいのか、さっぱり見当がつかなかった。
 主は、自分の目を真正面から見つめてくる。自分も、主の目を見つめる。
 いや、目を外せなかったのだ。なんだか外したら殺られるような気がしていたから。
 主は、静かに息を吸った。
 そして、彼女は主の言葉を聞いた。

――?

「……」
 一秒、二秒。
 彼女は、主が発した言葉の意味を理解しようとした。
「……へ?」
 そして、色々な想いが脳内を錯そうした。


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