アンニュイなジャズピアノの音が店内の空気を震わせている。
 音はその旋律と、天井で気だるく回るシーリングファンの低い駆動音だけ。
 照明の少なさが、外との明るさを際立たせている。
 日常から切り取られた閉鎖空間。孤独な雰囲気に包まれながら、締め切っていない水道のように時間が流れていった。
 そんな店内には、人がいないわけではなかった。
 カウンターから最も遠い位置にあるテーブルに、一人の少女がついていた。
 頬杖をつき、外の風景をぼんやりと見ている。何か面白い物があるから、といったふうではない。
 わずかに動くこともなく、彼女は外を見ていた。眠そうに細められたまぶたが、瞬きのときに上下するのみである。
 聡い者なら、彼女が人を待っているのだと見抜けるだろう。そして、それはきっと気の置けない者だ。
 待ち合わせに緊張するようならば、彼女はこんなに緩んだ表情をしていない。もっと真剣で張り詰めた顔をしているだろう。
 しばらく外を見ていた彼女は、ここで初めて身じろぎした。緩慢な動きで首を回す。
 その視線の先にあったのは、シックな柱時計。時刻は、十時を二十五分ほど過ぎた辺りを指していた。
 彼女は、ふう、とわずかに息を吐く。
「……遅い」
 誰にも届かない声で独り言を言う。その声には怒りはなかった。
 代わりに、諦観に染められていた。どうしようもない、そんな諦めを含んだ声色だった。
 テーブルに視線を落とす。
 水滴がまとわりついたグラスがある。
 右指で水滴を拭き取ってみる。ひんやりとした感触と共に、グラスの表面に線がつく。
 それを何回か繰り返し、水滴がすべて無くなるとグラスを回転させる。
 グラスの裏には、同じように水滴がついている。それを全て拭き取ってみる。
 表裏、グラスの表面の水滴は取り去られ、氷の浮かんだ透明な水が現れた。
 彼女は、そんな暇潰しをした後、グラスの水を一口飲んだ。冷たい液体が喉を冷やし、体に落ちた。
 グラスをテーブルに置き、再び外に目を遣った。
 そうして、これから来るであろう者をしばらくの間、待ち続けた。
 カラン、カラン
 ドアが鳴った。彼女はそちらに視線を移す。
 そして、はあ、と安堵とも取れる溜め息をついた。
「ごっめーん、メリー。遅れちゃった」
 まったく反省していない顔をして、謝罪の言葉を述べてくる。その少女は、慣れた足取りでメリーと呼んだ少女の方に歩いていった。
「二十九分遅刻ね。これで通算何分の遅刻かしら」
「そんなの覚えてないわ。メリーだって知らないくせに」
「嫌味で言ってるのよ」
 遅刻したことなど、どこ吹く風で、少女はメリーの対面にすとんと腰を下ろした。
「で、蓮子さん。理由は?」
「ん? 教授の無駄話が長かった、って言えばいい?」
「無駄だと思うなら、抜け出てくればいいじゃない」
「まあまあ、三十分くらい誤差の範囲よ。大目に見なさいって。あ、注文いいですかー」
 左手を挙げて店員を呼ぶ蓮子という少女。マイペース、ここに極まれりだった。
「……まあ、いいわ。でも、あんたが呼び出したんだから、今度はちゃんと時間を守りなさいね」
「へいへい、心得てます。でも、私ってそんなに遅れてる印象ある?」
「……八割がた守ってるけど、あとの二割は遅れてるわ」
「なーんだ。そんな目くじら立てるほどのものじゃないじゃん」
「あのね、待ち合わせ時間は守るのが常識なのよ。マナーなの。十割に限りなく近づけるよう努力しなさい」
「へーい。あ、私、アメリカンね」
「……オレンジジュースを」
 やってきた店員に注文を伝え、蓮子は運ばれてきた水に口をつけた。
「で? 何の話なの?」
 早速本題に入るメリー。
「まあ、慌てなさんなって。とりあえず聞きたいんだけどさ」
「何よ」
「メリー、ゴールデンウィークは暇よね」
「……」
 もうすでに一週間後に迫った大型連休。いまさらながら思うが、このパートナーの唐突さには驚かされる。
「……暇じゃない、って言ったら?」
「暇よ。絶対暇ね。暇じゃないはずがない」
「……」
 二重否定された。
「……なんでそう言い切れるのよ。もしかしたら予定があるかもしれないじゃない」
 ゴールデンウィーク、略してGWを楽しむには、一ヶ月前に予定が入っていてもおかしくない。
 だが、目の前にいる蓮子という少女は、メリーがGWは暇だと決め付けている。そこが腑に落ちなかった。
「ん? だって、メリーがGWにどっか行くとか、そんな話が出たことなかったじゃない。難しい話じゃないわ」
「……」
 話が出なかったからGWはどこにも行かない。そう決め付けるのは早計な気がするのは読者諸兄の気のせいではない。
 だが、この二人に関しては、それが当てはまらないのだ。
 二人は、親友、というカテゴリーに属す。家族と言い換えてもいいくらい距離が近いのだ。
 だから、GWというイベントを前にして、話題が一つもあがらないということは、GWはどこにも行かないと暗黙の了解になっているのも同然なのだ。
 この辺の感覚は、読者諸兄の家族に置き換えてみれば分かる。家族のGWの予定は空気を吸うのと同じくらい把握が容易なのだ。
「……分かったわよ。予定などございません」
 そう言ってメリーは負けを認めた。GWに予定がない、と言うのは微妙に恥ずかしい。なので、ちょっと抵抗してみたのだが、蓮子にそんなものが通用するはずがないことは知っていたのだった。
「おっけー、なら話は早いわ。メリー、うちに来ない?」
「は?」
 メリーは蓮子の言葉の意味をしばし考えた。
「それは何? あんたの家に泊まりに来いっていうこと?」
「そうそう、布団とかはあるからさ。着替えとかを持ってくるだけでいいから」
「だって、あんたの部屋、すごく狭いじゃない。二人で寝られる? まさか、台所にでも寝るわけ?」
「あれ? メリーって、私の部屋、知ってたっけ?」
「知ってるも何も、何回も行ってるじゃない。あれはどうみても一人用の部屋、」
 そこで、はた、とメリーは話の食い違いに気付いた。
「ちょっと確認しましょう。蓮子、あんたの言う家って……」
「私の実家のことだけど。メリーって、私の実家に行ったことってなかったよね?」
「……」
 蓮子の実家。確か彼女は、ここ京都の大学に通うために、東京から単身来ているのだ。
 そのことを知ってはいたが、蓮子のいま住んでいるアパートが当たり前になってしまっていたので、すっかり失念していた。
「えーと……つまり、蓮子の実家に私を連れて行こう、と」
「うん、そうそう。宿泊費も食事代もなし! 交通費を払うだけ! どう? 宇佐見ツーリストをぜひご利用ください!」
 そんな旅行会社の宣伝文句みたいなことを言ってくる。
 メリーは頬杖をついて、つらつらと考えを巡らせた。
 蓮子の実家。昔、聞いた話では、東京の端っこにある、大都会京都とは程遠いド田舎らしい。
 畑や田んぼ、あとは山と川。夜の八時にもなると辺りが真っ暗になるという絵に描いたような田舎なのだ。
 蓮子の実家には興味がある。だが、旅行先に選ぶには、やや魅力が足りない、とメリーは思った。田舎が嫌いというわけではなく、どちらかというとリゾートに重きを置く性格ゆえ、わざわざ東京の西端に行くメリットが薄いと思ったのだ。
 だからこそ、なぜ、蓮子がわざわざ実家にメリーを誘ったのか、そこに何かがあると思った。
 お互い、思考パターンはもちろん、癖まで知り抜いている間柄だ。メリーの勘は大体当たっているだろうと思われた。
「で? 本当の目的は何なの?」
 だから、メリーは色々な言葉を端折って核心を聞いた。
 すると、蓮子は、ふっふっふ、と不気味な笑いを見せてきた。
「さすがメリーね。面倒なことを言う手間がないわ」
「やっぱり、何かあるのね。あんたが、ただ単に帰郷するわけがないと思ったわ」
 友達を自分の家に連れて行くというのはよくある話であるが、思いつきで実家に友達を呼ぶ、ということは蓮子はしないことが分かっていた。
 蓮子は、いそいそとカバンの中身を探って取り出した。
 そして、テーブルの上に、ある物を置いた。
「? なにこれ?」
 見た感じは、巻物だった。忍者が術を使うときに使うような。
 たいそう年月を経ているらしく、全体的にくすんでいる。その中で、巻物を留めている紫色の帯だけが新しく、最近取り換えられたものであることが分かった。
「見ての通り、古文書よ。父さんが蔵で見つけたらしくてね。価値がありそうだから、京都の目利きに見てもらえって送ってきたの」
 蓮子は、巻物の紐を解いてテーブルの上に広げた。
 目に飛び込んできたのは、色彩豊かな風景画だった。色は薄くなっているが鮮やかであり、たくさんの顔料が使われたのだろうと思われた。
 そして、絵の途中途中に文がしたためられてある。いずれも文語で、メリーには読解できない。完璧なる古書の類だった。
「こういう骨董品はほとんど見たことがないけど……けっこう価値がありそうね」
「それが全然」
「へ?」
 メリーが当て推量を言うと、蓮子は軽く否定した。
「鑑定屋さんに見てもらったけどね。これが書かれた時代はかなり古いらしいけど、価値は全然ないってさ。どっかの庶民が興味本位で書いたものだろう、って言ってたわ」
「ふーん……」
 骨董品の鑑定は、素人には出来ないものだ。その筋のプロが言うのだから、間違いないのだろう。
「それで、蓮子はこの価値のない巻物を見せてどうしようってわけ?」
「甘いなー、メリーは。巻物自体に価値はなくとも、書かれている文章に価値があるのよ」
 蓮子は、再びカバンの中を探って、一冊のノートを取り出した。
「興味があったから、鑑定屋さんに翻訳してもらったの。何が書いてあったと思う?」
 見当がつくはずもない。メリーは首を振った。
 蓮子は得意げに笑顔を作り、ノートの該当のページを見せた。
「書いてあったのは、神隠し。それも、一つの里が丸ごと姿を消したっていう記録」
「神隠し?」
 メリーは、ノートの文字を斜め読みした。癖のある蓮子の文字を読むのは慣れている。
 そこには、にわかには信じがたい出来事が記されていた。
 書いてある文章を要約するとこうだ。
 甲斐の国、今でいう山梨県に伝わる話で、とある里で疫病が流行った。
 それを鎮めるため、筆者の住んでいるところにいた祈祷師が派遣された。(当時は、疫病が天災だと思われていたのだろう)
 だが、その祈祷師はいつまで経っても帰ってくることがなかった。
 おかしいと思った筆者たちは、その里に様子を見に行くことにした。
 しかし、どんなに歩き回っても、その里に辿り着くことが出来なかったという。
 里への道は道路を歩き続ければ着くはずで、迷うことは絶対にない。だが、どんなに歩いても、道は延々と続くばかりでいつの間にか隣の国まで歩き続けてしまったという。
 忽然と姿を消した里。住民も住居もすべてがなくなってしまった。
 まるで、存在自体がなかったかのように。しかし、筆者の記憶が確かならば、そこには絶対に人間の住む里が存在していたはずだという。
「よく、人一人がいなくなった、っていう話を聞くことはあるけど、里一つが丸ごとなくなったっていう話は聞いたことがないわ。当時は、流行り病が広がるのを恐れた神様が里ごと消してしまったのだ、と噂になったみたい」
 蓮子の補足に、メリーは頷き返した。
「この人が記憶していたというのなら、その里があったことは間違いないんでしょうね」
「おそらく。で、この人は自分なりに推理してるわ。昔の人だったから、けっこう御伽噺っぽいけどね」
 筆者は、里が消えた原因を、あるものが存在したからだと考えた。
 それは、桜。
 当時、その里の領主とも言える存在だった名家が所有していた桜。その桜には、全国に名を轟かせた短歌の名人、いわゆる、歌聖、が葬られたという。
 その桜には、公にはされていなかったが、毎年百人単位で自殺者が出ていたという。その桜に葬られた歌聖と共にありたいと願ったのか。それは否、と筆者は断じている。
 実は、桜に宿った歌聖が人を死に誘っていると推測したのだ。多くの人の血を吸った桜は妖怪桜となり、大きな力を持つようになった。
 ここからは、通説と同じ。その妖怪桜の力を恐れた神様が里ごと神隠しにしてしまったという。里を襲った疫病は、この妖怪桜のせいであり、住民は桜の妖気にあてられたのだとしている。
「昔の人っぽい考えね。妖怪とか、神様とか。不思議な出来事を全部それに押し付けてしまえば済むんだから楽よね」
 そんなことを言いながら、メリーは巻物を手にとって中身を見始めた。
 内容を理解した後の絵巻物は、随分と意味の分かりやすいものになっていた。
「それで、最初の話に戻るわ。メリー、私の家に来てさ、フィールドワークしない?」
「ん?」
 意味がよく掴めなかったので、聞き返した。
「なんで、この絵巻物が父さんの家の蔵にあったのか。そこが引っかかるの。もしかしたら、私の家のすぐ近所で、里が丸ごとなくなったっていう事件が起こったのかもしれない」
「……ふーむ」
「神隠しが起こった場所が分かったら、メリーの力でまとめて何かが分かるかもしれないわ。もしかしたら、歴史上の出来事を紐解けるかもしれない」
 結界の境目を見る。それがメリーの能力。神隠しとは、誰かが結界を越えた可能性があるということでもある。
 つまり、メリーは、その神隠しの痕跡を発見できる力を持っているということなのだ。
「秘封倶楽部の初の京都以外でのフィールドワーク。どう? 活動の一環として、考えてみてもいいと思うけど」
 蓮子は瞳を輝かせながら、返事を待っている。どうやら、メリーが頷くのを期待しているようだ。
 メリーは、いくらか考えた。
 蓮子の言うような神隠しの痕跡が発見できる可能牲は、絶対的に低い。それは、いままでの秘封倶楽部の活動から鑑みた経験則だ。
 だから、メリーとしては、過度に期待せずに、蓮子の家に行く旅行を楽しむ。それに主眼を置くべきだと思った。
 元々、活動らしい活動をしていない不良サークルである。フィールドワークイコール旅行としても問題ないと思った。
「……いいわ。じゃあ、あんたの家にお邪魔しましょうか」
「ぃよし! そう言ってくれると思ったわ!」
 指をパチンと鳴らして嬉しさを表現する蓮子。その時、ちょうど店員が注文の品を持ってきた。
「ちょうどいいタイミングね。お茶しながら計画について話し合いましょうか!」
 早速アメリカンを啜りながら、蓮子はノートの余白を開き、シャーペンを取り出した。
 その姿を穏やかに見つめながら、メリーは巻物の最後に目を通した。
(桜ノ抄絵巻、か……)
 巻物の最後には、そう、したためてあった。
 GWの予定は、こうしてつつがなく埋まったのであった。


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