「あんたはさ、何で仙人になったわけ?」

不意に、霊夢がそんなことを尋ねてきた。

「どうしたのですか? いきなり」
「別に? なんとなく、訊いてみたくなっただけ」

ちゃぶ台の上にあごを載せながら、けだるそうに言う。
どうやら、ただ暇を持て余しているだけのようだ。

「そうですねぇ……色々と理由はありますが」

湯飲みを傾け、私は開け放たれた障子の向こうに目をやった。
しとしと、と梅雨らしい雨が降り、緑の庭の風景は滲んでいた。

「単に死にたくないからですよ」

私は、簡潔に答えた。

「……それだけ?」

霊夢は、目をしばたたかせた。

「そうですよ? 何か不満ですか?」
「別にぃ。なんか拍子抜けしただけ」

つまらなそうに、霊夢は口を尖らせた。

「けっこう俗っぽい理由で仙人になったのね。あんだけ偉そうに私に説教してたくせに」
「む、それは聞き捨てなりませんね。少なくとも、あなたよりは研鑽している自信がありますよ?」
「そうかもしれないけどさー。でも、死にたくないから仙人になったんでしょ? 人間が真っ先に思いつくような願いじゃない。俗っぽくなくてなんなの?」
「そういう志の低い人間と一緒にされるのは心外ですね。私とは根本的な違いがあります」
「なにがよ?」

私は、一回お茶を啜って答えた。

「人間は一生のうちで脳をどのくらい使うと思いますか?」
「は?」

質問を返されると思わなかったのだろう。霊夢は怪訝な顔をした。

「知らないわよ。年寄りになればボケて使い物にならなくなるじゃない」
「そう、人間の脳が使い物になるのは、せいぜい六、七十年。しかし、仮に老化せずにずっと使い続けられるなら、その十倍は記憶できると言われています」
「へー」

大して興味もなさそうに、霊夢は息を漏らす。

「つまり、あんたは脳みそを全部使いたいのね?」
「ざっくり言えば、その通りです。もったいないですからね」

それもなんか俗っぽいわ、と霊夢は独り言を言った。

「でもさー、人間なんて物忘れのひどい生き物じゃない。いくら詰め込んでも、どっかから漏れていかない?」
「もちろんですよ。だから、修行をしているのです」
「は? 物事を忘れない修行?」

そうです、と私は鷹揚に額く。

「じゃあ、なによ。あんたは、いちいち今日あった出来事とか思い出してから寝るわけ?」
「そんな刹那的なものではありませんよ。私が誕生してから今現在に至るまでの記憶です」

私がそう言うと、霊夢は胡散臭そうな目で見た。

「あんたは、自分が赤ん坊だった時のことを覚えているわけ?」
「覚えていますよ。いえ、思い出した、というほうが正しいですね。修行したことで、忘れていたことを取り戻したのです」
「じゃあ、二十三日前の夕飯を覚えているのね?」
「覚えています。白米と豆腐の味噌汁。川魚の塩焼き。山菜と大根の漬物をいただきました。なかなか美味でしたよ」
「……じゃあ、今度神社に来たらお賽銭を入れていくって言ってたのも覚えているわよね?」
「そんな事実はありません。嘘はいけませんよ?」

ちっ、と霊夢は舌打ちした。

「それなら、昨日何回まばたきしたとか、何歩歩いたとか全部覚えてるわけ? 気持ち悪いわね」
「可能ですけど、回数を数える必要があります。時間をもらえれば」
「それじゃ、私が昨日何回まばたきしたかは?」
「それは、霊夢の顔を見ていなかった時があるので、正確には数えられません。あくまで、私が見ていた範囲です」

ふーん、と霊夢は気のなさそうに納得した。

「要するに、目に入っていれば何でも思い出せるのね」
「目だけではなく、五感で感じていれば、無意識のものでも思い出せます。脳は、無意識も記憶していますから」
「やっぱり気持ち悪いわ」

そういって、霊夢は前髪をくるくるともてあそんだ。 

「……で、何の話だったっけ?」
「私が仙人になってやりたいことをあなたが訊いてきたんですよ」
「そういうところは便利だわ」
「私が仙人でいるのは、今の自分という存在がなくなってしまうのが惜しいと思ったからですよ」
「なによ、結局死にたくないだけじゃない」
「いいえ、違います。私が生きるこの世界に満足するのに、寿命が邪魔だったのです」

カクン、とちゃぶ台に頭を載せたまま小首を傾げる霊夢。

「私は、この世界が大好きでたまらないのですよ。出来れば、ずっと生きていたい。一日として同じ日などない彩りを持った世界。そこに身を置くのが幸せなのです」
「何にも起こらない日だってあるじゃないの。私は、起きて食べて掃除してお茶飲んで寝るだけの日がしょっちゅうよ。彩りなんて微塵もないわ」
「一日が無事平穏に過ぎた、という幸せがあるじゃないですか。あなたが一日を過ごしている間に、どこかの誰かが命を落としているかもしれないのですよ」

説教臭くなってきたわ、と霊夢が悪態をつく。

「それに、あなたが一日を神社で過ごしたことで、確実に誰かに影響を与えている。『今日は霊夢に会わなかった』と誰もが記憶するでしょう。それは世界の記録として残ることです」
「……それって、影響を与えているというの? 何もしてないだけじゃない」
「与えています。『影響を与えていないという影響』を与えているのです」

めんどくさいわねー、と霊夢は頭をガシガシと掻いた。

「だから、この世には無駄なものは存在しない。ただ座っているだけでも、あくびをするだけでも、くしゃみをしても、確実に世界に影響を与える。わらしべ長者の話は知っているでしょう?」
「知ってるけどさー。あんな作り話が本当に起こるわけないでしょうに」
「でも、確率はゼロではない。ごくごく低いだけです。それが起こることを、人は奇跡といいます」
「……どっかの風祝が殴りこんできそうね」
「つまり、逆を言えば、絶対というものも存在しない。『私たちは女』という限りなく絶対に近いものは無数にありますが、絶対はない。観測しているのが人である限り、間違っている可能性は否定できないのです」
「はいはい、ご高説はそこまでにしましょ。要するに、変なことが起きるのを待っているわけね」
「そう捉えてもいいですよ。私は、自分の知らなかったものを記憶したいのです。この間の常温核融合の実験のようにね」

やっぱり仙人って変人だわ、と実に偏見に満ちた感想を霊夢は言った。

「でもさー、いちいち生まれたときから今までを思い出すってことは、忘れたいことも思い出すってことよね? ゴキブリ潰したりとか、タンスの角に小指をぶつけたりしたときのことは思い出さなくてもいいんじゃない?」
「漬物の桶を持ち上げようとして中指の爪を剥がしたり、天井の掃除をしていたら大きな蜘蛛が顔にへばりついてきたりですね」

うあぁぁぁやめろおぉぉぉ、と霊夢は頭を抱えて悶えた。

「そんなものを思い出すのはかわいいものです。頭をよぎっただけで死にたくなるようなことを明確に思い出す。それが本当の修行です」
「なんなの、あんた。いじめられると喜んじゃう人? なんつったっけ、まぞ?」
「性癖ではありませんよ。ただ、私の命を狙ってくる死神は、そういう精神的な攻撃を仕掛けてくるんです。鍛えていないと、あっという間に負けてしまいますから」
「趣味悪い連中ね。 どっかの心を覗ける妖怪くらいタチ悪いわ」
「ああ、地霊殿の。あの人には、随分会っていませんねぇ」

確かに、普通の人間や妖怪には煙たがれる妖怪だ。
でも、私はそれほど嫌っているわけではない。むしろ、旧地獄の管理をきちんと行ってくれているので、好意的に受け止めている。

「そろそろ話をまとめましょうか。私が仙人になった理由。それは、素晴らしい世界を心行くまで楽しみたいからです。そのために過去を思い出しているのです」
「なんとなくわかったけど。 じゃあ、どうでもいいことを覚えているのも、どっかで何かが起こったら原因を見つけやすいからなのね」
「そうです。珍しく的を射たことを言いましたね」

一言多いわ、と霊夢はふてくされる。そして、猫のようなあくびをした後、ごろんと畳に寝転がった。

私は苦笑する。
あの小町という死神の言っていた通りだ。この娘は、純真というか、自分の心に忠実に生きている。
いや、『変わらない』のだ。どんなに圧力を加えても、もとに戻ってしまう。自分から変わろうと思わない限り、変化することはない。
ある意味、全ての世界の影響から解放されている存在といえるかもしれない。変な人間だった。

……いま、私が霊夢に話したことは、嘘ではない。
しかし、私が仙人になった理由の一番ではない。一番の理由の副産物だ。

死んでしまえば、閻魔に裁かれる。
その先に待っているのは、停滞か輪廻だ。
停滞は、天界行き。天界で何不自由なく暮らす。
輪廻は、地獄か冥界行き。いままでの自分を捨て、新しい生を受ける。

天人は仙人の目標の一つだが、天人はすべての欲から開放された存在である。
つまり、私の『世界を知りたい』という欲を捨てなければならない。それはごめんだ。
そして、輪廻してしまえば、私という存在は白紙に戻されてしまう。
稗田の家の者のような特殊な能力は、私は持っていない。いずれ、そんな術を見につけたら輪廻も面白いかもしれないが。

私は、この世界に、まだまだ満足していない。
この素晴らしい俗世に。
楽しみに、苦しみに、喜びに、悲しみに。ありとあらゆる体験に身を放り込みたい。

たとえ、それが神の手のひらの上で起こっていることであろうとも。
私が可能なのは、この左の手のひらですくい上げられる程度のものであろうとも。
私は、世界を堪能しつくす。
せっかく、一つの生命として生まれたのだから。

梅雨の雨はまだ降り続いている。
けれど、あと数日もすれば、きっと眩しい太陽が私の体を照らし出すだろうと思った。


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