淡い金色の日光が、部屋の窓から差し込んでいる。
漏れ出るような柔らかい光が、室内を白く染め上げている。
まだ冷たさの残る朝の空気。それを和らげるような心地よい光。
ちゃぶ台。本棚。脱ぎ捨てた服。
見慣れたそれらは眩しく輝き、床に灰色の影を作った。

あたいは、それを横目で見ながら、部屋を舞う埃の循環をなんとなしに見つめた。
動くものは、ただそれだけ。室内はとても静かだった。
頭の中は空っぽで、特に何も考えていない。暇つぶしにも、何かナイスな手段があるはずなのだが、そんなことを考えるのもめんどくさくて、あたいはベッドに身を横たえていた。

天井を見つめる。
新しく染みが出来たなぁと感慨にふける。
あれからもう一年か。まったく時が経つのは早いもんだ。この家も、早くも一年歳を取ってしまったことになる。

前と同じ轍を踏まぬよう、今年の冬はきっちりと雪かきをした。まあ、昨年が異様だったのだろう、今年はそれほど雪は多くなかった。
それでも、念には念を入れねばと、あたいは雪が降るたびに屋根の雪下ろしに励んだ。再びホームレスになる恐怖は味わいたくない。その一心だった。

家の周りには下ろした雪が降り積もって、ちょっとした壁が出来ていた。おかげでお天道様の光が中に入らなくなって、ちょっと困ったりもした。
まあ、そのかいあってか、あたいのボロ家2号は、今年は無事に冬を越せた。これから、どのくらい付き合うことになるかは分からない。だけど、1号は数十年もったのだから、2号はさらに長生きしてほしい。ていうか、金がないんだから頑張れ。借金地獄はまっぴらだ。

「ん……」

さて、そろそろかな。
あたいはベッドの上にあったベルつきの目覚し時計を手探りで探した。
ごつい感触とともに、それが手のひらに収まる。そして、顔に近付けて文字盤を見る。
七時四十五分。
頃合だった。

「さーて、そろそろ行きますかね」

声に出して身を起こす。
すでに死神装束には着替えていたので、後は荷物を持って出るだけだ。
あたいは布団をたたみ、床に置いてあった風呂敷包みと、壁に立てかけてあった鎌を手に取る。
よし、準備は万端だ。

草履を履き、戸を開ける。
春を迎えたとはいっても、まだ風には冷たさが残っている。ぶるりと身を震わせて、あたいは戸を閉めて鍵をかけた。
森の木々の間からは木漏れ日が差し込み、地面にまっすぐ伸びていた。あたいはその光線の一本を選び取り、地を蹴った。

高い木を抜け、春の空に身を躍らせる。
下方には、一面の木の絨毯。それを見ながら、あたいはぐんぐん高度を上げる。
三途の川にはまだ足りない。あそこは相当高いところにあるのだから。
雲を抜けたら、進路を西に。そうすれば見慣れた川の風景が見えてくるはずだった。







大発令。
それは、三途の川の中洲に存在する商店街の中心におっ立てられる、超巨大な辞令掲示板である。

彼岸で公務員職に就いている者に関係する掲示板で、一年に一回、春にズドンと立てられる。それには、彼岸公務員職の業種がズラーッと書き並べられており、それぞれの職業における階級と、それに就く者の名がズラーッと記されている。
階級ごとに名前がある。そして、その名前は一年で変動し、常に移り変わっていく。
つまり、この掲示板は昇進降格の目安となるのだ。昇進すれば階級が上がり、給料も待遇もよくなる。そうすると、楽に生活が送れるようになる。
せっせと働いているものが一喜一憂する、まあ言ってみれば、昨年一年間の通信簿みたいなものなのだ。

この掲示板は、あたいと無関係ではない。
なぜなら、あたいは“船頭死神”という彼岸公務員の一員だからだ。
だから、当然、この大発令には名前が載るし、異動になることもありうる。この掲示板を確認することは、人事異動をスムーズに行う上で必要なことなのだ。

しかし、あたいは他の連中とは違って、大発令を見るのにドキドキしたりはしない。あたいは死神の中では、ちょー落ちこぼれな部類に入るからだ。

あたいが船頭死神の職を始めて数十年。“船頭死神・無縁塚”の域を脱することは一度たりとて無かった。まじめにせっせと彼岸に霊を運んでいれば昇進とかあったかもしれないが、あたいのマイペースな性格が災い、というか功を奏す、というか、まあいろいろな関係で無縁塚に留まっているのだ。

実際、あたいは昇進などに興味はない。毎日、マイペースに彼岸に霊を送って、霊と無駄話に興じていればそれで満足なのだ。昇進すると、いろいろとめんどくさいことになるしね。降格なんかすると、反省文とか書かされるし。
だから、あたいは、半確信犯的にずっと無縁塚に留まり続けている。色々なしがらみにとらわれない無縁塚という職場。そこが、あたいは大好きなのだった。

大発令を見るのは、ほとんど確認作業みたいなものだ。“船頭死神・無縁塚”の欄に自分の名前があるかどうか、それを見るのが目的だった。

というわけで、あたいは三途の川のほとりに降り立った。
川中には、川から突き出しているかのように、たくさんの商店や高い建物が並んでいる。あそこが大発令のある三途の中州の商店街だ。あたいの今いる岸から、その中州に向けて、巨大な木製の橋がかかっている。
朝の早い時間とあって、たくさんの人が行き交っている。まあ、半分は大発令を見に来た連中だろう。彼岸公務員は、とにかく数が多いからね。

あたいは木の橋の上に足を乗せた。掲示板がある広場には、それほど歩かずに到着する。ゆっくりと、三途と遠くに見える商店街の風景を楽しみながら、あたいは歩を進めていった。



朝の早い時間とあって、商店はまだ看板の状態だった。
八百屋や魚屋などが、商品の陳列で忙しそうに動き回っている。
あと一、二時間もすれば、商店街は活気付くだろう。昼飯は久し振りにここで食べようかなどと考えていた。

商店街のメインストリートから、すでにその掲示板の上の部分が見えた。
いつ見てもでかい掲示板だな。一体誰がどうやってあそこまで持ってきて、どうやっておっ立ててるのだろう。広場の大半は、日光を浴びる掲示板の影に覆いかぶさられていた。
掲示板が立てられるのは八時だったから、そろそろ人ごみも少なくなってきたかと思ったが、まだまだ群衆は存在していた。時折フラッシュなどもたかれている。写真撮ってるやつもいるのか、受験発表でもあるまいに。

あたいは人ごみに辟易しながら、掲示板のほうに近づいていった。船頭死神の人事異動は、いつも掲示板の端っこに書かれている。
そちらのほうを見ると、あたいと同じ死神装束を着たやつらがごった返していた。見知った顔も何人か見える。嬉しそうに肩を叩かれているやつもいれば、悲しげな表情を浮かべたやつもいた。まさに天国と地獄だ。

「お、小野塚じゃないか」

横のほうから名前が呼ばれたので、そちらを見る。同じ無縁塚で働いている同業者だった。とりあえず、死神Bとしておこう。

「おっ、おはよ。朝早くからご苦労さんだね」
「そりゃ、お互い様だ。今だって結構早い時間だぜ」

死神Bはニヤニヤしながらあたいの顔を見つめてくる。なんか嬉しいことでもあったのだろうか。まあ、大体予想はつくが。

「どうしたい? ようやく、無縁塚から脱出できたのかい?」
「おっ、分かる? いやー、やっぱ顔に出ちまうもんかな。いかんいかん」

とか言って顔を引き締めようとするが、よりいっそう締まらない顔になっている。

「苦節二十年、ようやく最底辺からの脱出だぜー。これが喜ばずにいられるか?」
「そうだねー。お前さんとは長いこと仕事してたけど、ようやくおさらばってわけだね」
「おいおい、きついこと言ってくれるな。素直に祝辞を述べてもいいんじゃないか?」
「そうだね。おめでとさん。お前さんの前途を祈っているよ」

死神Bは白い歯を見せて応える。すげー嬉しそうだな。

「まあ、お前も無縁塚から異動になってるかもしれないしな、もしかしたら、また同じところで働くかもしれないぜ」
「いやー、それはないね。あたいは無縁塚のヌシだから」
「はっはっはっ、まあ、そう言うな。奇跡が起きてるかもしれないぞ」

死神Bは元気付けるつもりで言ったのだろうが、あたいはそんな奇跡など起こってほしくなかった。

「じゃー、またなー。会ったら何か食いもんでも食いに行こうぜー」
「もちろん、お前さんのおごりでねー」
「はっはっはっ、任せとけー!」

そんなことを言い合って、死神Bとは別れた。
そうか、あいつ昇進したのか。顔見知りが疎遠になるのは少しばかり寂しい気もしたが、折角の昇進だ。まあ、素直に祝ってやることにしよう。

「さーて、そろそろ、あたいの名前でも拝見しようかねー」

人ごみを掻き分けて、あたいは掲示板の前に向かった。
男ばかりのむさい中に突っ込んでいく。体を横にしながら、するすると人の間を抜けていく。
それほど待たずに、目的のところの近くまで来た。見上げてみる。黒い毛筆で書かれた文字がズラズラと並んでいた。

「え〜っと…………無縁塚、無縁塚、と…………あ、あった」

“船頭死神・無縁塚”の文字を見つけ、そこから左に順々に名前を見ていく。

…………………………………………………………………………………………………………

…………あれ?

一番左までたどり着いてしまった。

「……」

もう一度、左から順々に名前を見ていってみる。

…………………………………………………………………………………………………………

「……え?」

ない。無い。
“船頭死神・無縁塚”の欄に、あたいの名前がかけらもない。
え? どういうこと? まさか……。

あたいは一つ上の段を見た。無縁塚よりもランクが一つ上の職場。そこから左のほうに名前を見ていった。

…………………………………………………………………………………………………………



お天道様は、とうに真上に昇っていた。
掲示板の周りは、すでに人はまばらで、見ているやつなどほとんど存在していなかった。

「……」

あたいは、バカみたいに口を開けながら、ポカーンと掲示板を見つめていた。
本当に、端から見たらバカみたいに見えたことだろう。

「……………………………………………………………………………………………ない」

小野塚小町。
慣れ親しんだその名前が、掲示板のどこにも記されていなかった。
その事実が、あたいの思考を完全に停止させてしまっている。

「……な、なんで?」

出てくる言葉は、それだけだ。
ただの凡ミスなのか? これを書いたやつが、偶然あたいの名前を書き忘れたとか。
いやいや、そんなことはない。この掲示板は、彼岸で働いているやつらのこれからの行き先を決める、大事な掲示板なのだ。見直しは何回もされるし、ミスが見つかったとなったら、きっと厳罰が待っている。

「……」

だとしたら……なぜ、あたいの名前がどこにも記されていないのか。
一瞬、不吉な予感が頭をよぎった。
まさか…………クビ?
そんなばかな。クビならクビと、上司のほうから肩を叩きにくるはずだ。だから、掲示板に載せられていないからクビなんてことはありえない。
どういうことだ? どういうことだ?
あたいは錆びつきまくった頭を懸命に動かして、いろいろな可能性を検討した。

「………………あ…………ま、まさか…………」

掲示板に名前が載らない。そんなことはありえない。
だとしたら、この掲示板のどこかに名前が載っているはずだ。
あたいが今まで見てきたのは“船頭死神”の欄のみ。つまり、“他の職種”のところは目を通してもいない。

「……………………」

再び、不吉な予感があたいの足元から、ぞわぞわと這い上がってきた。
もしかしたら、もしかするかもしれない。
あたいは“船頭死神”の欄を外れ、他の職種に目を通し始めた。







第八十七番裁判所。
それは、地獄の近くに存在する。
此岸から三途を渡り、道無き道を歩いてくると、どこかの裁判所にたどり着く。
ここは百八ある裁判所の一つ。あたいはそこを訪れていた。

「……」

堅牢な石造りで出来た裁判所は、いつ見ても圧倒される。
嫌でも場違い感が付きまとうが、門番に船頭死神の証である鎌を見せると、すんなりと通してくれる。それは、あたいがこの裁判所の関係者であることの証でもあった。

門を抜け、開け放たれた裁判所の扉を通る。衛兵が両隣にいて、目を光らせている。挨拶すらかけられないような顔で突っ立っているので、あたいはいつも、ここはそそくさと走り抜けている。
ロビーの中央には、つづら折りになるような階段がどこまでも上に伸びており、見上げてもてっぺんが見えない。外から見ると、建物の高さはそれほどないように思えるのだが。
あたいは、その階段を一段一段上っていく。目的の階は、三階。そこに、あたいの上司の執務室があるのだ。
裁判を行っていないときは、いつもそこで雑務に忙殺されている。今日はあたいは一人も霊を送っていないから、トイレでもない限りは、きっとそこにいるはずだった。

階段を上がりきり、右に進路をとる。金の縁取りの入った赤い絨毯は、長い廊下の果てまで伸びていた。絨毯の上を歩いていく。あたいの他には誰もいないらしく、廊下はひっそりと静まり返っていた。

やがて、目的の部屋にたどり着いた。
名前のところに、四季映姫。
役職のところに、ヤマザナドゥ。
木のプレートにはそう書かれていた。
あたいは軽くノックする。一呼吸置いて、どうぞ、とやわらかい声が聞こえた。

「失礼します」

ノブを捻り、あたいは執務室の中に足を踏み入れた。

「おはようございます、四季様」

あたいは、でかい机の向こう側に座っていた緑髪の女性に挨拶した。
華奢な体には不釣合いな、大きなごてごてした帽子をかぶり、その胸には裁判長の役職を示す金のバッジがつけられている。

「あら、小町。もう、こんにちはの時間よ。挨拶は正しく使いなさい」

そんなことを言う四季映姫様。その顔は、いつもと同じどおりの、きりっとした実直な誠実さが滲み出ていた。

「まあ、いいじゃないですか。まだ正午になっていないと思いますし」

そう言いながら、あたいは四季様の机の前に立った。
そして、少しばかり目を見つめる。何か、四季様のほうから言うことがあるような気がしたから。

「? どうしたの、小町。何か用があってきたのでしょう?」

だが、やはり四季様はあたいがここに来た理由などわからなかった。
小さく息を吐き、あたいは言うべきことを言う。


「……来月付けで、あたいは裁判所の事務官になることになりました」


四季様は顔色一つ変えずに聞いていた。

「ああ、そうね。今日は大発令が出る日だったわね」
「知っていたんですか、四季様は? あたいが、事務官になることを」

間を置かずに、あたいは四季様に問う。

「ええ、もちろんよ。上司のところに、部下の異動の知らせがこない、なんてバカな話は無いわ。一月前から知っていたわよ」
「そうですか……」

あたいは机に視線を落とす。四季様はあくまでそっけない。当たり前だ。ただ、事実を述べているだけなのだから。

「小町が事務官ね。よかったじゃない。船頭死神から事務官に栄転なんて、滅多にあることじゃないわ。もっと喜んでもいいんじゃない?」
「……」

確かに、その通りだ。船頭死神として職についた者は、船頭死神で一生を終える。土方の仕事をしているやつが、いきなりオフィスでデスクワークをしだすようなことはない。事務官になるなんて、よっぽどのことがなければならないのだ。

だからこそ、あたいは不信感を持った。そんなうまい話があってたまるか。あたいは何も褒められるようなことはしていない。何か裏があるに違いない。
そして、その裏は、他でもない、目の前にいる上司が知っているはずなのだ。

「……四季様はご存じないんですか?」
「……何が?」
「あたいが……事務官になった本当の理由についてです」
「……」

四季様は、あたいの目をじっと見た。あたいも真っ向から見つめ返す。納得の行く理由を聞かせてくれるまで、帰らないと言う意志を伝えるように。
ふう、とため息をつくと、四季様は立ち上がって椅子の後ろに回った。そこにあるガラス戸から外の景色を眺める。

「……一年前、あなたが雪に家をつぶされて、宿無しになったことがあったでしょう」
「え?」

いきなりされた一年前の話に、あたいはちょっと困惑した。

「あ、はい、ありましたが……」
「そのとき、冥界の西行寺家にご厄介になったそうね。あなたから直接聞いたわけではないけど、鴉天狗がばら撒いていた新聞にそう書いてあったわ」
「……」

鴉天狗の新聞。おそらく、それは友人の天狗、射命丸文の新聞だろう。

「その新聞にはこうも書かれてあった。冥界の従者が奇病にかかり、それを助けるために、あなたやその記者、永遠亭の薬師などが総力をあげて治療に取りかかり、見事完治させた、と。普通なら命を落としていた病だったにもかかわらず、治療できたのは奇跡だったと書いてあったわ」
「……」

なぜ、四季様はあの時のことを話に出すのか、いまだに分からなかった。

「あなたがその治療に自分が持っていたすべての財産をなげうったことで助かったとも書いてあった。それは、本当のことね?」
「……」

あたいは答えなかった。しかし、四季様には伝わってしまったようだった。

「あなたは、本当に自分のことはしゃべらないわね。もし、そんなことがあったなら、私に一言相談してくれればよかった。きっと、私にも迷惑がかかると思って話さなかったのでしょうけどね」
「……」
「でね……その話が、閻魔王の耳に入ったのよ」
「え……?」

閻魔王……?

「宴会の席で、側近の誰かがあなたの噂を話したらしくてね。閻魔王は、生者の本分を全うした立派な行いだと評価されたわ。だから、あなたを取り立てることになったの」
「……」

閻魔王。十王の一人。四季様の直属の上司だ。

「すぐさま、私のところに遣いの者が来たわ。小野塚小町を裁判所、事務官に任命する、ってね」
「……」
「大発令が出されるまで、人事の異動は漏らしてはならない。それはあなたも分かっているはず。だから、私は話さなかったのよ。でも、これで胸のつかえが取れたわ。ようやく、あなたに祝辞の言葉を述べることが出来る。おめでとう小町、大出世ね」
「……」

あたいは、四季様の言葉は上の空で聞いていた。
そうか……そういうことだったのか。
あの掲示板の思いもかけないところで自分の名前を見つけたこと。死神から事務官に転属されたこと。すべて納得がいった。

「……四季様」
「ん? なに?」
「あたいは……」

だからこそ、自分の気持ちに素直に応えた。


「あたいは、死神をやめたくありません」


四季様は、一瞬目を見張った後、少しだけ目を細めてあたいを見た。

「……それは、何故?」
「……」

ああ、この人は分かっている。あたいが、何故、こんなうまい話を蹴ろうとしているのかを分かっている。
分かっているのに、あえて答えさせようとしている。そりゃ、そうだな。もう何十年も、あたいの一挙一動を見てきたのだから。

「それは……あたいが、この仕事が大好きだからです」

嘘偽りない、心から出た言葉だった。
四季様はうなずき、先を促す。

「事務官の仕事に不満があるわけじゃありません。この身には過ぎる大役だと思います。でも、あたいは船頭の仕事を続けていたい。四季様のところに霊を送り続けていたいんです」
「それは、何故?」

四季様はまた問う。すべて分かっているはずなのに、あえて言わせようとしている。
だから、あたいはすべて話す。真実を話さなければ、事務官栄転を拒否する理由にならないから。

「あたいは……霊の話を聞くのが好きなんです。幻想郷とは違う世界に住んでいる人間の霊。その霊の話を聞くのが好きだった。職務怠慢だと言われたらそれまでですが、あたいは、少しでもたくさんの霊の話に耳を傾けていたかった」
「……」
「それに、あたいは大空の下で仕事をしたかった。燦燦と降る日光を浴びて仕事をしたかったんです。自由に、手足を伸ばして、のびのびと仕事をしたかった。女の身で船頭なんて仕事をやってるのも、それが一番の理由です。事務官なんてなったら、仕事中はずっと部屋にこもって書類をいじっていなきゃならない。それに、あたいは耐えることが出来ません」
「……」
「今日、掲示板で異動となったと知ったことではっきりと分かりました。あたいは、船頭が本当に大好きだってことが。給料も安くて楽な仕事じゃないけれど、それでも胸を張って、自分がやっているのは船頭だって言えるんです。それは、誇りだと思います。船頭である自分を誇りに思っています」
「……」
「……だから、あたいは……死神を辞めたくありません」

あたいが話し終わるまで、四季様は黙って聞いていてくれた。
そして、ふう、と息をつくと、再び椅子に座ってこちらを見た。

「それを叶えるのは、とても難しい問題ね」
「……」
「上下関係のある職場の場合、上からの命令は尊重しなければならない。それが閻魔王からの命令とあったらなおさらね。それを拒否すると言うのであれば、相応の覚悟がなければならないわ」

そう言って、四季様は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
薄っぺらいわら半紙のような紙。線でコマがいくつも区切られている。

そして、その紙の一番上に書かれていた文字を見て、あたいは凍った。

「あなたの望みを叶えるには、たった一つの手段しかない。この紙に必要事項を記入して、拇印を押しなさい。そして、改めて船頭死神の試験を受けなおすこと。それしか方法は無いわ」

それは……退職届だった。

「閻魔王は十王の一人。その決定を覆すのは何人にも出来ない。だから、あなたが事務官になるのは、もはや決定事項。それを、破るには、あなた自身が職をやめるしかないのよ。……分かるかしら?」
「……」

ああ、やっぱり、この人はあたいの上司だ。
こうなることが分かっていて、この人はこの紙っぺらを用意していたんだろう。
そして、あたいに二つの道を用意してくれた。
事務官になるか、辞めて新しく船頭になるか。
そして、その覚悟も試していた。

「……………………………………………………………………分かりました」

あたいは、机の上にあった羽ペンとインクと朱肉を手にとった。
紙に文字を連ねていく。次々と空欄が埋まっていく。
あたいのやってきた数十年の仕事を、こんな文字の連なりで無にしようというのか。苦笑が自然に漏れてしまう。

だが、もう決めていた。
裁判所に着く前から心に刻み込んでいた。
もし、事務官になることが避けられないことなんだとしたら、あたいは職を失おうと。
船頭死神は天職だった。まさに、天から与えられた仕事だと思っていた。
それを失うのは、もはや死ぬに等しい出来事だ。事務官を続けても楽しくないし、すぐに息が詰まるだろう。

だったら、もしまた船頭として仕事を続けたいのなら、一度辞めるしか方法が無い。
一度辞めて、もう一度船頭死神の試験を受けなおす。それしか道が無いのだった。

ペンを置き、朱肉のふたを外す。
親指に朱をつけて、紙に押し付けた。

「……これで、よろしくお願いします。長い間、ありがとうございました。また、改めてご挨拶にきます」

そう言って、あたいは背を向けた。それでお終いだった。

「小町」

四季様が呼び止める。

「……良いのですね?」
「……はい」

あたいは戸を開け、そして、静かに閉めた。







「……」

家に戻ってくると、持っていた紙袋をベッドに放った。
ガサリと派手な音がして、中身が飛び出る。複数の雑誌が顔を覗かせた。

「はあ〜〜〜〜〜〜あ」

でかいため息をついて、ごてごてした死神装束を脱ぎ捨てる。そして、下着のまま、雑誌を敷いたまま、ベッドに倒れこむ。角が背中の中心に当たって少し痛かった。

「あ〜〜〜……よかったんだよね、これで……」

いまさらながら、あそこで即断したことを思いあぐねている。
船頭死神を続けたい。それは正直な気持ちだ。事務官などになったら、自分の意志で辞めない限り一生事務官だ。書類をいじったり書いたり保管したり。会話もあまり無く、ただ淡々とそんな仕事をすることになるのだ。

「……」

でも、もしかしたら、そんなに悪い仕事じゃなかったかもしれない。想像している仕事はそんな陰気な仕事だけど、それはただの想像で、案外自分に合っているかもしれないのだ。
給料も比べ物にならない。普通だったら小躍りして喜ぶところだ。

「あ〜〜〜……そんなことないさ。よかったんだよ、これで……」

あたいは、自分が好きな仕事がしたい。妥協して我慢しながら仕事をするなんて、ストレスが溜まって仕方が無い。
金なんて、生きるために必要な分だけあればいい。そして、自分が好きなことをしてお金がもらえれば、あたいは満足なことこの上ないのだ。

「……」

四季様、ちょっと怒ってたかな。
そりゃそうか。自分の部下を持ち上げてくれた上司の好意を無碍にしたんだから。事務官なんて、滅多になれるもんじゃない。難しい試験に受からなきゃならないし、今回のように死神から事務官に転向するなど奇跡の類に入っている。

だが、それでも。あたいは船頭死神がしたいのだ。
まあ、なんとかなる。何十年も前に、一回試験に受かっているのだ。だから、なることは不可能ではない。

船頭死神は採用人数が多いので、試験は一年に二回、夏と冬に行われる。今は三月だから、あたいが次に受けるとしたら夏の試験、七月になるだろう。

それまでに食いつなげるだけの代わりの仕事、いわばバイトを探さなければならない。
あたいにも胃袋というものがついているので、何も食わなければ腹が減る。食えるだけの稼ぎはどうしても必要だ。

あたいは背中に敷いていた一冊の雑誌を取り出した。
『就職・バイト情報誌』
まあ、それに類するものだ。船頭死神の職を発見したのも、この雑誌からだった。少しばかり感慨にふける。
これから三ヶ月の間、面白く働けて、それでうまい仕事。それでいて試験の勉強時間を確保できるような仕事を探す。
それが今のあたいの、至上の任務だった。

ぱらぱらとページをめくってみる。細かく分割された枠の中に、びっしりと文字が敷き詰められている。
世の中に職はこんなに溢れているんだなぁと感心してしまう。働かざるもの食うべからず。なんとなくそんな言葉が頭に浮かんだ。

あたいが求めているおいしい仕事。それでいて、自分に合っている仕事。
まあ、賑やかなやつがいい。室内でやる細々としたものはやりたくない。
となると、絞る職種は接客業か。ウェイトレスなんかいいかもね。いらっしゃいませー、とか言っちゃったりなんかして。
まあ、でも、そういうバイトってものすごく時給が低いのが難点だ。朝から晩まで働き尽くめでやっと暮らせるだけの金が出来る。
それに、あたいの目的は、三ヶ月後の試験に受かることだ。いわば、長期ではなく、短期のバイト。長く勤めていれば昇給もあるが、三ヶ月程度では望めないだろう。

短期できっちり稼げる仕事。
ぱらぱらとページをめくってみる。工事現場や居酒屋、後は夜のお仕事が並んでいる。夜のお仕事ねぇ。がさつなあたいに出来るだろうか。

「はあ……やっぱり、そんなに簡単にいい仕事なんて見つからないよね……」

ページをめくりながら一人ごつ。
そんな時だった、見つけたのは。

「……ん? 何だ、このページ」

ページをめくっている最中に、思わず指が止まった。
そのページだけ黒く塗りつぶされていたのだ。他は白のページに黒い文字で書かれているのに、そのページだけ黒いページに白抜きの文字で書かれている。しかも、派手な装飾があしらってあり、他のページと比べて、ものすごく浮いていた。だから、嫌でも目についた。

「なに、これ。いったい何の仕事……?」

文字を目で追ってみる。それにはこう書かれてあった。

『紅魔館・メイド募集中。
 湖に浮かぶ館、紅魔館でメイドをしてみませんか?
 職歴不問。血の気の多い方はさらに歓迎。
 三食付き、有給なし。
 詳しくはメイド長・十六夜咲夜まで』

「メイド……紅魔館……」

声に出してつぶやいてみる。メイド……か。

「う〜〜〜ん……どうだろ」

紅魔館。幻想郷のほぼ中心に位置している大きなお屋敷だ。
以前、あたいは一度だけあそこに行ったことがある。船頭死神の命とも言える渡し舟を壊してしまったので、パチュリーさんという凄腕の魔法使いに直してもらったのだ。
紅魔館は幻想郷中に知れ渡っているくらいの、ものすげーお屋敷だ。おそらく、あれだけの規模の建物は、幻想郷には二つと無いだろう。あたいが泊まったことのある白玉楼よりも大きいに違いない。

そこで、働く。ふむ、なかなか面白い気がする。メイド仕事なんてしたことはないけれど、退屈だけはしないような気がする。

「だが、待て……。よく考えろ、小野塚小町……」

紅魔館。そこは幻想郷一のお屋敷であると同時に、吸血鬼の屋敷でもある。
レミリア・スカーレット。その名を知らないものは、まず、いない。すさまじい力をもった恐るべき吸血鬼だ。
そんな妖怪の住むお屋敷に働きに行くなんて無謀じゃないか? もしかしたら、機嫌を損ねて、文字通り首にされる、何てことも……。

「う〜〜〜ん……」

だが、この話のほとんどは噂なのだ。
ご主人の機嫌を損ねると即刻血祭りにされて夕食の献立に並べられるとか、従業員は毎日致死量に近い血を抜かれてへろへろになりながら何とか生き長らえているとか。
噂っていうのは、尾ひれがついて広まるのが普通だ。鴉天狗の新聞なんかがいい例だね。
もしかしたら、それほどひどい職場ではないかもしれない。その目で確かめたこともないし、意外に働きやすい、っていうのもなきにしもあらず。

しかも、この雑誌に記載されている文面には無視できない部分がある。
『三食付き、有給なし』
これはつまり、紅魔館内に宿舎みたいなところがあって、そこに泊まらされて、働かされるという意味であろう。
そして、最大の特徴は、飯が出る、というところだ。
働いたあとに自分で用意しなくても飯が出る。それは、食費が浮くということだ。
しかも、宿舎に泊まるのであれば、快適に暮らせるところは確保されている。おそらく、誰かと相部屋になるのだろうが、あたいはそんなことは一切気にしないでグースカ寝られる性質だ。

ここで働くメリットは、ある。
問題は、三ヶ月という短期でも雇ってくれるかどうかだが、そこは相談次第だろう。小町さんの交渉術にかかっていると言ってもいい。
後は、噂の真相も本当かどうかを確かめるのも重要だ。もしかしたら、命にかかわる職場なのかもしれないのだから。

「よし……まあ、一応候補には上げておこうか」

あたいは、雑誌に折り目をつけて、閉じた。

「さーて、そろそろ風呂を沸かさないとね。入りながら考えようか」

起き上がり、雑誌をベッドに放り投げて、風呂場に向かう。
放り投げられた雑誌は、ぱらぱらとページがめくれ、再び紅魔館の求人のところで止まった。


























〜 小野塚小町の転職草子 〜

























〜 1 〜

























湖の水面は穏やかに波打ち、湖岸にゆっくり打ち寄せていた。
水面には、そのすれすれを飛んでいるあたいの姿がぼんやりと映っている。
すごく透明度の高い水なのだろう。夏には水遊びなんかが楽しそうだと思った。

正面には島があり、それを覆い尽くすかのように森林が広がっている。その中心に巨大な時計が取り付けられた屋敷が見えた。
血のように赤く、視界の一端にしか入っていないのに異様な存在感を示す館。紅い悪魔の住む屋敷、紅魔館だった。

やがて、湖が途切れ、森林が生い茂る島に進入した。
あたいは、その木々の上を飛んでいく。目指す先は、先ほどの時計のついたお屋敷。
近づくにつれて緊張が高まっていく。やっぱり、あそこに入るのは勇気がいるのだ。

木々の上を滑るように飛んでいくと、鉄柵に囲まれた屋敷の全貌が見渡せた。
相変わらず、でかい。
というか、これは何かのテーマパークか何かなのではなかろうか。視界いっぱいに収まっているワインレッドのお屋敷は、あたいみたいな庶民が見ると、どうも萎縮してしまう。
本当にこれが個人の持つ一軒の家だとは信じがたい。金持ちってのは、どこの世界に行ってもいるものだなぁと妙な感慨にふける。

おっと、ちょっと圧倒されてしまった。
これからが本番だっていうのに、これでは先が思いやられる。
気を取り直して、あたいは鉄柵の門のほうに下降していった。



「あ」
「あっ」

門の前には妖怪がいた。というか、初対面ではない。もう随分前に一度だけ会った覚えがある。

「ああ〜〜〜っ、お久しぶり! また会ったわね〜!」

人懐っこい笑顔を向けて手を振ってくる妖怪。名前は、確か……。

「あ、ああ、お久しぶり。多分、一年半ぶりだね。元気にしてたかい?」

地面に降り立つと、その妖怪のほうに向かっていく。
ええ〜〜〜と……確か、名前は……。

「ええ、おかげさまで! 確か、小町さん、だったわね! また会えて嬉しいわ!」

やばい。向こうはこっちのことを覚えている。早く思い出さないと。

「初めて、初対面で私の名前を覚えてくれた人だったから、ってよく覚えてたのよ。私の名前、まだ覚えてる?」
「あ、ああ、も、もちろん、だよ……」

ほれ、思い出せ! 珍しい名前だったから、思い出せるはずだろ!

「ええ〜と……確か……ホン……ホン……」
「そ、そう! ホン、なに!?」

ホンさんは期待を込めた目であたいを見つめてくる。うっ、そんな目で見るな、こっちを見るな!

「ホン……ホン……」
「ホン……? ホン……!?」
「ホン…………ミ、リンさんっ!!」

ずべしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

すばらしいヘッドスライディングが、あたいの目の前で実現した。
ああ……やっぱり間違えてたか。

「だ、大丈夫かい? ごめん、覚えてなくて……」
「うう……いいの。このネタで弄られることには、もう慣れきっているから」

肩を落として顔を背けながらそんなことを言うホンミリンさん(仮称)。
あまりにも不憫な様子に、肩に手をかけられずにいた。

気を取り直したのか、すっ、と立ち上がって、パンパンと埃を払い落とす。

「じゃ、じゃあ、改めて自己紹介するわね。私はここ、紅魔館の門番をやっている、紅!美!鈴!よ。どうぞよろしく」

ものすごい強調の仕方だった。今度間違えたら、鉄拳が飛んできそうな予感がする。ここで働くことになるかもしれないのだから、胸に刻み込んでおこう。
握手を求めてきたので、手を握り返して、あたいも答える。

「あ、どうも。あたいは小野塚小町。ちょっと、ここに用があってきたんだけど、通してもらえないかね?」
「用? それはどういった?」
「うん、これ」

そう言って、あたいは持っていた求人情報誌を見せた。

「あっ! もしかして、メイド希望!?」
「う、うん、そう……」
「うわぁ、何年ぶりだろう……咲夜さん、喜ぶだろうなぁ……」

何年ぶり……? まさか、メイドの求人って、そんな期間の間、一度も無かったのか……?
早くも心の中に暗雲が垂れ込める。まさか、とんでもない激務なんじゃあ……。

「まさか、ここでメイドを希望するなんて思わなかったわ。縁があったってことかしらね?」
「あはは、まあ、そうかもね。あたいも、一度もここに来ていなかったら、考え直したかもしれないし」
「そう。じゃあ、案内するわ。よい、しょっと」

美鈴さんは門に手をかけ、思いっきり引っ張った。ギギギ、という軋みをあげながら、門は一人潜れるくらいにまで開いた。

「さ、どうぞ。玄関まで案内するわ」

美鈴さんの後について、あたいは紅魔館の前庭に足を踏み入れた。

紅魔館の門から玄関までは、並木の道が続いていた。よく掃かれており、落ち葉一つ見つからなかった。
並木の木はなんていう木なのかは知らなかったが、春の芽吹きを間近に控えた広葉樹だった。その木の向こう側には、見事なチューリップが色とりどりに咲き誇っており、何か作業をしているメイドさんが何人かいた。
庭の中心には一泳ぎ出来そうなくらいのでかい噴水があり、石造りの女神像の瓶から水が流れ落ちていた。

さすが、紅魔館は庭も見事なものだった。庭はその家の顔を表す、ってどこかで聞いたことがあるような気がする。

「は〜、きれいな庭だね〜。どっかのデートスポットみたいだね」
「あはは、そんなロマンティックなものじゃないけどね。ここの庭は、私たち門番班が世話しているのよ」
「へ〜、大したものだね。門番をやりながら庭の世話か。けっこう大変なんじゃないのかい?」
「いえ、もう慣れちゃったから。小町さんもお仕事、最初のうちは大変かと思うけど、すぐに慣れると思うわよ」

そんな世間話をしながら、美鈴さんは玄関の方に歩いていく。
途中にあった噴水のふちを回ると、すぐに玄関の扉にたどり着いた。

「うはぁ〜〜〜」

遠くから見てもでかいと思っていたが、間近で見るとさらにでかい。とりあえず、正面を向いただけではすべて視界に収まらない。首を縦横に四回ほど回して、ようやくすべて見られる感じだ。

「じゃあ、行くわよ」
「あ、ああ、頼むよ」

美鈴さんはあたいの返答を聞くと、扉を両手で開け始めた。
中は、以前ここに来たときのように暗かった。まあ、吸血鬼の屋敷なのだから当然なのだが。
美鈴さんは扉を開けると、中に誰かいたのであろう、呼びかけた。

「美鈴です。メイドの求職志望の方がいらっしゃいました。お通ししてください」
「はい、かしこまりました」

中からそんな声が聞こえると、美鈴さんはあたいに道を譲った。

「じゃあ、頑張ってね! 多分、大丈夫だとは思うけど。同じ職場で会えるように祈ってるわ!」
「あ、ああ、ありがと。頑張ってくるよ」

美鈴さんは笑顔を向けると、再び鉄柵のほうに歩き去ってしまった。
そして、扉のほうを振り返ると、そこには一人のメイドさんがちょこんと立っていた。

「あなたが求職の方ですか?」
「あ、は、はい、そうです」
「では、こちらへどうぞ。応接間にご案内いたします」

ゆったりとした動作であたいを導いていくメイドさん。
はあ、やっぱり動作の一つ一つがあたいと違うな。丁寧すぎるくらい丁寧だ。
メイドさんは、あたいを紅魔館の内部に招き入れると、扉を閉め、あたいの右前に立って歩き始めた。
その後について行きながら、あたいは紅魔館の内部をきょろきょろしながら観察した。
ここは正面ロビーというのだろう。畳が何十畳と敷けるくらいに広く、天井には無数の蝋燭が灯されたシャンデリアが四つぶら下がっていた。明かりは、ただそれのみ。あたいは妖怪だからそれほど苦にならないが、人間だったら暗くて恐怖を感じることだろう。
メイドさんが歩いていく方向には階段があり、どうやら二階に移動するようだった。獅子をあしらった階段の手すりに手を置いてみる。手入れが行き届いているようで、埃とかが手にくっつくことはなかった。

階段を昇りきると、やや細い通路に入った。
時折、高そうな壺が置かれた台があったり、写し鏡などが壁に張られていたり、いかにもお城な雰囲気だ。
壁には等間隔に燭台が灯されており、ちらちらと内部をちらつかせていた。
しずしずと前を行くメイドさんは、あくまで無言だ。蝋燭で照らされた姿が、なんだか話しかけづらい雰囲気をかもし出している。
でも、けっこう可愛いメイドさんだったな。もしかして、メイド採用の基準には、顔、とかもあるのだろうか。さっきの美鈴さんも美人だったし。やばい、そうしたら落とされる可能性が大だ。あたい、顔なんかに自信ないし。

そんなアホなことを考えながらしばらく歩くと、前を行くメイドさんの足が止まった。
そして、一つのドアを開ける。

「どうぞ、こちらでお待ちください。ただいま、メイド長を呼んできますので」
「あ、はい」

言われるまま、あたいは部屋の中に入る。
日光が窓から差し込んでいた。へー、紅魔館でもお天道様の光が入ってくる部屋があるんだな。
あたいは自分に一番近い椅子に座った。それを見届けた後、メイドさんはドアを閉めて去っていった。

待ってるのも暇だったので、きょろきょろと室内を観察してみる。
あたいには価値は分からないが、いま座っている椅子や目の前にあるテーブル、そして絨毯は一級品なのだろう。
奥のほうには西洋風の甲冑が斧を携えてたたずんでおり、あたいが変なことをしでかさないか見張っているかのようだ。
調度品はそのくらいで、けっこう殺風景な部屋だった。日光が差し込んでくる窓にはレースのカーテンが引かれてあり、日差しを透かして柔らかいものに変えている。
外には紅魔館を囲んでいる高い鉄柵が半分見えており、後は森林と湖、遠くに山々が見渡せた。
あたいは、ぼーっと外の風景を眺めた。なんだか、夢の中にいるような気分だった。

十分後。

「お待たせしました」

そんな声とともにドアが開いた。
はっとして、あたいは反射的に立ち上がる。そちらのほうを見ると、見知った顔があった。

「あら、あなたは……」
「あ、ども。いつぞやはお世話になったね」
「お久しぶりね。もう随分と会っていなかったけど、元気だったかしら?」

紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は頬を緩めてあたいの方を見た。知り合いだからと気安さが表に出たのだろう。

「求職、なんて本っ当に久しぶりだから、どんなのが来たのか楽しみにしてたのよ。まさか、あなただったとはね。ちょっと驚いたわ」
「どうも。まだ、働くと決めたわけじゃないけど、ここでどんなことをするのか話を聞きたくってね」
「ふうん。じゃあ、まだ本気で働きたいとは思っていないのね」
「いや、働く気はある。だけど、この求人雑誌だけじゃ分からないことが多くてさ。聞きたいことが山ほどあるんだよ」

あたいは持ってきた求人雑誌をテーブルの上に置いた。

「なるほどね。いいわよ。使用者として、労働者の分からないところは、はっきりさせておかないとね。じゃあ、始めましょうか」

咲夜はあたいの正面に腰掛けた。
そして、持ってきた数種類の紙をテーブルの上に置き、枚数を確認している。
咲夜は、あたいが船頭死神を辞めた理由を聞かないでくれた。
こういうドライな心遣いがあると、上司になる人として好ましく思う。

「それで? どんな質問かしら?」
「そうだねー……まず、漠然とした質問だけど、あたいがメイドになった場合、最初はどんな仕事をやらされるの?」
「そうね、あなた料理は出来る?」
「へっ? いや、大したものは作れないけど」
「じゃあ、最初は掃除係かしらね。館内の清掃係。メイドの半分は、最初は大抵、掃除係に就くわ」
「ふーん、どこの掃除をするの?」
「それこそいろいろよ。廊下もあるし、窓もあるし、調度品もあるし。それぞれどこを担当するか班が決めてあるから、あなたもどこかの班に配属されることになるわね。何年かしたら、適正を考慮して異動もありうるわ」

ふむ、なるほど掃除係か。それなら難しいことを考える必要もなくこなせるだろう。

「それにしても、紅魔館にも日の当たる部屋があるんだね。石でびっしり遮断してるのかと思った」
「それだと、夏場は熱そうねー。まあ、お嬢様が暮らす奥の方はまったく日光は届かないけど、屋敷の周りはガラス張りの部屋もあるし、バルコニーもあるわよ。そこで大きなパラソルを使ってお茶会をしたりもするわ」
「なるほど」

つまり、この屋敷は年がら年中真っ暗なわけではないと言うことだ。さっきの美鈴さんも言っていたが、外でやる仕事もある。ふむ、希望を出せば通るかもしれない。

「で、一番聞きたいことでもあるんだけど……この雑誌にも書いてあった、三食付き・有給なしっていうのはさ、要するにこの屋敷に住み込みで働くってことだよね?」
「ええ、そうよ。屋敷の北西のほうに宿舎があってね。メイドたちはそこで寝泊りしてるわ」
「そこって相部屋?」
「そうよ。一部屋は二人から三人。まあ、個室は班長クラスにならないともらえないわね。それは宿舎じゃなくて、屋敷の中にあるわ」

ふむ、予想通りだ。まあ、相部屋を苦にしないあたいにとっては、あまり関係のない話だ。

「他にはあるかしら?」
「ああ、ええっとね、メイドたちって自由時間とかどれくらいあるの? ここって吸血鬼の屋敷だし、朝晩関係なく寝る暇も無いくらい働かなきゃならないの?」
「いえ、そんなことないわよ。日勤と夜勤に分かれているだけ。日勤はお嬢様がお眠りになっている間に屋敷の掃除をするのがメイン。夜勤はお嬢様のお世話がメインね」
「へー、じゃあ、暇なときってあるんだ」
「基本的には毎日働かなきゃならないけど、自由時間はあるわよ。日勤組なんかは夜中に遊戯室を使ったりしてるし、集まってだべったりもしてるし、調理室でお菓子を焼いたりしてる人もいるわ。あまり働かせすぎて、倒れられても困るしね」

ふむ、これもポイント高い。あたいの最大の目的は、三ヶ月後の死神試験に受かることだ。そのための試験勉強時間を作れないほど働かされては、本末転倒になってしまう。
自由時間をそれだけ作れるのなら、勉強する時間も作れるだろう。

「まあ、こんなところかしらね。メイドって、従者として主に付きっ切りで寝る暇もないと思ってたでしょ。ここは人手があるから分担できるのよ」
「うん、分かった。それなら息抜きも出来そうだ」
「どうかしら? ここで働く気になった?」

咲夜は頬杖をつきながら聞いてくる。けっこう積極的にアピールしてくるな。もしかして、人手が足りないのだろうか。

「あ、あと一つ。ここが一番決め手になるんだ」
「へえ、なにかしら?」
「あのさ……ここで働くのはさ、三ヶ月間にしてほしいんだよ」
「は?」

初めて咲夜は困惑の表情を浮かべた。

「あ、やっぱりだめ……? だったらこの話は、なかったことになるんだけどさ」
「いえ、そうじゃないんだけど……そうやって期限を区切って働くっていう習慣がここにはなかったから驚いてね」
「へ? じゃあ、なに、短期の雇いってやったことないの?」
「ええ、基本的に、ここに勤めに来るのは、一生メイドで過ごす覚悟で来てるからね。いついつまで、って期限を決めて働くことはないのよ。辞めたくなったら辞めてくのもいるけどね」
「ふうん……」

なんとなく、重い雰囲気をあたいは感じ取った。
もしかしたら、ここに働きに来ざるを得なくなったやつらもいるのだろうか。
このお屋敷なら、働き続けている限り生活は保障される。それを聞きつけたやつらの駆け込み寺みたいなところもあるのだろうか。

「まあ、いいわ。あなたは三ヶ月間、ここで働きたいのね?」
「あ、うん、そうなんだけど」
「いいわよ。初めてのケースだけど、多分大丈夫でしょ」
「へ?」

意外にも簡単に結論を出した咲夜に、あたいは間抜けな声を出した。

「い、いいの? そういうのってもっと慎重に決めたほうがいいんじゃ」
「基本的に、ここの人事権は私が握っているのよ。首を切るのもすげ替えるのも私の自由。ここで働くのなら、あまり逆らわないほうがいいわよ?」

にや、と笑う咲夜。あはは、と、から笑いをしておいた。

「質問はこれで最後? じゃあ、こっちの話が出来るわね」

咲夜は、何枚かの紙を選び取って自分の前に並べた。

「ふむ……。まあ、ここで働くのなら、私が面接して、適正があるかどうかを見るんだけどね。あなたは、立ち居振る舞いに関しては、やれば出来ることが分かってるのよ。だから、合格の最低限のラインは確保されてるわ」
「あ、そうなの。そりゃ、助かる」

よかった。前来たときにきっちり挨拶しておいたのが、ここになって効いてくるとは。やっぱり、人生真面目にやるべきだね。

「後は、そうね……さっきの質問で、あなたの希望やらは大体把握できたから……まあ、後はこれを書いてもらうだけね」

そう言うと、咲夜は一枚の紙を選び取ってあたいの前に示した。
ここで働くための契約書だった。

「はい。ここで働きたいのなら、この紙に名前とか書いてね。ここで働いている者を把握するために書かなきゃならないの。規則だから」
「ふむ……」

よし……まだ色々とぼんやりしたところもあるけれど、サインしてみよう。
聞いたところ、そんなガチガチな管理体制になってはいないようだ。もし、あまりにもつらくて辞めたくなったら辞めさせてもらえるような気がする。まあ、そんなことにはならないようにしたいが。
あたいは羽ペンを手にとって、紙にインクを染み込ませ始めた。

「…………はいよ。これで、ここで仕事することが決まったね」

声に出して確認する。いよいよだ。三ヶ月の短い間だが、お世話になるんだ。

「ま、一ヶ月間は試用期間ってところね。あなたがどのくらい使えるのかを試させてもらうわ」
「うわ、お手柔らかに頼むよ」
「よし、それじゃ、お嬢様に会いに行きましょうか」

……ん?

「ちょ、ちょっと待って。いま何て言った?」
「は? お嬢様に会いに行く、って言ったのよ。それがどうかした?」
「……」

咲夜の言うお嬢様っていうのは、つまり、この屋敷のお嬢様っていうわけで、つまり……

「え……れ、レミリア・スカーレットに?」
「そうよ。他にいる?」

げ……まじで……?

「新しいメイドが入ったからって顔見せ程度だから安心しなさい。さ、行くわよ」
「ちょ、ちょっと待って、まだ、心の準備が……」

いきなり不夜城・紅魔館の主とご対面とは……こんな展開、想像だにしなかった。

(や、やばいな……機嫌損ねないようにしないと……)

取って食われるかもしれない。



応接間を出ると、咲夜の後について紅魔館の深部のほうに向かった。
明かりは燭台の光しかない。その辺の物陰から何かが飛び出してきそうな、そんな不気味さが漂っている。

「あ、そう言えば、あなたの希望を聞いとかないとね。あなたは日勤と夜勤、どっちがいいかしら?」

廊下をきょろきょろしながら歩いていたので、不意に咲夜に話し掛けられて少し戸惑った。

「へ? あ、ああ、ええと、日勤にしてもらえる? あたい、前の仕事は基本的に日中だったし」
「分かったわ。まあ、あなたの性格を見る限り、お嬢様のお世話って感じじゃないわよね。裏方でお掃除してもらっていたほうがいいわ」
「あはは、まあ、そうかも。失礼があったら、文字通り首が飛ぶんでしょ? それはごめんだからね」
「ええ? ぷっ、あははは、なに、そんな噂信じてたの?」
「え?」

咲夜の軽い笑い声に、聞いたあたいがバカみたいに見えた。

「お嬢様はそんなことしないわよ。そんなこと年がら年中やってたら、メイドがいくらいても足りないわ。失礼があったら、申し訳ありません、で済むわよ」
「へ〜〜、そりゃ意外」
「どうも、ここを誤解していたようね。まあ、吸血鬼の住んでいるところだし、外では色々噂されているんでしょうけどね。あなたの思っているようなひどいところじゃないわよ。人間の私が言うんだから、間違いないわ」

そうだった。目の前にいる十六夜咲夜というやつは、“人間”なのだ。妖怪じゃない。
そう考えると、改めて凄さをひしひしと感じる。妖怪ばっかりの紅魔館でメイド長を張っているのだ。きっと、ものすごい苦労があったか、ものすごい才能があったか、そのどっちもなのか。ちょっとばかり、咲夜の身の上に興味を持った。

そんなことを考えながら、しばらく紅魔館内部をてくてく歩くと、目の前に他の扉とは明らかに違う、装飾のごてごてした扉が見えた。

「ここが紅魔館の居間、リビングルームね。お嬢様はここでお食事を取ったり、くつろいだりされてるわ」

咲夜はノックをし、扉の取っ手を引く。
さて……いよいよ紅魔館の主、レミリア・スカーレットとのご対面だ。
知らずに手のひらに汗をかいている。それを拭い、ごくりと喉を鳴らした。
いったいどんなお姿なのか。頭に予想図がぐるぐると回る。文字なので、お見せすることは出来ないが。

すっと扉は開き、中から明るい光が漏れてきた。

「お嬢様、失礼します」

咲夜が優雅な動作で一礼する。

(うわ……すげぇな、ここ)

紅魔館のリビングルーム。そこは本当に別世界だった。
なんというか、そのまま博物館にしてもいいような広さだった。そこに展示してあってもおかしくないような調度品がずらずら並び、すわり心地のよさそうなソファー、ふかふかの絨毯、大型の暖炉、それらが一同に会している。天井は高く、正面ロビーで見たシャンデリアが三つ、縦に並んでぶら下がっていた。

「かねもちぃ……」

思わずそんな言葉が漏れてしまった。
咲夜は体を戻すと、中にいるのであろう主に向かって話を進めた。

「本日、新しくメイドが入りましたので、ご挨拶をさせにきました。どうぞ、お見知りおき下さい。さ、入って」

咲夜の声にしたがって、そそくさと中に入る。
そして、早速頭を下げる。

「は、初めまして! 私が今日からメイドになることになりました、小野塚小町と言います! どうぞ、よろしくお願いします!」

そう言って、体を起こした。
そして、目を疑った。

「……へ?」

ソファーでくつろいでいたそのお人が言葉を発した。

「あら、珍しいわね、新しいメイドなんて。ここ最近、増えてなかったんじゃない?」
「……」

それは、なんと言うか……ちんまかった。
ていうか、あたいの想像の斜め下を行っていた。
あたいは、紅魔館の主って、ワイングラスを片手に足を組んでボンキュッボンの体をした超セクシーな人で「あら、可愛いわね……これからたっぷり可愛がってあげるわ……」なんてセリフを吐きそうな人を想像していた。
あたいはつい、目をきょろきょろさせてしまう。
だが、目の前にいるピンク色の服を着たちんまい女の子以外の人影はついぞ見つけることは出来なかった。
つまり、いま目の前にいる女の子こそが、この紅魔館の主、レミリア・スカーレットに他ならないわけで……。

「はい、二年ぶりになりますね。どうぞ、よろしくお願いします」
「ふうん」

女の子はソファーから降り立つと、こっちのほうに向かってきた。
そして、あたいを見上げてくる。透き通るような赤い瞳。真っ白な顔。素直にきれいな顔だなと思った。背中から飛び出た大きなこうもりの羽が、ぴょこぴょこ忙しなく動いている。

「なにかしら? 私の顔に何かついてる?」
「い、いえ、そんなことはないですが……」
「ふーむ、咲夜、この娘は教育がまったく行き届いてないわよ。ちゃんとしときなさいね」
「心得ておりますよ、お嬢様」

咲夜の返答に、うん、と満足げにうなずいて、レミリアお嬢様は再びソファーのほうに戻っていった。そして、ソファーに腰掛けて、紅茶をすする。

「それでは、これで失礼します。外出の時間になったらお呼びしますね」
「ああ、分かったわ。よろしくね」
「さ、行くわよ」

咲夜に促され、あたいは呆けたままリビングルームを後にした。



「どうだったかしら? 初めてお嬢様に会った感想は」
「え、ええと……」

言いたいことがありすぎて、なかなかまとまらない。ていうか、あたい的にはちょっとした詐欺だった。紅魔館の主があんな小さな女の子だったなんて。
まあ、想像するだけで、真相を確かめなかったあたいも悪いのだが。

「その様子だと、だいぶ驚いたみたいね。可愛いかったでしょ、紅魔館の主は」
「ま、まあ、可愛いっちゃあ可愛いけど……」
「でも、これからはあなたが命を懸けて守るご主人様よ。決して、年下の女の子みたいに扱ってはダメ。あれでも五百年生きてるんだから」
「ご、五百年!?」

詐欺だ……詐欺過ぎる……あたいより年上じゃん。

「それじゃ、今日はこれでお終い。明日から本格的に働いてもらうことになるからね」
「え、そうなの? 今日から何かやるんじゃないの?」
「時間も中途半端だしね。ロビーまで送るわ」

咲夜は歩き出す。そうか、今日から仕事始めじゃないのか。
まあ、いい。今日はゆっくりと体を休めて、明日に備えよう。



再び、ロビーに戻ってきた。
先ほどの応接間に案内してくれたメイドさんがいる。軽く頭を下げると、微笑を浮かべて会釈を返してくれた。

「それじゃあ、確認しておくわ。明日の集合は、午前八時。ロビーに来るように」
「うぇ、八時? けっこう早いね」
「説明することが山ほどあるのよ。このくらいで文句を言わないの。あとは、洗面用具とか着替えとか、ここで暮らすために必要になるものを出来るだけ持ってきなさい。足りない物が出てきたら、他のメイドに貸してもらえばいいわ。家には帰れなくなるんだから、戸締りはきちんとしてきたほうがいいわよ」
「うん、分かった。そうするよ」
「あ、最後に一つ」
「ん?」
「私のことは、メイド長と呼ぶこと。そして、敬語でね」
「あ、そうか、うん……じゃない、はい、分かりました、メイド長」
「ふふ、まだぎこちないわね。それじゃ、今日はこれでお終いよ。また明日会いましょう」
「ああ……じゃなかった、はい、メイド長。どうぞ、よろしくお願いします」
「うん、よろしい。それじゃあね」

外に出ると、静かに扉が閉められた。

「……」

はあ……終わった。
これで、転職の第一歩が踏み出された。
たった三ヶ月の間だけど、どうぞよろしくお願いします。
あたいは、紅魔館に向かって、腰を直角にしてお辞儀した。







ジリリリリリリリリ……

「ふが……?」

やかましい音とともに目が覚めた。
あたいの頭上で何かベルが鳴っている。気づくまでに三秒ほどかかった。

「あー……朝か……」

あたいは、けたたましく鳴っている時計をふん掴み、スイッチを押した。
りん……という余韻を残し、ベルは止まった。

「ふう……」

起き上がってため息をついてみる。
あたいの部屋の中は、昨日となんら変わりない。
変わっているとすれば、部屋の隅っこに大きな風呂敷包みがあるということだけだ。
中には、あたいの普段着や下着、身支度に必要なもの、あとは貯金通帳などの大切なものが入っている。貯金なんてあったのか? なんて突っ込みは無しだ。

これから三ヶ月の間、この家には帰れなくなる。
いや、帰らせてくれ、といえば帰れるかもしれないけど、基本、帰れなくなる。
三ヶ月も放置しておいて大丈夫だろうか。誰かに管理でも任せておけばよかったかな。
あ、文に会ったら様子を見に行ってもらえるかもしれない。紅魔館には取材でけっこう出入りしているようだし、会えるかも。
まあ、その前に、あたいがメイドをしている、っていう記事が書かれるのがオチのような気がするが。

「よし、じゃあ、最後の準備をしようか」

立ち上がって、朝飯を用意しに台所に向かう。
これが、紅魔館に向かう前の最後の食事となることだろう。







朝の冷たい風を切って、あたいは湖の上を飛んでいた。
この湖は、冬に凍ったりしないのだろうか。まあ、これから春に向かうこの時期に、そんなことを考えるのは意味が無い。
しかし、凍ったりするのなら、色々と面白い遊びが出来そうだ。乗れるのならば、わかさぎとか釣れるのかなぁと想像する。
冬になったら、またここに来てもいいかもしれない。何か面白いことを発見できそうな気がするから。

やがて、紅魔館の門が見えてきた。
相変わらず、美鈴さんが後ろに両手を組んで辺りを警戒している。こんな朝早くからご苦労なことだ。

「あっ、小町さ〜ん! おはよう〜!」

早くもこちらに気づいた美鈴さんが右手を振ってくる。
あたいも軽く手を振って、門の前に着地した。

「おはようさん。朝早くに頑張ってるね」
「あはは、それが仕事だからね。小町さんも今日から仕事始めよね! 頑張って!」
「あー、まー、適当にねー」
「それじゃ、門を開けるわね。今日は一人で玄関まで行って。咲夜さんが待っているはずだから」

そう言って、美鈴さんは、ふんっ、と気合を入れて門を開ける。
いつも思うのだが、この門って一体どのくらいの重さがあるのだろうか。けっこう気張って開けているように思うのだが。

「どうぞ! 健闘を祈ってるわ!」
「ああ、ありがと。行ってくるよ」

ありがたい激励の言葉を背に、あたいは紅魔館の玄関に向けて歩き出した。
後ろからは、ギギギ、がしゃんという門が閉まる音。これで戻ることは出来なくなった。
いよいよ、あたいのメイドとしての日々が始まる。下っ腹に知らずに力が入っていた。



玄関の扉を開けると、中は相変わらず暗かった。年中暗いな、当たり前だが。

「あ、おはようございますっ」
「おはよう。ちゃんと来たわね」

そんな声とともに、咲夜、いやメイド長がすっ、と横から姿を現した。
そして、持っていた金製の懐中時計を開ける。

「七時五十五分。うん、いいわね。時間厳守はメイドの基本よ。覚えておいて」
「あ、はい。どうぞ、今日からよろしくお願いします」

あたいが、ぺこりと礼をすると、メイド長はにこりと微笑む。

「ふぅん、前にここに来た時から思ってたけど、あなたはやるときはきちっとやるのよね。一見ずぼらに見えるけど」

前にここに来た時、それは渡し舟を壊してここに訪れたときのことだろう。
そのとき、冗談で、ここで働いてみないかと言われた。まさか、本当に働くことになるとは思わなかったが。

「あはは、申し訳ないです。いつも適当に生きてるので、そう見えるのも無理ないです」
「褒め言葉よ。じゃ、行きましょうか。まずは宿舎に案内するわ」



紅魔館の宿舎。
咲……じゃない、メイド長の説明では、そこは紅魔館で働いている全メイドの九十パーセントが寝泊りしている、いわば合宿所みたいなものだった。
北側と南側に鳥の翼のように分かれており、北側が日勤のメイド、南側が夜勤のメイドと分かれているらしい。まあ、それはそうだ。寝ている間に、どたばたやられたら堪らないし。
というわけで、日勤担当のあたいは北側の宿舎に案内されるわけだ。
途中、何人ものメイドさんとすれ違ったが、その度に立ち止まって一礼された。まあ、あたいにしているのではなく、メイド長にしているのだろう。

「うはぁ……」

紅魔館の廊下をしばらく歩き、裏庭に続いているであろう扉を開けると、そこには立派なレンガ造りの建物があった。
もちろん、紅魔館本体に比べれば見劣りもいいところだが、普通の家に比べたら何十倍も大きい。メイド長の言っていた通り、建物は両側に分かれていた。

「あれが、あなたが寝泊りする宿舎よ。北側の108号室。あの辺りね。すでに二人入っているわ」

紅魔館の影で日差しを真っ二つにされた石畳の上を歩いていく。左手のほうには立派な菜園と、休憩所を思わせる円筒の建物が見えた。後は芝生が広がるのみで、目立った建造物は見当たらない。
影から日の当たる場所に出ると、うららかな日差しが首筋を照らした。ああ、暖かい。やっぱり春は気持ちがいいね。

メイド長は、左右に分かれた道の右側を選び取る。
その先にある扉を開けた。あたいもその後に続く。年代物の建物なのだろうか、少し古臭い匂いが鼻をついた。
しかし、きれいに掃除されていた。色褪せた絨毯の上には、ごみや埃は一つも落ちていない。さすが紅魔館。従者の住んでいるところも完璧だ。

「こっちよ、ついてきて」

メイド長は、今度は左に進路を取った。その後について、廊下をてくてく歩いていく。右に並んでいるドアの上には、101、102とプレートが示されていた。108号室は遠そうだった。この廊下の長さからすると、角部屋近くになるだろう。

やがて、108号室にたどり着いた。角部屋近くではなく、角部屋だった。
メイド長はマスターキーと思われる鍵を使い、部屋の鍵を開けた。

「はい、入って。あなたの荷物は、一旦ベッドの上に置いておくといいわ」
「ベッドの上……」

部屋の中を見回す。けっこう広い部屋だった。ベッドを除いた部分は八畳ほどある。中にはベッドらしきものが二つあった。一つは普通のベッド。もう一つは二人が縦に寝られる二段ベッドだった。
どちらも誰かが寝ていたような跡がある。空いているのは、二段ベッドの上の方だけだ。

「うわー、二段ベッドかー。初めて使うねー」

あたいは持ってきた風呂敷を、二段ベッドの上に放り投げた。

「よし、じゃあ、着替えましょうか」
「はい? 着替えですか?」
「そうよー、いよいよメイド服に着替えるのよ。その服じゃ、メイドやってることにはならないからね」

メイド長は、やけにうきうきしている。
その腕には、いつの間にやら、ヒラヒラした服がかけられていた。
え? まさか、ここで着替えるの?

「ええと、ここで着替えるんですか?」
「そうよ。誰も見てやしないから、さっさと着替えなさい」
「は、はい……」

服を渡され、広げてみた。
すると、何か知らないが、ぼたぼたと何か細かいものが落ちた。

「あーあー、ダメよ。それも身に着ける物なんだから、床に落としちゃ」
「え、なんですか、それ? 見慣れないですけど」
「何って、ソックスとガーターベルトよ。ああ、ガーターベルトなんて、普通の人は見たことないわね。これでソックスがずり落ちないようにするのよ。スカート短いし、ソックスに皺が寄っていると見てくれ悪いでしょ」

淡々と説明するメイド長。
なんだか、嫌な予感がもくもく浮かび上がってきた。持っている服も、やたらヒラヒラしてるし。

「あ、あの……この服って、メイド長と同じ服ですか?」
「うん? 違うわよ。私のはメイド長の服。あなたのは日勤用のメイド服よ。動きやすさを重視した軽装みたいなもんね」
「は、はあ……」

ま、まあ、このまま突っ立っていても仕方が無い。
とりあえず、あたいは下着一丁になる。そして、メイド服に袖を通し始めた。

「ああ、スカート穿く前にソックスとガーターベルトをつけてね。そっちのほうが効率がいいから」

言われるまま、メイド長に手伝ってもらいながら、苦労してメイド服を身につけていく。
うわ、後ろにボタンがある服なんて初めて着た。メイド服ってめんどくさいなぁ……。

五分後。悪戦苦闘しながらも、ようやくメイド服を着ることが出来た。
股下がスースーする。落ち着かん。

「ふーむ、まあ、大丈夫かしらね。サイズとか適当に決めてきたけど、ぴったりだわ」
「そ、そうすか……?」

こんな短いスカート……すげぇ恥ずかしいんだけど……。
こけたりしたら、股間とか思いっきり見えそうだ。

「あ、あの、もう一段階大きいのってないんですかね?」
「ん? まあ、あることにはあるけど、一段階上だけよ。あなた上背があるし、それ以上大きいのってなかなか無いわ。それに、それが多分ぴったりのサイズよ。それ以上大きくすると、肩とかぶかぶかになってずり落ちるわ」
「そ、そうですか……」

ていうか、よく考えたら、すれ違ったメイドさんたちは、みんなこのくらいのスカートだったな。要するに慣れの問題か? ……恥ずかしいけど、慣れちまえばなんてことなくなるのかも。女ばっかりだし。

「まあ、良さそうだから、しばらくこの服で過ごしてみて。不都合があったら取り替えてあげるから」
「は、はい、分かりました……」
「よし。それじゃ、準備はいい? 職場のほうに案内するからね」

メイド長は再びドアを開け、廊下の方に足を踏み出した。



宿舎を出たあたいたちは、再び紅魔館本館に戻ってきた。
一面ガラス張りで日の光が降り注いでいる廊下を歩く。はあ、紅魔館にもこんなに明るい廊下があったんだな。少しばかり驚きだ。こんなところ、昨日会ったお嬢様はまったく寄り付かないところなのだろう。

しばらく歩くと、遥か向こうに廊下掃除とガラス拭きをしている二人のメイドがいた。

「ん、しっかりやってるようね」

メイド長は二人の仕事振りに満足して、そちらのほうに近づいていった。
二人は気づいたのか、ガラスを拭くために宙を浮いていた一人は絨毯の上に降り立って、こちらのほうに居住まいを正した。

「ご苦労様。仕事ははかどってる?」
「ええ、順調ですよー」

右腰に手を当てた一人のメイドが答えた。ガラスを拭いていた人だ。
さらさらできれいな栗色の髪を肩まで伸ばし、くりっとした大きな茶色の目が印象的だ。笑顔を浮かべ、メイド長を見つめている。見るからに活発そうな人だった。

「メアリーもご苦労様ね。調子はどう?」
「はい、大丈夫です」

メイド長はもう一人の人にも話し掛けた。
長い黒い髪を腰まで伸ばし、思慮深そうな深い緑がかった瞳でメイド長を見つめている。こっちの人は、対照的におとなしそうな人だった。背筋を伸ばして、すっと立っている姿が清廉な印象を与えた。

「あっ、もしかして、そこにいるのが新人のメイドですか?」

あたいに気づいた栗色の髪の娘が、興味津々と言った目で見つめてくる。

「ええ、そうよ。昨日話したわね。ちゃんと面倒見てやって」
「はーい、お任せくださいよ。きちんと育てて見せますので」

ノリよく答える栗色の髪の娘。なんだか、あたいより軽い感じのある娘だな。

「よし、じゃあ、私のやることはここまでよ。後のことは、このアンナとメアリーに任せてあるから、ちゃんと指示に従うこと。いいわね?」
「あ、はい、ありがとうございました」
「うん、頑張ってね。初日だから気張らずに、慣れることを第一にすればいいわ。それじゃあね」

メイド長は、身を翻して優雅に去っていった。あたいと、さっきの二人が残される。
すると、あたいの視界に、栗色の髪の娘の顔が、ひょこっと現れた。

「わっ」
「へへー、あんたが新しく入ったメイドさんね。あたしは、アンナ・ワイズネス。ここ紅魔館の窓拭き・外周廊下掃除担当よ。よろしくね!」
「あ、どうも……」

握手を求められたので、あたいは手を握る。すると、握った途端、ぶんぶんと手を縦に振られる。うわ、見た目どおり元気な娘だな。ニコニコしてるよ。

「ほら、メルも挨拶してっ」

後ろにいた、もう一人の長い髪の娘に、アンナという娘は声をかけた。

「ええ、初めまして。私は、メアリー・トンプソンといいます。アンと同じく、窓拭き・外周廊下掃除担当です。どうぞ、よろしくお願いしますね」
「あ、どうも、初めまして……」

同じく握手を求めてきたので、手を握る。小さい手だ。いや、単にあたいがでかいだけか?

「ほらっ、次はあんたよ。名前は何ていうの?」
「ああ、あたいは小野塚小町っていいます。小町って呼んで下さい。今日からよろしくお願いします」
「ああ、固い、固い。もっと気楽でいいよ。あたしのことはアンって呼んで。この娘はメル、ね」

アンはメアリー、メルの肩に抱きついて笑顔を見せた。ふうん、仲がいいのだろうか。

「それと、タメ口でいいよー。新人でも、あたしたちと立場は同じだし。メルもいいよね?」
「ええ、いいわよ。じゃあ、小町。よろしくお願いしますね」
「あ、そう。じゃあ、好きにやらせてもらおうかね。これからよろしく頼むよ、アン、メル」
「うんうん、あんた、ノリがいいねー。これから楽しくなりそうだ」

ニコニコニコニコ。アンは楽しくてたまらないといった風に笑う。
それを見て、あたいもようやく緊張から解きほぐされて、笑えるようになってきた。
すると、メルがしゃべりだす。

「メイド長からは何も聞いていないですよね?」
「ああ、お前さんたちが何か教えてくれるんだろ? だから、何も知らない」
「おっけー、こりゃ鍛えがいがあるってもんだ! これから紅魔館の隅から隅まで叩き込んでやるから、覚悟しときな!」

ふふふ、と無気味な笑いをするアン。うーむ、どうもこの娘は問題児の気配がするな。あたいと同じ匂いがする。気が合いそうだ。
すると、メルがぱんと手を打つ。

「はい、じゃあ、早速始めましょうか。小町は、窓拭きと廊下掃除、どっちがいいですか?」
「へ? いや、どっちでもいいけど」
「とーぜん、窓拭きよね! よし、決まった!」
「アン、あなた仕事が少なくなるからって勝手に決めないの」
「あ、ばれた? へへへ」

悪戯っぽく笑うアンに、あたいもつられて笑ってしまう。本当に明るい娘だった。

「でも、いいじゃない。どうせ、小町はどっちも覚えなきゃならないんだし。今日は窓拭きをやらせよ?」
「ふむ、そうね。じゃあ、それでいいですか?」
「ああ、いいよ。このでかい窓を拭いていくわけか。けっこう大変そうだね」

見上げるようにでかい窓は、日の光をいっぱいに取り込んで、あたいたち三人に日光を浴びせ掛けていた。おかげで少し汗ばんでいる。これから動くとなると、けっこう汗だくになるかもしれない。

「よし、じゃあ、これ持って。ムラがあったりすると、後でメイド長からお叱りうけるから、ちゃんとやってね!」
「あ、ああ、分かったよ。ぴかぴかに磨いてやるよ」

アンから雑巾を渡され、早速窓拭きに取り掛かろうとする。

「ああ、そこはさっきやったからいいよ。あ、そうだ。二人いるし、今日は外からやっちゃおう!」
「へ? 外?」
「うん、中からだけ拭いたんじゃ意味ないじゃん? だから、外からも拭くの」
「げ、このガラス全部を両面……?」

後ろを振り返ると、ズラーッとガラスの窓が遥か彼方まで並んでいる。端はかろうじて見える程度だ。
うお、大変そうだな……。

「よーし、じゃあ、行ってみよう! 早くしないと、日が暮れるからね」

それは文字通りの意味なんだろうな、とあたいは思った。



廊下の途中にあった扉を開けると、すぐに外に出られた。

「はー、ようやく暖かくなってきたねー。やっと寒さともおさらばだー」

アンは両腕を広げて、日光を全身に浴びるような格好をする。

「寒さとおさらばって……もしかして、冬の季節も外で水拭きをしてんのかい?」
「そうよ、当たり前じゃん。掃除は常に完璧に。じゃないと、やり直しとかさせられるからね」

げ、マジで……? よかった、これから春に向かうのだから、寒さとは戦わなくて良さそうだ。
中では、メルが一生懸命、絨毯を掃除しているのが見える。なんだか、見たことのない道具だ。前後に動かして、ごみを吸い取るようにしている。

「よしっ、始めるよ。昼までのノルマはこのガラス一列分だからね」
「あ、ああ、オーケー」

早速、アンは宙を浮いて、ガラスの一番上まで移動する。
あたいも、それにならって宙を浮いた。

「いやー、まさか、こんなに早く後輩が出来るとはね。運が良かったってことかな」

アンは喋りながら、慣れた手つきでガラスを拭いていく。
あたいは、その仕事振りを真似しながら、話に耳を傾けた。

「あたしとメルってさ、今から二年前にここに来たの。その時も春だったなぁ。懐かしいや」
「そうなのかい。じゃあ、二人は同期ってこと?」
「そうだよ。ちょうど同じ日、同じ時間に申し込みに来てね。ちょっとした偶然だと思わない? ここってメイドになりたいって人は滅多にいないし、あたしたちって、何かに手繰り寄せられるように同じ時に集まったの」
「へぇ。そりゃ、面白い」
「ちょうど、こんな暖かい春の日だったよ。もし、ここに来るのが二年早かったら、あんたもあたしたちと同じ日にここに来たかもね」
「あはは、そうしたら、とんでもない偶然だ。縁があったなんてもんじゃないね」

アンの会話のテンポは小気味よかった。それが気分良かったので、しばらく彼女のペースで話を続けた。

「ねぇ、あんたはどうして、ここに働きに来たの?」
「ん? ああ、まあ、大したことじゃないよ。前やってた仕事を辞めてね。それで求人雑誌から適当なのを選んだだけさ」
「へー、何の仕事をしてたの?」
「船頭死神さ。分かるかい、どんな仕事か?」
「んー、よく分かんないけど、死神ってことは、生き死にに関わる仕事なんだろうね」
「ま、そうだね。三途の川の番人みたいな仕事さ。舟をえっちらおっちら漕いで、三途を渡りに来た霊を閻魔様のところに届けてたんだ」
「うわー、面白い。珍しい仕事だね」
「ん? そうかね。まあ、現世には無い仕事だからね。珍しいっちゃあ珍しいかも」
「じゃあ、小町は幻想郷の妖怪じゃないんだ」
「厳密にはね。でも、こっちの妖怪とそんなに変わらないよ。腹も減るし、眠くなるしね」

あたいはひとしきり、アンに身の上のことを話した。
前の仕事のこと、彼岸の様子、あたいの家族のこと。
彼岸の様子は、幻想郷で生きているアンにとって興味深いものだったらしい。まあ、天国や地獄のことは、あたいも行ったことがないので話せない。出身は彼岸なのに、天国やらのことを知らないのは、笑える話ではあった。

「へぇー、あんた面白いね。あの世の妖怪なのに、この世で働いてるんだ」
「事情により、ね。ま、それも三ヶ月の間だけさ。死神の試験に受かったら、またあの世の住人に戻るつもりだよ」
「じゃあ、ここにずっといるわけじゃないんだ。なんだ、つまんない。せっかく後輩が出来たと思ったのに」

口を尖らせてつまらなそうにするアンは、見かけよりも幼く見えた。あたいはそれを見て笑ってしまう。

「アンはどうなんだい? ここへは、なんで来たんだい?」

あたいのことは大体語ったので、今度はアンに聞いてみた。

「え、あたし? そりゃーもちろん……」
「もちろん?」
「もちろん、ここにいるのが楽しいからよ。ここにいれば、ご飯もベッドもお風呂もついてるし、全然不自由しないでしょ? それに、こーーーんな大きなお屋敷で働けるんだよ? ちょっと自慢にもならない?」
「あ、ああ……」
「仕事とかは確かにちょっときついけどさ、友達もいっぱい出来るし、全然退屈しないの! こんないい職場、他にはないわ! 野良仕事とか性に合わないしねー、だから、ここに来たのよ」
「な、なるほどね……」

なかなか即物的な志望理由だった。見た目通りというか、けっこうミーハーな娘なのだろう。
まあ、あたいも宿舎と飯を目当てに、ここに働きに来たところがあるので、人のことは言えない。

アンはしゃべりながらもガラスをどんどん拭いていく。もう頭で考えなくても体が動いている感じだ。
あたいも負けじと仕事に頭を戻す。
すると、中で絨毯を掃除しているメルと目が合った。

メルは薄く微笑むと、何か口を動かした。
ガラス越しで声は聞こえなかったが、「大丈夫ですか?」と言っているのだと分かった。
あたいは親指を立ててやる。それを見ると、メルは軽く頷いて、再び仕事に戻った。

「メルとは、もう長いのかい?」

あたいはアンに聞いてみた。

「ん? ああ、まあね。部屋も仕事もみんな一緒。二年間ずっと一緒にいたんだ。だから、相棒みたいなものだよ」
「ふうん」

確かに、先程の二人の様子を見る限り、長い年月で培った雰囲気というものが滲み出ていた。
寝食を二年も共にしていたのなら、それも納得いく。性格もちょうど真逆みたいだし、ぴったりと合ったのだろう。

「メルもアンと同じ?」
「へ? 何が?」
「メルもここの飯や寝るところを目当てに働きに来たのかってこと。そういうメイドって多いのかい?」
「あ、ああ、そ、そうだねー……」
「……?」

なんだか急にアンの歯切れが悪くなった。
今までリズムよく会話を刻んでいたのに、途中でつっかえた感じだった。

「何? なんか、あたい変なこと聞いた?」
「う、ううん、なんでもない。そうだよ、メルも同じ。ご飯が食べられて雨を凌げる場所を探してたら、ここを見つけたんだって。あたしと同じだよ、うん」
「……」

この娘は嘘が下手だな。どうも、触れてはいけない類の話のようだ。あたいは長いこと他人の話に耳を傾けてきたから、そういった機微を嫌でも感じ取ってしまう。
メルに過去の話をしてはいけないのだろう。何か悲しい出来事でもあったに違いない。それで、ここを頼らざるを得なくなった。そんなところだろうか。

まあ、詮索はあまり良くない。昔のことにこだわっていると、足を一歩踏み出せない。
辛いことならなおさらだ。さっさと過去のものにして、新しく道を踏み出すべきだ。

「あ、そうだ!」

急にアンが声を上げた。すでに、二枚目のガラスに取り掛かっている。早い。

「あんたってさ、まだここに来たばっかりだよね」
「ん? 見ての通りだけど?」
「じゃあさ、ファンクラブってまだどこに入るか決めてないよね!」
「は? ふぁんくらぶ?」

聞き慣れない単語に、あたいは困惑した。

「なんだい、そのふぁんくらぶってのは」
「ふふ〜、ここ紅魔館ではねぇ、メイドの間である特定の人物に対してファンクラブを設立してるの! レミリアお嬢様とか、メイド長とか、副メイド長とか、各班長とかのね。その人のお誕生日とかに贈り物をしたり、パーティーを催したりして、色々とお祝いするの。他にも、お手紙を書いたり、お菓子を作って渡したりしてね、とにかく、その人のことが好きだっていっぱいアピールするわけよ!」
「はあ、そんなことしてんのかい」
「なんだよ〜、反応薄いな〜。小町もどっかのファンクラブに勧誘されるんだから、覚悟しといた方がいいよ」
「勧誘ねぇ……。ていうか、手紙なんか書かなくても、直接言えばいいじゃないか。同じところに住んでるんだし」
「なーに言ってんの! 手紙だからいいんじゃない! 胸に秘めた想いを告白するのよ! ああっ、ちょっと言っていて恥ずかしくなってきた! どうしてくれんの!」

そんなこと言われても、何したらいいのか分からん。
むう、男ばっかりの職場にいたせいか、女らしさがあたいには欠けているのだろうか。急に女ばっかりの職場に首を突っ込んでいるわけだから、少し戸惑っているのかもしれない。まあ、郷に入りては郷に従えだ。

「まあ、分かったよ。ちなみに、アンは誰のファンクラブに入ってんの?」
「ん、あたし? あたしはもちろんメイド長よ!」
「ほう、さすがにあの人は人望があるんだね」
「メイド長はあたしが新人で入ってきたときも優しく指導してくれたし、今でも声をかけてくれるの。ていうか、ここで働いている全部のメイドの名前を覚えているらしいわ。ほんと、すごい人よね……」

顔をうっとりとさせながらも、手はしっかりと動かしているところがすごいな。慣れというものは恐ろしい。

「というわけで、あんたを十六夜咲夜ファンクラブに勧誘します! 今なら年会費無料でクラブ特製の手作りアクセサリーつき! どう? 絶対お得だと思うけど!」
「あはは、まあ、考えておくよ。まだ入ったばっかりだし、他のファンクラブ対象の人も見てみたいしね」
「むう、慎重ね……。まあ、いいわ。あたしたちはいつでも歓迎だから!」

飽きない会話をしながら、あたいたちはガラスをひたすら拭いていった。
アンはさすがに慣れているようで、あたいが一枚ガラスを拭く間に三枚は拭いていた。
まあ、初日はこんなものだろう。そのうち同じスピードで拭けるようになればいい。

そんなこんなで、お天道様が真上に来るまで、あたいとアンはガラスを拭き続けた。







紅魔館の食堂は、ちょっとしたレストランみたいなものだった。
パーティーでも開けそうな広い部屋に、丸いテーブルが雑然と並んでいる。そこについている椅子の数はまちまちだ。おそらく、自由に集めたり取っ払ったりして、人数分を合わせるように出来るのだろう。
テーブルはすでに半分ほど埋まっていた。まだ昼の早い時間なのだから、さらに人は増えるようだ。テーブルは足りるのだろうか。

「じゃー、あたし席取っとくね! いつものやつでいいから!」

アンはそう言うと、けっこうな人がごった返している食堂の中に突っ込んで行ってしまった。

「あらあら。じゃあ、私たちは食事を取りに行きましょうか」
「あ、うん」

苦笑を浮かべながら、メルはあたいを導くように食堂の中に入った。
右手側のほうに、白いテーブルクロスが引かれた長机があり、その上に銀製の食器に載せられた料理がいくつも湯気を立てていた。
机の端っこには、皿とトレイが何十枚も重ねておいてある。なるほど、初めて見るが、これがバイキングという形式なのだろう。

「へぇ、バイキングってこういうんだ。あたい初めてやるよ」
「あら、そうなんですか? 説明は必要ですか?」
「いや、大丈夫。皿の上に、自分の好きなおかずを載せていけばいいんだろ? 多分できるよ」
「そうですか。あ、そういえば、私たちって、いつもお互いのおかずを突付きあって食べてるんですけど……小町はそういうの気にしますか?」
「いや、全く平気。むしろ、そっちの方が手間が省けていいじゃん。あ、そうだ。あたいが盆を二つ持つからさ、メルがおかずを選んで載せていってくれない?」
「え、でも……」
「平気、平気。あたい、これでも力はあるほうだから。それに、紅魔館の料理ってのも興味あるしね、たくさん食べてみたいんだよ」
「うふふ、分かりました。じゃあ……これを持ってください」

メルはトレイ二つをあたいに渡す。それを、あたいは両腕に抱える。そして、メルは皿をそれぞれ二つずつ載せた。
列に加わって、メルはあたいが持っている皿に次々に料理を載せていく。慣れたものだ。というか、早くしないと、後ろがつかえるのか。
料理は、コッペパンにプチトマトのサラダ、コーンスープにスクランブルエッグ、飲み物にはコーヒーもあった。
まあ、典型的な洋食の昼食だった。紅魔館はやはり洋食中心なのだろう。

「はい。じゃあ、アンのところに行きましょうか」

サラダにドレッシングをかけ終えたメルがそう言った。
トレイの上には、丁寧に盛り付けられた料理が、山盛りといわないまでもたくさん載っている。三人分だから、このくらいにはなるのだろう。

アンの姿は、食堂の中央で発見した。きょろきょろと食堂に入ってきた連中を見回している。

「アン、お待たせ」
「おっ、早かったね。うわ〜、たくさん持ってきたね! 食べきれるかな?」
「小町がいたから随分楽だったわよ。ありがとうございました」
「いやいや、こんなことで礼を言わなくていいよ」
「小町がいてくれたら、おかわりに席立たなくてもいいかもね。じゃ、いただきまーす」

アンは、あたいがトレイをテーブルに置く前に、コッペパンとバターを掴み取った。そして、早速食べ始める。

「アン、置くまで待ってなさいよ」
「まあ、いいじゃん。食べちゃえば同じなんだし」
「あはは」

この娘のマイペースさは、あたい以上かもしれないね。
美味しそうにコッペパンを頬張るアンを見て、あたいは自然に笑みが浮かんだ。

あたいとメルも、席につく。
フォークとスプーンはあまり使ったことがないが、まあ、そのうち慣れるだろう。
あたいはフォークを手にとって、ほうれん草がたっぷり入っているスクランブルエッグに突っ込んだ。
口に運び、咀嚼してみる。適度な塩味とほうれん草の甘み、コーンのプチプチ感がたまらなかった。

「どうですか? お味は?」
「うん、うまいよ。あたいがいつも食べていた昼飯とはえらい違いだ。これを毎日食べられるなんて、嬉しいねぇ」
「いつも食べてたのって、例えばどんなの?」
「握り飯だよ。朝飯の残りを適当に握ってね」
「握り飯? ライス?」
「そうそう、ライス」
「あら、私たちにとってはそっちの方が珍しいですね。お米なんて滅多に食事に出ませんし」
「へー、そうなの。まあここは洋食っぽいしね。和食は作んないのかな?」
「たまにリゾットで出るくらいですね。今日の夕食には出るかもしれませんよ」

それは楽しみだ。あたいは、どちらかというと米党なので、ご飯が出てくるというのは嬉しかった。

「それで、どうでしたか? 午前中の仕事は」

メルがコーンスープを口に運びながら聞いてくる。

「ああ、やっと座れたってところだね。腕もパンパンだし」
「窓拭きは常に腕を持ち上げてますからね。慣れてないとそうなるのも無理ないです」
「でも、ちゃんと出来てたよー、初めてにしては。合格点をあげられるかな」
「あはは、そりゃありがたい。最初はきちっとやっとかないとね。初日から門前払いじゃ、目も当てられない」
「そうだよー、怒られるのは、あんたじゃなくて教育係の私たちなんだから、ちゃんとやってよねー」
「アン、そういうこと言わないの。小町は一生懸命やってるんだから」
「いやいや、冗談だって」

そんな冗談を交えながら、和やかに昼食は進んでいく。
食堂内は、いつの間にかたくさんのメイドさんに埋め尽くされて、喧騒で会話がよく聞こえないほどだった。
これだけたくさんの、しかも同じ格好をした人たちを一箇所同時に見るのは初めてだったので、けっこう異様だった。
なんだか、間違って変な集団の集会に紛れ込んでしまったかのような、そんな居心地の悪さを感じた。
まあ、それも、そのうち慣れるだろう。死神のときも、同じ格好した連中としょっちゅう会ってたしね。

「小町、小町」
「……ん? なんだい?」

アンが呼んでいたようなので、そちらに顔を向けた。

「小町って、メイド服初めて着たんでしょ? どう、感想?」
「うーん、そうだねぇ。やっぱり、ちょっと恥ずかしいかな? こんな短いスカート、初めて穿いたしね」
「うふふ、階段とか気をつけたほうがいいですよ。下に見えますから」
「うぇ、そうかもね。じゃあ、きっちり抑えておかないと、」

いやああああああぁぁぁぁ!!

と、突然、あたいの後方から叫び声が上がった。

「へ、なに?」

あたいは、コッペパンを咥えたまま後ろを振り向いた。
何人かのメイドさんたちが立ち上がっている。あたいたちが着いているテーブルの、二つ三つ向こうのテーブルの人たちだ。

「うわっ、なんで、こんなとこにっ!」
「いやあっ、早く捕まえてっ!」

そのテーブルを遠巻きにするように身を引いている。なんだ? テーブルの上になんか載ってるのか?
あたいがそのテーブルの上を注視すると、

「わっ! 飛んだっ!」

そんな声と共に、そのテーブルの上から、何か黒い物体がこちらに向けて飛んできた。
あたいの顔の横を横切ると、ぶうん、という羽音がした。
その黒い物体は、飛んだコース的に、今度はあたいたちのテーブルの上に載ったようだった。
あたいは、テーブルに向き直ってみる。

……確かに、黒いのがいた。
黒くてつやつやした親指大の物体。端から二本の長い糸が伸びており、六本の短い糸が三本ずつ横からも伸びていた。
というか、何かの昆虫っぽかった。

「ぎゃあああああああああああっ!!」

それを見た途端、アンが奇声を上げた。

「いやあっ!! ご、ご、ご、ごきぶりぃっ!!」

アンは椅子から転げ落ちるようにして、テーブルから離れた。
……まあ、アンの言う通りだった。
白いテーブルクロスに映えるような黒いフォルムをしたゴキブリが、皿と皿の間に収まるようにして鎮座していた。

「きゃっ!」

ようやくメルも気付いたようで、椅子と共に身を引く。
まあ、そりゃ驚くだろうな、いきなりこいつが現れたら。

「あーあー、なんでこんな所にいるんかね、こいつは」

あたいは、そいつに向かって手を伸ばした。

「ちょ、ちょ、ちょっ、ちょっと小町っ! な、なにしてんのよ!」

いつの間にか向こうのテーブルまで退避していたアンが、どもりながら聞いてきた。
何をするもこうも、こうするに決まっている。

あたいは、またこいつが飛ばないように、そーっと後ろから手を伸ばす。
そして、さっと姿を覆い隠した。

「いやっ! だ、だから、何してんのよっ!」

パニック寸前のアンに構わず、あたいはゆっくりとそいつを手のひらに収めた。
手の中に入っている感触を確かめて、メルに聞く。

「ねぇ、窓ってどこにあるの?」
「え?」
「だから、窓。こいつを逃がしてやんなきゃ」
「あ、は、はい。こ、こっちです。ついてきてください」

立ち上がったメルは、そそくさとあたいを先導する。
その先にいた人の群れは、波が割れたように道が出来ていた。
メルは食堂の端っこにあった出窓に向かっているようだった。
あたいも急いでそっちに向かう。これ以上、この中を騒がしくするのもいただけない。

メルは窓を下から上に開けてくれた。
それを見計らって、あたいは持っていたやつを放り投げてやった。
黒い物が、草むらの中に消え、見えなくなった。

「ふう、まったく人騒がせなやつだね。じゃあ、また食べ始めよっか」
「そ、そうです、ね」

引きつった笑顔を浮かべたメルを連れて、あたいはテーブルの方に戻っていった。







昼を過ぎると、廊下の雰囲気は一変した。
日光が差し込んでこなくなったというだけで、辺りはけっこう暗くなった。
大きなお屋敷だから、日光が入ってくると必要以上に入ってくるが、入ってこなくなると必要以上に暗くなるのか。そんなどうでもいいことを考えさせられた。

「じゃあ、よろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそ。……で、これってどうやって使うの?」

あたいの手の中には奇妙な道具が収まっていた。
T字型の棒で、柄の先端に長いホースのような物がついており、それが大きな袋に差し込まれていた。

「これはですねぇ、こうやって使うんです」

メルは、その棒についていた出っ張りの部分を押し込んだ。
すると、T字の棒の先っぽの方から、ゴー、と風が流れる音が聞こえてきた。

「これは、絨毯の上のゴミを吸い取る装置なんです。ここの柄の部分に風の魔法陣が描いてあって、こっちの袋のほうにゴミを吸い取って送り込めるんですよ」

メルは棒を両手に持ち、T字の方を絨毯に押し付けて前後に動かしている。
はあ、なるほど。こうやって、ゴミを吸い取るのか。

「へぇー、便利だねぇ。これなら、箒とちりとりを使う必要もないってわけか」
「ええ、絨毯は箒は使いづらいですからね。ここに住んでいるパチュリー様という方が考案した掃除道具なんです。おかげで、絨毯の掃除は格段に楽になったんですよ」

ああ、あのパチュリーさんか。さすが希代の魔女、こういった便利な物を作るのもお手の物のようだ。

「じゃあ、小町はこれを使って絨毯を掃除してください。私は調度品の手入れをしますので」
「ああ、分かった。隅々までやってやるよ」

メルから道具を受け取り、袋を背負ってあたいは掃除を始めた。
棒を絨毯の上で前後させると、絨毯が逆立ったり戻ったりしてなんだか面白い。ちょっとハマりそうだった。

「そ、それにしても、すごかったですね……」
「……ん? なにが?」

絨毯掃除に夢中になる直前で、メルがあたいに声をかけた。

「だ、だって、ゴキブリを素手で掴んでしまうんですもの。普通、そんなこと出来る人っていませんよ?」
「ああ、そんなこと。大したことじゃないって。ただのゴキブリだし」

先程の食堂での件を言っているのだろう。
本当に大したことなかった。まあ、メルの言う通り、普通のやつなら、あたいのさっきの行為は全力で引く。
だが、あたいにとっては、ゴキブリは他の昆虫とおんなじだ。コオロギとそう変わらない。だから、掴むくらいなんでもないのだ。

「それにさ、あたいの前の仕事の関係で、無駄に命を奪うことに抵抗があるんだよ」
「え? 前の仕事、ですか?」
「メルにはまだ話してなかったよね。あたい、前は船頭死神っていう仕事をしてたんだ。死者の霊魂を閻魔様のところに送る仕事さ。それで、生きているものに愛着を持つようになっちゃってね」

そう、船頭死神をやっているやつは、嫌でも生命を奪うことに抵抗を感じるようになってしまうのだ。

「死んだやつは、次に生を受けるときに、必ずしも人間や妖怪になるわけじゃないんだ。動物にもなるし、魚にもなるし、昆虫にだってなる。だから、さっきあたいが掴んだゴキブリも、もしかしたら人間だったかもしれないんだよ」
「は、はあ……」

メルは困惑しているようだった。まあ、こんな話されても、すぐにはピンとこないかもしれない。

「ゴキブリってさ、ゴミ虫みたいだから、みんなから嫌われているところがあるだろ? でも、ゴキブリだって、叩かれて殺されるために生きているんじゃない。ちゃんとした一つの命なんだ。あたいやメルと同じ命を持った、ね。だから、いたずらに命を奪ったりするのは、あたいにはどうしても抵抗がある。そういう性分なんだ」
「……」
「それにさ、さっきのゴキブリは、あたいが閻魔様のところに送った霊魂が転生したものかもしれない。そう考えちゃうんだよね、どうしても。一生懸命生きてきた人間の命だったものだと考えると、どうも殺すのは可哀想だ。あたいはそう考えてるんだよ」

メルは驚いたような、ぽかんとした表情であたいの話を聞いていた。
調度品の花瓶を拭く手が、いつの間にか止まっていた。

「……小町って、すごい思想を持ってるんですね。何かの偉人の本に出てきそうです」
「あはは、そんなことないよ。職業病ってやつかもね。船頭死神をしているやつは、多かれ少なかれ、そういう考えになっちまうんだよ。本当に大したことないのさ」

この考え方は、あたいが船頭死神を始める前には持っていなかった。ゴキブリを見たらスリッパや新聞紙で殺していたし、その行為に後悔することなんて微塵も無かった。
だが、死神の仕事をするにつれて、命は全て等価なのだ、ということに気付いた。
命に優劣はない。その考え方を持つことは、船頭死神の研修の時点で学習させられるのだ。

「はあ、小町って、メイドをやっているのが勿体なくなりますね。哲学者にでもなったらどうですか?」
「そんな、おだてても何も出ないよ。まあ、死神に戻りたいのは本望かな。天職だと思ってるからね」
「なるほど。あ、その話をアンに聞かせてあげたらどうですか? あの娘、まだあなたに一線引いてるみたいですから」
「あはは、困ったもんだね」

さっきの出来事で、アンの弱点が判明してしまった。
そして、どうも素手でゴッキーを掴んだあたいを変な目で見るようになってしまったらしい。窓拭きの仕事も、あたいと一緒にするのを固辞したし。
まあ、いい娘だから、三十分もすれば前と変わらず接してくるような気がする。それでもダメなら、メルが説得してくれるだろう。あたいよりも付き合いが深いようだし、あの娘も聞いてくれると思う。

「あ、アンと言えばさ。あの娘からちょっと聞いたんだけど、紅魔館ってファンクラブっていうものがあるらしいじゃない?」
「え? ああ、あはは、確かにありますけど、それがどうかしましたか?」
「ちょっと興味があってね。メルは、誰のファンクラブに入ってるの?」
「私ですか? 私はメイド長です。アンに強引に入会させられてしまって。まあ、でも、楽しいから文句はないのですが」

苦笑してメルは答える。
アンに強引に入会させられたメルか。その姿がありありと浮かびすぎて笑いがこみ上げる。

「面白いもんだね。普通、男には女の、女には男のファンが出来るもんだろ? 女から女のファンクラブがあるなんて知らなかった」
「ここには女性しかいませんからね。どうしても、そういった文化が出来るようです。そういった活動も、この中では人間関係の潤滑油になっていたりするんですよ」
「なるほどねー」

閉鎖的な環境だからこそ芽生えた文化か。似たようなものが、船頭をやっているときにもあったような気がする。主に四季様の近辺で。

「ファンクラブっていっても、一体いくつくらいあんの? 十や二十もあるわけじゃないんでしょ?」
「えーと、そうですね……まず、レミリアお嬢様のものが三つほどありますね」
「へ? 三つ? 一つじゃないの?」
「派閥みたいなものがあるんですよ。それぞれ異なった理念を持って行動しているようで、各々、活動のやり方があるみたいなんです。物を作って差し上げるところもあれば、スケジュールを把握して外出のお見送りをしたりするところもあるそうですよ」

それって、ほとんどストーカーなんじゃ……。

「咲夜メイド長のものも三つほどありますね。私は、そのうちの一つに入会してます。後は、派閥はないですが、パチュリー・ノーレッジ様のもの、副メイド長のもの、炊事班長、清掃班長、門番班長のものがそれぞれ一つずつありますね」
「あ、門番班長って、もしかして、美鈴さん?」
「あ、ご存知ですか? ええ、紅美鈴班長です。美鈴さんはすごく面倒見の良い方なので、ファンクラブの会員も班長の中ではダントツで多いんですよ」

なるほど。確かに初対面の印象からして、人の良さそうな人だった。人気があるのも頷ける。

「なるほど。じゃあ、ええと、ひい、ふう、みい、……十一もあるのかい。ひゃー、すごいね。ここのメイドさんって、一体何人いるんだろ」
「あ……そう言えば……」

驚くあたいの横で、メルが何か思い出したように言った。

「ん? なんだい? まさか、まだファンクラブがあるって言うのかい?」
「ああ……まあ、はい、そうなんですが……」
「え、マジで……?」

これ以上増えんのかよ。

「ただ……形骸化しているというか、ほとんど活動していないんです。活動できないというか……」
「ん? どういうこと? 一体誰のファンクラブなんだい?」
「……フランドール・スカーレット様です」

フランドール・スカーレット?

「レミリアお嬢様の妹様に当たる方で、ちょっと気難しい気性をお持ちで……。だから、ファンがつきにくいというか……表だって活動が出来ないらしいんです」
「へー、お嬢様の妹ねぇ。あ、そういえば噂で聞いたことがあるよ、その人」
「ええ……とても可愛らしい方なのですが……地下の自室にこもりっきりで、なかなか外に出ていらっしゃらないのもあるので、活動らしい活動は出来ない状況なんです」

要するに、部屋に引きこもっているから、活動したくても出来ることが限られてくるということか。

「なんだ、じゃあ、そのフランドール様っていうのを引っ張り出してくればいいじゃないか。引きこもってるなら、なおさらさ」
「ダ、ダメですって! そんなこと出来ないです!」
「へ?」

今までとは明らかに違うメルの態度に、あたいは少し戸惑った。

「出来ないって、なんで?」
「あ……ええと……先ほども言った通り、ちょっと気難しい方なんです。機嫌を損ねると、ちょっと困ったことになったりしまして……。だから、当たり障りのない程度にしか触れ合えないというか……」
「ふうん……」

フランドール・スカーレット。紅魔館のお嬢様の妹で、相当凶暴な性格の持ち主。
逆らったら、一発で消し炭。メイドたちは、いつもびくびくしながら、その妹様のご機嫌をうかがっているという。
まあ、これは、あたいがここに来る前に聞いていた噂の一つだ。きっと、尾ひれがついて大げさになっているに違いない。だが、気難しいという情報は、先程のメルの話を聞く限り、的を射ているのだろう。

フランドール・スカーレットか。一体、どんなお姿なのか。
レミリアお嬢様の妹なら、姿も似ているのか。そうしたら、相当な美少女に違いない。
ちょっと、興味をそそられる。失礼のない程度に、ご拝顔を願いたいものだった。

「じゃ、じゃあ、おしゃべりはこのくらいにして、お掃除を始めましょうか」
「ああ、そうだね。ちょっと夢中になっちまった。早くしないと日が暮れるね」
「おお〜い!」

掃除を再開しようとすると、廊下の向こうからアンが手を振って近付いてくるのが見えた。

「はかどってる〜? あたしは、外の窓拭き、終わったよ〜」
「あら、早いわね。じゃあ、小町と一緒に絨毯の掃除をしてくれる?」
「おっけー、任してー」
「あれ? ていうか、アンさ。あたいのこと、苦手だったんじゃないのかい?」

あまりにも自然で忘れかけたが、アンは先程のゴッキー事件で、あたいのことを引いて見ているはずだった。

「ううん、もういいの。だってさ、こまっち、ゴキブリキャッチャーだって気付いたからね」
「は? キャッチャー?」
「うん。部屋に出てくるゴキたちを一網打尽! もうこれで、夏場は姿に怯えることなく寝られるわ! だから、頼りになるルームメイトなんだよ!」
「な、なるほどね……」
「それじゃあ、道具取ってくるねー。こまっちは出来るだけ仕事量を減らしといてー」
「……」

去っていくアンの後ろ姿を、あたいとメルはぽかんと見つめた。
そして、顔を見合わせて苦笑する。

「まったく、あの娘は前向きですね」
「ていうか、さりげなく、あたいをあだ名で呼んでたね。ほんと、面白い娘だ」

いつもあんな感じで、嫌なことがあっても忘れられるのだろう。ケンカしたとしても、十分あればケロッとしているのかもしれない。うらやましいことだった。

あたいたちは、そんな能天気の後ろ姿を見送ると、せっせと掃除を再開した。
おやつの時間はあるのだろうか。そんな詮無いことを考えた。







春分の日を過ぎると、日の入りが少しずつ長くなっていく。
よく、米粒一つずつ日が延びるというけれど、本当にそうなのか、あたいは専門家ではないから分からない。
西の空に輝く夕日は、夜の帳が下りる前兆だ。
これから、どんどん夕日を見る時間は長くなっていくのだろう。早くも梅雨の季節を肌で感じた。

「よーし、お勤め終わりー」

そんなことを言って、アンは二段ベッドの下の方、自分のベッドに倒れこむ。
あたいたち三人は、本日の仕事を終え、自室に戻ってきた。
意外に終わるのは早かった。メイド仕事っていうのは、朝から晩まで働くような、もっときついものだと思っていた。
しかし、これなら三ヶ月の間、音をあげずに勤められそうだった。

「お疲れ様でした、小町。どうでしたか、初日の感想は」
「ああ、お疲れさん。いや、思ったより楽だったよ。これなら、船頭の仕事をしている方がきついね」

あたいはその辺にあった、背もたれのない丸い木の椅子に腰を下ろした。メルも自分のベッドの上に腰を下ろす。
アンは自分のベッドでごろごろしていた。……パンツ見えるぞ。

「はー、ここがあたいのしばらくの部屋になるわけだねー」

あたいはそう言って、部屋の中を改めて見回した。
けっこう、さっぱりした部屋だった。
カレンダーや壁にかけられた時計、あたいの後ろにある大き目の机がまず目につく。
部屋の中心には小さ目のテーブルがあり、その上にはティーカップが二つある。アンとメルのものだろう。
窓際には鉢植えのチューリップが一輪咲いており、夕日を受けて赤からオレンジに染まっていた。

「うん、きれいな部屋だね。ちゃんと掃除してるんだね」
「はい、主に私が。アンはすぐに小物とか集めて散らかしますからね」
「え〜、ちゃんと片付けてるよ〜。作った後は、ちゃんと片付けてるじゃん」
「その作っている最中に散らかるのよ。机の上だけでやってほしいわね」
「ちぇ〜」
「ん? 作るって何を?」

会話についていけなかったので、とりあえず聞いてみた。

「ああ、アンは小物を使ってアクセサリーを作るのが趣味なんです。こう見えて、けっこう手先は器用なんですよ」
「へぇ〜、そりゃ意外だね。一番苦手な部類かと思ってたよ」
「あっ、二人とも、酷いこと言ってる。まあ、いいさ。こまっちにも、後で見せてあげるよ。私の傑作群を!」

ふふん、と鼻を鳴らして、アンは笑う。
ほほう、随分な自信のようだ。一体、どのくらい凄いのだろう。

「あ、そういえば、夕食っていつなの?」
「もうそろそろですね。夜勤組の朝食と一緒ですから、六時から始まりますよ」

時計を見ると、五時五十五分を指していた。ふむ、そろそろ出てもいいのかもしれない。

トントン

と、その前に、ドアがノックされた。

「あ、は〜い」

メルが応対に向かう。
ドアが開けられると、初めて見るメイドさんが顔を覗かせた。

「や、元気?」
「あら、どうしたんですか? 何か御用?」
「うん、ちょっとさ。確か、新しくメイドさん入ったんでしょ?」
「ええ、こちらの方です」

メルは、中が見えやすいように横にどいた。

「おお〜、ホントに入ったんだ。初めまして〜」
「あ、ども、初めまして」

あたいは立ち上がって、軽く頭を下げた。
ふう、やっぱり、しばらくはこういう挨拶が続くことを覚悟しなきゃならないね。
すると、さっきのメイドさんが話を続けてきた。

「ねぇねぇ、これから夕食でしょ? もし良かったらさ、うちの部屋の連中とあなたの歓迎会をしようと思うんだけど」
「あら、いいですね。小町、どうしますか?」
「ああ、ありがたい。ぜひ、お呼ばれするよ」
「オッケー、じゃあ、一緒に行こうか。混み始める前にね」
「なになにー!? おもしろそーなこと始めそうじゃん!」

飛び起きたアンが声を上げる。

「おー、アンも来るよねー、新人さんの歓迎会」
「もちろん行くさー! で、いつー!?」
「もう今すぐだよ。食堂に集合」
「りょうかーい!」

アンはベッドから勢いよく飛び降りると、急いで靴を履く。
そして、ドアに小走りで向かう。

「こまっち、メル、早く行こ! いい席なくなっちゃうよ!」

あたいたちの返事も待たずに、アンは部屋を飛び出してしまった。

「はー、まったく、鉄砲玉みたいだね」
「あはは、じゃあ、私たちも行きましょうか」

顔を見合わせて笑いあうと、あたいは腰を浮かせて立ち上がった。



食堂にいる人たちは、二つのタイプに分かれていた。
一つは、あたいたちと同じ日勤用のメイド服を着た人たち。
そして、もう一つは、夜勤用のメイド服を着た人たちだった。
あたいたちが着ているものよりもずっとスカートの丈が長く、足首まで隠れるくらいある。みんな、しずしず、と歩いているので、なんだかあたいたちよりも、おしとやかな雰囲気をかもし出していた。

「夜勤用のメイドさんはスカート長いんだね」
「ええ、日勤と比べて、あまり掃除をする機会がありませんからね。それに、お嬢様のお世話をするのに、足の露出があると少し見てくれが悪いですから」
「なんだか、メルにはあっちの方が似合いそうな気がするよ。おしとやかっぽくて」
「え……いえ……そんなことないですよ……?」

褒められて少し赤くなっているメルに笑いかけながら、あたいたちは再び食堂にやってきた。

「あっ、来た来た! こっちこっち!」

食堂に入ると、すぐにアンの姿を発見できた。ていうか、手を振っているのですぐ分かった。
丸いテーブルが四つほどくっつけられて、ちょっとした大き目のテーブルになっている。まあ、五、六人座るのだから、そのくらいは必要だろう。

「小町さん、だよね。あなたは主賓だから座ってて。私たちが料理を取りに行くわ」

先程、部屋に来て歓迎会を催そうと言ってくれた人から声をかけられた。

「ああ、ありがとう」
「よろしくねー」
「あんたも来んのよ、手伝いなさい」
「えー、そうなのー?」
「うふふ、じゃあ、ちょっと行ってきますね」
「ああ、席は取っとくよ」

アンとメルは他のメイドさんたちと一緒に料理を取りに行ってしまった。
あたいはぼんやりと二色のメイドさんの波を見ながら、みんなが料理を持って戻ってくるのを待つことにした。



〜〜〜



ちょっとした、気まぐれだった。
一人遊びにも飽きたので、館の中を散歩しようという気になったのだ。

日の光も薄れ、窓からは宵闇が忍び寄っている。
まさに、これから散歩するにはうってつけ。暇つぶしするからには、充分時間をかけて館内を回ろうと思った。

地下からの階段を上がると、一人のメイドと行き会った。
慌てて居住まいを正されて、一礼される。
何の感慨も抱かない。
そんなこと、心の底から自分に対して行っているのか分からない。

歩いている途中に、何人ものメイドとすれ違う。
反応は、一様。
道のど真ん中を歩いていたとしても、すぐに壁際に寄っていく。
まるで、低脳な昆虫みたい。
自分は、その昆虫を従える女王なのだ。

黒に塗りつぶされた窓に、自分の姿が映っている。
蝋燭に灯されて橙色に染められている。
まだ乾ききっていないのか、鏡の像は歪んで見えた。
それに、少し不快な気持ちを覚えた。

少しばかり歩いた先。
喧騒が聞こえた。
たくさんの人が集まっているような、そんなさざめきが耳にかすかに入ってきた。
どうせ、どこに行っても興味をそそられるような物などないのだから、ちょっとでも変わったところに行ってみようと思った。

たくさんのメイドが、一つの部屋に出たり入ったりしていた。
喧騒は、その部屋を中心に発せられているようだった。
あそこは何の部屋だっただろう。そんなことは、最初から覚えてなどいなかった。

出てきたメイドたちは、自分の姿を見た途端、電流でも走ったかのように一瞬震え、そして頭を下げる。
どいつもこいつも同じ反応。
人形のよう。つまらない。
面白い物など、何一つ存在しない。

その部屋にも、大した物など無いのだろう。
一目見て、面白そうじゃなかったら、さっさと他のところに行ってしまおう。

そう思って、部屋に足を踏み入れた。



〜〜〜



「お待たせしました、小町」
「いやいや、そんなに待ってないって」
「アンがソテーの分量を多くするかグラタンの分量を多くするかで迷ってたからね」
「だって、私的に、そこ重要なんだもん! どっちも美味しいでしょ!?」
「小町の歓迎会なんだから、迷わなくていいのよ。じゃあ、始めましょうか」

アンとメル、そして歓迎会を企画してくれた方たちが、次々に料理が盛られた皿をテーブルに載せていく。
あっという間に、テーブルの上は美味しそうな料理で埋め尽くされた。

「それじゃあ、みんな、グラス持って」

先ほどあたいたちの部屋に来た人が音頭を取り、あたいたちはオレンジジュースの入ったコップを手に取った。

「それでは、これより小野塚小町さんの歓迎会を行いまーす。根掘り葉掘り、いろいろ話を聞いて盛り上がりましょー。それじゃ、かんぱ、」

ガッシャーーーーーーン!!

!?

なんだ?

急に背後から、ものすごい音が聞こえた。
皿か何かを高いところから何枚も落としたような、そんな、すごく耳障りな音。
あたいはそちらの方を振り向いた。
そこは、食堂の入り口だった。

「もっ、申し訳ありませんっ!!」

一人のメイドさんが、ものすごい勢いで頭を下げた。
その人に、頭を下げられているのは、一人の女の子だった。

波がかった金の髪に、血のように赤い瞳。
その瞳と同じ赤い服と、赤いスカート。
昨日見た、レミリアお嬢様と同じくらいの、小さな小さな女の子だった。

赤い服は、料理のオレンジ色のソースにまみれ、出来の悪い模様のように見える。
どうやら、あのメイドさんが余所見か何かをしていて、あの女の子にぶつかり、料理をぶっかけてしまったようだった。

「い、妹様……」

隣にいたメルが呟いた。
目は見開かれ、こめかみを汗が滴った。
妹様……?
まさか、あの娘が……?

「あーあ、何してんの、アンタ。どうしてくれんのよ、これ」

女の子はソースでべとべとになった服を見下ろし、そして、メイドさんの顔を見上げた。
赤い瞳は無感情に見えた。しかし、あたいには分かった。
あれは、相当怒っている。無表情で覆い隠しているだけだ。

「す、すぐに代わりのお召し物を……!」
「そんなのどうでもいいの。私、今すごく気分が悪いの。こういう場合、どうしたらいいかな。どう思う?」

女の子はメイドさんに一歩近付いた。
ひっ、と息を飲んだメイドさんは、それに合わせるように一歩足を引いた。

「もっ……もうしわけ、ありませんでした……」
「それはさっき聞いたわ。私って二度言わないと分からないほどバカだと思われてるの?」

一歩、一歩。
近付いては下がり、近付いては下がり。それを繰り返す。
やがて、メイドさんは、大きな柱に背中をぶつけた。

「……出来の悪いメイドには、お仕置きしなきゃね」

女の子はゆっくりと右腕を上げた。

それを見た瞬間、あたいは弾かれるように席を立った。

「こ、小町っ?」

そして、みんなを残して走り出した。
メイドさんと、女の子のところへ。

「こ、小町っ! 待って!」

メルの制止を振り切った。
振り切らなければならなかった。
あの、手を振り上げた時の女の子の目。あれを見た瞬間、あたいは駆け出さずに入られなくなった。

あれは、命を奪う時の目だ。

見たことがある。
三途を渡りに来た、凶悪殺人犯。
川を渡っている最中に、あたいを絞め殺そうとしてきた。
そいつの目とおんなじだった。ぎらぎらしているくせに、瞳の奥は暗く淀んでいる。
女の子の目は、まさにそいつの目と同じ輝きを放っていた。

一歩ずつ、あたいは現場に駆け寄った。
もどかしかった。いつ爆発するか分からなかった。

そして、ようやく、あたいはそこに辿り着き、メイドさんを背にして女の子と向かい合った。

「ぇ……?」

背後から、息が漏れるのを聞いた。
急に目の前に誰かが立ちはだかったのだから、当然だろう。

「……誰、アンタ」

女の子が、片眉を吊り上げる。
あたいは、その目を真っ直ぐに見ながら、答えた。

「小野塚小町といいます。今日から、ここにご厄介になることになりました」

女の子は、ふうん、と興味がなさそうに息を漏らした。

「で? なんで、私の邪魔をするわけ?」
「あなたは、この人に何をするつもりでしたか?」
「は?」

問い返されるとは思っていなかったのだろう。みるみるうちに顔が険しくなっていく。

「なんで、そんなこと聞くのよ」
「あなたは、この人の命を奪うつもりではありませんでしたか?」
「……だから、なんなのよ、アンタは」

答えるつもりはないのか、あたいの質問には答えなかった。
だが、あたいはそれで確信した。この女の子は、このメイドさんの血を流させるつもりだったのだ。

「あなたに料理をかけてしまったのは、この人の責任です。それは責任を追及されなければなりません。でも、命を奪うのはやりすぎです。懲罰なら、なにか他の方法があるはずです」
「だから……」
「あなたにも、命はあるでしょう? その命はたった一つしかない。それが他人に奪われたら、あなたはどう感じますか? それと同じことを、あなたはこの人にしようとしたんですよ?」
「……」
「あなたは、きっと、賢い方です。ですから、もう一度、よく考えてみてください。命というものは、そんなに軽いものじゃない。簡単に奪っていいものではない。ましてや、ちょっとむかついたからとか、面白半分とかで扱っていいものじゃないんです! どうかお願いします! 先程のことは、どうか、水に流してください! お願いします!」

あたいは、思いっきり頭を下げた。膝小僧に額がぶつかるくらいにまで。

「…………」

女の子は答えなかった。
いつまで経っても返事をもらえなかった。

十秒、いや一分か、もしかしたら、もっと経ったかもしれない。

すっ、っと女の子の気配が遠ざかった。

そのまま、食堂の奥の方に向かい、消えた。

「……」

あたいは頭を上げた。

「…………はあ」

……許してもらえたのだろうか。
自信は無い。だけど、いま、この場で惨劇が起こることは回避できたようだった。

後ろから、ずるずる、という音が聞こえる。
そして、すすり泣く声が聞こえてきた。

「小町っ!」

声がしたほうを見遣る。
アンとメルが駆け寄ってくるところだった。

「だ、大丈夫だった!? 怪我してない!?」

アンはあたいの身体をさすって、確かめている。
そんなことをしなくても、あたいは何もされていない。

「……大丈夫だよ。痛いところなんかないって」
「バカ……あんた、妹様に向かって……」

後ろでは、メルが涙を流しているメイドさんをなだめていた。

「もう大丈夫ですよ……泣かないで下さい……」
「うぅ……うぅ……」

はあ、と溜め息をついて、天井を仰いだ。
食堂の喧騒はぴたりとやみ、いつまでも静寂に包まれていた。

























〜 2 〜


























(……ち、朝だよ……)

「……」

(うーん……ないね……よっか……)

「……」

(……実力行使? ……しかないかなー……)

「……」

(……じゃあ、いきまーす……)

「……」

「えいっ!!」

ぶわっ

「うわっ、寒っ!!」

急に体全体を、凄まじい冷気が包み込んだ。
あたいは跳ね起きて、身を縮こまらせた。ぶるりと背中を寒気が通り過ぎていく。

「あっ、起きたねー。おはよう、こまっち」
「……へ?」

下のほうを見ると、アンがニコニコしながら、こちらを見上げていた。
何故だか知らないが、あたいの掛け布団を両手に抱えている。

「おはようございます。もう、朝ですよ」

アンの後ろのほうには、メルがいた。布団の畳まれたベッドの上に座り、湯気の立っているマグカップを両手で持っている。
……状況がよく分からないのだが、とりあえず、アンに強制的に起こされたということだろうか。

「あー……朝?」
「そう、朝。そろそろ起きないと、朝ごはん終わっちゃうからね。緊急措置を取らせてもらったよ」

目をこすりながら、壁にかけてあった時計を見遣る。
六時五十分。
むう。早朝と言っても差し支えない。

「……何? メイドさんって、いつもこんなに朝早いの?」
「うん。お仕事いっぱいあるからね。朝ごはんは八時で終わっちゃうよ」

そうなのか。
じゃあ、そろそろ起きて顔を洗わないと、ゆっくり朝飯にありつけない。
船頭やってた頃は、いつも適当に、起きたいときに起きていたが、これからは毎朝早くに起きることになりそうだ。

「分かったよ。そんじゃ、起きようか。……よいしょっと」

あたいは手すりに手をかけ、ベッドから降りようと身を乗り出した。

「うわっ! こまっち! そこ二階、二階!」
「へっ? うわっ!!」
「うわぁっ!!」

ずるっ、べしゃっ

あたいは二段ベッドの上から転げ落ちた。
しまった。いつもと同じ癖で普通にベッドから降りようとしてしまった。

「だ、大丈夫ですか!? 二人とも!」

メルがこちらに駆け寄ってくる。
しかし、あたいはあまり痛さを感じなかった。というのも、

「ふみー……こまっち、酷いよー……」

掛け布団を持っていたアンを巻き込んで、その上に着地したからだった。

「あ、あはは、ごめんごめん。寝ぼけててさ」

頭をかきながら、あたいは尻に敷いていたアンに謝った。



春になったとはいえ、朝はいまだに冷え込んでいる。
ミニスカートの日勤用のメイド服で外を歩くと、さすがに寒さを感じずにはいられない。
メイドたちが寝所にしている宿舎は、紅魔館の北西にある。
お天道様は当然のことながら東から昇るので、無駄にでかい紅魔館の影になってしまい、日の光など宿舎にこれっぽっちも当たっていなかった。

「う〜、さむ……。まったく、春だっていうのにねぇ……」

息が白く染まりそうな中、あたいたち三人は紅魔館本館に向けて石畳を歩いていた。
前方にちらほらといたメイドさんたちが、その中に入っていくのが見える。

「夏場は涼しいからいいですけどね。やっぱりお日様の光が恋しいですね」
「は〜、さっさと中に入ろ? じっとしていると、余計に寒いし」

そそくさと、足早にあたいたちは紅魔館に続く扉に向かう。
早く、温かい飯にありつきたいものだった。



食堂は、相変わらず混雑していた。
夜勤組の夕食と同じ時間のようで、夜勤用のメイド服を着た人がたくさんいた。
つまり、紅魔館では一日に食事は、朝、昼、夜、深夜の四回作られるようだ。
炊事当番のメイドさんはどういうローテーションを組んでいるか知らないが、これだけの量のメイドさんの食事を作るのは相当な労力となりそうだった。

昨日と同じように、アンが席を取っている間、あたいとメルは食事を取りに行く。
紅魔館では、コッペパンは常食のようだ。しかも、いくら食べてもいいらしい。
あたいは普通の人より食う方だが、さすがに五個も六個も食わないので、とりあえず二個確保する。
メルがコーヒーを三つ用意し、あたいが持っているトレイに載せ、アンのところを目指した。

「お疲れさま〜。今回もたくさん取ってきたね〜」
「ていうか、席を取っておくのは楽そうでいいね。今度から、かわりばんこにしようよ」
「ええ〜、これはあたしの仕事だから嫌だよ〜」
「料理取りをアンに任せたら、自分の好きな物しか取ってきませんよ。私たちが行ったほうが栄養がバランスよく取れます」

あたいたちは席につくと、早速食べ始めた。
あたいはコーヒー、アンはパン、メルはスープと三者三様だった。こういうのは性格が出て面白い。

「あ、あの……」
「ん?」

急にあたいの後ろから声がしたので、コーヒーを啜りながら振り向いた。
そこには、一人のメイドさんがいた。あれ、どっかで見たことあるな……。

「あ、あなたは……どうですか、気分は落ち着きましたか?」

メルが優しく声をかける。
そうだ、思い出した。昨日、あたいが妹様からかばったメイドさんだ。

「ああ、おはよう。どうしたの?」
「い、いえ、ええと、あの……ありがとうございました……」
「へ?」

突然、礼を言われて、あたいは戸惑う。

「昨日、助けていただいたのに、お礼も言わずにいたものですから。あの、本当にありがとうございました」
「ああ、なんだ。いいよ、ただ単に勝手にかばっただけなんだから」
「あ、はい……それでは、失礼します」

メイドさんは、一礼して去っていってしまった。
その後ろ姿を見送り、あたいはテーブルに向き直る。

「別に、改めて礼に来なくてもよかったのに。律儀な人だね〜」
「あんた……まあ、仕方ないか。あんたは、妹様の怖さを知らないもんね」
「ん? 妹様の怖さって?」

あたいが聞き返すと、アンはきょろきょろと辺りを窺う仕草をして、少し声のトーンを抑えて話し始めた。

「あたしは見たことないから、噂でしか知らないけどね、もう何年も前に妹様を怒らせて、本当に殺されたメイドさんっているらしいんだよね」
「……」
「その時、妹様がどのくらい怒ったか知らないけどさ、昨日は料理をかけられて、けっこう怒ってたじゃない? 命を奪う気はなかったかもしれないけどさ、こまっちがあそこで止めなかったら、けっこうひどいことになってかもしれないね」

アンの言う通りだった。
昨日の妹様、フランドール様はあのメイドさんに何かひどいことをしようとしていたのは事実だ。
命を奪うつもりはなかったのかもしれない。だったら、あたいの早とちりだ。だから、フランドール様はバカらしくなって、あっさり引き下がってくれたのかもしれない。

まあ、それでも、服に料理をかけられたぐらいで怪我させるくらいの罰を与えるのは、あたいにとってはやりすぎだと思う。
だから、あの行為に関しては、あたいは後悔などしていなかった。

「……小町」
「ん? 何?」

メルが深刻そうな面持ちで声をかけてきた。

「……もしかしたら……お嬢様から何か呼び出しがかかるかもしれません。その時、あなたに何か懲罰が下る、ということもあるかもしれません」
「……」
「その時、私やアンには何もすることは出来ません。所詮、お嬢様に使える一メイドですから。お仕えする人の意思に逆らうことは出来ないんです」
「……」
「でも、私は、昨日の小町の行為は正しいことと思っています。ですから、お嬢様に何を聞かれたとしても、堂々と自分の意見を言ってください。きっと、小町の想いはお嬢様にも伝わると思います。……こんなことしか、言えない私を許してください。本当に無力で嫌になります……」

そう言うと、メルは顔を伏せてしまった。
あたいは、なんとも言えない気持ちになった。

「……うん、ありがとう、メル。まあ、その時はその時さ。あたいは、自分がやったことに後悔はしていないし、どんなことになっても悩んだりしない。大丈夫だよ」
「……はい」
「は〜、もしかしたら、これが二人と食べる最後の食事になるかもね。そう考えると、なんだか寂しいね〜」
「え〜、そんなこと言わないでよ。まだ、そうなるって決まったわけじゃないんだし。もっとポジティブに考えよ? ね?」
「年中ポジティブそうなアンに言われても、なんだか説得力がないね〜」
「むう、なんだよ〜。あたしだって心配してるんだからね〜」

むくれるアンに、あたいたちはようやく笑顔を取り戻した。
ま、さっきあたいも言った通り、なるようになれだ。もし解雇されても、後悔はしない。アンのようにポジティブに考えよう。

そんな感じで、朝食はつつがなく過ぎていった。
コッペパンの味は、昨日よりも美味しいような気がした。







人間の中には、仙人と呼ばれるやつがいるらしい。
極端に長寿で、百年程度しか生きられない人間でありながら、何百歳も生きることが可能な変なやつだ。
妖怪にとって、その仙人の肉は非常にうまいらしく、常に狙われ続ける災難なやつでもある。
しかも、地獄から百年単位で敵が送られてくる。つまり、常に自分自身を鍛え続けていないとあっという間に敵にやられてしまうのだ。

そういうやつらは常に修行を怠らず、日々己と向き合っている。
剣の達人とかと同じように、背後から襲い掛かっても、いとも簡単にいなしてしまうのだろう。
想像でしかないのだが、妖怪よりも妖怪じみた輩である。

で、何が言いたいのかというと。
あたいは、今、背後から何者かの気配を感じ取っている。

「……」

あたいはしがない妖怪である。
仙人ではない。
達人でもない。
でも、なんとなく、背後に気配を感じるのである。

「……」

振り向いてみる。
……誰もいない。
……思い過ごしなのだろうか。それとも、疲れているのか?

「……」

今度は素早く振り向いてみる。
……やはり、誰もいない。
ここまで気にする必要もないように思えてきた。
ていうか、アホらしくなってきた。

「? どうしましたか、小町?」

小首をかしげているあたいに気付いたのか、メルが声をかけてくる。
話してみるべきなのだろうか。
いや、その前に、あたいの頭が疑われるような気がする。まだボケ老人に間違われたくはない。メルにそんな目で見られたら切腹するかもしれない。
うむ、やはり、ここは気にしないのが一番なのだ。
こういう場合、何か起こってしまってからでは遅いのだ。先程の仙人ではないが、いなすのが一番いい方法なのだ。

「いや、なんでもないよ。じゃあ、また始めよっか」

掃除道具を動かす作業を再開する。
あー、忙しい。変な気配になど構っている暇などない。そうそう、気のせいにしてしまうのが一番なのだ。

「あー、今日もいい天気だねー。ようやくお天道様が当たってきたねー」
「そうですねー、ぽかぽかしてて気持ちいいですねー」

メルと平和に会話をしながら、廊下掃除に没頭する。
ガラス越しの日光を左半身に受けながら、あたいはせっせと道具を前後させた。

「あら、やってるわね」

右に枝分かれしている廊下の方から声がした。
そちらの方を見ると、咲夜メイド長がこちらにやってくるところだった。

「あ、メイド長。おはようございます」
「おはようございます」
「あー! メイド長ー! おはようございまーす!」

向こうでガラスを拭いていたアンが手を振っている。さすがファンクラブ会員だ。
メイド長は微笑みながら小さく手を振り返す。うーむ、仕草が瀟洒だ。

「どうかしら? ここの仕事や生活とかには慣れた?」
「ええ、アンとメルのおかげです。楽しく働かせてもらってます」
「そう、それは良かったわ……それはそうと……」

そこまで言って、メイド長は腕を組んで右手を顎に当てる。

「昨日、早速何かやらかしたようね」
「へ? 昨日? ……あ」

昨日、あたいがやらかした事と言えば、あれしか思いつかない。

「え、ええと……お耳が早いですね?」
「メイド長のところには、情報がいろいろ入ってくるのよ。まったく……初日から問題が起こるとは思わなかったわ」
「あ、あの、やっぱり何か問題に?」

恐る恐る聞いてみる。

「いえ、とりあえず、妹様からは何も苦情が出てないし、いまは保留、その後で不問にします」
「あ、そうですか……」
「一方的にあなたが悪いというわけではなかったみたいだしね。でも、これはあなたがメイドになりたてだから、という特別処置よ。メイドは、常にお嬢様方が優先。その命令は絶対よ。今後は気をつけるように」

ピッ、と右人差し指を立てて注意するメイド長。不謹慎ながら、ハマってるなぁと思った。

「ん……? あら」
「はい?」

メイド長は、何かに気付いたらしかった。
あたいの後ろか? とりあえず振り向いてみる。
……やはり、何もない。しかし、メイド長は、何かを発見したようだった。

「噂をすれば影、ね。あんなところで、どうしたのかしら」

メイド長は、あたいの後ろの廊下のほうに歩いて行く。

「あなたたちは掃除に戻りなさい」
「あ、はい」

そういい残し、メイド長は廊下の奥の方に向かった。
その先には、曲がり角がいくつもあり、メイド長はその一本を覗き込んだ。

……誰かいたのだろう。何か話している。
やっぱり、あたいが感じていた気配は気のせいではなかったのか?

しばらく、メイド長のほうを見ていると、急にこちらを振り返った。
……? 何だ?
メイド長は、何度か頷きながら話を聞いているようだ。そして、時折、こちらを振り返っている。

一分くらい、誰かと話していただろうか。

「ちょっと、小町!」

メイド長がそう声を上げ、こちらに手をまねいた。
……は? あたい?

「小町、メイド長が呼んでますよ」

メルの声を受け、ようやく、あたいがメイド長からご指名があったのに気がついた。
慌てて、そちらの方に向かう。
なんだ? あたいに用などちょっと思いつかないが。

メイド長は廊下のT字路の中心に立っている。
先ほど話していたらしい人は、おそらくメイド長の横に隠れているのだろう。
その人と関係があるのか?

まあ、推測を並べ立てても答えは出ない。さっさとメイド長に話を聞くのが手っ取り早い。
あたいは、小走りにメイド長の近くに寄っていった。

「はい、なんですか? メイド長。何か、御用でも、」

そこまで言って、あたいは固まった。

「あ……え……?」

なぜなら、メイド長の横にいたお人の顔を見たからだ。

「ちょっと、お話があるそうよ。聞いて差し上げなさい。これで、宜しいですか? 妹様」
「……うん」

波がかったきれいな金の髪。
血を思わせる紅の洋服。
宝石を吊るしたような歪な両翼。
そして、赤い瞳。
紛うことはなかった。

「それじゃあ、私は他の仕事がありますので。小町、粗相の無いようにね」

そう言うと、メイド長は廊下の向こう側に歩きさってしまった。

「……」

残される、あたいと……妹様、フランドール様。
え……? どうしろっていうの……?

「……なに? なんか不満?」

フランドール様は上目遣いにあたいを見つめた。
その仕草が妙に子供っぽくて、あたいはちょっと目を丸くした。

「あ、いえいえ、そんなことはありません。……えーと……何か御用ですか?」
「……」

フランドール様は、上目遣いをしたり、横を見たり、忙しなく視線を動かしている。
何か言いたげな、そんな雰囲気は伝わるのだが、何を聞きたいのか知らないあたいにはどうしようもない。
フランドール様のお言葉を待つ他はなかった。

「……ちょっと来て。ここは人が多い」

そう言って、フランドール様は背を向けて歩き出した。
え? いや、人っていっても、遥か向こうにメルがいるくらいだけど。
いや、まあ、ここは妹君に合わせよう。なんといっても、今のあたいの立場は紅魔館のメイドなのだ。ご主人には服従しなければならない。

フランドール様は早足に廊下を行く。
でも、あたいの方が歩幅があるので、すぐに追いつくことが出来た。

すると、フランドール様はさらに足を加速させた。
え? いや、そんなに急がなくても。

あたいは懸命に後についていく。
いつの間にか、辺りはあたいの知らない景色が広がっていた。



五分ほど歩いただろうか。
フランドール様は、一つの扉の前に立った。
何の扉なのか、もちろん知らなかった。しかし、扉のそばの窓には外の景色が広がっていたので、とりあえず、外へ通じる扉には間違いなかった。
フランドール様は、その扉を開け放った。
すると、そこは回廊だった。
暗緑石だろうか、その石が細長いドーム状になっており、ずっと奥に続いている。

フランドール様は、その回廊の方に足を踏み出す。あたいもそれに続いた。
回廊には小さな窓が取り付けられてあり、そこから紅魔館の外の風景が見渡せる。
空はよく晴れていて、まさに、吸血鬼には最悪の日和。
でも、この回廊は日光が入ってこないように工夫がされているらしいことが分かった。お天道様は、ちょうど、この回廊の天井の上を通って山に沈むのだろう。
だから、ここは館の中に相違ない。フランドール様はそのことを知っているからこそ、あんなに迷い無く歩いているのだ。

やがて、回廊の向こうに広がっている円形の空間が現れた。
石造りのテーブルに、それを囲うようにドーナツ状の椅子が取り付けられている。
壁にはいくつか窓がついており、外の景色が切り取られていた。
なんだか、ちょっとした隠れ家的な雰囲気だった。確かに、誰にも聞かれずに話をするにはもってこいのようだ。

フランドール様は、テーブルの奥の方に行き、ちょこんと椅子に座った。
えーと……あたいも座っていいのかな?

「なに、突っ立ってんの。アンタも座んなさいよ」
「あ、はい」

座る許可をもらって、あたいはフランドール様の横に腰掛けた。

「あの…………それで、お話というのは……?」

当たり障りの無い声色で、あたいは切り出した。

「……」

フランドール様は、横目でじっとあたいを見つめている。
その視線が睨むような感じだったので、あたいはちょっとたじろいだ。

すると、フランドール様は急にテーブルに目を落とした。
何かを考えている様子だった。

「……なんで……」
「え?」

ぽつりと一言、フランドール様は言った。

「なんで、あの時、アンタは飛び出してきたの?」

へ? あの時……?
あの時というのは……おそらく、昨日の夕食の?

「ああ……昨日の夕食の時ですか?」
「……そうよ」
「……」

そうか。ついに、フランドール様が、あたいの処分を決定したということか。
思えば、さっきフランドール様の姿を見たときから覚悟しておくべきだったのか。
朝食でメルが言った。お嬢様から呼び出しを受けるかもしれないと。
それは、暗にあたいが解雇されるかもしれない、と言っているのと同じだ。昨日、主人の妹であるフランドール様に意見し、一方的に頭を下げたこと。それは、メイドとしてはあってはならないものなのかもしれないのだから。

「……昨日、フランドール様には大変な失礼をいたしました。新参者とはいえ、主人のあなたに口答えをしてしまいましたから。まだ、謝罪しておりませんでしたね。……申し訳ありませんでした」

あたいは、その場で深々と頭を下げた。

「そ、そんなことはどうでもいいのよ。私が聞きたいのは、なんで、アンタはあの時、あのメイドをかばったりしたのか、そこが聞きたいのよ」
「え?」

頭を上げ、フランドール様の顔を見る。
なんだか、慌てているような顔つきだった。

「……特に理由はありませんが。強いていえば、あなた様があの人を傷つけようとしていた。だから、助けたかった。それが理由です」
「……それだけ?」
「まあ……そうですね」

フランドール様は、また俯いて考え込んだ。

「アンタは、私のことを知らないの?」
「……知らないの、とは?」
「私の噂とか何でもいいから、知らなかったのか、ってことよ。新参者でも、私のことは噂ぐらいにはなっていたんでしょ?」

……それは、レミリアお嬢様の妹君で、恐ろしい力と性格をしているというものだろうか。

「その噂を知っていながら、アンタは私の前に立って抗弁した。そう思っていいのね?」
「……はい。そうです」
「なんで? 私が怖くなかったの? 殺されたかもしれないんだよ。それでもよかったって訳?」
「怖い、ですか?」

フランドール様の問いに、あたいはちょっと考えてから、答えた。

「いえ、怖くはないですね」
「は…………?」

その時のフランドール様のお顔は、後にして思えば写真にでもとって収めておきたいくらいだった。
ぽかーんと口を開き、あたいを天然記念物か何かのように見つめていた。

「な、なんで……?」
「なんで、と言われましても。噂は噂ですから。あたいがその目で見たわけじゃありません。もしかしたら、もの凄く良い人かもしれないじゃないですか。噂は、たいていが尾ひれがついて広まるものですからね」
「……」
「それにですね、フランドール様は悪い方じゃありませんよ。あたいはそう思います」
「へ?」
「だって、昨日はあたいが頭を下げたのを許してくださったじゃありませんか。本当の暴君なら、あの時、問答無用で、あたいごと吹き飛ばしていたはずです。あたいの話を聞いてくださったということは、あなたにちゃんとした理性があるということです。話せば分かってくれる。そのことを、あたいは昨日の時点で知りました」
「……」
「だから、あたいはフランドール様のことを恐ろしいとは思わなくなりました。まあ、噂の時点では、おっかない人なんだろうなぁと思ってはいましたが、それも昨日までです。あなたは仕えるに値する、優しい心を持った人なんだと思いました」
「や、優しい……?」

目をぱちくりとさせて、あたいの話を聞いているフランドール様。
そんなに驚くことだろうか。あたいは思うまま言っているに過ぎないのだが。

「まあ、昨日今日会っただけでは、深いところまでは分かりませんが。パッと見でそう思っただけです。ご気分を害されたのなら申し訳ありません」
「う、ううん……いいんだけど……」

フランドール様は、そわそわと落ちつかなげに指をいじくっている。
むう、なんか、あたい変なことでも言っただろうか。今日のフランドール様は、なんだかおかしい。
いや、まだ二日しか会っちゃいないけど。

やがて、フランドール様はあたいの方を見上げるようにして視線を投げた。

「……アンタは、“妹様”って呼ばないのね」
「へ? あ、いえ、そう呼ぶべきなら、そうお呼びしますが」
「ううん、いいの。アンタの好きなように呼んで。私の名前はフランドールよ。覚えておいて」

そう言うと、フランドール様はぴょんと椅子を降り、回廊の出口に向かった。

「引き止めて悪かったわね。仕事に戻っていいわよ。それじゃね」
「あ、フランドール様」
「ん?」

フランドール様は不思議そうな顔で振り返る。
あたいも、なぜ引き止めたのか分からなかった。なんとなく、そうしなければならないような気がしたのだ。

「なにかしら? もう私は話すことは話したわよ?」
「ええと、ですね。もし、またお話をなさりたいなら、あたいの宿舎にいらしてください」
「え……?」

何でだろう。従者が主人に向けて、話したければ自分のところに来いと言う。それは、明らかに異常な発言だ。

でも、あたいは、このフランドール・スカーレットという女の子ともっと話してみたいと思ったのだ。
このまま別れるのは惜しい。その気持ちから、あたいはフランドール様を引き止めたのだと思う。

「北館の108号室です。夜にはそこにいると思いますから、何かありましたら、いらしてください」
「……」
「あ、もちろん、ご気分が優れないようなら、無理をなさらないで下さい。あたいはいつでもお待ちしてますから」
「……ん、分かったわ。覚えとく。それじゃあね」

踵を返し、フランドール様は回廊の奥の方に消えていった。

「……」

あたいは、天井を仰いだ。
フランドール・スカーレット。あの女の子は、いったいどんな娘なのだろう。

紅魔館のメイドたち、アンやメルも例外なく、フランドール様には怯えていたような気がする。
そんなに怖いのだろうか。昨日会ったレミリア様も、外見だけなら可愛いものだった。フランドール様も、負けず劣らずの愛らしい女の子だった。
過去に命を奪ったことがある、とも聞いたけど、それはあくまで噂でしかない。何かフランドール様が事故を起こして、その場にいたメイドが巻き込まれた、ということは充分考えられる。

なぜ、この館では、フランドール・スカーレットという少女を忌避するのだろう。新参者ゆえの浅はかさなのか、あたいにはどうしても腑に落ちなかった。
溜め息をつく。
そして、しばらく、あたいはとめどない思考に身を任せ、天井を見つめ続けていた。







ガラス戸の外は闇に沈み、紅魔館本館から漏れる淡い光が、ちらほら踊るだけだった。
空には星が瞬いて、紅魔館の壁面をぼんやりと照らし出していた。

「ああ〜、いい湯だった。まったく、風呂まで用意されているとは、至れり尽くせりだね〜」
「ふふ、一人で暮らしていると、全て自分で用意しなければならないですからね。管理人さんには、感謝しないと」

あたいとメルは、まだ湿気の残る髪を拭きながら、宿舎の廊下を歩いていた。
本日のお勤めは全て終わり、ひとっ風呂浴びてきたばかりなのだ。

宿舎の風呂は、さすが大人数が住むだけあって、さぞかし広いだろうと予想していた。
その通り、白玉楼の大風呂に匹敵するだけの浴槽が完備されていた。風呂が好きなあたいとしては、とてもありがたいものだった。

「従者っていったら、なんとなく、生活とかみみっちい感じがしたんだけど、そんなことないね。むしろ快適なくらいだ」
「いえ、今のような生活体制になったのは、本当につい最近なんですよ」
「へ? どういうこと?」
「お風呂も、今よりもずっと小さかったらしいですし、食事もそれほど美味しい物は出ていなかったそうなんです。仕事もきついものだったらしいですし」
「ほう、じゃあ、なんで今は楽になったってわけ?」
「咲夜メイド長が、メイド長に就任したからです。メイド長は、就任当初から、メイドの生活環境の改善をお嬢様に訴えてこられまして。かなり大掛かりな改革に踏み切ったそうなんです。宿舎の整備や、食事の改善、勤務スケジュールの見直しなど、大幅な刷新が行われました。おかげで、紅魔館のメイドたちは、とても働きやすくなったそうですよ」
「へー、そうなの。昔から、こんな感じじゃなかったんだ」
「私も、改革が行われた後にここに入りましたから、当時のことは分かりませんが、メイド長は並々ならない努力をなされたんでしょうね。私たちが笑顔で働けるのも、咲夜メイド長がいたからなんだと思います」

なるほど。さすがは人間の身で、悪魔の館、紅魔館のメイド長のポストに就いているだけある。管理職の才能があったということなのだろう。
だとしたら、あたいはメイド長に感謝しなければならない。あと数年、ここで働くのが早かったら、とんでもない激務の中に放り込まれていたかもしれないのだから。

「まったく、メイド長様様だね。ファンクラブが二つも三つもあるのも頷けるよ」
「あら、小町はメイド長のファンクラブに入るつもりですか? 私たちはいつでも歓迎ですよ?」

ころころと笑い、さりげなく勧誘をしてくるメル。
あはは、とあたいは笑って流した。

一階の廊下をしばらく歩くと、あたいたちの部屋が見えてくる。
角部屋は、外に出るにも、風呂に行くにも、一番遠いところにあるから不便だとあたいは感じている。まあ、文句を言っても仕方はないが。
部屋に着き、ノブを捻る。
ドアを開けると、中にはすでにアンがいた。

「おっ、お帰り〜。準備できてるよ〜」

テーブルの上には、三本のボトルが直立しており、その中心にはクッキーっぽいお菓子が用意されていた。

「あらあら、しっかり準備していたのね。早めにお風呂を上がったのは、このためだったのね」
「まあね〜。こまっちの歓迎会って、なんだか変な風に終わっちゃったし、ここでちゃんとやり直そうと思ってさ」

アンは、あたいたちが部屋に入ってきたと同時に、ボトルの栓を栓抜きで抜き始めた。
ワインのようだった。ほほう、紅魔館のワインか。きっと年代物で高い物に違いない。

「ていうか、さりげにアンは酒持ってきてるけどさ、いいわけ? ここで酒を飲んでも」
「ん? 基本的にはダメだよ〜」
「げ、じゃあ、やばいんじゃないの?」
「食堂係に仲のいい娘がいてさ。その娘から、たま〜にお酒を拝借してくるの。メイド長とかにバレるとお仕置きされるから、内緒にしとかないとダメだよ」

そ知らぬ顔で、コルクを引っ張るアン。ポンッ、という景気のいい音と共に栓が抜ける。

「まあまあ、今日は無礼講ということで。さ、小町は奥の席にどうぞ」

普段は大人しいメルまで乗り気だ。
ふむ、まあ、こういう場合はノリを大事にするのがいいのだろう。あたいは割り切り、奥の上座の席に座った。

アンは栓を抜いたワインを、マグカップに注いでいる。
ワイングラスなんて気の利いたものはないから、仕方がない。

「ほんじゃ、始めるよ〜。新入り、小野塚小町の歓迎会を開催しま〜す。二人とも、カップ持って」

アンの声に合わせ、あたいとメルはカップを持った。

「それじゃ、かんぱ、」

がちゃっ

アンの声は、ドアを開ける音に遮られた。
あたいら三人は、一斉にドアの方を向く。
そこにいたお人の姿を認めて、あたいは微笑んだ。

「ああ〜、来てくださったんですね! ささ、入ってください。今、ちょうど宴会の真っ最中でしてね。これから、盛り上がるところだったんですよ」

あたいは席を立ち、ドアの方に向かう。
そこに突っ立っていたお人を中に誘う。恐る恐る、といった感じで、部屋の中に足を踏み入れてきた。

「……狭い部屋。こんなところで暮らしているのね」
「まあまあ、そう言わないで下さい。フランドール様が暮らしているような豪華さは、従者には不要ですからね」

そう言って、あたいはフランドール様に、先ほどまで自分が座っていた椅子を勧めた。
あたいは、その真向かいの椅子に座る。新しくマグカップを取り出して、その中にワインを注いだ。

「はい、どうぞ。あ、ワインはお好きですか?」
「……大丈夫。少しは飲めるわ」
「そうですか、よかったです…………ん?」

ここでようやく、あたいは気付いた。
アンとメルが、カップを持ったまま、口をぽかんと開けたまま固まっていたのだ。
まるで、よく出来た蝋人形のように。

「二人とも何してんの。だるまさんがころんだ、やってるんじゃないよ」
「……」
「……」

あたいがそう呼びかけても、二人は微動だにしなかった。
瞬きすらしていない。普通に怖かった。

「……私が急に入ってきたから、驚いているんじゃない?」
「そうなんですか?」
「基本的に、というか、私は一度もここに来たことがなかったもの。驚くのも無理ないわ」
「はっ」

ようやく、アンが目覚めた。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、こまっちっ!」

そう言って、あたいの首に巻きついてくる。

(どどどどどどどどどどどどうして、妹様がここに来んのよ!!)
(どうしてって……あたいが呼んだからだよ)
(はあっ!? あんた頭大丈夫!? まさか自殺志願なんて危ない考え持ってないよね!?)
(何そんなに慌ててんの。大丈夫だって。あたいは正気だよ)
(ならなんで妹様を部屋に呼ぶのよー!!)
「何を話しているの? 私にも聞かせてよ」

フランドール様が小首を傾げて不思議そうに聞いてくる。
わ、可愛い。こうやって見ると、やっぱり外見相応のかわいらしさが滲み出てくる。

「いや、なんでもないですよ。このアンが最近お通じで悩んでいるんです」
「ば、ばかっ、あたしは毎日快調だっての!」
「……下品。そういう話はよそでやってよね」

フランドール様は少し顔をしかめた後、マグカップを少し傾けた。

「……え……えーと……妹様? お聞きしてよろしいですか?」

アンに続いて立ち直ったらしいメルが、フランドール様に話しかけた。
やや、腰が引けている。

「何?」
「な、何故に、ここに? な、何か御用でも?」
「別に理由なんてないわ。そこにいるメイドが、暇になったら遊びに来いって言ったから寄ってみただけよ」
「え、小町が?」

メルはあたいの顔を、信じられないような、呆れたような、複雑な表情で見つめてきた。
いや、そんな顔をされるのは、なんだか心外なのだが……。

「でも、今日から来てくださるとは感激ですよ。もしかしたら、来てくださらないかと思っていましたから」
「ちょ、ちょっと、興味があっただけよ。えーと……メイドたちってどんな生活しているのかなーって」
「そうですかー。まあ、見ての通りみみっちい部屋で暮らしてますが。でも今夜は自分の部屋だと思って過ごしてくださいね!」

あ、そう言えば、乾杯の音頭がまだだったな。
アンはまだあたふたしているようだし、代わりにあたいがやってやろう。
席を立ち、ワインが並々と注がれたマグカップを手に取る。

「それでは、不詳小野塚小町が乾杯の音頭を取らせてもらいます! ほらほら、二人ともカップ持って。じゃ、あたいの歓迎会、兼、フランドール様の初訪問を記念して、乾杯!」

「か、かんぱい」
「かんぱい……」
「……乾杯」

打ち合わせたカップの音色は、どことなく不揃いだった。
でも、あたいは踊りだしたくなるくらい嬉しかった。



「そんじゃあ、軽く自己紹介しましょうか。フランドール様は、あたいたちの名前、ご存じないでしょう?」
「え、いいわよ、そんなの。メイドの名前なんて、覚えてらんないわ」
「まあまあ、そんなこと言わずに。あたいは、小野塚小町って言います。小町って呼んでください。まだここに来て二日目の新参者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「う、うん……よろしくね」
「ほらっ、次はアンとメルだよ。ちゃっちゃとやって」
「え、ええ……あの、私は、メアリー・トンプソンといいます。みんなからはメル、と呼ばれています。どうぞ、よろしくお願いします……」
「え、えーと、あたしは、アンナ・ワイズネス。アン、って呼ばれてます。よ、よろしくお願いします……」

まだ、ガチガチに緊張している様子のアンとメルは、何とか自己紹介を終えた。
つーか、そんなに緊張しなくていいのに。アンなんか、いつものノリで喋っていればいいのだ。

「小町と、メルと、アン、ね。うん、覚えておくわ」
「こ、光栄です」
「ど、どうも」
「それじゃあ、私も自己紹介したほうがいいかしら?」
「「え?」」

アンとメルの声が重なった。

「い、いえ、改めてお名前を教えていただかなくても、存じておりますから、」
「あ、そうですね。どうぞ、よろしくお願いします」

あたいがそう言った途端、二人はギョッ、となって、アンがまたあたいの首に巻きついてきた。

(バ、バカッ!! あんた、妹様に名乗らせんの!? んなことしなくても分かりきってるでしょうが!!)
(なんで……? したいならさせてあげればいいじゃん。減るもんじゃなし)
(あー!! アンタはなんで、そう……!)
「ねぇ、自己紹介していい? ちょっとやってみたいから」

フランドール様は、人差し指を下唇に当てて上目遣いでこちらを見ていた。
うわぁ……可愛い。思わず顔がほころんでしまう。

「いえいえ、失礼しました。さぁ、どうぞ」
「う、うん。ええと、私はフランドール・スカーレット。ここの当主のレミリア・スカーレットの妹で……えっと、フランって呼ばれてます。よろしくっ」

少し顔を赤らめながら、自己紹介を終え、席につくフランドール様。
それに、あたいは拍手をする。アンとメルも、ぎこちなく、顔を引きつらせながらも拍手を送った。

「どうも、ありがとうございました。フランドール様の愛称は、フラン、って言うんですか?」
「あ、うん。お姉さまにはそう呼ばれているの。……お姉さまだけだけど」
「ああ、それなら、あたいたちもお呼びしましょうか?」
「「「え?」」」

今度は三人の声が重なった。

「フランドール様、だと少し長いですから。フラン様って、呼ぶとなんだか親しみが持てて、あたいは好きですね」
「そ、そうですね。ど、どうですか、妹様。私たち、そうお呼びしてもよろしいですか?」
「……」

なんとか、会話についていったメルが、フランドール様の背中を押した。

「……うん、いいよ。そう呼んで」
「やった! じゃあ、これからはフラン様ってお呼びしますね! どうぞ、よろしくお願いします!」
「……うん、よろしくね」

フラン様は、ここで初めて、笑顔を見せた。

「……」
「……」
「……ん、どうしたの、二人とも。なんか、フラン様の顔についてる?」
「え、ほんとに?」

慌てて顔をまさぐるフラン様に、アンが答えた。

「あ、いやいや、妹さ、じゃなかった、フラン様の笑った顔って、初めて見たものですから、ちょっと驚いて……」
「え、笑った顔?」

フラン様は驚いているようだった。
それに、メルが続ける。

「あ、はい。いつも通路で行き会って一礼するだけでしたし。パーティーはいつもご参加なさらなかったようですから……ご表情をうかがう機会がありませんでしたし……」
「……」

そうだったのか。フラン様は、あまりメイドの前に姿を現す機会がなかったのか。
それならば、アンとメルがフラン様を怖がるのも納得がいく。
怖い、というのは、得体がしれない、というのと同義だ。正体の分からないものに対して、みんな恐怖を抱くのだ。
それに、フラン様には、ただでさえマイナスのイメージが張り付いている。それが一人歩きして、メイドたちはみんなフラン様に恐怖しているのだと、あたいは思った。

「ねぇ、アンとメルは、私のこと、怖い?」
「「え?」」

急に、フラン様が疑問を振った。
あたいの思考を読んだかのように。

「え、ええと……そんなことは……」
「怖かったんでしょ?」

二人は、二人の代わりに答えたあたいの方を振り返った。

「バ、バカッ、そんなわけないじゃ……」
「でも、今はどうだい?」

あたいは、ニヤ、と笑って、そう言ってやった。

「……」
「……」
「ね? 言われてみると、そんなに怖いもんじゃないでしょ。どうして、今までフラン様を怖がってたんだい? こーんなに可愛らしいのに」

あたいの言葉に、頬を染めて俯いて照れている様子のフラン様。
それは、ちょっと内気な、普通の女の子と同じ反応だった。

「……小町は、変だね」
「へ? あたい、変ですか?」

フラン様に変と言われると、ちょっとショックだった。

「うん、変だよ。不思議、っていう意味。私のこと、みんな怖がっているのに、小町だけは怖がらないんだもん。変で変で呆れちゃうくらい」

そんなに変って連呼されるとちょっと凹む。

「いえ、あたいは自分の考えに沿って行動しているだけです。お昼にもお話した通り、あたいはフラン様を悪い人だとは思っていません。その証拠に、あたいは、いま生きています。逆らったら問答無用で殺すような人だったら、あたいは昨日、木っ端微塵だったでしょう。フラン様は、あたいの声に耳を傾け、そして許してくださった。だから、あたいはフラン様をお慕いしているんです。……お分かりですか?」
「……」
「ここにいるメイドのほとんどは、一人歩きしている噂に怯えているんです。アンやメルもそうだよ。フラン様は、確かに恐ろしい力を持っているかもしれない。だけど、それを押さえつけるだけの理性も持っているんだよ。それは、昨日の時点で証明済みだ。もう、怖がるのはやめにしたらどうだい?」

あたいは、二人を交互に見遣った。
この娘たちには分かって欲しかった。フラン様は、どこにでもいる、一人の女の子だっていうことを。
そりゃ、紅魔館の主の妹として、限度は弁えなければならないが、それでも怖がる必要などまったくない。
ちょっと背の低い目上の人に接するようにすれば、何の問題もないのだ。

「あ……」

と、フラン様がかすかに声を上げた。

「ん? どうしましたか? フラン様」
「これ……」

フラン様が指差していたのは、テーブルの隅っこに置かれてあった青色のブローチだった。
部屋の光を反射させ、キラキラと輝いている。
あたいは手のひらにそれを載せ、フラン様の前に差し出した。

「これですか? どうかしましたか、これが?」
「きれい……いいなあ……」

フラン様はあたいの手からブローチを取り上げ、しげしげと見つめた。
わずかに微笑を湛えながら、大切な宝物であるかのように。

「フラン様、このブローチ、気に入りましたか?」
「う、うん、とっても素敵……こんなの見たことない」
「じゃあ、差し上げますよ」
「え……」

フラン様の目がこちらを向き、思いがけないという風に広がった。

「い、いいの……?」
「ええ、それはあたいがアンに貰ったものですから。いいよね、アン?」
「あ、ああ、ええっと……うん、よろしいですよ。そんなの、たくさん作れますから、どんどん持ってっちゃって下さい」
「え……? これって、アンタが作ったの?」
「あ、はい。恥ずかしながら……」
「……」

フラン様は信じられない、という顔つきで、ブローチとアンの顔を交互に見ていた。
どうやら、よっぽど驚いたらしい。そりゃそうだ。あたいもこのブローチを見たときは、大したもんだとアンを見直したのだ。

そして、その時、あたいは思いついたのだ。

「あっ、そうだ!」

これはいい。きっとあたいたちにとってもフラン様にとっても、いいアイディアに違いなかった。

「アン。このブローチって、誰にでも作れるんだよね?」
「へ? あ、うん。基本さえ掴めば、誰でも簡単に出来るよ」
「じゃあ、どうですか、フラン様。アンにブローチ作りを教わってみたら」
「え?」

その提案は、本当に思いがけないことだったのだろう。
フラン様はあたいの顔を、目をぱちくりさせながら見ていた。

「どうですか? フラン様が自分のお好きなブローチを自分で作ることができるんですよ? ちょっと面白そうだと思いません?」
「う、うん……」
「ここにいらっしゃれば、いつでも好きなときにブローチを作ることができますから! あ、でも真夜中は勘弁してくださいね。今日と同じ時間にいらっしゃれば、あたいたちはいつでもオッケーですから!」

あたいは早口でまくし立てる。
なんとしても、フラン様をこの部屋に連れてきたい。その一心だった。

「……」
「ど、どうですか?」
「……………………うん」

かすかに、頷いてくれた。

「い、いいかな、アン……だっけ。お願いできる?」

そして、フラン様はブローチを両手で握り締め、上目遣いでアンの方を見た。

「え……ええ! いいですとも! 任して下さい! フラン様を一流のアーティストに育てて見せますよ!」

こんな顔をされて断れるやつなどいないだろう。アンも例外ではなかった。

その夜、ささやかに一つの約束がされたことを、まだ誰も知らなかった。
そして、これが始まりだったということも、あたいさえもまだ知ることは出来ないでいたのだった。



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