〜 5 〜



























その空間は、確かに自分がそこにいるということを忘れさせてしまう。
そびえ立つ本棚は、果てしなく高く、真っ暗な闇に突き刺さっているかのごとき様相を呈す。
まるで、その部屋に入った瞬間に、自分の縮尺は大きく下がり、小人にでもなってしまったのではないか。
そう錯覚させる威容が、そこにはあった。

紅魔館の地下深く、膨大な蔵書を誇る図書館は、訪れる者はそうはいない。
知識と魔法を探求する者だけに許された聖域。そんな信仰も似た感情が、紅魔館の住人には存在していた。

そして、今、その部屋に一人の少女が入り込んできた。
金の髪に赤い服。背中から突き出たツタを思わせる両翼に、宝石のような羽がぶら下がっている。
少女は、その異様な空間にまったく物怖じせず、しっかりとした足取りで奥に、奥に進んでいく。
本棚の並木は彼女を阻むこともせず、ただ、その行く末を見守るのみだった。

やがて、並木は途切れ、そこにポッカリと空いた空間が出来た。
本棚が円形に配置され、少女を見下ろすかのようにそびえている。
その空間の中心に、本が乱雑に積まれた机があった。
そして、その向こう。机に詰まれた本に隠れるように、紫の髪の少女が椅子にもたれ、静かに本を読んでいた。

「あ、パチュリー、こんにちは」

少女は、椅子にもたれていた少女、パチュリーに声をかける。
ついと、何気ない動作で、眠そうな瞳を向けるパチュリー。
感情の一つも出さず、彼女は少女を迎え入れた。

「珍しいですね。妹様が図書をお求めになるとは」
「うん、ちょっと調べたいことがあってさ。魔道書ってどこにあるかな?」

少女は、机に手をついてパチュリーに問いかける。
パチュリーは即座に応じた。

「C列の千番台に、基本的なものはほとんど揃ってあります。そこから探すと良いでしょう」
「あ、そう。うん、ありがと」

少女はパチュリーにお礼を言い、踵を返した。
しかし、一旦立ち止まる。

「あ、そうだ、パチュリー」

パチュリーは、すでに読んでいた本に目線を落としていた。そのまま応じる。

「……なんでしょうか」
「パチュリーはプレゼントを贈るとしたら、どんな物を贈る?」

パチュリーは、視線を少女に送る。

「唐突ですね。それを聞いてどうなさるおつもりです?」
「ううん、難しいことじゃないの。ただ、参考に聞かせてもらえればなあと思って」

笑顔を浮かべた少女の顔を見て、パチュリーは虚空に視線を投げる。
黙考の時間は短かった。

「……贈る相手にもよりますが。その人が贈られて嬉しい物が一番良いでしょうね」
「うーん、そうよね。一体どんな物が喜んでくれるかなぁ」
「しかし、一番大切なことがあります」
「え?」

腕組みをして考えていた少女に、パチュリーは言葉を投げる。

「大切なのは、その人を本当に想っているという証を見せること。物はその代替に過ぎません。物を贈ることによって、自分は相手のことをこんなにも想っている。それを伝えるのが肝要なのだと思います」
「……」
「妹様はどなたかに贈り物をなさるようですが、その人をどのくらい想っていらっしゃいますか? もし仮に、自分の半身のように大事な方ならば、それ相応の贈り物を贈るのが良いでしょう。道端の石ころ程度の相手ならばそれで良し。きらびやかな宝石に値する相手ならばそれで良し、です」

そこまでいうと、パチュリーは再び本に目を落とした。
言うべきことは言ったとばかりに。

「……うん、ありがとうパチュリー。私、探してみるよ。私にとって、かけがえのない人たちだから」

そう言うと、少女は図書館の奥の方に消えて行った。

「……」

パチュリーは、冷めてしまった紅茶を口に運ぶ。

「贈り物、か……」

そう呟くと、パチュリーは再び本を読み始めた。



少女は、C列の本棚を探した。
膨大な本の量を誇る図書館は、本棚の数も常軌を逸していた。
きょろきょろと懸命にCの文字を探す。
じれったくなってきたのか、歩く足は次第に速くなっていった。

G、F、E、D。少しずつ列は近付いていく。
それを確認すると、少女は駆け足でその場所に急ぐ。
やがて、Cの列を発見する。はあ、と息を吐き、本棚に近付いた。

「……」

Cの本棚を見つけたといっても、その本棚は長大だ。
本棚の一端は、はるか向こうの暗闇に吸い込まれている。
この中から、目的に沿った本を見つけ出すのは容易ではない。それは少女にも分かっていた。

でも、やらなければならない。
あの時、貰った贈り物に対するお返しは、絶対に果たさなければならない。
そして、喜んだ顔が見たい。そのためならば、この本棚を全て改めることなど造作もなかった。

「よし、じゃあ、始めようか」

一つ声を出す。そして、本棚の端のほうから背表紙を確認し始めた。



「パチュリー様。紅茶の替えをお持ちしました」

実に自然な動作で、咲夜は湯気の立ち上るカップを机の上に置いた。

「ありがとう」

パチュリーは、本に視線を落としたまま礼を言う。
これもいつものことゆえに、咲夜が不快に思うことはなかった。

「お客様ですか?」

咲夜はそう問うた。

「いえ、妹様よ」
「あら、珍しいですわね。何かお探しなのかしら」

この図書館は、咲夜の力によって、空間を伸ばされている。
故に、その空間に誰かが進入していると、咲夜にはそれが分かるのだった。

「贈り物をするそうよ」
「贈り物、ですか」
「ええ。大切な人たちに贈るんだと。そうおっしゃってたわ」
「ああ……なるほど」

心当たりはあった。いや、それしか思いつかなかったというべきか。

「妹様が誰かに贈り物をするなんて、前代未聞ね。外で何が起こったのかしら?」
「パチュリー様は少しこもりっきりなのですよ。少し外の空気をお吸いになってはどうですか?」

にこり、と笑って、咲夜は空になったカップをトレイに戻す。
パチュリーは、そんな咲夜の提案にも動じずに、本を読み続ける。

「……何か、変わったことでも起きた?」
「そうですねぇ……妹様が贈り物をするくらいのことは起こりましたよ」

咲夜の返事を聞き、ふう、とパチュリーは息をつく。

「何事も起こらなければいいけどね」
「あら、それはどういうことですか?」

咲夜は不思議そうに聞き返す。

「特段、贈り物をするくらいなんでもないと思いますけど」
「……」

パチュリーは答えずに、熱い紅茶を啜った。



「はあ〜〜〜……疲れた……」

本棚を背もたれにして座り、少女は大きく息を吐く。
その目に叶うような本は、いまだ探すことは出来ずにいた。

「う〜ん、難しいなぁ……」

プレゼントなど、五百年近く生きてきた身で一度もしたことがない。
だから、どんな物を贈っていいのか分からない。
故に、自分と最も縁のある魔法からヒントを得ようと思ったのだが。

「私もアクセサリーにしようかなぁ……」

パチュリーは、大切なのは想いなのだと言った。
だから、贈り物がどんな物であれ、想いが伝わればそれでいいのだ。
自分でアクセサリーを作れるくらいの技術は、少女はすでに持っていた。
だから、材料と道具さえそろえることが出来れば、いつでも贈り物を作ることができる。

「……」

でも、それがどうしても気に入らなかった。
アクセサリーはすでに自分が貰っている。それを突っ返すような形で贈るのはどうだろうか。
自分にしか出来ない贈り物をしたい。その想いが強かった。
自分にしか出来ない贈り物。それはきっと、魔法の中にあるはずだと少女は思った。

「まあ、考えてても仕方ないよね。本を見ながら考えよ」

よっ、と声をかけながら立ち上がり、少女は本棚に向き直ろうとした。
その時。
視界の隅に何かが映った。

「……?」

少女はそちらのほうを見る。
それは、扉だった。
はるか向こうの暗闇の中に、ぼんやりと浮かぶ一つの扉。
部屋の末端、壁に張り付くように、その扉はあつらえてあった。

「……なんだろう、あの扉」

少女は好奇心をかきたてられ、ゆっくりとその扉に近付いていった。
扉は段々近くなる。思ったよりも小さめの、普通の木製の扉だった。

「……」

しかし、そのノブは太く頑丈な鎖でがんじがらめに締め付けられ、南京錠が幾重にもかけられていた。
まるで、この中に恐ろしい魔物でも棲んでいるかのような、そんな物々しさを感じさせた。

「……」

少女はしばらく、そのドアを見つめていた。
自分にしか出来ない贈り物をしたい。その想いは今でも揺るぎない。
そして、その心を満たすべき物は、この中に眠っているような気がした。

少女は、鍵の破砕点を目視する。
少女に先天的に備えられた能力。“ありとあらゆる物を破壊する能力”。
その力を使いさえすれば、錠前など簡単に壊すことが出来た。

破壊の“目”を自分の右の手のひらに移動させる。
そして、一気に握りつぶした。

ピシッ、という音とともに、全ての南京錠に亀裂が走り、あっけなく粉々になった。
それと共に鎖が床に落ち、耳障りな音を立てて散らばった。
少女はそれを確認すると、何の封印もなくなったノブを手に取り、ゆっくりと回した。

扉は、驚くほど簡単に開いた。
まるで、少女を誘うかのように、きい、とわずかな軋みを立てて開いた。
部屋は、やや広めの空間だった。本棚が壁という壁に張り付いており、その中に本が隙間なく収まっていた。

「……」

少女は一目で分かった。
いや、魔道に携わる者ならば、一目で判別できる物だった。
禁忌。禁断。それらの名が冠するに相応しい書物の宝庫。
それらが、ぐるりの少女の周りを囲っていた。

「……すごい」

これならば、目的の本も見つかるかもしれない。
今まで自分が見たこともないような魔法が手に入る。
それを使えば、自分の満足のいく贈り物を作ることなど造作もないだろう。

少女は一歩一歩、その禁断の書物庫に足を踏み入れた。

この時、少女は、ひとりでに扉が閉まったことに、まだ気付いていなかった。







今日は天気が悪い。
今にも雨が落ちてきそうな暗い雲が、空の端から端までビッシリと敷き詰められていた。

外で窓掃除をしている最中にも、いつ雨が落ちてくるのかと心配になった。
紅魔館は雨が落ちてこないというメルの話を信じなかったわけじゃない。ただ、どうしても自分の目で確認しなければ安心できないのだった。
結局、メルの言った通り、仕事中に雨が落ちてくることはなかった。
無事に窓を拭き終え、夕食を食べて腹を満たし、宿舎へ帰ろうと三人で廊下を歩いていた。

「ふ〜、うまかった。相変わらず、美味しい料理だねぇ」
「あはは、こまっち、美味しそうに食べるから、料理作る人たちも嬉しいだろうね」
「私たちはいつも食べ慣れているものになってしまいましたけど、小町は一生そうならないでしょうね」
「当たり前だろ? 飯が食えるっていうのは、この上なくありがたいことなんだ。作ってくれる人には感謝しないとね」

会話をしながら、あたいたちは廊下を歩く。
やがて、宿舎に行くために外に出る扉が見えてきた。

「あ、そう言えば、今日でしょ? フラン様ファンクラブの第一回目会合」

メルが扉を開けると同時に、アンがそんなことを言い出した。

「ああ、そうだよ。あたいたちの部屋に集合だね」
「でも、フラン様はいらっしゃらないんだよね〜」
「そこは、レミリア様に止められているから仕方ない。だから、その対策を今回話し合うんじゃないか」
「どうやって、フラン様と交流を持つか、ですね?」
「そうそう。宿舎に来られないんじゃ、しょうがない。でも、何か他に別の方法があるはずなんだよ。それを話し合いたいんだ」
「そうだね〜。こまっちから、フラン様のファンが増えたって聞いたときはすごく嬉しかったしね。少しずつでいいから、フラン様を認めてくれる人を作っていったらいいんじゃないかな?」
「ああ、そうだね。時間はかかるだろうけど、それが一番地道な方法だろうね」

昨日のパーティーで、フラン様にはファンが二人増えた。
それは、フラン様がメイドのみんなに認めてもらうことが出来るという証明にもなる。
フラン様は、決しておっかない存在なんかじゃない。それを知らしめることが出来れば、あたいたちがフラン様と自由に交流できるようになる日も、そう遠くないかもしれないのだ。

石畳を歩きながら、あたいたちは色々と話し合う。
外の空気はいやに涼しくて、まるで雨の中を歩いているかのような気分にさせた。

その時、空が光った。

「きゃっ」

メルが、少し身を縮こまらせる。遅れて、轟く雷音。
どうやら、一雨が来そうな雰囲気だ。

「なんだか、雨が降りそうだね」
「だから、何度も言ってるじゃない、こまっち。紅魔館は雨は降らないんだよ。魔法がかけてあるからさ」
「うーん、そうみたいなんだけどさ、どうしても信じられなくて。天気を操るなんて、並大抵のことじゃないと思うしさ」
「この紅魔館にはすごい魔女がいるからね。その人お墨付きの魔法だから、きっと雨なんて降ら、」

そこまで、アンが言った瞬間だった。
アンのまぶたに、水滴が落ちてきた。

「あ、あれ?」

戸惑うように、その水滴を拭き取るアン。
それが皮切りだった。
ポツポツポツ、と空からいくつも線が走った。
それは、石畳にぶつかると小さな円の染みを作り、そこらじゅうに広がっていった。

「……雨」

あたいは、そう呟いた。

「な、なんで……?」

あたいたちは空を見上げ、降りしきる雨を見つめていた。
その時、また空が光った。その後に響く雷音。
雨は、次第に強さを増していくようだった。

「と……ともかく、宿舎に入りましょう。いつまでもここにいては、服が濡れてしまいます」

戸惑いを隠せないメルが、何とかそう提案する。
是非もなかった。あたいたちは、逃げるように宿舎を目指した。



宿舎の中に入り、扉を閉める。
雨が石畳を叩く音が、一気に遠く聞こえるようになった。
未だに雷音は轟いている。これは、通り雨だろうか。急に起こった春の嵐に、あたいたちは顔を見合わせて首を捻った。

「ど、どういうことだい? 紅魔館は雨が降らないはずだろ?」
「そ、そういうことになってたんだけど……な、何でだろ、はは……」

首筋を掻いて笑うアン。
その顔には、言いようのない不安が見え隠れしていた。

「……なにか、パチュリー様が手違いでも起こしたのかもしれませんね」
「手違い、か」

そんな単純なものなのだろうか。
なんだか、すごく嫌な予感がする。
急に降り始めた雨と稲光。
それは、何かを示し合わせるかのようにいきなりの出来事だったのだから。

「……ともかく、ここで突っ立っていても仕方ありません。おそらく、魔法の不良でしょうから、明日にはパチュリー様が直してくださるでしょう」
「そ、そうだね。さっさと風呂にでも入って寝ることにしよう」

あたいたちは、自分たちの部屋に戻るために廊下を歩き始めた。

すると、廊下の向こう側から、声が上がった。

うわぁっ!! な、なにあれっ!!

「えっ?」

あたいたちが向かっている方面からの声だった。
あたいたちは、急いでそちらの方に向かう。

そして、見てしまった。

「なっ!!」

紅魔館が、燃えていた。
赤く、赤く、取り巻くような赤い炎に取り囲まれていた。
激しい雨の中、揺らめくような陽炎に似て。
ゆらゆらと揺れながら、黒いシルエットを浮かび上がらせていた。

「な…………、なに、あれ……?」

あたいはそれを言うのが精一杯だ。
あたいたちは、窓にへばりつくようにして、赤く燃える紅魔館を見つめていた。

やがて、声を聞きつけた他の部屋の住人たちも廊下に出てきて、驚きの声を上げる。
廊下は、一時騒然となった。

「い、一体何なの!? ど、どうしちゃったわけ、紅魔館は!」

アンが裏返った声で叫ぶ。
それは、あたいも聞きたい。一体、いつ、紅魔館は火事になってしまったのだろうか?

「い、いえ、あれは、燃えているんじゃありません」
「えっ?」

メルが声を上げる。その目は驚きに見開かれていた。

「た、多分、あれは、霧です」
「き、霧?」
「は、はい。だって、炎ならば、この雨で燃えることさえ難しいはずです。それに、よく見れば、あれは炎じゃないと分かるはずです」

メルの声に従い、あたいは赤く燃える紅魔館を凝視する。
……確かにそうだ。あれは、炎じゃない。赤い、霧なのだ。

「ど、どういうこと!? ま、まさか、またレミリア様が!?」

アンは、半ばパニックになっている。
メルは、そのことに気付いたのか、アンの肩に両手をかけて、落ち着いていった。

「いいえ、レミリア様は、あの紅霧異変はもう起こさないと決めたはずよ。だから、あれはレミリア様が出した霧じゃないわ」
「そ、それなら、誰が……!」

あたいには、その話の内容が分からなかったが、一大事なのは一目瞭然だった。
あんな変な霧に包まれた紅魔館は、いままでに無かったことなのだ。それは、廊下に出てきて、窓にへばりついている他の連中を見ていれば分かる。

これは、おそらく、紅魔館の危機。

「……フラン様」

自然に出たのは、その言葉だった。
そして、あたいは自然に身体が動いていた。

「こ、小町っ! どこ行くんですかっ!」
「フラン様を……フラン様を助けないと……!」
「ま、待ってくださいっ! まだ、どんな状況か分かっていないんです! 無闇に突っ込んだりして、何か起こったらどうするつもりなんですかっ!?」
「……」

確かに、メルの言う通りだ。あんなでかい城を包み込むような異変に、あたいのようなちっぽけな存在が何が出来る?
でも。
でも、でも!

「大丈夫。ちょっと、様子を見てくるだけだよ。あたいにはどうしようもなくなったら、すぐに戻ってくるからっ」
「ま、待って、こまちっ!」

あたいは、メルの制止を振り切り、ロビーに駆け出した。
ロビーに入ると、すぐに正面玄関の扉を開ける。
凄まじい豪雨があたいの身体を叩いた。竜がいななくような雷音が、あたいの鼓膜に突き刺さる。

あたいは、一気に飛び出した。
紅魔館の通用口へは、約百メートルほどだ。
風が吹き付け、飛ばされそうになりながらも、あたいは石畳の上を走る。
雨がまぶたを叩きつけて、ほとんど何も見えていない状態だった。

ようやく、通用口まで辿り着く。
赤い霧の中に一気に飛び込むと、あたいはノブを捻った。

「はあ、はあ、はあ……」

全力で走ってきたために、息が切れる。バクバクと鳴る心臓を落ち着けながら、あたいは紅魔館の内部を見渡した。

「……」

驚くほど静かだった。
雷音も、ほとんど届いてこない。
外から聞こえてくる音以外は全ての音を排したかのように、紅魔館の内部は無音だった。

ガチャン!

と、その時、あたいの後ろの扉が急に開いた。

「こ、こまっちっ!」

アンだった。雨にずぶ濡れになりながら、あたいの姿を認めると抱きついてくる。

「バ、バカッ! 無茶しないでよっ!」
「小町っ、無事ですかっ!」

続いて、メルも入ってくる。
同じようにずぶ濡れだった。

「あ、アン、メル……」
「こ、小町……無茶しないで下さい。もし、あなたの身に何かが起こったら、どうするんですか……!」

切れ切れの息をしながら、メルはあたいを睨んでくる。
それは、初めて見たメルの怒気だった。

「ごめん……でも、あたいは、フラン様のことが気がかりなんだ。こんな変な状態の中で、一人ぼっちになんかさせておけない」
「そ、そりゃそうだけど……でも、これから一体どうするつもり?」
「……」

あたいは、無音の紅魔館の内部を見渡した。
明かりは、窓から入ってくるわずかな光のみで、歩くのが困難なほど薄暗い。
いつもは燭台とシャンデリアの炎が灯っているはずなのに、それらが全て消えてしまっているようだ。
左右に伸びた廊下は果てしなく長く、暗闇に沈んで向こう側が見えない。
恐怖の念を感じずにはいられなかった。

「……」

でも、この中で、フラン様はたった一人で座り込んでいるかもしれないのだ。
恐ろしくて身動きすら出来ないかもしれない。心配は募っていくばかりだ。

「……まずは、フラン様の部屋に行ってみようと思う。それって、どこにあるんだい?」
「……紅魔館の地下です。中心部に下り階段があって、そこから右に真っ直ぐ進んだ部屋がそうです」
「……分かった。行ってみることにするよ」

あたいはそういい残し、廊下に一歩を踏み出した。

「ま、待ってください」

だが、メルが引き止めた。

「なんだい? 引き止めても、あたいは行くよ」
「わ、私も行きます」

え? なんだって?
怯える瞳を懸命に隠しながら、メルは言った。

「私も、フラン様のことが気がかりでしょうがありません。それに、二人なら、困ったときに助け合えるかもしれない」
「……」
「それに、小町は地下の正確な地理は知らないはずです。私が案内します。それでいいですか?」

確かに、あたいは地下どころか、紅魔館内部のことすらもまだ疎い。
メルに来てもらうのは、この上なく心強いのだ。

「……うん、分かった。一緒に行こう」
「はい」
「あ、あたしも行くっ!」

声を出したのは、アンだった。

「アン。無理しなくてもいいわよ。宿舎で待ってたほうがいいから」
「な、何言ってんのさ! と、友達二人が行くって言うんなら、あたしも行くのが当然でしょっ!」

拳を握り締めて、憤慨したように言い放つ。

「ふ、二人よりも三人だよ。だから、あたしも行く。な、何か役に立つかもしれないでしょっ」
「……」

アンは、見た目にも怯えているのがありありと分かる。
連れて行っても大丈夫なのだろうか。これは、遊びじゃない。危機が迫ったら、確実に助けられるとは言えないのだ。

「アン、もし、なにかあっても、あたいたちは助けられないかもしれないよ? それでも、いいかい?」
「っ……あ、当たり前だよ! 自分の身ぐらい自分で守ってみせるよ!」

その声を聞き、あたいは頷いた。

「……分かった。一緒に行こう。正直、二人がついてきてくれるのは、すごくありがたいしね」
「もっと、私たちを頼ってください。仮にも、先輩なんですから」
「そうだね」

かすかに笑いあうと、あたいたちは紅魔館の内部に足を踏み出していった。



時折、稲光が窓から差し込み、あたりは急激に明るくなる。
だが、それも一瞬で、すぐに闇が辺りを支配し始める。
未だに全容を把握できない紅魔館の廊下は、一体どこまで伸びているのか窺い知れない。
あたいたちは、自然と息を忍ばせながら、廊下を少しずつ進んでいった。

「……なんだか、誰もいないみたいだね……」
「うん……人の気配がしないね」

遠くに聞こえる雨音と、あたいたちが踏み鳴らす足音だけが、その場に響いていた。
窓の外は真っ赤で、赤い霧がゆらゆらと揺れており、その向こうに外の景色が見渡せた。
どうやら、この霧は紅魔館全体を包んでいるらしい。
何故……? あたいたちが夕食を食べ終え、宿舎に戻るときまでは紅魔館は正常だったはずだ。
変になったのは、雨が降ってきたとき。紅魔館に降るはずのない雨が、急に降り出したときなのだろう。
その時、あたいたちは紅魔館に背を向けていた。だから、変化に気付かなかったのだろうか。

「……地下へは、どう行くんだい?」
「……この先にある通路を右に。それから、少しずつ中心部に近付いて行きます」

あたいにとっては、アンとメルは道しるべだ。
まだ二週間しかここに住んでいないあたいは、この大きなお屋敷の全貌をまだ理解していない。
だから、二人がそばにいてくれるだけで、森の中のコンパスのようなありがたさを感じるのだった。

……数分は歩いただろうか。

「待ってっ!」

アンが制止の声を上げた。

「あ、あそこに、なんかいる!」

アンは一点を指差す。
……確かに、そこには、何かが横たわっていた。
闇に紛れてよく分からないが、どうやら、人の形をしているようだった。

「……倒れてる?」

そう見えた。
だから、あたいは駆け寄って様子を見ることにした。

倒れていたのは、夜勤服を着たメイドさんだった。
白い顔を横向きにして、うつぶせになって倒れていた。

「おいっ! しっかりしなよっ!」

あたいはメイドさんを抱きかかえ、頬を叩いた。

「う……」

まぶたが、かろうじて動いた。
どうやら意識はあるようだ。

「こ、ここは……」
「気がついたかい? ここは廊下だよ。こんなところで寝てたら、風邪引くよ」

メイドさんは、まだ呆けたように視線を彷徨わせている。
意思の疎通が出来ているか不安だったので、あたいはメイドさんに質問した。

「どうしたんだい? どうして、お前さんはここで倒れてたの?」
「わ、分かりません。急に意識が遠くなって……気がついたら、あなたに抱きかかえられてました……」
「今がどういう状況か分かる?」
「い、いえ、何かあったんですか? やけに、薄暗いですけど……」

どうやら、このメイドさんは何も知らないらしい。
でも、意識が戻っただけでもよかった。あたいらが発見しなかったら、このままぶっ倒れてたままだっただろう。

「……歩けますか?」

今度は、メルが質問する。

「は、はい」
「では、このまま真っ直ぐ進んで、すぐに宿舎に戻ってください。今、紅魔館は非常事態です。この中に長時間いるのは危険です」
「え? は、はい、わ、分かりました。あ、あなた方はどうするんですか?」
「私たちはこれから行くところがあります。目的を果たしたら、すぐに宿舎に戻りますから、心配しないでください」

そう言うと、メルはあたいを手伝って、メイドさんを抱え起こしてくれた。

「いいね? 絶対に寄り道しちゃダメだよ。真っ直ぐ宿舎に戻るんだ。雨が降ってるけど、構わずに走るんだよ」
「は、はい。あ、あなたたちもどうかご無事で……」

そういい残し、メイドさんはおぼつかない足取りで、あたいたちの来た方向に引き返し始めた。
その姿を見送りながら、アンが口を開いた。

「な、なんで、あの娘は倒れてたんだろうね……」

それはあたいも聞きたい。廊下で寝るなんて趣味を持ったやつなど見たことがない。
だとしたら、この異変によって、気を失わされたと考えるのが自然だろうか。

「……もしかしたら、まだ倒れている人がいるかもしれませんね」
「そ、それは困るね。そこらじゅうで昼寝されたらたまらないよ」
「……ともかく、先に進みましょう。倒れている人がいたら、その度に助けながら行けば済むことです」
「そうだね。……あんまり、そんなところ見たくはないけどね」

あたいたちは、再び紅魔館の深部に足を踏み出した。



途中にあった角を曲がると、急激に辺りは暗くなる。窓からの光が届かなくなったのだろう。
あたいは、これ以上先のことは何も知らない。道案内は、アンとメルに頼るしかなかった。
人間だったら、真っ暗闇にしか見えない中を、あたいたちは奥に進む。
時折置いてある花瓶や絵画などの調度品が、不気味な雰囲気をより増長させていた。

「何だか……怖い。いつもの紅魔館と同じはずなのに……」

アンがそんなことを言う。
確かに、紅魔館の内部はなんら変わりないはずなのだ。変わっているのは、変な赤い霧が紅魔館を覆っているということ
だけ。明かりが全て消えているということを除けば、紅魔館の天井と床がひっくり返ったとか、そんな変なことは起こってはいないはずなのだ。

「……」

だが、あたいは肌で感じる。
今の紅魔館は、あたいたちがいつも仕事をしていた紅魔館と明らかに違う。
何が違うのか、と具体的に聞かれても困るが、とにかく何かが違うのだ。
まるで、紅魔館と姿かたちはそっくりなのに、全く別の紅魔館になってしまったかのような……。上手く説明できないが、そんな雰囲気がひしひしと感じられるのだ。

角を何度曲がっただろうか。

「……もうすぐです。あの角を曲がれば、地下へ続く廊下に出ます」

メルの声に安堵する。
どうやら、異常なのは紅魔館を覆っている霧だけらしい。
この角さえ曲がり、階段を下ってしまえば、フラン様の部屋まで一直線だ。
フラン様を保護したら、一旦宿舎に連れて行こう。レミリア様には怒られるかもしれないが、言い訳はいくらでも出来る。
そう決めて、あたいは廊下の角を曲がった。

それが、甘い考えであることに、まだ気がついていなかった。

「あれ……?」

あたいは気付いた。
廊下の向こう。下り階段の前と思われるところに、人が立っていた。
いや、人、という表現は的確でないかもしれない。人型、が立っていた。
あたいたちと同じ二本の腕に、二本の足。
全身が灰色の皮膚に覆われ、のっぺりとした体をしていた。
そして、鼻がなかった。目がなかった。耳がなかった。髪もなかった。
唯一あったのは、口。真一文字に結ばれていた。

人型は、こちらに気付いた。緩慢な動作で、ゆらりとこちらを向いた。
ひた、ひた、と左右に揺れながらこちらに近付いてくる。両腕をこちらに突き出しながら。

「な、な」

あたいたちは身動きできない。奇怪な人型は、ゆっくりとこちらに近付いてくる。

瞬間、口を、がぱあ、と開けた。

「ぎゃあああああああぁぁぁぁぁ!!」

アンの悲鳴が引き金になり、あたいたちは反転し、走り出した。
走って、走って、走って、走って。
足がもつれ、心臓がはちきれんばかりに高鳴る。
それでも、あたいたちは走った。
喰われる。そんな本能めいた強迫観念が脳のありとあらゆる部分を支配していた。

先頭を走っていたアンは、その辺にあったドアを開け、その中に飛び込んだ。
あたいとメルもその中に入る。そして、急いで鍵を閉めた。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」

荒く息をつき、少しでも心臓を落ち着けようとするが、なかなか上手くいかなかった。

「なっ、なっ、なにあれっ! ば、バケモノッ!?」

アンは床にへたり込んで、目を見開いてこちらを見る。
あたいたちも同じような顔をしていただろう。

「い、一体なんなんだい、あれは? あんなの、紅魔館の中にはいなかったはずだろ?」
「あ、当たり前じゃない! あんな変な生き物飼ってないよっ!」

息を懸命に落ち着けながら、先ほどの生き物を思い返してみる。
考えれば考えるほど、おぞましく、変な生き物だった。
まるで、ゾンビのようだった。口だけが裂けるように大きく、中は犬歯のような鋭い歯に埋め尽くされていた。

「ど、ど、どうしよう……あんなのがうろつき回ってるなんて、聞いてないよっ。このままじゃ、あたしたち食べられて
死んじゃうっ!」

アンはパニックを起こしかけている。その気持ちは分かる。あたいも、さっきから足ががくがく震えっぱなしだ。

「ど、どうしましょう。階段の前に、あんな生き物がいたら、地下に下りることが出来ないです……」
「……」

どうしたものか。さっきの生き物は一匹だけだったが、複数匹いないとは限らない。
集団で襲われたりしたら、あたいたちの命が危うくなる。あまりにも、危ない橋だ。

「……」

だけど。その化け物の中でフラン様が縮こまって震えているかもしれないのだ。
そんな中、あたいだけ逃げるなんて手を打てるはずがないじゃないか。
あたいは部屋の中を見回す。すると、部屋の隅っこに鉄兜をかぶった甲冑の像があり、それが鉄の斧を握っていた。
あたいは甲冑に近付き、鉄の斧を引っぺがす。どうやら、刃は模造のようだったが、無いよりはましだろう。

「な、なにしてるの、こまっち!」

震える足に懸命に鞭打ち、あたいは二人に言った。

「フラン様が待ってる。あたいは行くよ」
「こ、こまっち!」

信じられない、といった目であたいを見るアン。

「だから、二人はここから引き返してくれ。あたいが地下の様子を見に行くから」
「だ、ダメです! 行くなら、三人一緒です。一人だけが欠けるなんて、許されません!」
「そ、そうだよ! こまっちだけが行くなんて、そんなの裏切ったのと同じじゃん!」

いま、あたいたちの頭の中は、葛藤で埋め尽くされていた。
フラン様の助けに行くか。それとも、このまま逃げ帰るか。
どちらにしても、相当の覚悟が必要だ。
前者は自分の命を懸ける。後者は、フラン様を見捨てるという覚悟が必要なのだ。

かちゃっ……。

その時だった。

かちゃっ、かちゃっ……。

ドアのノブが音を立てた。まるで、ノブを引っ掻いているような。

「……!」

全身の毛が逆立つような感覚を覚える。
ま、まさか……。

「ひっ……!」

アンは四つんばいになりながら、ドアから必死に離れようとする。メルも一歩一歩と、ドアから遠ざかる。

かちゃっ、かちゃっ、かちゃっ……。

なおも、ノブを引っ掻く音がする。
それは、少しずつ早く、小刻みになっていった。

「……い、いる……?」

あたいの声に、アンとメルがあたいの陰に隠れるように身を寄せる。

「ど、どうするの……?」

泣きそうな声で、アンが聞く。
どうするもこうするも、外に逃げようにも、ここには窓がない。要するに、ここから逃げ出すには、あのドアをくぐるしか方法がないのだ。

ぎり、と奥歯を噛み締める。
覚悟を、決めた。

「二人は、ここでじっとしていて。あたいが、やる」
「こ、小町……」

不安そうな声で、メルがあたいの名を呼ぶ。
あたいは右手に斧を持ちながら、少しずつ、少しずつドアに近付いていく。

かちゃっ、かちゃっ……。

いまだに、ドアからは、引っ掻く音がやまない。そこに、“なにか”がいるのは明白だった。
あたいは慎重にドアに近付き、鍵に手をかける。

そして……鍵を開け、一気にノブを捻った!

があぁぁぁぁぁぁ!

「いやあぁぁぁぁぁぁっ!」

アンが叫ぶ。
さっきの怪物が、口を開けて部屋の中に倒れこんできた!
あたいは、すかさず斧を両手に持ち替え、怪物の脳天目掛けて一気に振り下ろした!

ズガッ

鈍い感触とともに、怪物は絨毯の上に倒れ伏す。
それを見た瞬間、あたいの中で、何かがはじけた。

「うああああぁぁぁぁっ!!」

斧を振り上げては下ろす、振り上げては下ろす。ただ、ただ、それを繰り返す。
怪物の頭は少しずつ変形し、歪な形になっていった。

何発、何十発、あたいは斧を振り下ろしただろう。
ようやく、怪物が動かなくなっていることに気付いたあたいは、荒く息をつきながら後ずさりし、壁を背もたれにした。

すると、少しずつ、怪物の身体が崩れ始めた。
さらさらと、まるで砂で出来ていたかのように、そこには砂とも灰とも取れる黒い物質が山になっていた。

「こ、小町っ!」

メルの声に、はっ、と意識を取り戻される。

「さ、さあっ、ここから出ましょう! いつまでも、ここにいるわけにはいきません!」
「そ、そうだ。早く、ここから出よう!」

あたいたちは、怪物の残骸を踏みつけて、部屋の外に出た。

そして、見てしまった。

「うわ、うわあああぁぁぁっ!!」

廊下の右手側の遥か向こう、そこに、さっきの同じ怪物がたむろしていたのだ。
数は、五、六体だろうか。それが、ゆっくりとこっちに近付いているのが見えた。

「は、早くっ! 逃げるんだっ!」

あたいたちは、怪物たちと反対の方向へ逃げ出した。
だが、それも長くは続かなかった。

「あっ!!」

前に、同じ怪物がうろうろしていたのだ。
こちらに気付き、近付いてくる。うぅ、うぅ、と唸り、両手を前に突き出しながら。

「や、やだあっ……!」

アンとメルがあたいに身を寄せる。
……挟まれた。前後は完全にふさがれた。

「くっ、ふ、二人とも、行くよ。もう、強行突破しかない……!」

あたいは斧を握り締め、前方に向かって駆け出そうとした。

その時だった。
怪物の一匹が、横に吹っ飛んだ。
まるで、突風に跳ね飛ばされたかのように、廊下の向こう側に飛ばされていった。
そして、そこに現れたのは、

「小町さんっ!」
「め、美鈴さんっ!!」

あの門番の美鈴さんが、化け物をはさんで向こう側に現れたのだ。
化け物は、後ろで起こった出来事に気を取られ、あたいたちのほうから標的を変えた。
美鈴さんのほうに化け物が向かっていく。
だが、美鈴さんは、まったく恐れずに、地を蹴った。

「はぁああああああああぁぁぁっ!!」

二段回し蹴りが、二匹の化け物の顎を捕らえ、壁に叩きつけられる。
続いて最後の一匹に、美鈴さんは突進し、肩から一気にぶつかった!

怪物は、軽々とあたいたちの上を越え、遥か向こうの床に叩きつけられた。

「さあっ! 早くっ! こっちよっ!」

あたいたちは、美鈴さんのほうに駆け寄り、そのまま廊下を走り去った。

「め、美鈴さん! どうしてここに!?」

あたいは、走りながら美鈴さんに問う。

「こんな非常事態に、戦闘が得意な私がじっとしてるわけないでしょ。良かったわ、間に合って」
「あ、ありがとう、美鈴さん!」

それは、本当に天の助け。
このときばかりは、心から神様に感謝したくなった。



「よし……ここまでくれば、大丈夫でしょう」

美鈴さんは、廊下の向こうを窺う仕草をし、あたいたちに向き直った。

「め、美鈴班長っ、本当にありがとうございましたっ!」
「い、命の恩人ですぅ……」

アンはその場にへたり込む。美鈴さんは、この場にそぐわない明るい笑顔で応えてくれた。

「どういたしまして。もうちょっとで、あいつらのご飯になってたわね。間に合って良かったわ」

そして、急に真剣な顔になる。

「それよりも、あなたたち、一体どうしてこの中にいるの? あなたたち、日勤だし、宿舎に戻ってたはずでしょ? 見た目、やばそうだって思わなかった?」
「ええと、あたいたち、フラン様が心配で……。だから、突っ込んで来ちゃったんだ」
「ああ、そっか。うん、でも、妹様なら心配ないと思うけどね。仮にも、吸血鬼だし。あんな弱い相手に後れを取ることもないと思うわ」
「え、よ、弱いんだ……」

なんだか、拍子抜けした。あまりにもショッキングな出来事に、あたいは相手の力を見極めることさえも出来なかったらしい。
美鈴さんが来てくれて、本当に助かった。これで、あたいもようやく冷静な思考を取り戻すことが出来そうだ。

「美鈴さん。紅魔館がこうなってしまった原因って、分かる?」

美鈴さんは首を振る。

「いや、さっぱり。急に雨が降ってきたかと思ったら、真っ赤に燃え上がっちゃってるし。おまけに中に入ったら変な化け物がうようよしてるし。こっちが聞きたいわ」
「そうか……」
「多分、魔法関係のトラブルでしょうね。おそらく、パチュリー様あたりが関わっているんだろうけど、なんかの実験にしては冗談が過ぎるわ。早く行って止めた方がいいでしょうね」

ということは、行くべきところはパチュリーさんのところ、図書館か。

「じゃあ、早く行かないとね。この中には、まだメイドさんがたくさんいたはずだよ。化け物に襲われるかもしれない」
「いえ、待って。まずは、お嬢様のところに行くのが先決よ」
「え、な、なんでさ」

美鈴さんは、呆れた目であたいを見る。

「あなたは、紅魔館のメイドでしょ? なら、最も優先すべき事項は、お嬢様の無事を確認することよ。原因を確かめるのはその後。新米だからって、これを忘れちゃダメでしょ?」
「あ、そうか」

確かに、美鈴さんの言う通りだ。あたいの立場からすれば、まずはレミリアお嬢様を探さなければならない。断腸の思いだが、フラン様を探すのはその後なのだ。
それに、あたいだけでは、この紅魔館は手に余る。フラン様を探したいのなら、美鈴さんと共に行動した方が安全性は格段に高い。どうやら、急がば回れのようだ。

「分かった。最初は、レミリア様を探そう。それから、地下だね」
「ええ。でも、あなたたち、いいの? 危険な仕事になるし、ただのメイドさんには戦闘はきついわよ。帰ったほうがよくない?」

その美鈴さんの提案に、あたいは首を振る。

「ダメなんだ。フラン様に危険が迫ったら、必ず助けに行くって心に決めてあったんだ。だから、あたいも行く。連れてってくれないかね」
「う〜ん、まあ、いいけどね。そこのお二人さんも同じ?」

美鈴さんは、後ろでへたり込んでいたアンとメルにも声をかけた。

「は、はい。小町の言う通りです。フラン様が気がかりですし、私も行きます」
「あ、あはは、本当はまだおっかないけど……みんなが行くんなら、あたしも行かなきゃ。友達だもんね」

二人の返答を聞くと、仕方ないな、という風に美鈴さんは息を吐く。

「まあ、いいけどね。あなたたちは、責任持って、私が守ってあげるわ」
「あ、ありがとうございます」
「でも、私でもどうしようもなくなったら、その時は、全力で逃げること。命を粗末にしちゃいけないからね」
「は、はい」

二人は頷くことしか出来ない。まあ、こういう経験は初めてだし、仕方ないだろう。

「あ、そうだわ」

ふと、美鈴さんは、何かを思いついたような声を上げた。

「確か、この辺に、あれがあったはずね……。みんな、ついてきて」

手招きをする美鈴さん。
あたいたちは、ただその後についていくだけだった。



その部屋は、まさに物々しいという表現がぴったりだった。

「うわぁ……」

数々の磨きぬかれた鋼の群れが、あたいたちに襲い掛かるようだった。
剣、斧、槍。壁という壁に立てかけられたそれらは、あたいたちに使われるのを今か今かと待ちわびているように見えた。

「す、すごいですね。武器庫なんて、初めて入りました」
「ひえぇ、すごい数。なんだか、見てるだけでおっかないね」

美鈴さんが連れてきてくれたのは、先程の廊下からそれほど離れていない場所にあった一つの部屋。
名は、武器庫。その名の通り、戦争で使われるような武器を保管してある部屋だった。

「この中から、適当に一本選んで。まあ、軽い剣が一番使いやすいでしょうね。あくまで護身用だから、使いにくいのは避けてね」

美鈴さんはそう言うと、慣れた様子で武器庫の一角に行く。
そこにあったのは、ナックルという武器のようだった。鉄にトゲトゲがいっぱい付いていて、あれで殴られたりしたら、顔面が血まみれになるだろう。

そんな物騒な部屋を見渡し、あたいは自分に合いそうな武器を探す。
確かに剣や刀は使いやすそうだ。剣道は習ったことはないが、振り回すことぐらいあたいでも出来る。

「……」

だが、あたいの目は、武器庫の最深にあった、ある武器の所で止まった。

「みんな、選んだ? 時間もないし、そろそろ行くわよ」
「ああ、いいよ。さっさと行こう」

あたいは、その武器を担いで美鈴さんのそばに行く。

「えっ……こ、小町さん、それでいいの?」
「うん。あたいはこれにするよ」
「そ、そんな使いにくい武器を……戦闘じゃ、扱いにくくて仕方ないと思うわよ?」
「それはどうかな?」

あたいは不敵に笑う。

「あたいには、これが一番使い慣れているもんでね」



二階。
あたいたちは、紅魔館のリビングルームを目指した。
美鈴さんの話では、レミリア様は自室よりもリビングルームでくつろいでいるほうが多いらしい。
だから、自然と足はそちらの方に向かうことになった。

美鈴さんを先頭に、廊下を慎重に進んでいく。
いつ、あの化け物が出てくるか気が気じゃない。一番後ろを行くアンは、何度も後ろを振り返りながら付いてくる。
しかし、今度はさっきとは違う。こっちも牙を持っている。
油断しているところを急襲さえすれば、こっちが有利になるだろう。

「もう少しね、みんな、頑張って」

美鈴さんが励ましの声をかける。
あたいは、リビングルームに行くのは、これで三回目になる。
まさか、こんな状況下でまたあそこに行くことになるとは到底思わなかった。リビングルームが悪いジンクスになりそうだった。

「待って」

美鈴さんは、右手を出して、あたいたちを制す。
そして、そっと、廊下の角の向こうを覗き込んだ。

「……いるわね」
「えっ……」

“いる”とは、もう言うまでもないだろう。
あの、のっぺらぼうの化け物がうろついているのだ。
自然に、持っていた棒に力が入る。汗が拳と棒の間にじわりと染み出した。

「後ろには、敵影はなし。前だけね。いい? 私を先頭にして、強行突破するわ。みんなは、決して無理せず、後から付いてくること。いいわね」

あたいたちは頷く。

「よし……じゃあ、いくわよ!」

ばっ、と美鈴さんは廊下に身を躍らせた。
その隣を、あたいも一緒に飛び出す。

「こ、小町さん!?」

並んで飛び出したのに驚いたのか、美鈴さんは声を上げた。
だが、もう遅い。あたいたちは、そのまま化け物の群れに突っ込んで行った。
こちらに気付いた化け物が、両手をこちらに突き出して向かってくる。

「でやあああぁぁぁぁぁっ!」

あたいは、気合を込めて、化け物に突進していく、
そして、刃を一体の化け物の股下に入れ、一気に振り上げた。

砂利のつまった袋を切り裂いたような鈍い音とともに、化け物の身体は両断される。そのまま、化け物は倒れた。
返す刀で、あたいはその左にいたやつに向かって、袈裟がけで刃を振り下ろす。
肩口から腋までを一気に切り裂かれた化け物は、同じように仰向けに倒れた。

「や、やるわね、小町さん! いい太刀筋だわ!」

同じように二体の化け物を吹っ飛ばした美鈴さんは、あたいの健闘を讃えてくれた。

「へへ、まさか、こんなところで宴会芸が役に立つとはね。まったく、何がどう役に立つか分かったもんじゃないね!」

あたいは、くるくると棒を回転させ、鈍く光る鋼の鎌を右肩に背負った。
そして、状況を確認する。
残りは、約六体。この分なら、あたいと美鈴さんでさっさと片付けられる。

「さ、残りを片付けるわよ!」
「応っ!」

そうして、化け物に向かって駆け出そうとした瞬間、銀閃が奔った。

「なっ!」

まるで、煌く糸が壁から発せられたようだった。
六体の化け物は、あっという間に切り裂かれ、灰になって散っていった。
その向こうに目を遣る。
化け物を倒した人は、銀色に光るナイフを一対持ち、あたいたちを赤い瞳で見つめていた。

「さ、咲夜さんっ」

美鈴さんが声を出す。そこにいたのは、紅魔館の最強のメイド、十六夜咲夜メイド長だった。

「美鈴、来てたのね」
「当たり前ですよ。今日ばかりは、門番はお休みです。早く、この異変を解決しましょう」
「そうね。まったく、お風呂に入っている途中に、とんだことになったものだわ。さっさと入り直したいものね」

メイド長は余裕の表情で笑う。
と、あたいたちの存在に気付いた。

「ん? あなたたちも来たのね」
「あ、はい。フラン様と、レミリア様が心配で。あたいたちも連れて行ってください」
「ふふ、お嬢様の優先度は後ろなのね」
「あ、いえ、そういうわけでは」
「まあ、いいわ。さっき、お嬢様の部屋に行ってみたけどいらっしゃらなかったから、きっとリビングルームでしょう。さっさと行きましょう」

そう言うと、メイド長は身を翻して駆け出した。
あたいたちもその後を追う。リビングルームは、ほんのわずか先だった。



「あっ!」

あたいは声を上げる。
リビングルームに続く扉は、無残にも破壊されていた。どうやら、先程の化け物が強引がこじ開けたようだ。

「レミリア様っ!」

メイド長は叫んでリビングルームに飛び込んだ。
あたいたちも、その後に続く。

レミリア様は、ソファーに足を組んで座っていた。まるで、何事もなかったかのように。

「あら、咲夜。遅かったわね。ちょっと、遅刻よ」

レミリア様は、そう言うと紅茶を一口啜った。

「申し訳ありません。湯に浸かっていたものですから」
「いい訳はいいわ。それで? この変なのは、一体なんなわけ?」

レミリア様はメイド長の足元を指差す。そこには、化け物の残骸と思しき黒い灰が降り積もっていた。

「どうやら、お手を煩わせてしまったようですね」
「無礼なことしてきたから手打ちにしたまでよ。掃除は任せたわね」

あたいは目が点になる。なんという余裕。こんな状況下で……。

「で、原因は?」
「おそらく、地下かと。パチュリー様の魔法の失敗か、あるいは……」
「あるいは?」
「妹様です。まだ図書館に残っていらっしゃるようです。なんだか、嫌な予感がしますわ」

レミリア様は、ふう、と息をつくと、大儀げに身を起こした。

「パチェはこんな面倒なことはしないでしょう。だとしたら、あいつが原因よ」
「どうなさいますか?」
「私が行く。それで、一発ひっぱたいて終わりよ」

どうやら、レミリアお嬢様自ら出陣なされるようだ。
すごい、咲夜メイド長と美鈴さんだけでも大した戦力なのに、最強の吸血鬼、レミリア・スカーレットまで加わったら、向かうところに敵はない。

「さ、行きましょう。さっさと面倒ごとは終わらせて、紅茶を飲みたいわ」

そう言うと、レミリア様はリビングルームを先頭切って歩き出した。



「はあっ!」
「せやぁっ!」

メイド長のナイフと、美鈴さんの鋭い拳が、化け物の頭部にめり込む。
頭をなくした化け物は、そのまま黒い灰になって消えていった。

いまや破竹の勢いで、あたいたちは地下を目指していた。
だが、主に戦っていたのは、メイド長と美鈴さんだ。レミリアお嬢様の手を煩わすことはなく、二人で先頭に立って次々に化け物を倒していく。
アンとメルはレミリア様の横に、あたいは殿を担当していた。いざというときの戦力として数えられている。

「ふう、まったく、面倒なことになったものね」

レミリア様は、ため息をつきながら言う。

「内部のこととはいえ、紅魔館の汚点になるわ。あいつにはしっかりお仕置きしておかないと」
「れ、レミリア様」

レミリア様が、良からぬことを言ったので、あたいはつい声を出してしまった。

「何かしら?」
「ええと……フラン様にも、何か事情があったんだと思います。あの方が、いたずらにこんなことをするはずはありません。どうか、大目に見てあげてもらえないでしょうか?」
「……」

レミリア様はあたいの目を睨むような目で見つめてくる。
……やはり、失言だっただろうか。
しかし、レミリア様が次に浮かべた表情は、笑みだった。

「あなたは、フランのことが好き?」
「へ?」
「難しいことを聞いてるんじゃないの。好きか嫌いか。ただ、それだけを聞いているのよ」

レミリア様は、笑いながら、あたいに問いかけてくる。
だが、その質問には必ず答えろという意思が込められているようだった。

「……もちろん、好きです」
「へぇ」
「あの方は、とても優しく、思いやりがあり、子供のように無邪気で可愛らしい方です。あたいには、何故、あの方が、紅魔館でつまはじきにされていたのか、その方が理解できずにいます」
「……」
「レミリア様が、妹様であるフラン様にどういう接し方をされていたかは存じませんが、レミリア様がもっとフラン様の事を気にかけていらっしゃれば、この数百年という長い間、フラン様が孤立することもなかったと思います」
「こ、こまっち、言いすぎだよ。ご当主様なんだから、もっと抑えて……」

だが、レミリア様は言った。

「そうかもしれないわね」

それは、簡潔な肯定。あたいの意見を、レミリア様が首肯してくださったのだ。

「私は、フランのことには、あまり構ってこなかったわ。自分の生活が快適に送れれば、それでいいと思っていた。フランは、日常のエッセンスみたいなものだった。妹として、情がなかったわけじゃなかったけど、私には明らかに肉親という情が薄かったと思う」
「……」
「おそらく、あなたは私以上にフランのことを気にかけているのでしょうね。たった二週間の間に、フランはあんなにもあなたに心を開いた。……私には努力が足りなかったのかもしれない。フランがこの紅魔館で嫌な思いをすることがないよう、配慮するのが私の役目だったにもかかわらず……」
「……」

紅魔館の当主として、レミリア様はきっと立派だったに違いない。
だからこそ、妹であるフラン様を蔑ろにせざるをえなかったのだろうか。
あたいには、分からない。たった二週間しかここにいないあたいには、五百年という歳月を理解するには遠すぎる。
だけど、レミリア様は、フラン様のことを悔いていらっしゃるようだった。
それは、きっと、良いことには違いなくて。
この騒動さえ治まれば、この姉妹が共に笑い合うときが来るのかもしれないと、あたいは思った。

やがて、地下への階段が現れる。
あたいたちは、そこを一歩一歩踏みしめながら行く。
もうすぐだ。もうすぐフラン様の顔が見られる。
そうすれば、あたいにとって、事件は解決したも同然だった。

図書館への道のりは、いやに静かな道程だった。
先程の化け物は、もうどこにも見当たらない。静かすぎるほど静かだった。
あたいたちの靴音が、廊下に響く。聞こえるのはただそれだけ。化け物の息遣いは皆無だった。

「!」

だから、メイド長の足が急に止まったのに、酷く驚いた。

「……? どうしました、咲夜さん?」
「……」

美鈴さんの声にメイド長は応じない。暗闇に沈む廊下の向こうを、ただ見据えるだけだった。

「……いかが、いたしますか、お嬢様?」
「そうね。久しぶりに、運動でもしようかしら?」

そう、レミリア様が言った瞬間だった。

ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!

「うわっ!」

耳をつんざくような轟音が、地下の廊下に響き渡った。
びりびりと床と天井が震え、まるで地震でも起こったかのようだった。

「来るわよっ!!」

メイド長がそう言った刹那、地響きのような足音が聞こえてきた。

「なっ、なに、あれっ!!」

そして、天井に届かんとするような巨体を揺らしながら、山羊のような頭をした大男が、その身の丈ほどもある大きな剣を引っさげて、こちらに向かってきたのだ。

「みんな、下がってっ!」

メイド長の声で、あたいたちは我に返る。
慌てて廊下の後ろに退避したが、レミリア様は違った。

「お、お嬢様っ!」
「ふん……」

レミリア様はスタスタと、向かってくる山羊男の方に歩き出したのだ。

「咲夜、手を出さなくてもいいわ。こいつは、私がやる」

レミリア様に向かって、山羊男の大剣が襲い掛かる!

「レミリア様っ!」

瞬間、あたいは、とんでもないものをみた。

レミリア様の首を狙った一撃は、レミリア様の左手のひらで受け止められていた。
そ、そんなバカな……あの剣って、レミリア様の三倍はあるぞっ!?

「はあっ!」

レミリア様は気合を込めると、大剣を握り締める。
バギッ、という鈍い音と共に、剣に指の形の穴が空く。
そして、レミリア様は剣を握ったまま、背後に向かって剣を捨てるようにして投げた。
当然、その剣の柄を握っていた山羊男も一緒に宙を浮く。

「うわぁっ!!」

あたいたちの上空を山羊男が通過し、大岩が高いところから落とされたような重い音と共に廊下に転がった。

「……多少は、やるみたいね」

レミリア様は、左手を舐めた。
血が滴っている。というか、あんな重い一撃を、かすり傷程度で受け止めるなんて考えられない。
やはり、この人は、最強の吸血鬼、レミリア・スカーレットなのだ。

「仕方ないわね。少し遊んであげるわ」
「お嬢様。私も共に」
「好きになさい」

レミリア様とメイド長が、山羊男に向かって構えを取る。

「あなたたち」
「は、はいっ」

レミリア様は、あたいとアン、メル、そして美鈴さんに向けて言い放った。

「私たちが、あれを止めている間に、フランを引っ張ってきなさい。命令よ」
「え……?」
「さあ、さっさと行きなさい! あなたたちから首を狩るわよ!」
「は、はいっ!」

あたいたちは弾かれたように立ち上がり、図書館に続く廊下を走った。



「……よろしかったのですか?」
「なにが?」
「妹様は、お嬢様がお助けになりたかったのではないかと」
「……そうね。試してみたかったのかもしれないわ」
「試す?」
「私には、これから先の運命が見えない。フランの運命が、欠片も見えない」
「……」
「あの小町という娘……あの娘を信じてみたくなったのよ。あの娘は、きっと私以上にフランのことを理解しているわ。だから……」
「……」

咲夜は、それ以上は問いかけなかった。

「さあ、来るわよ……」



あたいたちは、図書館へ走った。
レミリア様たちは大丈夫だろうか。
いや、あのレミリア・スカーレットと十六夜咲夜メイド長がコンビを組んでいるのだ。負けることなど考えられない。

だからこそ、あたいたちはやるべきことをやるだけだ。
フラン様。たった一日しか会っていないだけなのに、こんなにも遠く感じるなんて。
早く会いたい。そして、その笑顔が見たい。あたいは、その一念で、廊下を全力で走った。

「ここよっ!」

美鈴さんが、巨大な門の前で叫ぶ。
本当に大きかった。おそらく、紅魔館のどの扉よりも大きいだろう。

美鈴さんは、軽々とその扉を片手で開けると、中に飛び込んだ。

「はあっ!」

そして、気合を入れて足刀を振るう。どうやら、大口の化け物が中にいたようだ。
あたいたちも中に入り、各々武器を抜く。

「みんなっ! こいつらに構ってる暇はないわ! 奥に行くわよっ!」

美鈴さんの後について、あたいたちは駆け出した。
その後ろを、緩慢な動作で、化け物が追いすがってくる。

「うわっ、こっち来ないでよっ!」

一番後ろにいたアンが遮二無二、剣を振って化け物を牽制する。
その間に、あたいたちは本棚と本棚の間に身体を滑り込ませた。

そのまま、真っ直ぐ走り続けると、ポッカリと空いた空間があった。
一度来たことがある。ここは、パチュリーさんの書斎だ。ならば、ここに、パチュリーさんがいるのだろうか。

「パチュリー様っ!?」

あたいと同じことを考えていたのであろう、美鈴さんが声を上げる。
だが、そこには誰もいなかった。
乱雑に本が詰まれた机だけが、主のいない寂しさを主張していた。

「パチュリーさんが、いない?」
「ど、どこに行かれたんでしょう?」
「あっ、あそこ!」

アンが指差した先、そこに光の柱が見えた。
巨大な本棚のさらに上に伸びている白い光。おそらく、そこにパチュリーさんと、そしてフラン様がいるはずだった。

「よしっ、もうちょっとよ! みんな、頑張って!」

美鈴さんが檄を飛ばし、あたいたちは書斎を突っ切って再び本棚の間に入り込む。
光は少しずつ強くなっていく。本棚から漏れ出るように、その光はまばゆい光を放っていた。

やがて、本棚を抜ける。

そこには、想像を絶する光景が広がっていた。

「パチュリー様っ!」

パチュリーさんが、こちらを背を向けて立っていた。
あたいたちの声に気付いたのか、こちらに顔を向ける。

そして、その正面には、恐ろしいものがいた。

ぐるるるるるるるるるる……

ドラゴンだった。
まるで、鋼の塊だった。
あたいの三倍はあろうかという巨体を誇り、パチュリーさんと対峙していた。
鋭い爪、口から覗かせる凶暴な牙、ず太い尾。
そのどれもが暴力の化身のような姿をしていた。

そして……光の中。
ドラゴンが背にした光の柱の中に、フラン様が浮いていた。

「ふ、フランさまーーーーーー!!」

あたいは、ありったけの声で叫ぶ。
だが、宙に浮いたままのフラン様は、瞳を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
声が届いていないのか。なら、もっと、近くで……!

だが、その前に、あのドラゴンが立ちはだかった。

「くっ!」

ドラゴンは言っているようだ。
「助けたくば、俺を倒してから行け」と。
あたいは、鎌を握る手に力を込める。あと少しなのに……! あと少しで、フラン様を助け出すことが出来るのに……!

「そこの四人! 協力しなさい!」

パチュリーさんが、こっちに向けて叫ぶ。

「パチュリーさん!」
「今から、そこに行くわ! 動かないで!」

すると、パチュリーさんの姿がかき消えた。
そして、なんとパッとあたいたちの前に姿を表した。すごい、瞬間移動というやつのようだ。

「パチュリー様! あれは何なんですか!?」
「落ち着きなさい。順を追って説明してあげるわ」

こんな状況下で、落ち着くも何もあったものではないと思うのだが、とりあえずパチュリーさんの話を聞くのが先決のようだ。

「パチュリーさん! フラン様は……フラン様は無事なの!?」
「……ええ、今のところは。あの化け物が動いているのなら、生きてはいるでしょう」
「? ど、どういうこと」

パチュリーさんは、一瞬間を置き、そして話し出した。

「あそこにいる怪物は、ガードモンスターよ」
「が、ガードモンスター?」
「ありていに言えば、何か物を守ったりする守護者のようなものよ。妹様は、それに守られているわ」
「な、なんだって!?」

そ、それじゃあ、あのドラゴンは、味方なのか!?

「近付かない限り、あの怪物は攻撃しては来ない。だから、安心して。最初から説明してあげるわ」

パチュリーさんは、ようやくこちらに顔を向けてくれた。

「今日、雨が降ったわよね?」
「は、はい。私が門を守っている間に。そうしたら、紅魔館が赤い霧で包まれました」
「それは、妹様の力よ」
「な、なんですって!?」

ふ、フラン様が、あの霧を出したのか? じゃ、じゃあ、あの大口の化け物たちや、いまレミリア様たちが闘っている山羊頭もフラン様が!?

「いま、妹様が浮かんでいるあの場所。あそこは、禁呪の書が封印されている場所だった」
「き、禁呪?」
「簡単に言うと、使ってはいけない魔法の類が書かれた本のことよ。私はそれらを集め、不可視の魔法をかけて隔離しておいたはずだった。でも、どういうわけか、妹様がその部屋を発見し、中に入ってしまった。そして、“魅入られてしまった”」
「み、魅入られた?」
「その本は、おそらく召魔の法。自分の身に何かが起こったときに、使い魔を配置し、自動で身を守るようにセットする類の魔法よ。その使い魔が邪悪なのが難点だけどね。その本に妹様は触れ、そして魔法を暴発させてしまったのよ」
「……」
「この魔法は、半径百メートル以内の魔法を無効化してしまう。だから、天候操作の魔法が切れて、雨が降ったのよ」
「な、なるほど」
「そして、この魔法には、厄介なアレンジがしてあってね。無効化すると共に、その中にいた者の魔力や精神力を奪って結界を張るの。……紅魔館内で、メイドが倒れていたりしていなかったかしら? それは、結界に精神力を奪われたメイドよ」

……確かに、いた。顔面蒼白で、いかにも貧血で倒れた感じだった。

「この結界を解く方法は一つ。目の前にいるガードモンスターの金色に光る鱗を破壊すること」
「き、金色に光る鱗?」
「それはもう見つけてあるわ。尾の付け根に、それはある。それさえ壊せば、この結界は解除され、赤い霧も使い魔たちも消えてなくなるわ」
「そ、そこまで分かっているなら! なんで、パチュリーさんは、その金の鱗とやらを壊さなかったの!?」

そうだ。それなら、もっと早く、危険な目に遭うことなくフラン様を助け出せたのに!

「……あのガードモンスターにはね、魔法が効かないのよ」
「えっ!?」
「ガードモンスターは、術者の魔力の塊。だから、いくら魔法をかけても効かない。魔法に魔法は通用しないのよ。破壊できるのは、鋼の刃のみ。いま、あなたたちが持っているようなね」
「……」
「いい? 一刻も早く、結界を解除しなければならないわ。もう、この結界が発動して、一時間以上経っている。このままじゃ、妹様の命が危うい」
「えっ、そ、そんな!?」
「言ったでしょう。この魔法は禁呪なの。吸い上げた魔力が切れたら、今度は術者の魔力を糧にして動くのよ。見立てでは、そろそろ、妹様の魔力は枯渇するわ。一秒でも早く助ける必要があるのよ」
「……」

なら、こんな悠長に話し合っている時間はない。
すぐにでも、その鱗を壊さないと!

「で、でも、どうやって、その鱗を壊すんですか? そんなに簡単に、背後を取らせてくれるような相手には見えないですが……」
「心配しないで、策は考えてあるわ」

パチュリーさんは後ろを振り返る。
ドラゴンは、油断なくこちらを凝視していた。まるで、こちらの考えを読み取ろうとしているかのように。

「まず、おとりが、あのドラゴンの前に出て、おびき寄せるのよ」
「お、おびき寄せる?」
「ええ、あのドラゴンは、結界に近付いてきた者に近寄ってくる性質がある。そして……」

パチュリーさんが取り出したのは、ナイフだった。

「近付いて鱗を破壊するには、危険な相手よ。だから、これを鱗に投げつけて破壊するの。誰か私と一緒に、あのドラゴンの背後にテレポートして、投げつけてもらうわ。……誰がいいかしら?」

ドラゴンの尾にあるという金の鱗を、遠隔からナイフを投げて破壊する。そんな反射神経とコントロールを併せ持っている人物。

「……」

あたいとアンの目が、一人の娘の方に向いた。

「え? わ、私、ですか……?」

メルが自分を指差す。その瞳には言いようのない不安が見え隠れしていた。

「決まったようね。早くするわよ」
「ま、待ってください!」

メルは懸命に大きな声を出した。

「わ、私には自信がありません! ど、どうか、他の方に……!」
「メルッ!」

あたいとアンは、同時にメルに抱きついた。

「あ……」
「大丈夫、メルなら出来るよ。きっと、出来る」
「あのダーツの試合を思い出して。メルは、あのメイド長と互角に戦ったんだよ。だから、きっと出来る!」
「で、でも、二人とも……」
「フラン様は、メルに助け出されるのを待ってる。出来るのは、メルしかいないんだ。だから、頼む! フラン様を助け出してくれ!」
「そうだよ! メル、自信を持って! あんたならやれるから!」

メルの耳元で、精一杯の激励の言葉をかける。
大丈夫。メルなら、きっとやってくれる!

「……」

メルは逡巡しているようだった。
あの化け物に抗しうる大きな勇気、それを振り絞っているようだった。

「わ……………………わかり、ました。や、やってみます……!」

そして、最後にはそう言ってくれた。

「いいわ。じゃあ、これを持って。すぐに始めるわ」

メルは、パチュリーさんからナイフを渡されると、両手でぎゅっ、と握り締めた。

「いいわね? あなたたち、三人はあくまで囮よ。けして、無理はしないように。あの図体を見るに、まともに戦って勝てる相手じゃないわ」

それは、分かっている。あたいたちは、あのドラゴンをおびき寄せるのが最大の役目だ。後は、メルに任せるのみ!

「じゃあ、行きます!」

美鈴さんが、腰に力を込める。そして、ドラゴンに向かって突進した。
あたいとアンも、その後に続いて走り出す。
ドラゴンはこちらを睨み据え、あたいたちを待ち構えていた。

ぐおおおおおおぉぉぉぉぉっ!

そして、美鈴さんがその懐に飛び込まんとしたとき、身体が震えるような咆哮を放った。
筋肉の詰まった太い二本の足を動かし、あたいたちに向かってくる。
美鈴さんは、深く入り込まずに、ストップする。そして、一歩、また一歩とバックステップを繰り返した。
ドラゴンは、ゆっくりとこちらに近付いてくる。あたいたちをその爪の餌食にせんと、腕をいからせながら接近してくる。

「いくわよっ!」

パチュリーさんが声を上げ、メルの片手を掴む。
すると、二人の姿はそこでかき消え、一瞬でドラゴンの背後を取った。
すかさず、メルが、ナイフを振り上げる。そして、その背中に向かって、ナイフを投擲した!
ナイフは、ドラゴンの金の鱗に向かって飛来する。メルのコントロールがあれば、当てるのは容易いはずだった。

だが、それはダーツのように、動かない的に対しての話。生き物のような、動くものに対して当てはまるはずはなかった。
ドラゴンは、後ろに現れたパチュリーさんたちを認識した。そして、素早く体を旋回させたのだ。
当然、ナイフは、金の鱗ではなく、他の鱗に当たってしまう。ナイフは大きく弾かれ、宙を舞った。

「ああっ!」

宙を舞ったナイフはドラゴンの足元に、カラン、と落ちた。
まずい、あれがなかったら、フラン様を助けることが出来なくなってしまう!

「こ、こまっち!!」

あたいは、駆け出した。
何も考えなかった。
ドラゴンの恐ろしさとか、そんなものは二の次で、ただナイフを拾うことだけを考えていた。

ドラゴンはこちらに気付いた。あたいが突進してくるのに気付いた。
だから、その太い腕を振り上げるのは当然のことで。
あたいに向けて、その腕は勢いよく振り下ろされた。

「ぎっ!!!」

背中に鋭い熱さが走る。それも一瞬で、すぐに気絶するかのような猛烈な痛みが襲ってきた。

「こまっちっ!!」
「こまちさんっ!!」

背中が痛い。背中が痛い。血管が燃えるように熱い。どくどくと脈打つたびに、背中が張り裂けるようだった。
あたいは、奥歯を噛み砕かんばかりにかみ締め、目尻から出てくる涙をこらえた。
そして、転がり込みながら、あたいは、ナイフに到達する。
それをドラゴンの向こう側に懸命に投げた。



メルは、小町がドラゴンの爪に切り裂かれたのを、ドラゴンの背中越しに見た。

「こまちっ……!!」

血飛沫が、まるで花火のように舞って落ちる。
外してしまった。そして、小町を傷つけてしまった!
悔やんでも、もう遅い。自分の責任は、拭いようもない!

小町は、転がり込みながら、足元にあったナイフを懸命にこちら側に投げた。
からからとメルの足元にそれは転がってくる。メルは、それをすぐに拾い上げた。
そして、ドラゴンの背中を凝視する。金の鱗、それは、尾の付け根。規則正しく並ぶ鱗に逆らうように、その鱗は存在していた。
メルは、右手でナイフを持ち、それを左身に持ってくる。そして、右手を振るい、それを弾き出した!
それは、十六夜咲夜を思わせる投擲。ナイフは、真っ直ぐ、ドラゴンの鱗に向かって飛んでいった。



パリーーーーーーーーーン!!

鏡が一斉に割れるような音を聞いた。
その瞬間、光の柱が粉々に砕け散った。
あふれ出る光の洪水。それは、あたいの目に突き刺さった。

ぐおおおおおおぉぉぉぉっ!

ドラゴンが咆哮する。
光を浴び、それが断末魔であるかのように。

だが、まだその命は尽きていなかった。
あたいに向かって進んでくる。
そして、その右腕を振り上げた。

あたいは、歯を食いしばって立ち上がる。そして、鎌を下段に構えた。

「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

振り下ろされる、ドラゴンの腕。
振り上げられる、あたいの鎌。
光の中で交差をし、黒いシルエット同士が重なった。

瞬間。

一つの黒いシルエットが、ドラゴンのシルエットから分離した。
腕だった。はちきれんばかりの筋肉をまとった右腕が、回転しながら宙を舞い、地に落ちた。

あたいは、ドラゴンの腕を弾き飛ばしていた。鎌の刃とひきかえに。
柄だけとなった鎌を地に突き、懸命に体を支える。

ドラゴンの咆哮が、辺りに響く。
そして、ドラゴンは崩れていき、黒い灰となって消えていった。



静寂が、辺りを包んでいた。
あれほど溢れていた光は、今は一片も見当たらず、図書館は元の薄暗さを取り戻していた。
崩れ落ちた壁。散乱した無数の本。
その中心に、フラン様が横たわっていた。

「ふらん、さま……」

あたいは、ふらふらと、近付いていく。
フラン様が、そこにいる。
ようやく、辿り着いた。手を伸ばせばすぐ届くところに。
あたいは、フラン様のすぐ近くで膝を突いた。そして、その体に触れる。
温かかった。まだ生きている。そのことが、あたいの心をこの上なく安心させた。

「う……ん」

うっすらと、フラン様は目を開けた。そして、あたいの顔を見上げてくる。

「こまち……?」

あたいは笑みを浮かべた。
それが、あたいの最後の記憶だった。





















































風の音が聞こえた。
その音と共に、そよ風があたいの頬を柔らかく撫で、微かな緑の匂いを運んできた。
そよそよ、そよそよと。
レースのカーテンがこすれる音が耳に心地よく届いてきた。

あたいは、うっすらと目を開けた。赤い天井が目に飛び込んでくる。
ここはどこだろう。あたいは、見知らぬ部屋のベッドに身を横たえていた。
左を見ると、大きめの窓から木漏れ日が差し込んでいるのが見える。ここは、宿舎のあたいの部屋じゃなさそうだった。
身を起こそうとすると、背中に激痛が走った。

「うっ」

思わず、息を漏らしてしまう。よく見ると、あたいの体には包帯がぐるぐる巻きにされていた。
白い服に身を包み、まるで病人のようだった。あたいは、一体どうなったんだろう。
その時、唐突に思い出した。

「ふ、フラン様は……?」

あの時、確かに、あたいはフラン様に触れた。
小町、とあたいの名前を呼んでくれた。
赤い霧の異変は、解決したはずだった。
だとしたら、もう何も心配することはないのだろうか。

あたいは、今度は右の方を見た。
そこで、椅子に座っていた人を見た。
金の髪に、赤い服。宝石の羽に、あどけない顔。
その娘はあたいのベッドに寄りかかるようにして眠っていた。

「フラン様……」

自然と笑みがこぼれる。
まるで、何事もなかったかのように、フラン様はすやすやと眠っていた。
あたいは、フラン様の髪に触れた。
少し癖のある金の髪が、あたいの指に絡まってはほどけていった。

「う……ん」

フラン様が、身じろぎした。
そして、ゆっくりと目を開ける。

「あっ……!!」

飛び起きるフラン様。目を見開き、あたいの顔を凝視した。
あたいは、笑って言った。

「……おはようございます。寝覚めはいかがですか?」

フラン様は、ぽろぽろと、ぽろぽろと涙をこぼした。
そして、あたいにすがり付いてきた。

「うわあああああぁぁぁぁぁっ!! こまちぃぃぃぃ!! ごめんなさいっ、ごめんなさいぃぃぃぃっ!!」

フラン様は、号泣した。
何言ってんですか。フラン様は、何も悪いことはしてませんよ。
あたいは、ゆっくりと、フラン様の背を撫でてやった。
風が、あたいたちを柔らかく包み込んでいった。



「小町っ!」
「こまっちっ!」

部屋に入ってきたのは、アンとメルだった。
壊れるんじゃないかというくらい勢いよくドアを開けると、目を剥いてこちらを見つめてきた。

「小町っ! 良かった……!」
「うわあああぁぁぁっ、こまっちぃ……良かったよぉ……」

アンとメルは、ベッドで寝ているあたいに駆け寄り、涙を流した。

「……何泣いてるんだい。泣くことなんかないだろう」
「小町、済みませんでした……! 私があの時外さなければ、あなたがこんな目に遭うことには……」
「……いいんだよ。もう、終わったんだ。だから、二人とも泣かないでおくれよ。あたいまで悲しくなっちまいそうだ」
「こまっちぃ……こまっちぃ……」

と言ったものの、二人は涙が止まらなかった。拭いても拭いても出てくるようだった。
あたいは、その姿に少し笑い、そして、ありがとうと、心の中でお礼を言った。







あたいは、二日ほど寝ていたらしい。

フラン様のところまで歩いていった後、あたいは出血多量で倒れてしまった。
急いでパチュリーさんが治療用の魔法をかけたが、傷は深く、背骨にまで達していた。
パチュリーさんが、血液を作り出す魔法とやらを知っていなければ、あたいはどうなっていたか分からなかったそうだ。
彼女には、頭をいくら下げても下げ足りない。

それから、包帯でぐるぐる巻きにされたあたいは、この医務室に連れてこられた。
フラン様は、泣きじゃくってあたいにすがり付いていたという。
その晩は、アンとメルと、三人であたいの様子を見守っていた。
三人には、本当に心配をかけたようだった。反省しなければならない。

紅魔館紅霧異変と名づけられたこの騒動は、何とか終息した。

怪我人は、あたい一人。
メイドさんたちが怪物に襲われることはなかったという。みんな、生気を抜かれてぶっ倒れていたので、下手に動かなかったのが幸いしたそうだった。その点では幸運と言えるだろう。

レミリア様は、フラン様を処断しなかった。
フラン様がこの異変を引き起こしたのは故意ではなく、あたいたちにプレゼントを作りたかった、という理由からだった。
それに、紅魔館には実害はほとんどない。鴉天狗にもバレていないようだったし、この事件は紅魔館の黒歴史の中に葬り去られるだろう。
だから、レミリア様がフラン様に対して処罰を与える理由もない。アンとメルも懸命にその点を強調し、訴えたそうだ。さすが、あたいの先輩だね、やるときはやる。

こうして、紅魔館に再び日常が戻ってきた。

あたいは傷の痛みが癒えるまでベッドでの生活を余儀なくされたが、夜にはアンとメル、そしてフラン様が遊びに来てくれたので、退屈することはなかった。
フラン様と遊ぶのは、あのパーティーでのカジノ以来だったので、とても楽しかった。

そして、今夜も。



「やったー! これで上がりねー!」
「うひゃあ! また、あたしの負けー!? ついてなさすぎー!」

アンがカードを放り投げる。
チップに見立てたコインが、フラン様の手によってもぎ取られていった。

「へへー、ごめんね、アン。これで五連敗ね!」
「うわー! ちょっとは手加減して下さいよー! 今度は、あたしの服を賭けることになっちゃいますよー!」
「おっ、いいじゃないか。脱げ脱げ」
「もー、バカなこと言ってないで。さ、もう一度やりましょう。今度はアンも頑張ってね」
「当たり前だー! これ以上負けてたまるかー!」
「おー!」

あたいのベッドの上では、カードゲームが展開されていた。
なんともにぎやかな病室だった。これでも、あたいは患者なんだけどね。

「小町、背中の傷は、まだ痛みますか?」

メルが、カードをシャッフルしながら聞いてくる。

「いや、もうほとんど平気だよ。明日、あさってには完全に治るね」
「小町、無理しないでね。アンタってすぐ無理しそうだから」

フラン様は、上目遣いでこちらを心配そうに見つめてくる。
フラン様に心配されるのはとても嬉しい。その顔だけで、元気が出そうなくらいだった。

「ありがとうございます、フラン様。今度は大丈夫ですよ。それに、あんまり寝てばっかりだと、身体がなまりますからね。そろそろ体を動かしたいところなんですよ」
「そうだよー、こまっちいないと、仕事が増えて大変なんだから、早く復活してよねー」
「アン、そういうこと言わないの。小町は安静が第一なんだから」
「いや、冗談だって」

そんな会話をしながら、あたいたちはカードゲームに興じる。
やっていたのは大富豪だった。トランプゲームでは王道に入る。
メルがカードを切り、それをあたいたちに配っていく。
おっ、いいカードがたくさん来た。2とAが二枚ずつ。うまく立ち回れば一位になれるかもしれない。
だが、大富豪はカードが弱くても勝てるのが醍醐味だ。革命なんかが起こされないことを祈ろう。

「それじゃー、始めよっか。あたしがビリだったから、あたしからだねー」

そう言って、アンがカードをベッドの上に落としたときだった。
向こう側にある医務室の入り口の扉が開いた音がした。
全員がそっちを見遣る。ドアを開けたのは、意外な人だった。

「あっ、メイド長、こんばんわー。どうですか、一緒にやりません?」
「遠慮しておくわ。まだ仕事が残っているからね」

ドアを開けたのは、十六夜咲夜メイド長だった。
仕事の疲れを微塵も感じさせず、にこやかに微笑んでいる。

「やっぱり、みんなここに揃っていたわね。手間が省けていいわ」
「? なんですか、それって?」

アンの疑問に答えることなく、メイド長は手に持っていた丸められた紙を取り出した。
リボンのようなもので縛られており、メイド長はそれをほどく。そして、それを縦に開いた。

「アンナ・ワイズネス」
「へ? は、はい」

急に、アンの名前を呼び出すメイド長。一体なんなのだろう。

「メアリー・トンプソン」
「え? は、はい」

今度は、メルの名前を呼ぶ。……ということは。

「小野塚小町」
「は、はい」

やっぱりあたいの名前も呼ばれた。なんだか、メイド長は持ってある紙に書かれてある文字を読み上げているようだ。
そして、一度あたいたち全員の顔を見ると、穏やかに笑った。

「以上、三名を、フランドール・スカーレット専属のメイドに任命する。紅魔館当主、レミリア・スカーレット」
「……は?」

あたいたち三人の声が重なった。意味を理解するのに、しばしかかった。

「辞令よ。発令は今日だから、明日からその任につくこと。おめでとう三人とも、大出世ね」
「え……え……?」

アンはまだ、戸惑っているようだった。

「いやったあぁぁぁーーー!!」

フラン様が、カードを放り投げ、あたいに抱きついてくる。

「やったわ! これで、三人といつまでも一緒にいられる! こそこそ会いに行かなくてもよくなったわ! あはははははははっ!」

フラン様は、満面の笑みを浮かべ、あたいに頬を寄せて笑っていた。

「小町っ!」
「こまっちっ!」

メルとアンも、ようやくその意味を理解し、あたいに笑顔を向けた。

「……ああ、良かったよ。報われるもんだね、努力ってさ」

あたいも瞳を細めて笑う。
抱きついてきたフラン様をしっかりと支える。
傷が少し痛んだけれど、あたいはそれ以上の喜びに包まれていた。

























〜 6 〜

























地下の廊下は、地上の廊下と違って、より暗さを際立たせている。
歩くと燭台の炎がゆらゆら揺れ、あたいの影もつられて躍る。
部屋数は少なく、思い出したようにドアが壁にくっついている程度だ。
やはり、紅魔館といえども、地下はそんなに頻繁に使うところではないのだろう。

あたいは、その地下の道を歩いていた。
初めて歩く道とはいえ、これほど暗いとは思わなかった。もっと歩きやすいように明るくしてもいいと思うのだが。
地上の廊下も、それ程明るいわけじゃないけれど、この地下ほど暗くはない。
ここで生活しているお方もいるのだから、もう少し配慮してくれてもいいと思う。

フラン様が少し不欄に思える。何百年もの間、この地下で暮らしてきたのだと考えると余計にそう思う。
ただでさえ、日に当たることが出来ないのだから、地下ではなく、もう少し明るい地上の部屋に移動してもいいのではないか。
フラン様がそう感じているかどうかは分からないし、あたいの余計なおせっかいなのかもしれないけど、そう思わざるを得ない。もし、叶うのならば、お姉様と同じように地上の部屋に移動させてもらえないか。
それが、いつの間にか、あたいのささやかな願いとなっていた。

やがて、廊下は途切れ、突き当たりとなっているところに扉が見えてきた。
入るのは、初めてになる。ちょっとドキドキする。あの娘は一体どんな部屋で暮らしているのだろうか。
拳を握り、トントン、とノックする。そして、扉を開けた。

中は、あたいたちの部屋の三倍はあった。
見事なシャンデリアが一つ、天井からぶら下がっており、赤を基調にした内装で統一されていた。
金や銀をあしらった装飾がそこここに見られ、中の微かな光を反射してキラリと輝いている。
さすが、妹君のお部屋だった。地下に押し込められているのだから、殺風景な外壁むき出しの部屋だったら、どうしようかと思った。

あたいは、部屋の中心に近付いていく。そこには、レースの下がった豪奢なベッドがあり、中でお姫様がお眠りになっていた。

「フランさまー、朝……じゃない、夕方ですよー。そろそろお起きになる時間ですよー」

ベッドは身じろぎ一つしない。とてもよく眠っているようだった。
あたいは、カーテンレースの一枚を横にどけ、フラン様の体を優しく揺り動かした。

「フランさまー、起きてくださいー。飯が冷めちゃいますよー」
「う……ん」

眉をひそめただけで、フラン様は起きる気配がない。

「……」

あたいの中に、いたずら魂が芽生えてきた。

「フランさまー、起きないとこんなことしちゃいますよー」

ふに。ふに。
フラン様のやわっこいほっぺたをツンツンと突っつく。まるで突き立ての餅のような弾力で、あたいの指を押し返してくる。

(おおおぉぉぉ……)

気持ちいい。あたいは調子に乗った。
ふにふにふにふに。
両手を使って、左右のほっぺを挟み打つかのように突っつく。ぷにぷに感二倍増しであたいは恍惚に浸った。

「むにー……」

フラン様が声を上げた。だが、まだ起きる様子はない。

「……」

あたいは、さらに調子に乗った。

「フランさまー、起きないと、こんなことやっちゃいますよー、いいんですね? いいんですね!?」

あたいは、フラン様のほっぺを、むにーっと伸ばした。
おおお、すげー伸びる。まさに餅のようだ。さすが、餅肌フラン様。

「むにゅ……」

すると、フラン様は薄く眼を開けた。
あたいはパッと手を離す。

「おはようございます、フラン様。もうお起きになる時間ですよ」
「むー……」

目をこすりこすり、フラン様はゆっくりと身を起こす。

「…………おはよ、小町」
「はい、おはようございます。今日もいい天気ですよ」
「むー……」

フラン様は、ほっぺたを両手でさすりながら言った。

「……なんか、ほっぺが変。変な感じがする」
「それはきっと気のせいでしょう」
「……そうなの?」
「ええ、考えすぎは体に毒ですよ。ささ、お着替えお持ちしましたので、お召し物を変えましょうねー」

そそくさとフラン様を布団の外に出し、服を脱がせていく。寝起きのフラン様は、あたいの手のなすがままだった。



リビングルームヘの廊下をフラン様と共に歩く。
リビングルームはあまり良い思い出がないが、今回ばかりは別だった。
まさか、こうしてフラン様と一緒に歩ける日が来ようとは思いもしなかった。
あたいはいつになく軽い足取りで、リビングルームに向けて歩いていた。

「えヘヘ」

ぴょん、ぴょんと、踊るような足取りはフラン様だ。
あたいを追い抜くと、くるりとこちらを振り返る。

「ご機嫌ですね、フラン様」

あたいがそう言うと、ぱっと顔を輝かせてフラン様は言う。

「うん! だって、小町と一緒に歩けるんだもん。いままでお預けだったから、すごく楽しいよ!」

やがて、地下から上に上る階段が見えてきた。
フラン様は、たたた、と先に走っていってしまう。そして、階段を駆け上がり始めた。

「フラン様ー、階段で走ると転びますよー」
「大丈夫だって! 朝の運動だよー!」

廊下の隅々まで走り回るフラン様に付き従いながら、あたいはリビングルームを目指した。



リビングルームの前では、フラン様がすでに待っていた。

「速いですって、フラン様。もう少し元気を抑えて下さいよ」
「小町が遅いんだよー。小町も走ればいいじゃん」
「あたいは運動が苦手なんで無理っす。じゃあ、入りましょうか」

そう言うと、あたいはリビングルームへの扉を開け放った。

中では、レミリアお嬢様と咲夜メイド長がすでにいらっしゃった。
そして、アンとメルも中にいる。なんだか、メイド長から何か教わっているような雰囲気だ。

「……いい? これが、テーブルマナーの基本よ。分かった?」
「は、はい……あ、後で復習しておきます」
「え、ええと……も、もう一回いいですか?」

そう言ったアンの顔を、メイド長は細い目で見つめる。アンはたじっ、と後ろに下がる。

「まあ、いいわ。一回で覚えられるものでもないしね。……ん、妹様がいらっしゃったわね。明日、また復習しましょう」

メイド長はその場から離れると、レミリアお嬢様の傍らにそっと佇んだ。

「お姉様、咲夜、おはよう!」
「おはよう、フラン。よく眠れたかしら?」
「おはようございます。さ、席にお着きになってください」

フラン様は、スキップするような軽い足取りで、自分の席に向かった。

「アン、メル、おはよう!」
「お、おはようございます。お元気そうで何よりです」
「おはようございまーす。こまっちもお疲れさまー」

フラン様が席につくと、あたいたち三人はその後ろに並んで立った。

「さっきは、何やってたの?」

あたいは、隣にいたアンに聞いてみる。

「ああ、テーブルマナーをちょこっとね。これから必要になるからって、メイド長に教えてもらってたの」
「ほー、そんなもんが必要になるのかい」
「まさか、あんなに覚えなきゃならないなんて迂闊だったよ。こまっちも同じこと覚えなきゃならないんだから、覚悟しといた方がいいよ」

そいつは大変だ。
むう、お嬢様お付きのメイドともなると、それ相応の努力を要するということだろうか。
何だか、めんどくさいことになってきたね。でも、フラン様のためを思えば、やらなければならないだろう。

全ての準備が整うと、メイド長がガラス製の小さなハンドベルを鳴らした。
すると、向こうのドアが開き、ワゴンを押しながらメイドさんが入ってきた。
そのワゴンには、あたいたちが見たこともないような、美味しそうな料理が載せられていた。
コーンのスープに色とりどりのオードブル。規則正しくトマトが載せられたサラダに、メインディッシュの肉料理。
さすがに、紅魔館のトップ二人の料理はすごい。こっちまで匂いが漂ってくるので、否応無く唾が口の中に広がる。

「メアリーは紅茶を注いで。アンナはサラダにドレッシングをかけてね」
「は、はい」

メイド長に指示され、あたふたと二人は動き回る。
食事の世話だけも色々と覚えなければならないのか。こりゃ、大変だね。

「小町は、ぼーっとしてないで、二人のやっていることを見ていること。二度は教えないわよ」
「あ、は、はいっ」

実際、ぼーっとしていたので、慌てて二人の作業の様子を観察し始める。
次々に並べられていく料理や、その食事の用意だけで、ゆうに三分はかかった。

「それでは、いただきましょう」
「いただきまーす」

お二人は、早速、スープから手を付け始めた。

それから、無言で、あたいたちはフラン様の後ろに突っ立っていた。
いや、何か御用があったら、フラン様のほうからおっしゃってくるのだが、何もない場合は、とどのつまり暇である。
しかも、目の前には、美味しそうな料理の数々。これで黙って立ってろというのは生殺しに近いような気がする。

「ねー、お姉様ー」

サラダにフォークを突っ込みながら、フラン様が口を開いた。

「……何かしら、フラン?」
「会話が無いってつまんないと思わない?」

フラン様は、そんなことを言い出した。

「……あなたの言いたいことは分かるわよ」
「へ?」
「……そこにいるメイドたちを、一緒の食卓に着かせろ、でしょ?」

フラン様の目が丸くなった。どうやら図星のようだ。

「よく分かったね、お姉様」
「分かるわよ。あなたは、その三人をすごく好いてるもの。同じ時を共有したいという気持ちは、私にも分かるわ」

そう言われると照れるな。
フラン様は、こちらを振り返って笑った。あたいたちも笑いかける。

「でもね、フラン」
「ん?」
「そこにいるのは、あくまでメイド、従者なの。そこには、しっかりとした線引きを行わなければならない。友達とは違うのよ。あなたもスカーレット家の者なら、そのくらいは理解して欲しいわね」
「むう……」

納得いかない様子で、フラン様はサラダをごちゃごちゃかき混ぜる。
だが、フラン様は、頭の良いお方だ。きっと、心の中では理解しているのだろう。
あたいたちは、あくまでメイド。フラン様の下に付く存在に過ぎない。
だから、主と同じ食卓につくということは、それはメイドが主と同じ権力を持つ存在として数えられることになるのだ。

「じゃー、食事が終わったら遊ぶくらいは構わないよね?」
「……まあね。仕事の邪魔にならない程度にならいいわよ」
「やった! じゃあ、ご飯食べ終わったら、みんなで遊ぼうね!」

フラン様は振り返ってくる。
あたいたちは、話しかけることが出来ない。メイドという立場だから。
だけど、フラン様の気持ちは受け取ることは出来る。あたいたちは微笑んで、三人同時に頷いた。



そして、食事が終わる。

「ごちそうさま」
「ごちそうさまでしたー!」

すると、メイド長がまたハンドベルを持って、それを鳴らす。また、さっきのメイドさんがワゴンを押して現れた。
アンとメルは、さっきと同じように、メイド長から指示を出され、片付けの手順を叩き込まれる。
あたいも、それを聞き逃さないようにする。ふう、こりゃ、後で復習しておかなきゃならないね。

料理を食べ終わった皿が、他のメイドさんによって運び去られると、フラン様がぴょんと席を立った。

「終わったわー! じゃあ、みんな、遊ぼ!?」

食事をしている間、待ちきれなかったのだろう。フラン様は瞳を輝かせて、あたいたちを見つめる。
その姿に微笑ましいものを感じながら、あたいは少し屈んでフラン様に目線を合わせた。

「いやー、フラン様。残念ながら、まだそれは出来ないんです」
「えっ……なんで?」
「これから、フラン様のお部屋のお掃除をしないと。フラン様も、汚い部屋で寝るのは嫌でしょう?」
「そ、そりゃそうだけど……」
「昼食が終わったら、今度は窓拭きと廊下掃除です。ここは人手が足りないですからね、まだ前と同じ仕事をしなきゃならないんですよ」
「そ、それじゃあ、いつ、遊べるの?」

フラン様は、不安げな表情を浮かべた。それに、メルが落ち着いた声で答える。

「大丈夫ですよ、フラン様。仕事が終わった後なら、いつでも遊ぶことが出来ます。それは、一番最後になってしまいますが、お相手できる時間は必ずありますよ」
「それに、お話しなら仕事している最中にも出来ますしねー。遊ぶことは出来ないですけど、しゃべるのならいつでも構いませんよ」
「むう……」

納得いかない表情をしているフラン様だが、これがあたいたちの限界なのだ。
聞くところによると、咲夜メイド長は、なんと時間を止めることが出来るらしい。そんな能力でも持っていない限り、あたいたちが年がら年中フラン様と遊ぶことなんて出来ないのだ。

「レミリア様は、私たちを引き合わせようとして、私たちをフラン様のメイドにしてくださったんだと思います。その想いを汲み取っていただけませんか? 私たちが、こうしてフラン様とお話し出来るだけでも、とても有り難いことなんですから」
「……」

メルは、一生懸命フラン様を説得する。それが正論ゆえに、フラン様は反論することが出来ない。

「……うん、分かった。しょうがないよね。少しぐらい我慢しないと」

分かっていただけたようで、あたいたちはホッとする。
まあ、あたいたちもフラン様と遊びほうけていたいのは山々だが、やることはやらないとクビにされるからね。

「あ、そうです、フラン様」
「ん? なに?」

メルが何かを思いついたように手を打って言う。

「これから、フラン様と私たちの部屋に飾るためのチューリップを摘んでこようと思うのですが、フラン様に選んでいただけますか?」
「えっ、いいの?」
「ええ、もちろんです。大した手間はかかりませんから、お暇でしたら、ぜひご一緒に」

メルがそう言うと、フラン様はパッと顔を輝かせて答える。

「うん、行く行く! 私が選んであげる! じゃあ、すぐに行こ!」

メルの手を引っ張るようにして、駆け出そうとするフラン様。
それに、メルは苦笑する。

「あらあら。じゃあ、私たちは中庭に行ってきますね」
「ああ、あたいたちはフラン様の部屋の掃除に行ってるよ」
「フラン様、そんなに急がなくともチューリップは逃げたりしませんよ」

フラン様に引っ張られながら、メルはリビングルームを後にした。

「あはは、元気だね、フラン様」
「ああ、あたいたちも負けてらんないね。じゃあ、初仕事だ。フラン様の部屋の掃除に行きますか」







紅魔館の中庭は、冴え渡る月光を浴び、青白く輝いていた。

「わあ……きれいだねー……」

思わず漏れる感嘆の声。
その幻想的な庭中を、フランドールとメルは歩いていた。
両手に広がるチューリップの絨毯は、月の光を受けて、その色をほのかに白ませている。
無風の中。静かに佇むチューリップの群れ。動くものは、二人の影のみだった。

「フラン様は、中庭にはあまりいらっしゃいませんか?」
「うーん、あんまし。外に出ることもほとんどなかったし」
「では、今度は日傘を差して、日中にこちらにいらしてみてください。月の下も良いですが、やはりチューリップは日の下で咲いている方が華やかに見えますよ」
「そうなの? うん、じゃあ、今度そうしてみるね」

会話をしながら、チューリップの間を二人は歩いていく。
フランドールは、思い思いに咲いているチューリップを、手で撫でながら進んでいく。
さざめくようにチューリップは揺れ、フランドールの歩く軌跡を残しては消えた。

「さあ、この辺りで良いでしょう。フラン様のお好きなチューリップをお選び下さい」
「いくつでもいいの?」
「そうですねぇ……多すぎても少なすぎてもいけませんから、十本程度が良いでしょうね」
「十本かあ……」

フランドールは、辺りを見渡した。
無数に咲くチューリップが、フランドールに選ばれるのを待っているかのように見えた。

「うーん、悩んじゃうなー。どの子がいいかなー」

フランドールは、踊るようにチューリップ畑を渡っていく。
それは、まるで舞台のようで。咲き誇る花々は、フランドールを見つめる観客のようだった。

「色は、全部違うのがいいよね。……じゃあ、最初は、この子」

フランドールはしゃがみこみ、一本のチューリップの花を手で包み込んだ。
それは、オレンジ色をしたチューリップ。暖色の色が、温和そうな雰囲気を与えた。

「次は……この子」

次にフランドールが選んだのは、黄色のチューリップ。
元気の良さそうな色合いは、まるで天真爛漫な子供のよう。

「後は……この子」

その次にフランドールが選んだのは、白のチューリップ。
何物にも染まらないその純白は、清廉な印象を振りまいている。

「最後は……この子」

最後にフランドールが選んだのは、赤のチューリップ。
真紅の色に染まった花びらは、太陽のような明るさを秘めていた。

「これでいい?」
「ええ、フラン様のお好きなものでよろしいですよ」

メルはハサミを使い、フランドールが選んだチューリップの根元をパチンと切る。
四本のチューリップが、メルの手の中に収まった。

「これは、フラン様のお部屋にお飾りしましょう。あと、私たちの部屋に飾るチューリップも選んでいただけますか?」
「うん、いいよ!」

嬉々として、フランドールは改めてチューリップを眺め回す。
そうして、フランドールとメルは、しばしの間、チューリップ畑で時を過ごした。



フランドールとメルは、中庭を後にし、紅魔館一階の廊下を歩いていた。
メルの腕には、色とりどりの花びらをつけたチューリップが十本抱えられている。これから、メルの自室と、フランドールの自室にチューリップを生けに行くのだ。

「どう? メルたち、紅魔館の部屋には慣れた?」
「あ、ええ、大丈夫ですよ。最初のうちはちょっと戸惑いましたが、いまは自室としてきちんと使えるようになってます」

メルたち三人は、フランドールの専属のメイドとなったことで、紅魔館本館に自室をあてがわれた。その方が、フランドールの世話をするのにも適しているし、急用が出来たときにも対応しやすい。
だが、三人とも宿舎の生活に慣れていたのもあって、最初のうちは、なんとも言えない違和感を持ちながら、その部屋を使った。
部屋の広さは、元の宿舎の倍はあった。そして、宿舎のものとは比べ物にならないくらい豪華な内装、日常品の類、ふかふかのベッド。急な変化に付いていけなかった。あまりにも場違いな感じがしたのだ。
だが、それも最初のうちの話で、今ではその部屋を使うのに慣れつつある。まあ、部屋が変わったというだけで、彼女たちの根本的な生活環境はほとんど変わっていなかったから、というのもある。

そんなわけで、フランドールとメルは、まず一階にあるメルたちの自室からチューリップを生けに行くことにした。
正面ロビーを抜けて、数分。紅魔館の数ある部屋の中の一つ。
メルは、その扉の前に立ち、チューリップの束を片手で抱えながらポケットから鍵を取り出し、鍵を開けてノブを捻った。

中は、灯りが消され、暗かった。
それを不自由に思ったのか、フランドールがメルに話しかける。

「なんだか、暗いね。明かりつけていい?」
「え? ええ、よろしいですけど」

メルがそう言うと、フランドールは、壁の四隅にある燭台を見やった。

「えいっ」

指先に炎を灯し、それを投げつける。
燭台に向けて放たれた炎は、真っ直ぐ火種に向かい、ほのかな明かりを灯した。

「あら、お見事ですね。炎の魔法ですか」
「うん。けっこう私、得意なんだよ」

自慢げに胸を反らしながら、フランドールは部屋の内部を眺める。
三人の新しい部屋は、それだけで興味をかきたてられる。

メルは早速、部屋の端にあった花瓶のほうに向かう。枯れかけのチューリップを慈しむように撫で、右手でゆっくり引き抜いた。それを花瓶の脇にそっと置き、新しく摘んできたチューリップを花瓶に挿す。元気一杯に咲いているチューリップは、それだけで室内の空気を明るくするようだった。

メルは、しばらく生け花をするかのように、チューリップの角度を調整していた。
その間、フランドールは室内を歩き回ってきょろきょろしていた。
何か物珍しいものはないか。それを探し出そうとする好奇心丸出しの瞳。その目は、部屋の奥にあった机に向けられた。
宿舎のものとは比べ物にならないほど大きな木製の机。つやつやとした光沢が、燭台の炎に揺らめいてきらきら光った。

フランドールは、その机を物色することにした。
前の机には、ハサミや鉛筆などの日用品や、アンのアクセサリーの材料などがごちゃごちゃ入っていた。
この机の中には、一体どんなものが入っているのだろう。前と同じか、それとも新しい何かが入っているのか。

フランドールは、机の前に立った。
机の上は締麗さっぱり何もない。まだ、ここが使われだして二日目なのだから、無理もない。
フランドールは、机に刺さっている椅子をどけ、最初の引き出しを開けた。
大き目の引き出しの中には、たくさんのビーズや輝石、その他アクセサリーに欠かせない材料が所狭しと並んでいた。
これは、アンのものだろう。前よりも増えている気がする。やはり、机も大きくなったから、相応の量が詰め込まれたということだろうか。アクセサリー作りは最近やっていなかったので、そろそろアンに頼んでやらせてもらうのもいいかもしれない。

フランドールは、その引き出しを閉め、その横の脇机の引き出しを開けた。
鉛筆、消しゴム、万年筆やメモ帳など。筆記用具が整理されないまま放り込まれていた。
フランドールの興味を引く物など、何一つない。一瞥した後、フランドールはその引き出しを閉めた。

そして、次の引き出しを開ける。

「ん……?」

そこに入っていたのは、本だった。黒っぽいハードカバーのやや厚めの本。ずいぶんと汚れており、使い込まれた跡が見られた。
フランドールは、その本が何の本なのか分からなかった。故に、そばにいたメルに尋ねるのは当然のことだった。

「ねえ、メル」
「ん? はい、なんですか、フラン様?」

チューリップをいじる手を止め、こちらを振り返るメル。
そして、目を見開いた。

「あ……ふ、フラン様、その本をどこで……」
「ここの机の中に入ってたの。これって一体何の本?」

フランドールは、ただ単に、この本がなんなのか問いただしたに過ぎない。
だが、メルは落ちつかなげに手を組み合わせながら、そわそわしている。

「この本の題名、“死神試験問題集”って書いてある。試験ってなに? 誰か受けるの?」
「そ、それは、ですね、フラン様。ええと……」

メルは、目を泳がせながら、懸命に何を言うべきか考えているようだった。
フランドールは、そんなメルの態度を見て、初めて訝しさを感じるのだった。



フラン様の部屋の掃除は、思った以上に大変な作業の連続だった。

まず、ベッドのシーツを換えてベッドメイクをする。いきなり、これが大変だった。
ベッドメイクなど一度もしたことがない上に、フラン様のベッドはムダにでかい。
シーツを引き剥がすだけでも一苦労で、その後で新しいシーツを敷く作業も大変だった。
アンがやり方を知っていたので、教わりながら手伝ったが、アンもこんなに大きなベッドを扱うのは初めてだという。
あたいらはひーこら言いながらベッドと格闘し続けて、数十分かけてベッドを整え終えた。

「ふ〜、ようやく形になったね」
「そ、そうだね。大きなベッドっていうのも考えものだよね」

所々いびつなところがあり、苦労の跡を物語っているが、まあ、寝られないことはないだろう。
後は慣れの問題だ。慣れてくれば、スピードも質も上がってくるに違いない。

「じゃあ、次は何をやるんだい?」
「うーんと、絨毯のゴミ取りと調度品の拭き掃除だね。こまっち、どっちやりたい?」
「あ、あたいは絨毯がいいや。あの機械、使うの面白いんだよね」
「うん、いいよ。じゃあ、あたしは拭き掃除ね。じゃ、始めよっか」

あらかじめ、道具置き場から掃除機とバケツと布巾を持ってきていたので、あたいたちはそれを使って各々掃除の準備をし始める。
あたいは、例の掃除機の袋を担ぎ、T字の棒を持つ。ボタンを押すと、ズゴー、と先っぽから風の流れる音がし始めた。

アンは、すでに部屋の端っこにあった鏡台を拭きにかかっている。広い部屋だし、さっさと始めないといつまで経っても終わらない。
あたいはさっそく部屋の端から掃除に取り掛かろうとした。

バタン!

そう思った瞬間。
この部屋の入り口の扉が勢いよく開かれた。

「?」

あたいは、当然、そちらのほうを見遣る。
すると、よく知っているお方が、息を切らしてそこに立っていた。

「フラン様……?」

フラン様は、息を整えながら、室内を見回した。
そして、あたいの姿を認めると、一気にこちらに駆け寄ってきた。

「うわっと!」

あたいは、慌てて、フラン様の体を抱きとめる。

「ど、どうしたんですか、フラン様……?」
「こ、小町……」

フラン様が、あたいの胸にうずめていた顔を上げた。
その表情は険しい。なんだか、切羽詰っているような表情だ。

「ど、どうなさったんです? 何かありましたか?」
「こ、小町。小町って、いつか、ここを出て行っちゃうって、ほんと?」
「え……?」

その時、あたいはどんな顔をしていたのだろう。
フラン様の顔が一層険しくなった。

「死神の試験を受けて、それで、どっか行っちゃうって、ほんと? 小町は死神になっちゃうの?」
「ふ、フラン様……」
「ねえ、答えて。小町は、死神になるの? ここを出て行っちゃうの? 本当?」

部屋の入り口には、いつの間にか、息を切らしたメルがいた。
その顔を見て、あたいは悟った。知られてしまったのだと。

「フラン様……」

あたいは、抱きついているフラン様を優しく引き離し、目線を合わせた。

「……はい。いままで黙っていましたが、あたいはあと二ヶ月ちょっとで、ここを後にするつもりでいます」
「!」
「あたいは、元々、ここには三ヶ月の間、働きに来たつもりでした。船頭死神の試験まで食い繋げられる仕事をしたかった。それが、紅魔館だったんです」
「……」
「夏の試験が受かったら、あたいはここを去ります。名残惜しいですが、あたいはそのつもりでここに働きに、」
「いやだ」

フラン様が、あたいの言葉を遮った。

「いやだよ」

そして、あたいを突き飛ばすようにして離れた。

「いやだっ! 小町がいなくなっちゃうなんて、そんなのいやだっ! そんなの絶対に認めないっ!!」
「フランさまっ!」

フラン様は、そう言い残して、部屋を駆け出て行ってしまった。

「……」

残されたあたいたちは、ただ、どうしようもなく立ち尽くすのみだった。



考えなかったわけじゃない。
ただ、考えたくなかっただけなんだ。

フラン様が、あんなにも綺麗な笑顔で笑うから。
フラン様が、あんなにも元気にはしゃぐから。

だから、その顔を曇らせるのが、あたいは嫌だった。
少しでも長く、この幸せな時間を過ごしていたかったんだ。

でも、それはいたずらに時間を浪費しているだけで。
話すのが遅ければ遅いほど、フラン様を傷つけることになるに違いなくて。

その時は唐突に訪れた。
あたいが話す前に、フラン様に知られてしまった。
あたいが話し出すきっかけを見つけている間に、フラン様が自分から知ってしまった。

もう、どうしようもなかった。
結局、最悪に近い形で、あたいはフラン様を傷つけてしまった。

言い訳はしたくない。
だけど、一言だけ言わせてもらえるなら。

あたいは、フラン様に幸せになって欲しかっただけなんだ。



「……」

その日の昼食。
フラン様は姿をお見せにならなかった。

「あなたたち」

レミリア様の声が、あたいたちに向けて発せられる。
少し、怒気を含んでいるように聞こえたのは、あたいの気のせいだろうか。

「フランはどうしたのかしら?」
「え、ええと……」

メルが言い淀む。
……こういうことになった責任は、あたいが一番大きい。
だから、あたいから説明すべきなんだろう。

「……分かりません」
「分からない?」
「……はい。紅魔館中を探してみましたが、フラン様を見つけることは出来ませんでした」
「何故? フランが雲隠れしてしまった理由はなんなわけ?」

あたいは、一呼吸継いで、言葉を発した。

「あたいが……数ヶ月後に、ここを出て行ってしまうことを、お知りになったからだと思います……」
「……」

レミリア様は、頬杖を付いて考え込んだ。
この人は、紅魔館の当主だ。きっと、もうどういう事態になっているのか、把握しているのだろう。

「あなたが数ヶ月後にここを出て行くというのは初耳だけど、咲夜、そうなの?」
「はい。小町は、ここに働きに来た当初から、三ヶ月間雇用という条件で働きに来ています。故に、七月いっぱいまでが契約期間となりますね」
「なるほどね……これはまた、厄介なことになったわね」

レミリア様は椅子に背をもたれ、腕を組んでテーブルを睨んだ。

「私が、あなたをフランの専属のメイドにしたのは、言わずもがな、フランの情緒を平静に保ち、そして育ててもらうためだった。フランは特に、あなたに懐いていた。あなたがフランのそばにいてくれるのなら、全て丸く収まるはずだった」
「……」
「でも、そううまくは行かなかったようね。いま、あの娘は混乱しているでしょう。心を開いた相手が去ってしまうことが急に分かったから。当然、あの娘はそんな事態にいままで遭ったことがないわ。何をしでかすか、想像がつかない」

ふう、と息をつき、レミリア様は言葉を継いだ。

「しかし、今回の問題。それは、私があなたをフランの専属のメイドにし、より近くにいさせようとしたことも原因にある。だから、あなたが短期の仕事に就いていたことを知らなかった私にも責任があるわ」
「そ、そんな。レミリア様には、何の非もありません。ただ、あたいがフラン様にお話しすることを怠っただけで……」

レミリア様は首を振る。これ以上、非を言い合っても仕方ないと言うように。

「いいわ。食事は後にして、フランを探しましょう。きっと、外には出ていないから」

立ち上がり、その場を後にしようとするレミリア様。

「あなたたちは、ここにいなさい。私がフランを連れてくるわ」
「そ、そんな。レミリア様に探させて、あたいたちがじっとしているなんて出来ません」
「大丈夫よ」

そう言うと、レミリア様は天井を仰いだ。

「あの子が行きそうなところは、見当が付いているから」







足を踏み出すごとに、硬質な音が辺りに響く。
螺旋階段は果てしなく長く、遥か上に見える天井にまで伸び上がっていた。
灰色の壁は一様で、正方形に切り取られた採光用の窓から、月明かりが細く差し込んでいる。
それを唯一の光源とした回廊は、紅魔館の中でも最も暗い深淵をのぞかせていた。

レミリアは、一歩一歩、その階段を上っていく。
最後にここに来たのは、いったいいつのことだろうか。もう昔のこと過ぎて、記憶の中に、もやがかかる。
だが、幾度かこの道を歩いたことは確かにあった。
それは、珍しく姉妹ゲンカをしたときのこと。ケンカ別れしたフランドールを探すために、この道を歩いたのだ。
いまから数十年も前の出来事。
フランドールは、その時、確かにこの階段の上にいた。

やがて、レミリアは階段を踏破する。
その先にあった、鋼鉄の扉を引き開け、外に出た。

ざあ、と風がレミリアの頬を撫でた。
夜の湖が、視界一杯に広がっていた。
遠くに見える山々も、その麓に広がる森林も、深い闇に閉ざされていた。

上弦の月が、その頭上に輝いている。
その金色の月明かりが、紅魔館最上階の展望台に降り注いでいた。
右手のほうには、紅魔館を象徴する巨大な時計台も見える。
時刻は、零時になろうとしていた。

「フラン……」

その展望台の一番端っこ。
柵に寄りかかるようにして景色を見ているフランドールの姿があった。

「フラン、食事の時間よ。降りてらっしゃい」
「いらない」

つれなく返事をするフランドール。一度もレミリアの方を見ようともしない。
レミリアは、フランドールの方に近づいて行き、その横に立った。並んで、柵にもたれかかる。

「どうして?」
「……食べたくないから」

その横顔を、レミリアは見た。
虚空を見つめる瞳は、目の前の夜の景色を映していないように見えた。

「違うでしょう」
「……」
「あの娘……小町に会いたくないからでしょう」
「……!」

フランドールは顔を背ける。レミリアは構わず、落ち着いた口調で話し続けた。

「小町は心配しているわ。あなたが、急にどこかに行ってしまったからね」
「……」
「小町だけじゃない。アンナ、メアリーも心配している。そして、もちろん、私と咲夜もね。あなたは、一体何人の人に心配をかければ気が済むのかしら?」
「でもっ……!」

フランは、初めてレミリアに向き直った。

「小町は……小町は、いつかここを出て行ってしまうんだよ!? それを悲しまないわけにはいかないの? そんなことも許してもらえないの!?」
「フラン……」
「私は……ずっと、小町に紅魔館にいて欲しい。死神になんてなって欲しくない。一緒に笑いあって、一緒に遊んで、一緒にお喋りして、そんな生活をずっとずっと続けていきたい!」
「……」
「そう願うのは、傲慢なの? 私に初めて光を当ててくれた人に、そう願うのは、いけないことなの?」

フランは、レミリアに身を寄せ、胸に顔をうずめた。

「教えて……お姉様。私、どうしたらいいのか分からない。私は一体、どうしたらいいの?」
「……」

フランは、まるで小さな子供のように震えていた。
それは、姿相応の子供が途方に暮れている姿に違いなく。
何百年も生きてきたことなど関係なく、一人の少女としての姿がそこにあるばかりだった。

「フラン、落ち着いて、よく聞きなさい」
「……」
「あなたの気持ちは、良く分かるわ。あなたにとって、小町は掛け替えのない存在。あなたを暗い闇の淵から連れ出してくれた騎士のような存在なのよね。いつまでも一緒にいたいという気持ちは分かるわ」
「……」
「でもね、フラン。世界に存在する全ての人々の繋がりは、いつか必ず潰えるときが来る。それは私も例外ではないわ。私の信頼する十六夜咲夜。彼女はあと数十年で力尽きるでしょう。必ず、別れの時が訪れるのよ」
「……」
「それは、永劫の別れ。望んでも、二度と会うことは出来ない。命が尽きてしまったら、再びまみえることはありえない。……でもね、命があるのなら、生きてさえいるのなら、また会える日が来るでしょう。……分かるかしら? 私の言いたいことが」
「…………うん」

小町は、ここを去る。それは、あくまで紅魔館という場所を去るということだけなのだ。
もう、二度と会えないというわけではない。その気になれば、いつかまた、会える日が訪れるだろう。

「小町がここを出て行き、再びここを訪れるのならば、私たちは彼女を客人として迎え入れることが出来る。だから、悲しまないで。二度と、会えないというわけじゃないの。命ある限り、ね」
「……」
「彼女も、望んでいるはずよ。また、フランの顔を見に紅魔館に来たい、と。その時まで、待ちましょう。待つのは辛いことだけど、再び会えると分かっているのならば、耐えることが出来るはずよ。あなたなら出来るわ。きっとね」
「……」
「それにね、小町の想いも理解してあげてほしいの」
「え……?」

フランは、顔を上げる。

「あなただけが、悲しいとでも思った? 小町だって、あなたと別れるのは辛いと思うわ。私と同じ、いいえ、私以上にあなたに愛情を注いでいた娘なのよ。離れ離れになるのがどれだけ辛いか、あなたは理解している?」
「……」
「それを懸命に振り切って、あの娘は己の信念を貫こうとしているのよ。それがどれだけ気高く、崇高なことか、あなたは
分かっているのかしら? その意志を尊重するということがいかに大切か、それを理解できているかしら?」
「……」
「あなたが、あの娘と離れ離れになるということが、いかに苦しいことかは、私にもよく分かっているわ。でも、あの娘の気持ちも考えてあげて。あなたは賢いわ。そのくらいは、考えてあげることが出来るでしょう?」
「……」

フランドールは俯いた。

レミリアの言ったことは、きっと正しい。
結局のところ、これはフランドールのわがままでしかないのだ。
小町がいてくれないと寂しいと、癇癪を起こしているだけに過ぎない。

だから、レミリアは、優しく、そのことを諭した。
叱り付けるのではなく、フランドールが自ら最善の方法を考えられるように手を引いてやった。
我が妹は、きっと正しい道を歩んでいける。
そう願いを込めた、懸命の説得だった。

長い時間をかけ、

「お姉様……」

フランドールは顔を上げた。

「私は、寂しい」
「……」
「小町がどこかに行っちゃうのは、すごく寂しい。私に出来た初めての友達。それが、いなくなっちゃうのは、身を切り裂かれるくらい寂しい」
「……」
「……でも……私がわがままを言って、小町の未来を奪ってしまうのは、もっと嫌。初めて出来た友達だから、私のせいで困らせたり傷つけたりするのは嫌なの。だから……」
「……」
「だから……小町が、どうしたいのか、これからどうしたいのかを聞いてみたい。私じゃなく、小町がどうしたいのか。それが、一番大切なことだと思うから」
「……よく出来たわ、フラン」

レミリアは、フランドールを抱きしめた。
それは、成長。
自らのことしか考えず、他の全ての者を省みようとしなかったフランドールが、初めて見せた他者への配慮。
五百年という長い歳月の中で決して培われることのなかった感情の発芽。

レミリアは、我が妹を抱きしめた。
そして、感謝し、懺悔した。
私は、結局、何もしては来なかったのだ。
あの赤毛の娘は、紅魔館の腐った根っこを根こそぎ剥ぎ取ってしまったのだ。

カラーン、カラーン

零時の鐘が鳴った。
それは、天使の福音の如き音色に、レミリアには聞こえた。







「フランさまっ!」

フラン様の姿を見た途端、あたいたちはそちらの方に駆け寄った。

「どこへ行かれてたんですか! 心配しましたよ!」
「小町……」

フラン様は、あたいの顔を見上げてくる。
何か決意したかのような、そんな顔だった。

「小町……。小町に聞きたいことがあるの。聞いてくれる?」

あたいは、その声に応じ、目線をフラン様に合わせた。

「……はい、なんですか?」
「……私は、小町と一緒にいたい。私の命が尽きるまで。あなたの命が尽きるまで。いつまでも、私はあなたと一緒にいたいと思っている」
「……」
「でも……あなたには目指している道がある。それを目指す権利が、あなたにはある。そして今、私の元を去り、違う新しい道を歩こうとしている」
「……」
「だから、教えて。小町は、一体、どの道を歩くの? どの道を歩きたいと思っているの?」

フラン様は、あたいの目を真っ直ぐに、そして必死な目で見つめてくる。
あたいに、真の答えを求める瞳。

あたいは、少しの間、目を閉じ、そして、目を開け、答えた。

「……フラン様。あたいは、フラン様のことが大好きです。二週間前に初めて会った時から、その気持ちはみるみるうちに膨らんで、あたいの心の大きな部分を占めるようになりました。あたいも、フラン様と一緒にいたいです。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に喜んで。そんな日々が送れたら、なんて楽しいんだろうと思います」
「……」
「でも、あたいの心の根っこの部分。それは、あたいの心の中心です。それが問いかけてくるんです。“お前は、何のためにここにいるのか”と。あたいは、船頭死神になりたかった。それが、根本的で、あたいの存在価値そのものなんです」
「……」
「だから……フラン様。あたいは……船頭死神になります。それが、あたいの生きる目的だから。天職そのものだからです」
「……そう」

フラン様は、あたいの胸に飛び込んできた。
かすかに、肩が震えていた。

「ごめんなさい、フラン様。あなたのそばにいることが出来なくて……」
「……いいの。もう何も言わないで……。ただ、こうしているだけでいいから……」

フラン様は、あたいの胸にいつまでも、顔をうずめていた。
あたいも、フラン様の感触を確かめるように、肩をしっかりと抱いてやった。




























































そして、時は流れて――――




























































手荷物は、そんなにない。
筆記用具に多少の金、使い込んだ参考書。そして、受験票。
それらをカバンに詰め込んで、全ての準備は整う。

「ふう」

溜め息なんかついてみる。
いつもと同じ、自分の部屋のはずなのに、なんだか今日はよその部屋のように感じる。
今日がいつもと違う日だと、肌で感じているからだろうか。

「……」

緊張は、驚くほどしていない。
湖畔のさざ波のように、あたいの心は平静を保っていた。

まあ、二度目の受験だからという要素もある。
でも、それ以上に、あたいにとって大きいのは……

ガチャ

扉が開く。
この二ヶ月でお馴染みになった、二つの顔が覗いた。

「こまっち、準備は出来た?」
「いよいよですね。応援することしか出来ないけど、精一杯の力を出して頑張ってきてください」
「うん、頑張って。こまっちなら、きっと出来るよ」

二人は、真剣な表情をして、激励の言葉をかけてくる。
それに、にっ、と笑いながら頷き、あたいはカバンを持つ。

「さて、行くとしようかね」

二人が開けた道を通り、あたいは部屋の敷居を跨いで外に出た。



紅魔館に続くロビーを歩いていく。
夏の朝の日差しは眩しくて、あたいの身体に突き刺さるように降り注いでいる。
今日は、暑くなるだろう。日ごとに高まってくる気温は、今年の最高記録に到達するのではないかと予感させた。

アンとメルの二人も、あたいの後をついてくる。玄関まで見送りに来てくれるのだろう。

「こまっち、普段着だとなんだか雰囲気違うね」
「ん? そうかね。似合ってるかい?」
「うんうん、かっこいいよ。これなら、面接官にも好印象だね!」

アンは親指を立てながら、そんなことを言う。
実に二ヶ月ぶりに来た普段着だ。タンスの奥の方に詰め込まれていたので、変なところにしわが寄っていた。
本当なら、もっとフォーマルな服装がいいのだろうが、あいにく、あたいにはこれ以上の服は持ってない。
まあ、死神試験は生まれなどを考慮して服装は自由とされているので、変に気後れする必要はなかった。

やがて、ロビーが見えてきた。
自室を紅魔館本館に移してから、ほとんど通ることがなかったロビーは相変わらず薄暗く、そして異様な奥行きを感じさせた。
足を踏み入れると、豪奢なシャンデリアにいくつも迎えられる。
玄関は、もうすぐそこだった。

「あ……」

だが、その中心。ロビーの絨毯の中心にいたお方を見て、あたいは止まった。

「フラン様……」

フラン様が、こちらに背を向けて立っていた。
まるで、何かを待っているかのように。足元に視線を落としながら、足をもてあそんでいた。

やがて、こちらに気付く。
すると、にこりと笑って、こちらに近付いてきた。

「いよいよだね」
「ええ、行ってきます」

フラン様は俯いた。
何か、言葉を探しているようだった。
あたいは、それを急かさず待つ。言いたいことがまとまるまで、あたいはフラン様の頭をじっと見つめた。

フラン様は、急に首に手を回したかと思うと、何かを外し始めた。
そして、それをあたいの前に差し出す。

「お守り。小町の試験が、うまく行きますように」
「……」

それは、いまから二ヶ月前のパーティーでのこと。
あたいと、アンと、メルが一緒に作り、フラン様にお渡ししたペンダントだった。

「頑張ってきて。そして、必ず、これを返しに来て」
「……はい。ありがたく、お借りいたします。フラン様の想いの詰まったペンダント、確かに受け取りました」

あたいは、フラン様からペンダントを受け取り、その場で身に付けた。
十字架をあしらった可愛らしいペンダントが、あたいの胸で輝いた。

「それでは、行ってきます」

あたいは、玄関に向かう。
颯爽と。微塵の迷いも吹き払うように。

ドアを開けると、まぶしい太陽の光が全身に降り注いだ。
手をかざし、紅魔館の前庭を望む。そして、門の方に足を踏みしめて、あたいは歩き出した。



小町の出発を見送った三人は、そのままロビーで立ち尽くしていた。

「行っちゃったね」
「ええ。後は祈るだけですね」

フランドールは、手を組み、祈るような仕草をする。
その胸中は複雑だった。

小町には、試験がうまくいくように祈っている。
だが、反対に、失敗を望んでいる自分も確かに存在しているのだ。
試験が不合格なら、小町はまた自分のそばにいてくれる。次の試験まで、再びメイドとしての日々を過ごすことになるだろう。

「……」

だが、そんな感情は忌むべきものだ。
自分の大事な人に対して失敗を願うなど、あってはならない。
だから、フランドールは懸命にその感情を押し殺す。
小町が無事に試験を終え、満足の行く結果を残せるよう祈ることだけを考えるのみだった。

「さあ、フラン様、行きましょう。もう仕事も終わりましたから、お相手できますよ」
「うん。じゃあ、遊ぼっか」

三人は、ロビーを後にする。
小町の試験の成功を、そして、無事に帰ってきてくれるよう願いを残しながら。







「次、107番。入りなさい」
「はい」

あたいの前のやつが席を立った。
あたいの番号は、108番。いよいよ、次があたいの番だ。

緊張を抑えるために、あたいは胸元に目を落とす。
そして、フラン様から託されたペンダントを握り締めた。

「……」

目を閉じて、静かに、深く深呼吸する。
頭によぎる顔を思い浮かべる。

いつも元気な笑い顔で、あたいたちのムードメーカーになってくれる、アン。
あたいが勉強しやすいように、いつもより早く寝て静かにしてくれていた。
そんな心遣いがとても嬉しかった。本当は、誰よりもはしゃぎたいのに、それを抑えてくれたのだ。

思慮深いまなざしで、あたいたちのお姉さん役をしてくれた、メル。
あたいが勉強をしている最中に、いつも紅茶を持ってきてくれた。
ねぎらいの言葉もたくさん貰った。感謝はいくらしても、し足りない。

そして……

「108番。入りなさい」

あたいの番号を呼ばれる。

「はいっ」

返事をし、あたいは室内に足を踏み入れた。

あたいの前には、三人の面接官がいた。
左に、あごひげの生えたおじいさん。右に、中年太りした女の人。
そして……中央に座っていたのは……。

「……」

偶然とはこういうものを言うのだろう。

裁判長は、自分の部下を決めるために自分で面接を執り行う。
だが、どの裁判長に当たるかは、完全に運だ。
だから、これは、きっと、あたいとこの人とを結びつける縁みたいのが、確かに存在していたのだろう。

「……108番、座りなさい」
「……はい、失礼します」

その女性は、あたいの目を、いつも通りのきりっとした実直の目で見つめてきた。
この人の性格は、知りすぎるほどよく知っている。あたいの面接の担当となったとしても、手など抜かないだろう。
懐かしがっている余裕などない。あたいはこの試験に受からなければならないのだ。

あたいが席につくと、左のおじいさんが口を開いた。

「……それでは、席順番号と名前を教えてもらえるかな?」
「はい。108番、小野塚小町です」
「小野塚さんは、死神をご希望とのことですが、その志望理由について教えてもらえますかな?」
「はい。私が船頭死神を志望する理由、それは、死者の霊魂を送り届けるということに魅力を感じるからです」
「ほう、魅力ですか」
「はい。死者の霊魂は、今まで一生懸命に生きてきた人間や妖怪たちの、文字通り、魂の結晶です。その霊魂を、閻魔様のところに届け、新しい人生を歩んでもらいたい。それが、私の手で出来るというところに魅力を感じるのです」
「ふむふむ」

今度は、中年の女性が話しかけてきた。

「あなたは女性ですが、船頭の仕事は力仕事です。その点はどうお感じになりますか?」
「はい。確かに、女の身で船頭をするのは辛いものだと承知しています。ですが、私はお天道様の下で仕事をしたいと思っています。一生懸命に体を動かして得られる充実感は代えがたいものがあると思います」
「なるほど。男性並みの仕事をこなせと言われても、文句は言わないと、そうおっしゃるわけですね?」
「はい、むしろ望むところです。先ほども言った通り、私はこの仕事に魅力を感じています。額に汗して働きたいと思っています」
「そうですか。分かりました」

大丈夫だ。アンとメルに、散々面接の練習につき合ってもらったのだ。
基本的な受け答えなら、軽くこなせる。

おじいさんと中年の女性は、中央にいる女性の方を見た。
なにかあるか? と問いかけているのだろう。
女性は、それを確認すると、あたいに向かって初めて口を開いた。

「お久しぶりですね」
「え?」

それは、予想だにしない言葉だった。
この人は、仕事に私情を挟む人ではないと思っていたのに。

「あなたは、私のことを知っていますね?」
「……」

真ん中の女性が、じっとあたいを見つめてくる。
だが、あたいはそれに怯まずに見つめ返した。

「……はい」
「元気にやっていましたか?」
「……はい、つつがなく、毎日を暮らしておりました」

女性は、少しばかり笑みを浮かべた。
だが、それをすぐに引っ込めると、真剣な面持ちで問いかけてきた。

「私が、あなたに問いたいのは一つだけです」
「……」
「あなたの、この三ヶ月の間の素行。つまり、どのように生活してきたか。それを知りたいのです。……話してもらえますか?」
「……」

そうか。この人は試そうとしている。
あたいが、また船頭として仕事に就き、その上で成長できるかどうかを。
弛んだ生活をしていたと知ったら、この人は容赦なくあたいを落とす。そういう人だ。

「……」

だが。

「……はい、お話します」

あたいは、迷いなく、その問いに答えることが出来る。

「……いまから、三ヶ月前のことでした……」

だって、あんなにも素晴らしい日々を過ごしてきたのだから――







紅魔館の明かりが見えてきた。
辺りはすっかり闇に没し、月と星の光が天蓋をきらめかせるのみだった。

紅魔館の門前に着地し、美鈴さんに挨拶する。
門をくぐり、すっかり葉を茂らせた並木の道を一歩一歩、歩いていく。

玄関をくぐり、自室を目指す。
廊下には誰もいなかった。きっと、今頃は夕食の時間なのだろう。

自室に辿り着き、ノブを捻った。

「あ……」

その中には、一人の女の子が、待っていた。

「おかえりっ、小町」

ベッドに座っていたその子は、満面の笑みでこちらに微笑みかけてきた。

「……はい。ただいま戻りました、フラン様」

あたいも笑みを浮かべ、部屋の中に足を踏み入れた。




















◇ ◇ ◇



日差しが徐々に強くなってきた昼前の午前。

紅魔館の門前で、紅美鈴は瞑想に耽っていた。
これは彼女の日課であり、修行であり、また、侵入者を探るための警戒態勢でもある。

へその下で両手を組み、目をつむり、神経を集中させる。
そして、自然の気の流れを感じ取るために、四方八方に神経を張り巡らせる。
紅魔館を包み込まんばかりの、彼女を中心とした大きな円。彼女は、その中にいるものの気配を感じ取ることが出来る。
草の揺れ、木々のそよぎ、虫たちの動き。そういった細かい運動すらも感じ取っていくのだ。

寝ているように見えて、彼女は立派に門番をやっているのである。
紅魔館が平穏に暮らせるのも、彼女が身体を張って門を守っている要因も少なからず存在するのだ。

そして、彼女の前方、左四十五度の空。そこに、紅魔館に向けて近付いてくる者がいた。
邪悪な存在でないことは、彼女はすでに把握していた。どうやら、客人の類のようだ。

美鈴は目を開け、そちらの方に目を遣る。
遠目でよく分からなかったが、どうやら鎌のような武器を持っているようだった。

武器を持っているとなると、穏やかではない事態に遭遇する可能性がある。
美鈴は、丹田に力を込め、不覚を取らないように警戒する。

その者は、門前の近くまでやってきた。
鎌を持った若い男性だった。その姿に見覚えがあった。
いや、服装に見覚えがあったというべきか。いま、紅魔館の中で働いている、ある者が着ていた服とよく似ていたのだ。

「どうも、こんにちは。紅魔館はここでよろしいですか?」
「はいはい、そうですよ。何の御用ですか?」

頭を下げて丁寧に挨拶されたので、美鈴は警戒しながらも笑顔で応対する。

「小野塚小町さん宛てに、郵便物です。どうぞ」

そう言って、男性は薄っぺらい封筒を差し出してきた。

「あ、どうもご苦労様です」
「それでは、これで」

男性は踵を返し、元来た方向に飛び去っていった。

「郵便……なにかしらね?」

まあ、ここで封筒を眺めていても仕方がない。早く、小町の所に持って行ってやったほうがいいだろう。
美鈴は、部下に門の番を任せ、紅魔館の中に入っていった。



小町がフランドールの専属のメイドになったことは、当然、門番班長という重職に就いている美鈴は知っていた。
だから、フランドールの部屋に行けば、会えるだろう。

地下に下り、フランドールの自室の前に立つ。
ノックをして、ノブを回した。

「お疲れさまでーす。小町さんいるー?」

中では、三人のメイドが忙しく立ち回っていた。
その中の一人。赤毛に二つのおさげをしたメイドが声を上げる。

「あれー、どうしたの美鈴さん。なんか用?」
「小町さん宛てに郵便よ。はいこれ」

美鈴は、右手に持っていた封筒を小町に示した。
すると、場の空気が一変した。

「え……? なに?」

その場にいたメイド三人の顔が、一瞬にして真剣なものに変わったのだ。
美鈴は、少しばかりたじろぐ。別に、自分は悪いことはしていないはずなのだが。

「こまっち」
「小町」
「ああ……ついに、来たね」

三人は、何かを確認するかのように、顔を見合わせる。
そして、三人同時に美鈴の方に向かってきた。

「ありがと、美鈴さん」

そう言って、小町は封筒を受け取る。
そして、その場で封を開け始めた。

「……」

封筒の端っこを千切り終えると、ゆっくりと小町は中身を引き出した。
白い紙が一枚入っていた。
小町以外のメイドも、その紙を覗き込むように見つめる。その顔は、小町同様真剣そのものだ。

美鈴も、なんとなくその紙を覗き込む。
小町は、確かめるように紙を開いていった。


そして、そこに書かれていた文字は――




























































〜 epilogue 〜





静かな朝だった。
窓から差し込む光は柔らかくて、夏の暑さをほんの少し忘れさせた。
開け放たれた窓からは、朝の清涼な空気に混じって、湿った、ぬるい風が吹き込んでくる。
まだまだ、夏はこれからだと感じさせた。

あたいは、この紅魔館に初めて来たときに着ていた普段着に身を包んでいた。
足元には、ここに来るときに持ってきた大き目のカバン。パンパンに膨れ上がり、その中にもう入りきらないと主張している。

ベッドに腰掛けていたあたいは、なんとなしに天井を見つめた。
その赤い天井に映し出される数々の光景。

初めてメイド服に身を包んだこと。
アンとメルと対面したこと。
初めての仕事。初めての夕食。

そして、フラン様との対面。

フラン様とお話をし、フラン様に想いを告げた。
その日のうちに、フラン様はあたいたちの宿舎に来てくれた。
そして、フラン様の宿舎通いが始まり、ブローチを一緒に作った。
途中でレミリア様に中断させられたのは残念だった。

そして、パーティー。
カジノで白熱した。
美味しい料理に舌鼓を打った。
あたいたちの想いを込めたペンダントを、フラン様にプレゼントした。
フラン様は、すごく喜んでくれた。

紅魔館が霧で包まれたこともあった。
あたいたちは、怖がりながらも懸命にフラン様を探した。
ちょっとばかり死にかけたこともあったけど、フラン様が無事ならばそれで充分だった。

それから、あたいたちはフラン様の専属のメイドになった。
仕事が終わった後は、フラン様と楽しく遊んだ。
退屈など、一瞬もしたことがないくらいに楽しい日々が始まった。
あたいと、アンと、メルと、そしてフラン様の笑顔がいつも輝いていた。

「……」

この三ヶ月という間に、めまぐるしくたくさんのことが起こった。
あたいは、ただ毎日を食いつなげるだけの仕事をしに、この紅魔館を訪れたに過ぎなかった。
でも、フラン様という鉄砲玉はそれを許してくれなかった。
まるで、一年を三ヶ月に凝縮したかのように、一日一日が濃い密度で流れていった。

そして、いま、あたいはメイド服を脱ぎ、自分の服に身を包んでいる。
壁に掛けられたあたいのメイド服。アンが、いつまでもここに掛けておきたいと言ってくれた。

あたいは、その服をじっと見つめる。
……そう、これが最後。見納めなのだ。

「よし……行こうか」

あたいは、立ち上がる。
カバンを手に取り、ドアの方に足を進める。
ノブに手をかけ、もう一度、部屋のほうを振り返った。

「……ありがとうございました」

そう言い残し、あたいは部屋の外に出た。



紅魔館の廊下を歩き、ロビーを抜け、外に出ようと出口の扉に向かう。
扉を開け放つと、眩しい光が差し込んできて、あたいは目を細めた。

そこには、たくさんの人がいた。

「小町」
「こまっち」

アンとメルが、そこにいた。
そして、日傘を差したレミリアお嬢様。咲夜メイド長。門番の美鈴さん。
みんなが玄関の前に勢ぞろいしていた。

そして、メルが差していた日傘の下に、その子はいた。

「小町……」

フラン様が、あたいの顔を見つめていた。
目尻が少し光っていた。懸命に堪えている様子がよく分かった。

「ご苦労様だったわね。どうだったかしら? 紅魔館での生活は」

レミリア様が、柔和な笑みを浮かべながら聞いてくる。

「ありがとうございました。楽しく過ごさせていただきました」
「働きたくなったら、いつでもいらっしゃい。また、雇ってあげるわ」
「はい。その折には、是非」
「お疲れ様だったわね、小町。短い間だったけど、楽しかったわ」

次は、咲夜メイド長が口を開いた。

「メイド長もありがとうございました。また、機会がありましたらお会いしましょう」
「あら、もう敬語は使わなくてもいいわよ。やっぱり、あなたに敬語を使われるのは、なんだか、くすぐったいわ」

口元に手を当てて笑うメイド長。でも、もう慣れてしまったので、そう簡単に直すことなど出来っこない。

「あはは、しばらくは無理かもしれないです。次に会ったときまでに直しておくことにします」
「小町さん、お疲れさま」

今度は美鈴さんが声をかけてきた。

「ありがとう、美鈴さん。いろいろ助けてくれて、本当にありがとう」
「ううん、いいのいいの。また、遊びに来てちょうだいね。私は、いつでも門の前で仕事をしているから」
「そうだね。仕事をサボりたくなったら、立ち話でもしに来るとするよ」

お互い笑いあう。美鈴さんとは、これからもいい友達でいられるだろう。

「小町」
「こまっち」

そして、あたいが一番お世話になった二人に呼びかけられた。

「アン。メル」
「お疲れ様でした、小町。身体に気をつけて。新しい仕事、頑張ってくださいね」
「こまっち……ぐすっ、頑張ってね。……応援してるから」
「……ああ、二人ともありがとう。心からお礼を言うよ」
「また、遊びに来てくださいね。私たちはこれからも、ここにいます。あなたが望めば、いつでも会うことは出来ます」
「うん、ぐすっ……そうだよ。絶対来てね。また、遊ぼうね。いつまでも、待ってるから」
「ああ、もちろんだよ。必ず、またここに来る。そしたら、酒でも飲んで盛り上がろう」

二人は、同時に手を差し伸べてきた。
アンは左手を。メルは右手を。
あたいは、その二つの手を両手でしっかりと握り締めた。
二人のぬくもりを忘れないように、肌にしっかりと刻み込んだ。

「……小町」

そして……メルの後ろ。
その影に隠れるように、その人は立っていた。

「フラン様。お世話になりました」
「小町……うん」
「この三ヶ月間、楽しく過ごすことが出来たのは、フラン様がいてくれたからです。フラン様がいなかったら、いまの満ち足りた気持ちにはならなかったでしょう。改めてお礼を言いますね」
「うん……うん、私も、楽しかった。いっぱい、いっぱい、遊んで、こんなに楽しいのは、生きてて一番だった。ありがとう」

フラン様は、顔をゆがめながら、懸命に言葉を紡ぐ。
すると、スカートのポケットを探り始めた。

「……小町、手を出して」
「え?」

言われるまま、あたいは右手を差し出す。
フラン様は、そっと、あたいに何かを握らせた。

「……」

ペンダントだった。
ハートの形をした、とてもかわいらしいペンダント。
見ると、フラン様も同じ形のペンダントをしていた。

「お守り。私と、小町の心がいつまでも通じているように。私のことを、覚えていてくれるように」
「……」
「受け取って、くれるかな?」

あたいは、腰を落とし、フラン様をふわりと抱きしめた。

「あ……」
「ええ、もちろんです。あたいは、フラン様のことを絶対に忘れません。未来永劫、あたいは死ぬまでフラン様のことを覚えています」
「……うん、ありがとう」

フラン様は、腕に力を込めた。
心音が聞こえる。小さな身体に宿した鼓動が、あたいの身体に伝わってくる。

「……それでは、名残惜しいですが」

あたいは、ゆっくりと身体を離した。
フラン様は、俯いてしまった。肩を震わせて、懸命に堪えていた。
だから、あたいは、前に進む。門に向かって。あたいの帰る場所に向かって。

玄関の階段を下りきった後、あたいはくるりと向きを変えた。
そして、勢いよく、みんなに頭を下げる。

「みなさん! いままで本当にありがとうございました!」

そして、あたいは踵を返し、地を蹴った。
体が、地を離れ、あたいは空を舞った。
そのまま、あたいは一度も振り返らず、ぐんぐんと高度を上げた。
その先にある白い雲に向かって。



「……」

皆、小町が小さくなるまで、空をずっと見上げていた。

「フラン様」

メルが優しく声をかける。

「もう、充分です。よく、お耐えになりましたね」

それが、決壊の合図だった。

「う……うわあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁん!! こまちぃぃぃっ!! こまちぃぃぃぃぃっ!!!」

メルの胸に顔をうずめて、フランドールは泣きじゃくった。
いままで耐えていた涙を全て流しきるかのように。

「フランさまっ」

アンも、フランを抱きしめる。そして、涙を流した。
メルも泣いていた。三人は、肩を寄せ合いながら、涙を流し続けた。

「……終わりましたね」
「ええ。いい時を過ごさせてもらったわ。改めて、あの娘に感謝を」

レミリアと咲夜は、小町の去った青空を、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。





あたいは、雲の上にいた。
雲の上に出た途端、突然に何かが切れたような感じがした。

「ふらん、さま……う、うっ、く……」

あたいの目から、雫が一つ、二つと流れ出した。
それは、顎を伝い、離れ、雲の中に吸い込まれていった。

「うううぅぅぅ……! アン、メル、みんな、ありがとう……!」

あたいは、涙を搾り出すように泣き続けた。
別れの悲しみは、こんなにも辛いものだということを、いまさらのように思い出した。


空を見上げる。

青い青い空の向こうに輝く、お天道様が眩しかった。































































◇ ◇ ◇



無縁塚は変わりない。
日の光を煌かせる三途は淀みなく流れ、さらさらと心地よい音を奏でていた。

あたいは、昼寝岩と称している、大きな岩の上に寝転んで、どこまでも青く冴えた空を見上げていた。
仕事をしようにも、肝心の霊が来てくれないので、寝転んで待つしかないのだ。

残暑もようやく収まってきた今日この頃。
あたいは、再び死神装束に身を包んでいた。

死神になるのは二回目ということで、研修はパスされ、すぐに配属となった。
久しぶりに動かす舵取り棒は思いのほか重く、しばらくの間は筋肉痛に悩まされた。
だが、心地よい疲れだった。
この感覚を取り戻すために、あたいは三ヶ月の間頑張ってきたのだろう。

「……」

でも、それと同時に後悔の念も時折よぎる。
あそこで暮らした日々は、あたいにとっても居心地のよい時間であることは確かだった。
そのまま、あそこで働く選択肢もあることにはあった。
むしろ、その念の方が強かったのかもしれない。

だけど。
あたいは、船頭死神になる道を選んだ。
それが、あたいの最終目標であり、生きがいでもあったから。

どちらを選んでも、きっと良かったに違いない。
わずかに、あたいの性根が船頭死神の方に傾いた。ただそれだけのことだった。

「こらっ」
「あいてっ」

急に、頭を固い物でどつかれて、あたいは起き上がる。
振り返ると、そこには四季様が立っていた。

「寝てる場合じゃないでしょう。ちゃんと仕事をしなさい」

厳しいお言葉とは裏腹に、その顔には笑顔が浮かんでいた。

「四季様こそ、仕事をしましょうよ。あたいだけ、どつかれるなんて不公平です」
「いまは暇になったの。それで様子を見に来ただけよ」

四季様はあたいの隣に腰を下ろし、三途の川を見つめた。
その目に映る川の風景は、四季様にはどのように映っているのだろう。

「……あなたは、これで良かったの?」
「え?」

四季様が、急に聞いてきたので、何のことがよく分からなかった。

「面接であなたが話してくれた三ヶ月間の出来事。あれは、聞いているだけでも充実した毎日を送っているのだろうと分かった。その生活を蹴ってまで、船頭死神になる必要があなたにはあったのかしら?」
「……」
「フランドール・スカーレット。彼女の幸せは、あなたと共にあることだった。あなたはそれを切り捨ててまで死神になった。……後悔はしていませんか?」
「……」

後悔なんて、これまでいくらでもした。
これが最善の選択だったなんて、今でも言えない。
だけど、あたいは答える。

「……もちろん、後悔の念はあります。あたいも、フラン様と共にありたかった。アンやメルとも一緒にいたかった。あの楽しかった日々は、一生かけて享受しても良いものだと思いました」
「……」
「でも、あたいの船頭死神になりたいという志。それは、紅魔館に行く前から持ち続けていたものでした。それを曲げ、紅魔館に住みつくのは、あたいには気持ち悪かった。ただ、それだけの……それだけのことです」
「……そうですか」

四季様は空を見上げた。
その先にある入道雲は、まだ熱い夏が健在であることを教えてくれた。

「ご苦労様でしたね、小町」
「え? なんですか、いきなり?」
「なんとなくです」

四季様は笑った。
あいかわらず、この人の考えることは、読みづらい。
でも、あたいはこの人のことが大好きだ。再び部下になれた幸運を、天に感謝したいと思う。

「ふう……」

あたいは、再び寝転んで、青い空を見上げた。
四季様は、何も言わなかった。
しょうがないな、といった顔を向けるだけで。



夏は、まだ続いていく。

彼岸花が咲き乱れる、その季節まで。



〜 終 〜



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