意識が、闇の中を漂っていた。
右も左も深い黒に塗り潰され、光のひとかけらも見当たらない。
何も聞こえず、何も見えない。
まるで墨汁の海に放り込まれたように、視界は黒以外の物を捉えることはなかった。

老人は、その海をゆっくりとたゆたっているのを感じた。
不思議と息は出来た。少しばかり不安だったが、何故か危機感を抱かなかった。
ここはどこなのか、どうして自分はここにいるのか、今は一体いつなのか、どうやって自分はここに来たのか。
それらが全て瑣末なもののように思えて、自分が今ここにいるという事実を当然のように受け止められた。

「……」

老人は瞼を閉じ、海の流れに身を任せた。
黒しか見えないのならば、目を開けていても仕方がない。
これからどこに行くのかは分からない。ただ、根拠はなかったが、無限の遊泳をするわけではないと漠然と理解した。

ならば終わりが来るまで、身を委ねるのも悪くはない。
いつか岸に辿り着くその時まで、ゆらゆらと流され続けていようと思った。

そう、考えた刹那、

『……ケ……テ』

唐突に、五感の一つが働いた。
かすれるような音だったが、無音の世界であるが故に、老人はその音に気付くことが出来た。

『タ…………ケ……テ』

音は徐々に明瞭になってくる。
誰かの声のようだった。
どこから、かけられているのかは分からない。自分に、かけられているのかすら分からない。

声はやがて一つの形となり、明確な意思を老人に伝えた。

『タス……ケテ』

誰かが、救いを求める声。
男なのか女なのかも分からないその声は、確かに助力を求めていた。
しかし、老人にはどうすることも出来ない。
黒い海に流されるだけの体では、声に耳を傾けることしか出来ない。

『タスケテ』『タスケテ』

やがて声が増えた。
左耳で聞いていた声が、右耳でも聞こえるようになった。

『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』

背後から、声が一つ増えた。

『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』

頭上から声が一つ増えた。

『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』

足元から声が一つ増えた。

『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』
『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』『タスケテ』――――――

無数の救いを求める声が、老人の体を包み込んだ。

老人は耳を塞いだ。うるさいと感じたからではない。自分の無力さに気付いたからだ。
老人は、その声に懇願を感じていた。心の底から、何かを救い出して欲しいと願っていた。
しかし、自分はその声に応えることは出来ない。どこにいるのかすら分からず、ただ暗闇を漂っているだけでは何も出来ない。
だから、もうやめてくれと願った。済まない、と何度も謝罪しながら。

どのくらい、そうしていただろうか。
老人の目の前に、ぼんやりとした光が現れた。
女だった。はっきりとは分からなかったが、童女と年頃の娘の中ほどの少女のようだった。

『……』

少女は胸の前で両手を組み、真摯な瞳をしながら、祈るように老人に願った。

『アノコヲ……タスケテクダサイ……』

そういい残し、少女は消えた。

辺りは、再び暗闇に包まれた。





「……」

目を覚ますと、降り止まない雨の音が戸外から遠く聞こえてきた。
行灯の火の種はまだ尽きておらず、寝付いて間もない頃だと推測できた。

老人は、ふう、と息をついて気だるげに身を起こす。
寝起きの目をまばたきで慣らしながら、自分の周りを見回した。

案の定、老人の枕元に藍色をした小さな花が、手のひらに載るくらいの小さな山となって積まれていた。

「とうとう……わしの所にも来たか……」

狭く暗い室内に答える者は存在せず、独り言は雨の音に吸い込まれた。







雨音だけが、鼓膜の中を支配していた。

見渡す限りに霞がかかり、里の風景は滲んでいる。
煤を被ったような曇天からは、絶え間なく雨粒が舞い降りている。
決して広くはない水田は、無数の波紋に覆われて、清らかな水を湛えているにもかかわらず底が見えない。
青々とした稲の苗も、雨に叩かれ震えていた。

水田を半に分ける本道と、荷車がつけた車輪跡には、雨水が溜まり濁っている。
ぬかるみ、足場も悪いこの道を好き好んで歩く者はそうはいない。もし歩く者がいるとしたら、それは、よほどの物好きか、何か目的がある者だけだろう。

そこを歩く者は、一体どちらなのか、偏には分からない。

それは女性のようだった。長く、美しい銀の髪を腰まで伸ばし、少し俯きがちに歩を進めている。
古びた傘から雫がしたたり、水溜りに落ちて新しい波紋を作る。
長いこと歩いていたのだろう。藍の着物の裾は濡れ、暗い色に塗り潰されている。
霞の中、女性は靴を汚さない程度にゆったりと、道の先にわずかに見える藁葺きの家を目指しているようだった。



両の目から水田が消えると、大きな曲がり家が視界に納まる。
里の住居の中でも一際大きいその家は、里の水田を一望できる所にあった。

女性は家の玄関の前に立つと、戸を少し強めに叩いた。

「御免!」

凛とした声が辺りに響き、そして雨の中に吸い込まれる。
戸のすぐそばにいたのだろうか、女性の呼びかけからそれほど待たず、溝をこする音と共に戸が開いた。
現れたのは、頭に手ぬぐいをほっかむりにした老女だった。

「まあ、慧音様! よくお越し下さいました!」
「ああ、奥方。朝早くにすまない。里長はいるかな?」
「ええ、おりますとも。どうぞ、上がってくださいまし」

老妻が横にどいて道を開けると、慧音と呼ばれた女性は傘を畳んで家の土間に足を踏み入れた。
かまどには火がくべられ、白煙が天井を満たしていた。



慧音は老妻に案内され、土間から板張りの床に上がり、わずかに軋みをあげる廊下を歩く。閉め切られた障子の向こうからは、雨が地面を叩く音が聞こえてきた。

慧音は、何度もこの家を訪れたことがある。もっぱら新年の挨拶や、めでたい席への参加だったが、度々この家の主人から相談を持ちかけられることもあった。
自分が呼ばれたのは、恐らく相談のためだろうと慧音は思う。今年の長雨は長く、皐月晴れはあまりに少ない。夏至を過ぎたばかりだというのに、巳の刻を過ぎると宵闇に包まれたかのように辺りは薄暗くなる。
冷夏は人間にとって命に関わる一大事だ。田畑の苗が夏の日差しに活を入れられ、作物が収穫できるまでに育たなければ、冬を越す食物が蓄えられない。
大方、その対策をどうするか相談を持ちかけられるのだろうと慧音は当たりをつけた。このところ大きな事件も起こらない故に、それ以外に考えられる厄介ごとなど思いつかなかった。

程なくして老妻は、長いこと張り替えられていないと思われる、やや黄ばんだ襖の前で足を止めた。

「あなた、慧音様がいらっしゃいましたよ」

老妻は襖を開け、慧音を先に中に入れる。
茶の間と思われる広い部屋には、中心に囲炉裏が掘られ、挟んで向こう側に一人の老人があぐらをかいて座っていた。

「おお、慧音様。よくおいでなすった。ささ、お座り下され」

この里の長と思われる老人は、慧音に自分の横に座るように促す。
日光の入らない薄暗い室内の中、燭台のわずかな灯りと囲炉裏の火が里長の顔を照らし、皺をより深く刻んでいた。

「ああ、朝早くに押しかけてすまない。急ぎ、と書いてあったものだからね」
「いや、こちらこそ紙切れ一つでお呼び立てしてしまって申し訳ない。日時を記さなかったのはこちらの落ち度ですので。これほど早くお越し頂けたことを感謝いたします」

慧音は藁で編んだ丸い敷物に正座をすると、ひとしきり里長と挨拶を交わす。
その際、慧音はそれとなく長い梅雨のことを含んで話をしてみた。
里長は、多少は懸念しているようだったが、まだ水無月にもなっていないと楽観した答えを返した。
自分の当てが外れ、慧音は少しばかり肩をすかされた。ならば、何故自分は呼ばれたのだろうと、頭の片隅で再考するのだった。



老妻が囲炉裏にかけられたお湯でお茶を用意すると、慧音が切り出した。

「さて、そろそろ本題に入ろうか。話を聞いて欲しいとあったが、一体どんな事なのかな?」

慧音がそう言うと、里長は、ふむ、と一つ息をつく。

「……慧音様は半妖であるにもかかわらず、幾度となく里の人間を守って頂いております。村を襲ってきた妖怪を追い払って下さったこともございました。故に……恐らく解決して頂けると思っています」
「……なにか、里であったのかな? どこぞの妖怪がうろついているとか」
「……妖怪ではないのですが……里で最近、不思議なことが立て続けに起きまして」
「不思議なこと? それは?」

里長は腕を組み、やや難しい顔をして答えた。

「その…………幽霊らしきものが出るのです」

囲炉裏の火が、少し揺らめいたような気がした。

「ただ、幽霊といっても、はき、とは分かりません。あれは、なんと言ったらいいのか……なんとも不思議な出来事でした」
「その口ぶりだと、里長もその幽霊に会ったようだね」
「……はい。昨夜、わしのところにもその幽霊が来ましてな。行灯の火がまだ尽きておりませんでしたので、日が変わる前のこと……寝付いて間もない頃でした」

里長は一つずつ思い出すように話し出した。

「わしは、自分が真っ黒な海に一人でぽつんと浮かんでいる夢を見たのです。右も左も何も見えず、音も聞こえない、奇妙な場所でした。しばらく、わしはその海の中を浮かんでいたのですが、不意にどこからか声が聞こえてきたのです。男なのか、女なのかは分かりませんでしたが、その声ははっきりと助けを求めていました」
「……」
「助けを求める声は次第に数を増し、両の手の指では足りないほどの者から、わしは助けを請われました。しかし、浮かんでいるだけの身ではどうにもしようがない。困り果てたその時、目の前に人の形をした光が現れました。若い女のようでした。女は、“あの子を助けてくれ”と言うと、そのまま霞むように消えてしまいました。わしが目を覚ましたのは、その直後です」
「……よくある怪談のような話だが、しかし、それだけではただの夢だろう。幽霊に会ったという証明ではない」

里長は、重々しく頷く。

「証拠になるかどうかは分かりませんが、わしの枕元にこんな物が置かれておりましてな」

そう言うと、里長は自分の脇に置いてあった一切れの紙を慧音の前に置いた。その上には米粒大の小さな何かが、塩を盛ったようにこんもりと積まれていた。

「これは……花、か?」

慧音はそれを少しつまみ取り、手のひらに載せて観察した。
それは、本当に小さな花だった。
藍を基調にしてわずかに白が入っており、米粒の先端から切れ込みを入れたような形をしていた。

「そのようです。慧音様はご存知ですか?」
「……いや、こんな花は見たことがない。これほど小さい花は、ざらにないとは思うが」

里長は唸って腕を組む。
博識の慧音でも知らないとなると、他に誰が知っているというのか。そう思ってやや落胆した様子だった。

「……先ほど言っていた“里で不思議なことが起こっている”とは、この事なのか?」

ひとしきり小さな花を弄ってみた慧音は、ふと里長に話しかけた。

「……そうです。何日前なのか定かではありませんが、幾人もの里の者が、わしと同じような夢を見ておりましてな。目を覚ました後に、この花の山が枕元に置かれていたことも寸分違いありません」
「……」
「わしも誰かの悪戯だと思いまして、相談に来た者にもう少し様子を見るように言いました。しかし、さすがに自分が同じような目に遭うとは思いませんで。もしや何かの前兆かと思いましたが、わしらのようなただの人間にはどうにも対処のしようがない。故に、慧音様を頼ろうと考えたのです」
「……なるほど」

納得がいったように、慧音はうなずく。
相談の内容が、幽霊をどうにかして欲しいだとは、さすがに慧音は考えなかった。しかし、聞いてみれば確かに自分にしか出来ない類の仕事のようだった。

「その幽霊たちが何の目的で里に現れ、夢枕に立った後に花を添えていくのか、まだ私にも分からない。この目で確かめたわけではないが、話を聞く限りでは悪霊ではなさそうだ。しかし、里長の言うように何かが起こってからでは遅い。相分かった。少しばかり調べてみよう」
「かたじけない。何か入り用であるならば、なんなりと申し付けてください」
「ふむ……。とりあえずは、里の者に札を貼るなどの最低限のことはさせるべきだが……まずは、その幽霊について詳しく知りたい。話してもらえるかな?」

頷いた里長は、慧音の質問に一つずつ答え始めた。



里長から一通り話を聞き、慧音は元来た道を戻り始めた。
雨は、未だなお強く傘を打ちつけて、手にわずかに震えが伝わってくる。

(幽霊、か……)

里長に聞いた話を慧音は反芻する。
奇妙な話だった。毎夜里に現れ、里の者の夢に出ては花を添えて消えてしまう霊の群れ。目的はあまりに判然としない。幻想郷において幽霊は珍しいものではないが、いま里に現れているという幽霊は異質だった。

(助けを求めていた……“あの子を助けてほしい”と言っていた……あの子、とは誰だ?)

里長から聞いた話からは、判断できる材料があまりに少ない。
しかし、幸いにも里には全く被害が出ていない。とり憑いて命を奪うつもりはないらしく、その点では慧音は安心していた。

(だが、確信はない。油断は出来ない。もしかしたら、そのように取り繕っているのかもしれないのだから……)

水田の中ごろで、慧音はふと足を止める。
そして、霞の向こうにわずかに見える里の家々を眺めた。
今夜も現れるであろう、降り続く雨に打たれて徘徊する幽霊たちの姿を幻視しながら。




















〜 雨月抄 〜




















しとしと、とした弱い雨が、竹の葉をすり抜けて地面に柔らかく着地する。

朝から降っていた雨は少しばかり弱まって、いまは霧雨の心地になっていた。
ここ、里の外れの竹林には霧が立ち込め、立ち入るものを惑わせている。
こんな雨の日は人間はめったに訪れない。故にこの場所は、人間を慕う半妖や、少し訳ありの人間が隠れ住むのに都合が良い。

その少し訳ありの人間が、竹林の間の細い道を、ところどころ破れた唐傘を差しながら歩んでいた。
まだあどけなさを残す少女のようだった。背中を覆い隠す長い髪が、細かい雨の粒をはらんで光る。左手を赤いもんぺのポケットに突っ込んで、くすんだ皮製の長靴を履いていた。
時折、水溜りに踏み入って泥水が跳ねるが、意に介す様子はない。赤い瞳は地面ではなく、雨を降らす空に向いていた。



少女が藁葺きの小さな家に辿り着くまで、それほど時間はかからなかった。
竹がそこだけ抜け落ちたかのような、小さな広場に隠れるように建っている。
少女は、その家を訪れるのは初めてではないのだろう。躊躇いなくその家に近付くと、何の合図もせずに入り口の戸を開け放った。

「慧音ー、いるー?」

手狭な家の中に響いた声に、少女の方に背を向けていた慧音は、首を回して振り返った。
慧音は机の前に正座していた。周りには難解な文字と複雑な文様が書かれた十数冊の本が積まれていた。

「あれ、なにやってんの? そんなに一杯、本出して」
「……妹紅。入ってくるなら、戸を開ける前に声をかけろと言わなかったか?」
「別にいいじゃない。こんなところに、滅多に他の人間なんて来ないでしょ?」

妹紅と呼ばれた少女は、悪びれもせずに土間に上がりこんで、慧音に背を向けるようにして床の間の上に腰を下ろす。
その姿に少しばかり嘆息しながら、慧音は筆を置いて向き直った。

「そんなことはない。今朝は、里長の家の者が訪ねて来たぞ」
「へぇ、珍しい。どこかの家で子供でも生まれた? それともご臨終?」
「どちらでもない。……まあ、強いて言えば後ろの方だ。妙なことを依頼されてな」

慧音がそう言うと、妹紅は仰向けに寝っ転がって、逆さまに慧音を見た。

「妙なこと?」
「ああ。どこぞの幽霊が、里の者の安眠を妨害しているらしい。一週間以上もの間、毎晩な。それで、何とかして欲しいと私のところに頼みが来た」
「ふぅん、毎晩現れる幽霊ねぇ?」

妹紅の反応は薄かった。彼女の生返事のような声を聞いて、慧音は、やはり、と思う。

「大して珍しい話でもないでしょ? 幽霊なんて探せばどっかにいるんだし」
「私たちにとってはな。だが人間にとっては、幽霊は妖怪と同じだ。等しく恐怖の対象にある。タチの悪い悪霊は簡単に命を奪うからな。里に現れたという幽霊は、まだ人間に危害を加えてはいないようだったが、事が大きくなれば何らかの対処が必要になる。正体は早めに見極めなければならないんだ」

慧音や妹紅のように人の範疇から外れた者にしてみれば、幽霊が徘徊しているのは動物が徘徊しているのと変わらない。幽霊と会話をしたり払ったりするのは、彼女たちにとって生活の一部となっている。
しかし、その手段が未熟な普通の人間にしてみれば、人外の存在は恐ろしいものだ。悪霊の類は、数は少ないが確実に存在し、とり殺されることもざらにあるのだから。

「相変わらず、人間のことになると熱心だね」
「それが、私自身が選んだ役目だ。誇りも持っている。この身が果てるまで続けようと決めているからな」

臭いなあ、と妹紅は笑いながら揶揄し、頬杖をついて開けっ放しの戸の向こうに視線を遣った。
細かい雨粒は霧のように視界を覆い、竹林の様子は窺い知れない。地面には、屋根を伝って落ちてくる雫が穿った小さな穴が、軒下に横一列に連なっていた。

「暇だったら、こっちを手伝ってくれ。準備が出来たら、すぐに出なければならないんだ」
「ん〜、まあ、いいけど。私にも出来ることだったら」

慧音が少しばかり散らかった室内を整頓しながらそう言うと、妹紅は外の景色を見ながら返答した。

「札に朱を入れるだけだ。お前は、いつもやっているだろう」
「何枚?」
「あと二十一枚だ」
「うえ、微妙に多い」
「私もやる。そうすれば半分程度だ」

慧音が筆とすずりを机から床に移動させると、妹紅は靴を脱いで腹ばいのまま寄ってきた。
寝転がったまま、筆を取る。見本となる札を見ると、悪霊払いを意味する文様が描かれていた。

「ん?」

妹紅は、なにやら、すずりの中からする異臭を感じ取った。
すずりの中の液体に筆をつけて、鼻に近づけてみる。墨の臭いと混ざっていたのは、わずかな鉄の臭いだった。
つい、と慧音の指に視線をやる。左手の小指には、真新しい包帯が巻かれていた。

「ここまでサービスしなくてもいいのに。鶏の血で十分じゃないの?」
「むやみに殺生はしたくない。私が生きている限り、血などいくらでも出せる」

こともなげに慧音は言う。
妖怪のものが混ざった慧音の血は、確かに鶏のものよりも遥かに高品質の術の触媒になる。だが、幽霊を寄せ付けないようにするだけなのに、自らの血を使っていることに妹紅は改めて驚く。

「里の家の全部に配るんでしょ? 貧血にならないようにね」
「大丈夫。そんなに柔じゃない」

慧音はようやく笑顔を見せた。
それを合図に、二人は残りの札に黙々と朱を塗りつけていった。



「……よ〜し、これで終わり〜」

妹紅は筆を置くと、ごろん、と横に寝っ転がった。

「手伝ってもらってすまなかったな」
「ううん、どうせ暇だったし」

慧音は札の枚数を確認すると、すでに自分が書いておいた机にある札と合わせて、白い和紙で包みこんだ。
それを懐に収め、おもむろに立ち上がる。

「里に行くの?」
「そうだ。里の者にいろいろと聞きたいことがある。その後は里の周辺の見回りだ」
「うん、分かった。いってらっしゃい」
「お前はここにいるのか?」
「うん。だって、うちに帰ったって別にやることもないんだし。ここで留守番してるよ」

妹紅は、その辺にあった本を手探りで適当に選ぶと、仰向けに寝たまま読み始めた。

「……」

慧音はそんな妹紅の様子を横目で見ながら玄関に向かい、靴を履く。
入り口近くに立てかけてあった傘を取る。
戸を開け、軒下に立ち、ゆっくりと傘を開くと、戸を閉めようとして身をよじった。

「……」

古びた畳の上で、大して面白そうにもせずに妹紅は本を見つめている。
いつものことだった。慧音が里に降りている間、妹紅は勝手に留守番をし、勝手に食べ物を使って下手くそな料理を作って待っている。
二人が友人と呼べる関係になってから、変わらず続けられてきた日常。それは慧音が望んだわけではなかったが、心地よいと感じているが故に、何も言わずに享受していた。

「……」

なのに、何故だろう。今日がこんなにも寂しくて、弱々しい雨を降らせているからだろうか。
慧音はそんな日常が、何故か疎ましいものに感じられた。

「妹紅」
「ん? なに、まだ行かないの?」

いつまでも軒下に突っ立って戸を閉めようとしない慧音を、妹紅は頭を少しだけ浮かせて見つめた。
そんな彼女の目を真っ直ぐ見て、慧音は一言一言を噛み締めるように、そして優しく言った。

「……ちょっと、里に顔を出してみないか?」
「……」

妹紅は一見、表情を変えずにいた。しかし、瞬きが少しばかり多くなっていた。
その様子に、慧音には狼狽しているのだとすぐに理解できた。出し抜けに言われたのだから、当然だということも。

「あ〜……え〜っと……ね」

思い出したかのように妹紅は返事を返そうとする。逡巡は長かった。

「ここで、つまらない本を読んでいるよりも、よっぽど有意義だろう。散歩に付き合う程度でいいんだ」
「う……ん」
「それに、妹紅の手が調査に必要になるかもしれない。これは私からのお願いだ。手伝ってくれないか?」

慧音は後押しする。焦らず、妹紅が自分から行きたいと言い出せるように。

「で、でも、慧音は一日中里にいるんでしょ? なら、夕飯が遅くなるじゃない。私が作っておいてあげるよ。うん、名案」
「ああ、言い忘れていたが、もしかしたら今日は戻らないかもしれないぞ」
「はっ?」

慧音の意外な一言に、妹紅は目と口を丸くして驚く。

「今日の調査内容によっては、里で寝泊りして幽霊を待ち伏せすることになっている。里長からの許可もある。里の中心近くにある水車の家、お前も知っているだろう? そこを貸してもらって、住人にはお隣に一晩移ってもらうんだ」
「……」
「いや、おそらく、そうする可能性が高い。里の者はかなり怯えているからな。今日中に決着をつけたいんだ。だらだら延ばすのは良くない」
「あ〜……そ〜……」

妹紅は天井を見ながら、何か言い訳を考えているようだった。
慧音は、それを咎めるようなことはしない。言い訳をするのは不安を抱えているからだ。それを一つずつ、丁寧に聞いてやり、誠意を持って答えてやる。苛ついたり、無理に話を進めようとすると逆効果になるだけだった。

「……」

妹紅はなかなか次の言葉を口にすることが出来ない。もう言い訳のネタは出し尽くしていた。同じものを何回も使えば、嘘っぽくなるし、どんなことを言おうとも、慧音は正論を使って優しく諭してきた。
そして、行きたくないと強引に話を切った時に、慧音が見せる悲しげな表情。諦めたように薄く笑い、「そうか」と言って家を後にした時、根拠もなく、もう二度と会えないような恐怖に襲われた。
そんな慧音を見たくもないし、自分もそんな気持ちになりたくない。しかし、理屈では分かっているのに、妹紅はまだ、いま一歩を踏みだせなかった。

それを咎めることなど、誰が出来よう。慧音は親友と呼べるそんな少女のことを、誰よりも深く理解しているが故に、決して怒ったりはしない。じっと待ち、迷っているようならば、

「里の中には、長いこと姿を見せないお前のことを気にかけている者もいるんだ。私がついている。不安なことはない」

こうして自分がそばにいることを教えてやり、背中を押してやればいいだけだった。

「……」


雨の音が、二人の間を埋めている。
何秒。何十秒。何分か。
どのくらいの時が流れたか、分からない。


「……………………ごめん。やっぱり、やめとく」


微かな拒否の声が、慧音の耳に届いた。
慧音は落胆した様子を見せず、

「……そうか」

そう言って、妹紅に笑いかけた。

「なら、妹紅に一つ頼みがある」
「えっ……何?」

慧音は懐の中から白い布を取り出した。
何かが包まれているようだった。それを開くと、今朝里長が慧音に見せた、小さな藍の花の山が現れた。

「この花は幽霊が置いていった物らしい。だが、私にも何の花なのか分からないんだ。文献を調べれば分かるかもしれないが、今日は生憎、私には時間がない。だから、この花がなんなのか妹紅が調べてくれないか?」
「あ、うん……分かった」
「ここにある本を好きに使ってくれて構わないぞ。他の者に聞きに行ってもいいかもしれない。あの神社辺りなら、珍しい者がいるかもしれないからな」

慧音は近くにあった本を手繰り寄せ、その上に花の半分程度を移し変えた。
残りは再び布で包み、懐に入れ、玄関の敷居を跨いで外に出た。

「じゃあ、私は行く。暇潰し程度でいいから調べてみてくれ」
「慧音っ」

雨の中に一歩を踏み出した慧音は、妹紅の引き止める声に足を止めて振り返った。

「……ごめんね」

妹紅は目を伏せて謝る。
慧音は優しく微笑み、小さく首を振って、静かに戸を閉めた。







今から、もう何百年も前のこと。
人間が暗闇を恐れなくなり、妖怪を幻想の生き物と決め付けて意識の片隅に追いやろうとした時代。

妖怪が人間と共に過ごすことに限界を感じ始め、自身の能力を使って幻想郷のことを知った慧音は、その地を安住の地と定め、大陸から海を渡った。
やがて、そこに辿り着き、最初に見つけたある里の人間たちの信頼を勝ち取り、その近くに居を構えた。
妖怪の血が入った自分を受け入れてくれる幻想郷は、彼女にとって心地よい秘境であり、また興味の対象だった。

ある満月の夜のこと。白沢の血が最もざわつく夜。慧音は興味本位でその里の歴史を追いかけてみた。
藤原妹紅のことを知ったのは、その時だった。

数百年ほど前に、その里に住み、暮らしていた少女。
妖怪に襲われた里を身を呈して助け、懸命に人間を守ろうとした少女。
それが原因で、里の人間から妖怪扱いされ、姿を消した少女。
そして、今もなお生き続けている、老いない体を持った少女。

慧音はすぐに満月の煌く空を飛んだ。
歴史を探って少女の住む家を探し当て、真っ直ぐにそこに向かった。
自分の住む竹林からさらに奥に進んだ獣しか住めないような山中。使われなくなった農家の小屋のような庵。
慧音はそこに降り立った。
そして邂逅した。

少女は満月を背負っていた。
庵の屋根の上、自分と同じ銀の髪を夜風に美しくたなびかせながら、紅玉のような赤い瞳で、星が散りばめられた夜空を見上げていた。
慧音は、その光景にしばらく見入る。
少女も、慧音に気付いて顔を向けた。

交わされる視線。
少女は慧音を、珍しい物を見た子供のように見つめていた。

慧音はその時、少女が確かに幻想の住人であり、そして確かに人間であると、理屈もなく、理解できた。



「……」

慧音は、先ほど別れた少女との出会いを追想した。
人でありながら、人とは言えない体を持ち、人として死ねなくなった少女。
人生を狂わせ、深い悲しみと絶望の中、死ぬことも出来ずに、たった一人で生きてきた。

慧音は少女を救いたかった。そして、それが出来るのは、人間と妖怪の血を併せ持つ自分にしか出来ないことだと考えた。
長い年月をかけて、慧音は根気よく少女の下に足を運んで生活を共にしてきた。色々な話をしてやり、また話を聞いてやった。
慧音との出会いは、少女にとって数百年照らさなかった久しぶりの光明だった。長い年月をかけながらも、少しずつ心を開き始め、少しずつ笑顔を取り戻し始めた。
彼女の持つ力は、確かに人の道を外れている、だが、心の方は見た目相応の人間の少女だ。長いこと幸せから遠ざかっていたものの、長い時間をかけて、再び笑えるようになってきたのだ。

(だが、それも結局は私や人外の者に対してだけ……根本的な解決にはなっていない)

慧音との出会い。怨敵、蓬莱山輝夜との出会い。満月の夜の不思議な人間と妖怪との出会い。
同じ人外の力を持ち、自分を対等に扱ってくれる彼女ら。中でも、長い間自分のことを気にかけてくれた慧音にはありのままの笑顔を見せた。
それは、彼女に対する信頼ももちろんあっただろう。しかし、“自分と同じ”という安心感があるのが大きいのだ。

妹紅は未だに恐れている。自分がかつてそうだった、普通の人間に“バケモノ”扱いされることを。
里から追放された妹紅にとって、人間から恐れの視線を向けられるのは心的外傷だ。人間そのものに対して、と言っても差し支えないくらいに、人間の前に姿を現すことを恐れている。
それはまだ解決できていない問題であり、どんなに手を尽くしても慧音だけでは解決できない問題だった。

(焦ることはない、か。少しずつ慣れていけばいい。時間は有り余るほどあるのだから)

藤原妹紅は人間だ。ただ老いない、死なないだけの人間なのだ。
千年以上もの間、人間から疎まれ、蔑まれ、絶望に塗り潰されながらも彼らを恨まず、心を折らずに今日まで生きてきたことは奇跡に値する。
その根底にあるものは、一時でも味わった人間の暖かさがあったからなのだろう。妹紅は、いつの日かまた人間たちと笑い会える日を待ち望んでいるに違いない。
そして、それは手を伸ばせばすぐ届くところにある。まだ伸ばすために振り絞れる勇気はないのだが、それは近いうちに必ず得られると、人妖の慧音は確信していた。

(まあ、とりあえずは目先のものを片付けなければな。里の者の平穏な生活がなければ、その日はいつまで経っても来ないのだから)

慧音は気持ちを切り替える。
竹林と霧はいまだ続いていたが、そろそろ抜ける頃だろうと推測した。







竹林を抜けると、決して広くはない里の情景を一目で見渡せる高台に出た。
里は霧の海に飲まれていた。ぽつんぽつんと突き出した家の屋根や樹木が見られるだけで、畑も、水田も、住人も、真っ白な湖底に沈んでしまったかのようだった。

慧音は、泥と砂利の混ざり合った丘の道を下り、里を目指した。道を下るごとに周囲の霧は晴れ、夏の日差しを心待ちにしている畑と、里を走る道路がかすかに見え始めた。
里へ続く道は連日の雨でぬかるみ、この上なく足場が悪くなっていた。
もともと、この丘に来ようとする者は滅多におらず、訪れるのは、せいぜい気まぐれで行動半径を広くした子供たちくらいしかいない。
故に土が踏み固められることもないため、雨が降るとすぐに泥となる。慧音は服と靴を汚さぬように慎重に道を下っていった。

(……まず私がやるべきことは、里の者に悪霊払いの札を配りまわること……そして、幽霊に会った者の話を聞くことか)

慧音は今一度、自分のやるべきことを確認する。
里長から詳しく話を聞いたものの、結局分かった事実は、夜な夜な幽霊が里の人間の夢に出て助けを求めていることと、枕元に小さな花の山を添えていくことくらいしかない。
悪霊である可能性は低い。でなければ、わざわざ里の人間に助けを求めるような真似はせずに、さっさととり憑いているはずだ。
そのように見せかけている可能性もある。仮にそうだとしても、慧音が懐に収めている札を家の入り口にでも貼っておけば、性質の悪い幽霊はすべて締め出すことが出来る。

その代わりに、害のない幽霊は素通りしてしまう特徴も持っているのだが。

幽霊は元は人間だったものであるため、気軽に払うことなど慧音には出来ない。出来ることなら三途を渡らせて成仏させるのが一番いいと考えていた。
それに、幽霊が助けてほしいと言っていた“あの子”とは誰なのか慧音は気になっていた。もし、それが人間であり、何かの危機に遭遇しているのだとしたら助け出さなくてはならない。

そのためには、幽霊そのものから情報を集めるのが手っ取り早い。
そこで、慧音は里の一軒の住居に一日泊めてもらい、幽霊を待ち伏せようと考えたのだ。

里長の家で幽霊が出没したという家はどこなのか聞いてみると、慧音は面白い特徴に気付いた。
その幽霊は、最初に出た家から西へ一軒一軒、家々を梯子するように移動していたのだ。
最初に幽霊が出たのは、里の東の外れにある林業を営んでいる夫婦の家だった。
次の日の晩は、その家のすぐ東の農家。
その次の晩は、そのまた東の養鶏家。
誰にでも分かる単純な法則だった。
故に、今日の晩に出ると思われる家の特定はすぐに出来た。村で唯一の水車の近くにある大工の家。里長からの許可を受け、そこの住人には一日だけお隣の家で寝泊りしてもらう手筈になっている。
幽霊は薄い霊力しか持っていない人間には見えないが、妖怪の血を半分受け継いでいる慧音には普通に見える。今日は寝ずの番となるだろう。

(……何か探し物でもあるのだろうか。自分の頭がどこかに転がってるとか)

詮無いことを慧音は考えるが、あながち間違いではないかもしれないと思った。

やがて坂を下りきると、そこから最も近い家を目指して歩き出した。
連日の雨で作業が出来ないのか、歩いている間に一人の人間も見当たらなかった。



一面の畑に覆われたのどかな里の風景を右手に見ながらしばらく行くと、一本の松を傍らにした小さな藁葺きの家が見えてきた。
大きさのちぐはぐな板を囲って作られた塀の向こうを窺う。住人の姿は見えない。ひっそりとしていて誰もいないかのような雰囲気だった。

慧音は、塀の切れ間の前に立ち、そこから玄関を目指す。
家の敷地は狭いため、すぐに辿り着くことが出来た。

「御免!」

戸を叩いて呼びかける。
が、返事はない。一間に近い家だけに、中にいれば気付かないはずはなかった。

(留守か?)

昼も過ぎたのだから、寝ているということもないだろう。
慧音はふと足元に目をやった。すると、一枚の紙切れが目に入った。粗末な和紙で、水溜りに半ば没していた。

(? 何か書いてあるのか?)

すぐには判別できなかったが、紙の中心部に小さな字で何かが書いてあるようだった。
破らないように慎重に拾い上げてみる。滲んだ文字を時間をかけて解読してみると、貼り紙にはこう書かれていた。


『暫ク留守ニ致シ候 御用ハ隣人マデ』


(まあ……致し方あるまい)

夜な夜な出てくるのだから、気の弱い人間がしばらく身を隠そうとするのも納得できた。

慧音はどうするべきか、しばし思案する。
やはり、新しく書き直したほうがいいだろうと思い、とりあえず家の戸に手をかけた。
スッ、と戸は滑らかに開いた。戸締りはしていかなかったらしい。それほど裕福ではないこの里には盗人もあまり寄り付かないだろうが、用心に越したことはない。
留守中の家に入るのは慧音には気が引けたが、中の様子見と戸締り、そして新しい貼り紙作成のため、足を踏み入れた。

家の中は、物がそれほど多くなかったが、乱雑だった。
敷きっぱなしの布団。その周りに積まれた書物。奥にある三段程度の小さな箪笥からは衣服がはみ出し、文机の上には慧音が拾った物と同じ和紙と、干からびて固くなった墨が硯と筆に付着していた。

慧音は靴を脱ぎ、墨をするために机に向かった。水は雨で代用すればいいだろう。

「ん……?」

途中、何かが床に散らばっているのに気付いた。青っぽい米粒のような物が、所々に染みのように点在していた。
慧音はしゃがみこんで、一粒手にとって見る。存外柔らかく、力を入れると易々と潰れてしまいそうなほどだった。

(これは……あの花か?)

慧音は懐から白い布を取り出し、幽霊が里長の家に置いていったという花と、拾った物を見比べてみる。
やはり、同じ花のようだった。つまり、この家にも幽霊が現れたということになるのだろう。

慧音は、この家に幽霊が現れたということを里長から聞かなかった。
おそらく、主は幽霊が現れた翌朝に即座に荷物をまとめ、里長への相談もせずに出て行ったのだろう。ここまで気の弱い者も珍しかった。
この家の地理的な位置は、里の北側のやや東寄りであり、今夜幽霊が出ると思われる水車の家からも近い。ここ数日の間に幽霊と遭遇したと思われた。

(助けを求めようとしても、怯えられては元も子もない、か)

幽霊が何を訴えようとしているのか、まだ推測の域は出ない。
未だに人間の寝所に出ているところを見ると、その訴えはまだ聞き届けられていないのだろう。
それが、慧音には不憫に感じた。

「……」

慧音は、床に散らばった小さな花を見つけられるだけ見つけて、持っていた布の中に収めていった。
取りこぼされた願いを、一つ一つ拾い上げるかのように。



慧音が新しい張り紙を作り、戸締りをし終えると、雨はすっかり上がっていた。
厚い雲が垂れこめているが、少しずつ天気は回復するのではないかと思わせた。

玄関から外に出て、塀の外に向かう。
住人が帰ってきた時のために、札と書置きは残しておいた。勝手に家の中に入った後ろめたさは、これで晴れたとしておこう。
塀の隙間から一面の畑を望み、外に出て次の家に向かおうとすると、

「あっ、けいねさまだ〜!」
「ほんとうだ〜! けいねさま〜!」

左手の遠くの方から、子供が慧音を呼ぶ声を聞いた。
そちらの方を振り返ると、年のころは十前後の童女二人がこちらに走り寄ってくるのが見えた。
雨の中で遊んでいたのだろう、体をすっぽり覆ってしまっている蓑と笠から、走るたびに雫が跳ねた。

「ほらほら、走ると転ぶぞ!」

慧音は微笑を浮かべながら、子供たちの方に歩いていく。
距離が狭まってきても子供たちは速度を落とそうとせず、そのまま慧音に抱きついた。

「おっと。あはは、元気だな」
「けいねさま、何してるの〜?」
「ここのおうちに、ごよう?」

慧音は抱きついていた子供たちを優しく引き離すと、かがんで目線を合わせた。
慧音は里のすべての者の顔を見知っていたため、この二人の子供のことは知っていた。そのうちの一人は、今日泊まることになる水車の家に住んでいる少女だった。

「うん、そうだったのだが、誰もいなくてね。どこかに行ってしまったようだ」
「ここにはいないよ〜。だって、うちにいるもん」
「ん? どういうことだ?」

水車の家に住んでいる少女の声に、慧音は首をかしげる。

「おばけが出ておっかないから、うちに来たんだって。かかさまが呼んだんだって」
「ああ……そういうことか」

どうやら、この家の主は今、水車の家で寝泊りしているらしい。もっと遠くに行ったのだと思っていたが、存外近くにいた。
しかし、幽霊が現れるから留守にしたというのに、これから幽霊が出るであろう家に駆け込むとは。運のないことだと慧音は苦笑した。

「そうか。それなら、お嬢ちゃんの家に行こうか。その人に会いたいんだ」
「うん、いいよ〜。いっしょにいこ」

子供たちは慧音の両側に回りこんで手を繋いだ。急ぐようにして引っ張っていく。
元気のいいことだな、と慧音は思った。里の大人が幽霊に怯えても、子供たちは頓着していないようだった。

「二人はお化けは怖くないのか? もしかしたら、今夜出てくるかもしれないぞ?」
「ん〜ん、こわくないよ。だって、もうあったもん」

もう一人の少女が、意外なことを言った。

「うん? そうなのか?」
「きのう、きたの。わたしのゆめの中に出てきてね、お花をくれたの」
「ああ、そうか。確か、お嬢ちゃんは水車の家の近くに住んでいたな」

思い返してみれば、二人はお隣同士だった。普段からよく遊んでいて、仲のいい姿を見かけていた。

「そうだ。お嬢ちゃんは一体どんな夢を見たのかな? 私に教えてくれないか?」
「う〜んとね。いっぱい人がいたよ。わたしのまえにね、ならんでるの」
「ほう、どんな人がいたのかな?」
「おじいちゃんもいたし、ととさまみたいな人もいたし、おばあちゃんもいたし、う〜んとね、とにかくいっぱい!」
「そうなのか? はっきり顔が見えたのか?」
「うん、見えたよ。みんな一つずつお花をもっててね、ぜんぶ、わたしにくれたの。おきたら、そのお花をにぎってたんだ」

得意げな少女の語りを聞き、慧音は少しばかり驚いた。
里長の話では薄ぼんやりとしていた幽霊しか見えなかったそうだが、この子は幽霊の姿をはっきり視認したようだ。
やはり、感受性の強さが影響しているのだろうか。

「あ! あとね、けいねさまみたいなおねえちゃんもいたよ!」
「ん? 私か?」
「うん。そのおねえちゃんね、わたしにお花をくれたあとに、あたまをなでてくれたの。なにかしゃべってたけど、おきたらわすれちゃった」

少女は舌を出して笑う。そのおねえちゃんというのは、里長の言っていた女性のことなのだろう。
慧音が不思議に思っていたのは、里長に限らず、幽霊たちを夢に見た者は全て、必ずその女性のことは覚えていたことだった。
それが、何かの手がかりになるのかもしれなかった。

「そうか。きっと、お嬢ちゃんがいい子にしていたからお花をくれたんだろう。大切にしないとな」
「うん。……でもね……」

少女は少しだけ顔を曇らせ、ぽつりと言った。

「おねえちゃん、ちょっとかなしそうだったなぁ」

微かな声だったが、慧音の耳にはしっかりと届いた。

水車の家までは、あと数分程度で着く。
三人は仲良く道に並び、一ヶ月後に迫った夏の祭の話に花を咲かせた。







雨が屋根を打つ音がやんだのは、一体いつからだっただろう。

「あ〜〜〜〜〜〜、わからんっ」

妹紅は仰向けになって読んでいた植物図鑑を閉じて、後ろに放った。
本棚は虫食いのように所々本が抜け落ちており、抜かれた本はぐるりと妹紅の体を囲んでいる。

「一体なんなのよ、この花は……」

そばにあった、慧音に渡された小さな花を一つまみ取って、天井を背景に見つめてみる。
こんなちっぽけな花に頭を悩ませているのは、なんとなく癪だった。

慧音が家を後にしてから、妹紅は気を取り直して例の花の調査を始めてみた。
ここの家の蔵書は、図書館に比べればそれほど多くはないものの、慧音が選りすぐって集めてきたものばかりが揃っている。種類が豊富で、大抵の調べ物なら片がつくはずだった。
しかし、数時間粘ってみたものの、妹紅は目的の花の記述を見つけることは出来なかった。ここの本に載っていないのだから妹紅のせいではないのだが、なんとなく慧音に申し訳がたたなかった。

「どうしようかしらねぇ……」

ごろりと横向きに寝返りを打って、これからどうするべきか考えを巡らせる。

慧音は、今日はここに帰ってこないだろうと言っていた。水車の家に泊まって幽霊たちの話を聞くらしいのだが、言ってしまえば、そこでコミュニケーションが取れれば解決する可能性が高い。
妹紅がやっていることは、慧音が失敗した時のための保険だ。不明な点を明らかにしておくことで、次の策を練るための材料にするのだ。

妹紅は、慧音の頭の良さと機転の利き具合を知っている。失敗する姿がなかなか想像できない。だから、自分がやっていることは、別に手を抜いてもいいと思っていた。慧音自身も、暇潰し程度でいい、と言っていたことから、彼女も失敗を想定しないようにしているのだろう。

「……」

しかし、妹紅はこの花の正体を解明したい気持ちの方が強かった。
“里に顔を出さないか”と誘われ、断ったときは、決まってこんな気分になる。どんなに些細なことでもいいから、慧音を喜ばせたかった。

前に里に下りたときはいつだったか。確か一年ほど前だったと思う。
その時は、慧音が開いている学校にお呼ばれしたのだ。
周りは純真無垢な子供たちだったことが手伝って、妹紅は数百年ぶりに里の人間と触れ合った。
子供たちの元気で可愛い笑顔は、かつて里に住んでいた頃と全く変わらず、心に安らぎをもたらしてくれた。

だが、もし自分が死なない体を持った、人間とは呼べない人間だと知ったら、子供たちはどう思うのだろう。
やはり、恐れ近づかないのだろうか。あの時と同じように。

「はあ……」

憂鬱な気分になりかけたので、溜め息をついて紛らわせる。妖怪の血が混じった慧音は、あんなにも里の人間と親交を深めていると言うのに不甲斐ない。
自分の臆病さ加減に苛つくと同時に、あの時に向けられた、里の人間の恐れの視線を思い出した。
妖怪の爪は肩口から腹に抜け、とっくに死んでいるほどの血を撒き散らしても、数分後には傷は跡形もなくなっている。これを妖怪と言わずになんと言おうか。彼らの反応は、全くもって自然だった。

だが、その時の目が、未だに妹紅を縛り続けている。
同じ里で共に暮らしてきた近しい者から、余所余所しく扱われるようになった時の気持ちが、足を踏み留めてしまっている。
恐れられるのも、恐れさせるのも、どちらも等しく恐ろしい。
昼間に通ってきた竹林のように、妹紅の心は霧の中だった。

「ああっ! もう考えてても仕方ない! 次行こう、次!」

バネのように勢いよく起き上がって、無理矢理やることを捻り出そうとする。
周りを見渡すとそれなりに散らかっていた。ここでの調べ物はもう出来ないようだし、妹紅は片付けに入ろうと立ち上がった。
右手で本を拾い、左手に本を抱えていく。五冊ほど拾うと、本棚の中に元あったように入れていった。

「あ、そうだ……確か慧音が、分からなかったら他のやつに聞きにいけ、って言っていたな……」

片づけをしながら思い出す。
ここ数年で、世捨て人な妹紅に急激に知り合いが増えた。里の人間に比べたら、遥かに気を遣わなくてよい。妹紅と同じように、人間にしてバケモノのようなやつらばかりなのだから。

「そうだねぇ……じゃあ、行ってみましょうか、暇だし」

人妖入り乱れる、不思議な神社を思い浮かべ、妹紅は片づけを進めていく。
雨はとっくにやんでいるようだった。



慧音の家から翼を広げて飛び立った妹紅は、幻想郷の端を目指した。
あの神社には宴会の時にくらいしか顔を出さない。今回のように違う用事で訪れるのは稀だった。

あそこに住んでいる巫女は変わっている。彼女は人間だろうが妖怪だろうが意に介さず、ありのままに自然に付き合っている。
相手が自分をどう思っていようが、少しも気に留めないのだろう。たとえ、自分が妖怪であったとしても、人間に対してその姿勢を貫くような気がする。
そんな巫女に、妹紅は少しばかり羨望していた。自分もあいつみたいに、あれこれ悩むようなことがなければ、どれほど楽か。
彼女に会うのは、今の妹紅にとって気晴らしも兼ねていた。一瞬でも、自分が死なない、ということをちっぽけなものに思わせるから。

やがて、森というには木が少なく、林というには木が多い、そんな曖昧な森林の真ん中に、“博麗”と書かれた赤い鳥居が見えてきた。そこから、参道に続く長い石畳が社殿に向かって伸びている。
参拝に来たわけでもないし、鳥居をくぐるなんて面倒なことはしない。妹紅は一気に鳥居を飛び越えると、正面に見える社殿を目指した。

参道は雨で濡れ、石畳の凹凸をはっきり浮かび上がらせていた。
妹紅はその上に降り立ち、奉献と書かれた賽銭箱とくすんだ荒縄の紐がぶら下がっている鐘を見ながら、社殿の裏手に回り込んだ。
この神社の社殿と神職の住居は、一体どこから分かれているのか見分けづらい。だが、裏庭に行けば、そこには居間に通じる縁側がある。
ここの巫女は大体そこに腰掛けて、毎日飽きもせずにお茶を飲むのが日課だ。彼女に会いたければ、まずそこを探すのが定石だった。

妹紅が角を曲がって裏庭を望むと、果たしてそこに巫女がいた。
もう夕方と言っても差し支えない頃合なのに、相変わらずのんびりとお茶を啜っている。夕飯を作ろうとはしないのだろうか。

彼女は湯飲みを傾けて一息つくと、つい、と妹紅の方に目を向けた。驚いた様子もなく、さも当たり前のように声をかけた。

「あら珍しいわね。夕飯前に焼き鳥が来たわ」
「……もう少し、気の利いたことは言えないの、霊夢?」

霊夢と呼ばれた少女は、妹紅の呆れた顔を見て笑う。
そして、湯飲みを横に置くと、体を妹紅の方に向けて話をする姿勢を取った。

「今日は何の用? 夕飯でもたかりに来た? もうすぐ出来るわよ」
「そんなさもしいことはしないよ。っていうか、まだ作ってないんだろ? 何も並んでないじゃないか」

妹紅がちゃぶ台の上を眺めると、料理はおろか、皿も茶碗も置かれてはいなかった。

「いま作ってんのよ。臨時の料理人がね」
「臨時の料理人?」

訳が分からなかった。あの黒白でも来てるのだろうか。
それはそうと、と妹紅は用件を思い出す。さっさと済ませないと、自分が夕食に間に合わない。

「ちょっと聞きたいことがあってさ。知らなかったら、知ってそうなやつを教えて欲しい。お前、顔が広いだろ?」
「ふ〜ん、何なの一体」
「この花なんだけど……なんて花か知ってる?」

妹紅は紙を広げ、それに包まれた一握りの花を霊夢に見せた。

「なにこれ、花? 随分、小っちゃいわね」
「うん、そうなんだけど……やっぱり分かんない?」
「知らないわね、こんな花。新種じゃないの?」

知らない、と言う声に妹紅はそれほど落胆はしなかった。自分が数時間かけて調べても分からなかったことを、簡単に当てられたら報われない。
しかし、普段から不思議な空気を発している霊夢だけに、もしかしたら、とほんの少しだけ期待していた。

「ああ、そう……。じゃあ、知ってそうなやつとかいない? 花とか植物に詳しいやつ」
「……」
「……? 何?」

少しばかり楽しげに見つめてくる霊夢に、妹紅はきょとんとした。

「あんた、運がいいのかもね。いや、泊まらせておいた私の手柄とも言えるのかしら」
「は?」

霊夢が何を言っているのか、妹紅には全く意味が分からなかった。
狐につままれたような顔をしている妹紅を尻目に、霊夢は居間のほうに向かって呼びかけた。

「ねぇ! ちょっと料理やめて、こっち来てくれない!? あんたに客よ!」

この家はそれほど広くはなく、居間の向こうは廊下を挟んですぐ台所だったと妹紅は記憶している。
霊夢は、その臨時の料理人とやらを呼んだのだろう。やがて、床を踏むトントンという音が聞こえ、廊下に通じる襖が開いた。

「なあに、私に客って。客に客なんて、びっくりね」

顔を見せたのは、癖のかかった緑の短髪の少女だった。赤いチェックのスカートの前に白いエプロンをし、包丁を右手に持っている。
見た目は二人よりも幼いと見えた。だが、紛れもなく妖怪だった。
妖怪を外見で判断してはならない。少なくとも、霊夢よりは年上だろう。

「危ないわね、包丁は置いてきなさいよ」
「あら、いけないわ。ちょっと料理が楽しくて持ってきちゃったみたいね」

ころころ笑う少女には邪気の欠片も見当たらない。妖怪にしては、随分と毒気が抜けていた。

「あ〜、ええっと……どちらさん?」
「風見幽香っていう花馬鹿よ」
「あら、失礼な紹介ね。フラワーマスターって呼んでくれる?」
「……そんな恥ずかしい単語、口に出せるわけないでしょ」

幽香と呼ばれた少女は軽い足取りで縁側まで歩いてくると、少し腰を折って物珍しそうに妹紅の顔を覗き込んだ。

「あなたが私のお客さん? 多分、会ったことはないわよね?」
「あ、ああ、そうだね。私は藤原妹紅。ちょっと、あんたに聞きたいことがあってね」
「あら、なにかしら?」

妹紅は手に持っていた布を広げて、幽香に見せた。

「この花の正体を知りたいんだ。花に詳しいみたいだからさ、もしかしたら知ってるんじゃないかと思って」

幽香は布の上に盛られている小さな花を少しばかり見つめた。
すると、途端に口に手を当てて、おかしそうに笑った。

「な、何?」
「うふふ。だって、この花の正体を知りたいだなんて言われたら、誰だって笑っちゃうわよ?」
「えっ、もしかして、知ってるの!?」

一目見ただけで分かるとは、さすがに妹紅は思わなかったので、思わず目を見開く。
いや、それよりも幽香の受け答えは、ある一つの事実を含んでいた。霊夢がそれを言葉にする。

「何、この花って有名なの? 私はこんな花、一度も見たことはないわよ?」
「有名もなにも、子供でも知ってるわ。もっとちゃんと見てあげないと可哀想よ」

幽香は花を少し摘んで手のひらに載せ、語りかけるような仕草をする。愛情が感じられる、優しい眼差しをしていた。

「そ、それで? この花はなんていう名前なの?」

妹紅が急いたように、幽香に回答を求める。

「う〜ん、どうしようかしらね。あなたはお花の勉強が足りないみたいだし、簡単に答えをあげちゃうのは、私としてはちょっとはばかられるわ」
「ええっ、そんな! いいじゃないか、こっちは急ぎなんだよ!」

幽香のもったいつけた態度に、妹紅は少しばかり苛立った。その様子を楽しむように、幽香は笑う。

「そうねぇ……。じゃあ、ヒントをあげるわ。いい? お花っていうのは、どんな物で構成されているかしら?」
「えっ? ええと…………花びらとか?」
「そうね。他にも、おしべ、めしべ、がく、などがある。花は基本的にこの四つの部品で作られてるの。最も目立つのは、あなたが言った花びらね。色とりどりの姿、美しい形は見る者の心を震わせてくれる、花の主役と言ってもいいわ。……でもね」

幽香は、再び自分の手のひらの上に視線を落とした。

「この花の花びらはすごく控えめで、他の花の部品に主役の座を明け渡してしまったの。だから、あなたや霊夢はこの花を見たことがないと言ったのよ。本当の花びらはここにあるのに、自己主張が強すぎる他の部品のせいでなかなか存在を気付かれない。ね? 可哀想だと思わない?」

幽香は、自分の持っていた花を、妹紅が持っている布の上に載せて、包み込むように折りたたんだ。

「はい、これでヒントはおしまい。あなたの周りにある花をよ〜く見てみるといいわ。案外、近いところにあるかもしれないわよ? 頑張ってね」

幽香は一方的に話を打ち切った。

「……」

妹紅は何か文句を言いたかったが、直感で、これ以上何を言っても無駄なような気がした。粘っても、のらりくらりとかわされ続けるだろう。この少女はそういう性格なのだとなんとなく分かった。
それに、そろそろ帰らなければ本当に夕食の支度が出来なくなる。日が長いから気に留めづらいが、もういい時間のはずだった。

妹紅はとりあえず問い詰めることを諦め、二人に謝辞と別れを告げてその場を後にした。
幽香から聞いた話を慧音に聞かせれば、何かが分かるかもしれない。そんな打算もあったから。










「まったく、意地悪なんだから。教えてあげたってよかったんじゃないの?」
「それだと面白くないじゃない。それに、あの娘にもっとお花のことを知ってもらいたいのよ。自分で調べると本当の知識が身につきやすいしね」
「まあ、いいけどさ。で? あの花の名前は、私には教えてくれないわけ?」
「もちろんよ。あなたもお勉強するといいわ」
「はいはい、じゃあ、私にもヒントをちょうだい」
「さっき、あげたじゃないの」
「あれは、あいつにやったんでしょ? 私はまだもらってないわ」
「あら、ずるいわね。まあ、いいわ。じゃあ、あの花の花言葉を教えてあげる」
「花言葉ねぇ。一体なんなの?」
「一つは、“移り気な心”。一つは、“高慢”。一つは、“冷淡”。後はこれに類するものが続くわ」
「随分と浮気っぽい花なのね」
「いいえ、そんなことはないわよ。花言葉はまだあるわ。一つは、“強い愛情”。一つは、“辛抱強い愛情。そして……“家族との結びつき”」
「今度はいい意味ね」
「あなたは気付いていたんじゃないの?」
「ん? あの花に幽霊が憑いていること? いや、憑いていた、ね」
「あなたの勘は、一体何を告げているのかしら?」
「あの狂い咲きの名残が、まだ残っている。勘でもなんでもないわよ」
「もう一年以上も経つのにね……あの娘は幽霊たちの願いを聞いてあげられるかしらね」
「さあね、どっちみち私には関係ないわ」
「あら、“冷淡”ね」
「そんなことより、早く料理を持ってきなさいよ。泊めてあげてるのは、食べ物を持ってきたからなんだからね。そうじゃなきゃとっくに叩き出してたんだから」
「まあ、ひどいわね。それじゃあ、美味しい料理を持ってくるわ。ちゃぶ台を拭いておいてね」
「了解よ」










長い昼がようやく幕を下ろそうとしている頃。
神社から飛び立った妹紅は、再び慧音の家に戻ってきた。

空を飛びながら、妹紅は自分の家に戻るか慧音の家に戻るかをほんの少し逡巡した後、結局、慧音の家に行くことにした。
慧音は里で過ごすことになるのだから、幽香から聞いた話を話すことは出来ない。しかし、慧音は妹紅が家にいる時間に外出した。結果的には、妹紅は留守を任されたことになる。頼まれてはいないとはいえ、ほっぽりだして帰るのは、友人として、やはり不味いような気がした。
それに、自分の家は妖怪しか住まないような山奥だ。盗まれるようなものもない。
慧音の家の家具等は、我が物のように使えるので、一日くらい勝手に泊まれる。明日、帰ってきたら花のことをすぐ聞いてみるつもりだった。

辺りはすっかり薄暗くなり、竹林の様子も一変している。
ただでさえ目印の付きづらい竹林では、方向感覚を狂わせられる。しかし、長いこと慧音の家に通いつめている妹紅は、方角と飛ぶ時間で大体の当たりを付けられるため、迷うことはなかった。

「……」

いや、それ以前に、迷いようがなかった。

竹林の中に、ぽつんと橙色の灯が灯っていた。
こんなところで、しかも雨を凌げない竹林の中で、野宿をする者などいるはずもない。
そして、灯が灯っている所こそ、妹紅の目的地の辺りだった。

その辺りで飛ぶことを止め、竹の間を抜けて地面に降り立つ。
目の前の家からは、光と煙が漏れていた。
誰かが中で炊事をしていた。煙が漏れている所は、この家で唯一のかまどがある場所の近くだった。

誰が炊事をしているなんて、もうとっくに見当はついていた。
妹紅は不思議に思うと同時に、少しばかり嬉しさがこみ上げてきた。

玄関に近づき、前と同じように戸を勢いよく開け放った。

「ただいまー!」

そして、すぐにかまどの方を見る。
振り向いた慧音はいつもの微笑を浮かべ、

「お帰り。遅かったな」

と、妹紅を迎え入れた。




「……まあ、そういうわけで、夕餉は家で取ることにしたんだ」

慧音と妹紅は向かい合って料理を囲み、お互いの成果を話し合う。

慧音は、例の水車の家を二人の少女と訪れ、留守だった一軒家の主に事情を説明した後、再び札を配り回るために里を巡った。
少女たちも一緒についてきたので、退屈はしなかったらしい。

元々狭い里ゆえに、数時間で全ての民家を回り終えた。今日の夜は決して外を出ないこと、もし幽霊と遭遇したら起こったことをよく記憶しておくことも忘れずに伝えた。

後は、水車の家で番をするだけとなったが、この時になって慧音は妹紅のことを気にしだした。
帰らないかもしれない、とは伝えておいた。だから、妹紅がすると思われる行動は、慧音の家で勝手に泊まって留守番していることだろうと予想した。
もしかしたら、まだ家で調べ物をしているかもしれない。それを依頼したのは慧音だ。労ってやる必要がある。
水車の家の者から夕餉に誘われたが辞し、酉の刻頃に再び来ると言って、里を後にしたというわけだった。

「あはは、すっかり行動を読まれちゃってるね。ぴったり当たってるよ」
「当たり前だ。一体どれだけ付き合っていると思っている。お前だって、私のやりそうなことぐらい見当がつくだろう」
「うん……そうだね」

麦の飯を小鳥のように少しずつ食べながら、妹紅は慧音の心遣いに改めて喜色を浮かべた。

「それはそうと、お前の方はどうだったんだ? あの花の正体は分かったのか?」

自分の事を話し終えた慧音が、今度は妹紅の成果を聞いてくる。

「あ〜、一応、ね。分かったというか、ヒントを貰った」
「ヒント? 博麗の巫女にか?」
「ううん。あいつが住んでる神社にいた妖怪。風見幽香って言ってた」

慧音が箸を取り落とす。盆に当り、カラカラと音を立てて床を転がった。

「? どうしたの?」
「今……風見幽香と言ったか?」
「う、うん、言ったけど……。なに、知り合い?」
「いや……知っているだけだ……。会ったことはない」
「ふ〜ん、そうなの。けっこう人当たりの良さそうな妖怪だったけど。ちょっと変わってたけどね」
「……」

あの神社の人妖入り乱れ具合を、慧音はつくづく呆れるばかりだった。

「……で、その風見幽香から何を聞いたんだ? 恐らく、花のことは知っていたんだろう」
「あ、うん。でも、お花の勉強だ、とか言って名前は教えてくれなかった。教えてくれたのは、その花がすごく内気な花なんだってことくらいかな」
「……話が見えんのだが」
「その花の花びらって、他の花の部品に主役の座を明け渡したんだってさ。私も何のことだかさっぱり。慧音なら分かるんじゃないの?」
「他の花の部品に主役の座を明け渡した? ……要するに花びら以外の所が目立って大きいとか、そういうことか?」

そこまで言った時、慧音に頭に光が奔った。

「……ああ……そういうことか」
「えっ、なになに? やっぱり何か分かったの?」

箸を動かす手を止め、期待を込めた瞳で見つめてくる妹紅に、慧音は頷いた。

「妹紅。今の時期、真っ先に思いつく花は何だ?」
「へ? いま梅雨でしょ? 紫陽花」

慧音は再び頷いた。

「? ……………………えっ!? こ、これ、紫陽花なの!?」

自分の横にあった例の小さな花の山を指差し、さすがに妹紅は驚きの声を上げる。

「紫陽花は“装飾花”と呼ばれる花だ。我々が花びらだと思っている部分は、実はがくなんだ。本当の花びらは、がくの中心の目立たないところにある。私もまじまじと見たことがなかったから、すぐには分からなかったが、言われてみればそうだった。間違いない」

妹紅は、その本当の紫陽花の花を指で摘まんでよく観察してみる。とはいえ、すぐにこれが紫陽花であると実感が沸いてこない。
幽香の言っていたことは本当だった。紫陽花の本当の花がこれならば、がくの自己主張は相当なものだった。

「……これは、すぐには気付けないよ。誰だって、あの派手なのが花びらなんだって思っちゃうもん」
「だが、これで花の正体ははっきりした。幽霊が、なぜ紫陽花を持って家々を訪れるのかは分からないが、何かの手がかりになるかもしれない。妹紅のお手柄だな」
「いや〜、あはは。ヒントから分かったのは慧音だけどね」

頭を掻いて謙遜する妹紅は、まんざらでもなさそうに照れる。

「よし、これでやるべきことは全てやった。あとは幽霊と直接会うだけだ」
「そうだね、頑張って。朝飯は用意しておくから」
「……そうだ。妹紅も来ないか?」
「は?」

慧音のまたしても急な申し出に、妹紅は思わず変な顔をする。

「え? い、いいよ。慧音だけで行って来て。留守番してるから」
「里の者と会うのを心配しているのなら、大丈夫だ。私が呼びに行くまでは誰も来ないことになっている。それに、家の物も自由に使わせてくれる。朝餉は材料を持っていって、あっちで食べれば冷めずに済む」
「え、ええと……」
「正直なところ、私だけでは手が足りないかもしれない。相手は何体いるかも分からない幽霊の群れだ。何が起こるかも分からない。妹紅が来てくれれば、本当に助かる。お願いだから、来てくれないか?」

慧音は頭を下げた。
いきなりそんなことをされた妹紅は、昼のように断るのがこの上ない罪のように感じられ、あ〜、う〜、と唸るだけだった。



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